Page:成吉思汗実録.pdf/247

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​豁兒忽荅黑​​ゴルクダク​は、​一班​​ヒトクミ​の​箭筒士​​セントウシ​に​長​​ヲサ​となりて​入​​イ​れ。​剌卜剌合​​ラブラカ​は、​一班​​ヒトクミ​の​箭筒士​​セントウシ​に​長​​ヲサ​となりて​入​​イ​れ。(豁兒忽荅黑は、卷十二にも見え、剌卜剌合は、卷十二に剌巴勒合とあり。)​箭筒​​セントウ​を​帶​​オ​ぶるものに、​侍衞​​ジヱイ​の​班班​​クミグミ​[に​貼​​ツ​く]​箭筒士​​セントウシ​に、かく​長​​ヲサ​となりて​入​​イ​らせよ。

千箭筒士の長 ​也孫 帖額​​エスン テエ​

​箭筒士​​セントウシ​を​千​​セン​に​滿​​ミ​たせて、​也孫 帖額​​エスン テエ​ ​長​​ヲサ​となりて​居​​ヲ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。


§226(09:38:04)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


八千侍衞の長 八人

 ​前​​サキ​に​斡格列 扯兒必​​オゲレ チエルビ​と​入​​イ​りたる​侍衞​​ジヱイ​の​上​​ウヘ​に​千​​セン​に​滿​​ミ​たせて

​斡格列 扯兒必​​オゲレ チエルビ​

「​孛斡兒出​​ボオルチユ​の​親族​​シンゾク​より​斡格列 扯兒必​​オゲレ チエルビ​(孛斡兒出の弟)は​知​​シ​れ」と​宣​​ノリタマ​へり。

​不合​​ブカ​

「​木合里​​ムカリ​の​親族​​シンゾク​より​不合​​ブカ​(木下里の弟)は​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​知​​シ​れ」と​宣​​ノリタマ​へり。

​阿勒赤歹​​アルチダイ​

​亦魯該​​イルガイ​の​親族​​シンゾク​より​阿勒赤歹​​アルチダイ​に、「​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​知​​シ​れ」と​宣​​ノリタマ​へり。(阿勒赤歹は、卷六に見えたる合赤溫の子 阿勒赤歹と名 同じけれども、異なる人なり。元史 憲宗紀に按只䚟とあり、憲宗 卽位の年、葉孫脫 等と共に諸︀王を亂に誘へりとて誅せられたり。)「

​朶歹 扯兒必​​ドダイ チエルビ​

​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​朶歹 扯兒必​​ドダイ チエルビ​ ​知​​シ​れ。

​朶豁勒忽 扯兒必​​ドゴルク チエルビ​

​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​朶豁勒忽 扯兒必​​ドゴルク チエルビ​ ​知​​シ​れ」と​宣​​ノリタマ​へり。「

​察乃​​チヤナイ​

​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​主兒扯歹​​ヂユルチエダイ​の​親族​​シンゾク​より​察乃​​チヤナイ​ ​知​​シ​れ。

​阿忽台​​アクタイ​

​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​阿勒赤​​アルチ​の​親族​​シンゾク​より​阿忽台​​アクタイ​ ​知​​シ​れ。(阿勒赤は、卽 阿勒赤 古咧堅、元史の國舅 按陳 那顏なり。阿忽台と云へる人は、元史に見えず。たゞ特 薛禪の傳に、按陳の弟 火忽と云へるは、甲戌の年に哈老溫 迤東塗河 潢河の閒 火兒赤納 慶州の地を住所として賜はれること見ゆ。その火忽は、阿忽台の訛略にはあらずや。

​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​

​一千​​イツセン​の​侍衞​​ジヱイ​を​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​[​知​​シ​れ。]​一千​​イツセン​の​選​​エラ​びたる​勇士​​ユウシ​を​知​​シ​りて、​多​​オホ​くの​日​​ヒ​は​侍衞​​ジヱイ​となれ。​戰​​タヽカ​ふ​日​​ヒ​は​前​​マヘ​に​立​​タ​ちて​勇士​​ユウシ​となれ」と​勅​​ミコト​ありき。(卷八なる九十五の千戶の處に、亦魯該は阿兒孩ならんと云ふ疑ひを陳べたれども、こゝに亦魯該の名ある續きに又 阿兒孩 合撒兒あるを見れば、同じ人とも思はれず。)​千戶​​センコ​ ​千戶​​センコ​より​選​​エラ​びて​來​​キ​つるもの、​八千​​ハツセン​の​侍衞​​ジヱイ​となれり。​宿衞​​シユクヱイ​は、​箭筒士​​セントウシ​