營盤イヘヰヲ㆒的ノ 地方チハウニハ、敎シム㆑穿ホラ㆑井ヰヲ者︀ベシ。)
又マタ 我等ワレラの使ツカヒ 走ハシるに、國民クニタミに倚ヨらしめて走ハシらせたり。走ハシる使ツカヒのも行程カウテイ 遲オクれたり。國クニの民タミにも苦クルシませたり。今イマ 我等ワレラ 全マツタく定サダむるには、處處トコロドコロの千戶センコ 千戶センコより札木臣ヂヤムチン(驛の事務を掌る人)兀剌阿臣ウラアチン(驛馬を掌る人)を出イダして、坐ザども坐ザどもに(站を坐ゑ置くべき處處に)站ヂヤム(驛)を置オきて、使ツカヒを要事エウジなく國民クニタミに倚ヨらせず、站ヂヤムに依ヨり走ハシらせば可ヨからん。(明譯一ヒトツ。使臣シシン 往來ユキキスルニ、沿ソヒ㆓百姓タミノ 處トコロニ㆒經過ケイクワシ、事也遲了コトモオクレタリ。百姓タミ 也モ 生受クルシメリ。如今イマ 可ベシ㆘敎シメ㆔各オノ〳〵千戶センコ毎ラニ出イデサ㆓人馬ヒトウマヲ㆒、立タテ㆗定サダム 站赤ヂヤムチヲ㆖。不ズバ㆑是ナラ㆓緊要キネウノ 事務ジム㆒、須ベシ㆔要カナラズ 乘ジヨウ㆓坐ザス 站馬ヂヤムノウマニ㆒、不ズ㆑許ユルサ㆘沿ソヒ㆓百姓タミノ 處トコロニ㆒經過ケイクワスルヲ㆖。札木臣は、站赤とも云ふ。その制は、元史に委し。後に云ふべし。兀剌阿臣は、兀剌阿赤とも云ふ。元史 兵志 二に「典㆓車馬㆒者︀曰㆓兀剌赤㆒」とあり。語解は烏拉齊と改めて、「司㆓驛站㆒人也」と注せり。又 親征錄に「助㆓貧乏㆒、置㆓倉戌㆒、剏㆓驛站㆒」とあるは、この新制の第一 第三 第六の三章を略記したるなり。元史 太宗紀は、親征錄に本づきて、「始置㆓倉廩㆒、立㆓驛傳㆒」と記して、又その「助㆓貧乏㆒」を略けり。)これらの事コトどもを察乃チヤナイ 孛勒合荅兒ボルカダル(卽 前の不勒合荅兒)二人フタリ 考カンガへて、我等ワレラに建議ケンギしたれば、可ヨからんかと思オモひて(思はるるが)、察阿歹 兄チヤアダイ イロセ 知シれ。この言イはるゝ事コトども宜ヨロしければ、可ヨシとせば、察阿歹 兄チヤアダイ イロセより爲ナせ」と宣ノリタマひて遣ヤりたれば、
察阿歹 兄チヤアダイ イロセは、問トひて遣ヤりたるこれらの事コトどもを都︀スベてを可ヨシとして、「かく便スナハチ 爲ナせ」と云イひて來キぬ。又マタ 察阿歹 兄チヤアダイ イロセ 言イひて來キぬるに「我ワレは、こゝより札木惕ヂヤムト(站の複稱)を迎ムカへ接合ツギアハせん。又マタこゝより巴禿バトの處トコロに使ツカヒを遣ヤらん。巴禿バトも、迎ムカへて札木惕ヂヤムトを接合ツギアハせよ」と云イひて、又マタ 言イひて來キぬるには「都︀スベてより札木惕ヂヤムトを置オかする事コトは善ヨきよりも善ヨし