忽亦勒荅兒クイルダル 二人フタリを、兀嚕兀惕ウルウト、忙忽惕モンクトを率ヒキゐて前マヘに立タたしむれば、都︀スベて心コヽロ 安ヤスくありき、我ワレ」と宣ノリタマへり。(元史 木華黎の傳に、木華黎 薨じて子 孛魯 嗣ぎたる後
「丙戌(太祖︀ 二十一年)夏、詔封㆓功臣戶口㆒爲㆓食邑㆒曰㆓十投下㆒、孛魯 居㆓其首㆒」と云ひ、畏荅兒 博羅歡の傳にも十功臣の目 見えたるは、この十人を云へるなるべし。)「汝ナンヂ 忽必來クビライは、軍イクサの事務ジム 都︀スベてに長タとして居ヲらずや」とて恩賜オンシして勅ミコトありき。
又マタ「別都︀溫ベドウンの拗ネヂけたる故ユヱに、我ワレ 怪アヤシみて行ユきて、千戶センコを與アタへざりき。汝ナンヂは彼カレに好ヨくあるぞ。汝ナンヂと共トモに千戶センコとなりて議ハカり合アひて行ユかれん」と宣ノリタマへり。又マタ「この後ノチ 別都︀溫ベドウンに注意キヲツくるぞ、我等ワレラ」と宣ノリタマへり(別都︀溫は、卽ち卷三の抹赤 別都︀溫なり。抹赤は木匠にして、名は別都︀溫なり。)
§210(09:03:07)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
又マタ 成吉思 合罕チンギス カガンは、格你格思ゲニゲスの忽難︀クナンに[つきて]宣ノリタマはく「汝等ナンヂラ、孛斡兒出ボオルチユ、木合黎ムカリが頭カシラたる官人クワンニンどもに、朶歹ドダイ、朶豁勒忽ドゴルク 等ラの扯兒賓︀チエルビンに。この忽難︀クナン、黑クロ合喇き夜ヨルは雄狼ヲ オホカミ堅都︀赤那、明アカル格格延き晝ヒルは黑クロ合喇き老鴉ヤマガラス客哩額となりて、起タくる時トキは休ヤスまざりし、休ヤスむ時トキは起オきざりし、歹ワロ孛速古溫き人ヒトと共トモに非アシ不失き面カホして居ヲらざりし、讎アタ斡失禿古溫ある人ヒトと共トモに別コト斡額列なる面カホして居ヲらざりし、
謀臣 忽難︀クナン 闊闊搠思ココシユス
忽難︀クナン、闊闊搠思ココシユス 二人フタリに相談サウダン 無ナくて勿ナ 事コトを做ナしそ。忽難︀クナン、闊闊搠思ココシユス 二人フタリに相談サウダンして事コトを做ナせ」と勅ミコトありき。「我ワが子コどもの兄アニにて拙赤ヂユチはあるぞ。
拙赤ヂユチの傅となる忽難︀クナン
忽難︀クナンは、格你格思ゲニゲスに頭カシラとして、拙赤ヂユチの下シタに萬戶バンコの官人クワンニンとなれ」と勅ミコトありき。(元史 世系表に「太祖︀ 皇帝 六子、長 朮赤 太子」とあり。元史の本傳は甚だ疏略なるが、洪鈞の元史 譯文 證補に補傳あり、詳備せる佳作なり。明譯には、次の忽難︀の上に又マタ 說イハクの二字あり。)
忽難︀クナン、闊闊搠思ココシユス、