Page:成吉思汗実録.pdf/246

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ありながら​越​​コ​えたる​人​​ヒト​は、​罪​​ツミ​あるとなれ。​我等​​ワレラ​の​處​​トコロ​に​番直​​バンチヨク​に​入​​イ​れられたる​人​​ヒト​にて​避​​サ​けて​爲​​ナ​らざる​人​​ヒト​、​我等​​ワレラ​の​前​​マヘ​に​行​​ユ​くことを​難︀​​カタ​しとせば、​別​​コト​なる[​人​​ヒト​]を​入​​イ​れて、その​人​​ヒト​をば​罪​​ツミ​なひて、​眼​​メ​の​陰​​カゲ​(眼力の及ばざる處)に​遠​​トホ​き​地​​トコロ​に​遣​​ヤ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。「​我等​​ワレラ​の​內裏​​ダイリ​に​前​​マヘ​に​行​​ユ​きて​學​​マナ​び​合​​ア​はんと​云​​イ​ひて​我等​​ワレラ​に​來​​ク​る​人​​ヒト​を​勿​​ナ​ ​妨​​サマタ​げそ」と​宣​​ノリタマ​へり。


§225(09:35:10)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


千宿衞の長 ​也客 捏兀𡂰​​エケ ネウリン​

 ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​の​勅​​ミコト​ありたるに​依​​ヨ​り、​千戶​​センコ​より​選​​エラ​びて、​百戶​​ヒヤクコ​ ​十戶​​ジツコ​の​官人​​クワンニン​の​子​​コ​どもも、その​勅​​ミコト​に​依​​ヨ​り​選​​エラ​びて​出​​イダ​して​來​​キ​て、「​前​​サキ​に​八十​​ハチジフ​の​宿衞​​シユクヱイ​ありしを​八百​​ハツピヤク​に​爲​​ナ​したり。「​八百​​ハツピヤク​の​上​​ウヘ​に​千​​セン​に​滿​​ミ​たせよ」と​云​​イ​へり。​宿衞​​シユクヱイ​に​入​​イ​る​者︀​​モノ​を​勿​​ナ​ ​妨​​サマタ​げそ」と​勅​​ミコト​ありき。「​宿衞​​シユクヱイ​には​也客 捏兀𡂰​​エケ ネウリン​ ​長​​ヲサ​となりて、​千夫​​センプ​を​知​​シ​りて​居​​ヲ​れ」と​勅​​ミコト​ありき。(「宿衞を也客 捏兀𡂰 統べて」と譯すべきなれども、統ぶる の蒙語 阿合剌は、阿合 卽 長となると云ふ義なる故に、「宿衞を」の「を」を「に」と改めたり。下 皆これに準ふ。也客 捏兀𡂰は、何人なるか、知らず。晃豁壇の蒙力克 額赤格の子にてやあらん。)「​前​​サキ​に​四百​​シヒヤク​の​箭筒士​​セントウシ​を​選​​エラ​びたり。​選​​エラ​びて「​箭筒士​​セントウシ​に​者︀勒篾​​ヂエルメ​の​子​​コ​ ​也孫 帖額​​エスン テエ​〈[#「也孫 帖額」は底本では「也孫帖額」。白鳥庫吉訳「音訳蒙文元朝秘史」§225(09:36:09)の漢︀字音訳「也孫-帖額」に倣い二語に分割。以後すべて同じ]〉 ​長​​ヲサ​となりて、​禿格​​トゲ​の​子​​コ​ ​不吉歹​​ブギダイ​と​議​​ハカ​り​合​​ア​ひて​居​​ヲ​れ」と​云​​イ​へり。(也孫 帖額は、憲宗紀に葉孫脫とあり、憲宗 卽位の年 按只䚟 等と共に「務持兩端、坐諸︀王亂、並伏誅」とあり。者︀勒篾の子孫の顯れざるは、也孫 帖額の誅せられたるが爲ならん。禿格は、卽 卷四なる統格、木合黎の從弟にして、九十五の千戶の第十に列せり。その子 不吉歹は、太祖︀に代りて許婚の饗に赴きたる不合台と音 近けれども、同じきか否か知らず。

​箭筒士​​セントウシ​ 四班の長 ​也孫 帖額​​エスン テエ​ ​不吉歹​​ブギダイ​ ​豁兒忽荅忽​​ゴルクダク​ ​剌卜剌合​​ラブラカ​

​侍衞​​ジヱイ​と​共​​トモ​に​箭筒士​​セントウシ​の​班班​​クミグミ​に​入​​イ​り​合​​ア​ふ​時​​トキ​、​也孫 帖額​​エスン テエ​は、​一班​​ヒトクミ​の​箭筒士​​セントウシ​に​長​​ヲサ​となりて​入​​イ​れ。​不吉歹​​ブギダイ​は、​一班​​ヒトクミ​の​箭筒士​​セントウシ​に​長​​ヲサ​となりて​入​​イ​れ。