Page:成吉思汗実録.pdf/184

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​巴兒渚︀特​​バルヂユトト​、延賞及ベリ後世焉。巴勒主惕は、巴勒主納の語尾を變へて複稱の詞とし、巴勒主納の水飮みに預れる人人の稱とせるなり。元史に飮渾水と書きたるも、巴勒主惕を義譯したるなり。喇失惕のこの叙事は、祕史よりも親征錄よりも委し。されどもその文に據れば、合剌合勒只惕の戰の後、統格 湖に往く前に、直ちに巴勒主納に往きて、濁水を飮み、それより合勒合 河に(沿ひ下る代りに)泝り、帖兒格 阿篾勒を降し、統格 湖に駐まりて、使を遣り、二たび巴勒主納に往きたりとなして、地勢 時情 皆 合はず。巴勒主納の水飮みは、使を遣りたる後にあることは、親征錄も祕史に同じければ、喇失惕の之に違へるは、修正 祕史の誤りを承けたるには非ず、喇失惕の 偶 誤れるなり。又 札八兒 火者︀ 耶律 阿海︀の傳に依れば、王罕の掩襲を避けて逃げ出でたる時、直ちに巴勒主納に至りて誓へるに似たり。これは時情には善く合へれども、曖昧なる單文 孤證のことなれば、祕史 親征錄の明文を打ち消すほどの力は無かるべし。


§183(06:44:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​合撒兒​​カツサル​の逃げ還り

 ​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、その​巴勒主納​​バルヂユナ​に​水​​ミヅ​ ​飮​​ノ​み​居​​ヲ​る​時​​トキ​、​合撒兒​​カツサル​は、​妻子​​ツマコ​を、​也古​​エグ​(元史 世系表 湽川王 也苦、太宗紀 野苦、憲宗紀 野古 また那虎、世祖︀紀 也古、耶律 畱哥の傳 也苦、王珣の傳 也忽)、​也松格​​エスンゲ​(元史 世系表 移相哥 大王、憲宗紀 亦孫哥、世祖︀紀 也先哥)、​禿忽​​トク​(親征錄 元史 太祖︀紀 脫虎、世系表 脫忽 大王)なる​三人​​ミタリ​の​子​​コ​を​王罕​​ワンカン​の​處​​トコロ​に​捨​​ス​てて、​僅​​ワヅカ​に​身​​ミ​にて、​從者︀​​トモビト​を​伴​​ツ​れて​出​​イ​でて、​兄​​アニ​をとて​成吉思 合罕​​チンギス カガン​を​尋​​タヅ​ね、​合喇溫 只敦​​カラウン ヂドン​(親征錄​哈剌渾 只敦 山​​ハラフン ヂドン ザン​、元史 哈剌渾 山)の​嶺​​ミネ​どもに​緣​​ヨ​りて、​得​​ウ​る​能​​アタ​はず、​困窮​​コンキウ​して​牛皮​​ウシノカハ​​失里​と​筋​​スヂ​​失兒不孫​とを​喫​​ク​ひて​行​​ユ​きて、​巴勒主納​​バルヂユナ​に​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​合​​ア​へり。

​成吉思 汗​​チンギス カン​のたばかり

​合撒兒​​カツサル​に​來​​コ​らるゝと​喜​​ヨロコ​びて、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​王罕​​ワンカン​に​使​​ツカヒ​を​遣​​ヤ​らんと​謀​​ハカ​りて、​沼咧亦惕​​ヂヤウレイト​の​合里兀荅兒​​カリウダル​、(親征錄​哈柳荅兒​​ハリウダル​)​兀哴罕​​ウリヤンカン​の​察忽兒罕​​チヤクルカン​(卷三の察兀兒罕。親征錄​抄兒寒​​チヤウルカン​)​二人​​フタリ​もて​言​​イ​ひて​遣​​ヤ​るに「​罕 額赤格​​カン エチゲ​に​合撒兒​​カツサル​の​言​​コトバ​とて​言​​イ​へ」とて​言​​イ​はく「「​兄​​アニ​を​望​​ノゾ​​合喇​みて、​彼​​カレ​の​影​​カゲ​​合喇阿​を​失​​ウシナ​へり。​蹈​​フ​​合亦​みて​彼​​カレ​の​路​​ミチ​​合兀魯合​を​得​​エ​かねたり。​叫​​サケ​​合亦剌​びて、​聲​​コヱ​を​聽​​キ​かれざりき。​星​​ホシ​​豁惕​を​望​​ノゾ​みて、​土​​ツチ​​兀兒那​の​枕​​マクラ​にて​臥​​フ​​格卜帖​したり、​我​​ワレ​。​我​​ワ​が​妻子​​ツマコ​は、​罕 額赤格​​カン エチゲ​の​處​​トコロ​にあり。​信賴​​タヨリ​