Page:成吉思汗実録.pdf/180

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​罕 額赤格​​カン エチゲ​と​云​​イ​ふなりき。​殺︀​​コロ​し​好​​ズ​きの​翁​​オキナ​とやは​云​​イ​はざりし。​我​​ワレ​を​幾​​イク​たびも​安荅​​アンダ​と​云​​イ​ひたりき。​脫黑脫阿​​トクトア​ ​師巫​​カンナギ​、​撒兒塔黑​​サルタク​(撒兒塔兀勒の國)の​羊​​ヒツジ​の​尾​​ヲ​に​續​​ツヾ​きて​行​​ユ​けりとやは​云​​イ​はざりし。​此​​コレ​にて​言​​コトバ​どもの​計略​​ハカリゴト​は、​覺​​サト​られたり。​戰​​タヽカ​はんの​首​​ハジメ​なる​言​​コトバ​なり。​必勒格 別乞​​ビルゲ ベキ​、​脫朶延​​トドエン​ ​二人​​フタリ​、​戰​​タヽカ​ふ​纛​​トウ​を​立​​タ​てよ。​騸馬​​センバ​どもを​肥​​コ​やせよ。​疑​​ウタガ​ひ​無​​ナ​くあるぞ」と​云​​イ​へり。(脫黑脫阿 云云は、當時かゝる師巫ありて、かゝる風をなしたるなり。委しき事は、今知るべからず。明譯​我​​ワレ​ ​行​​ヲ​ ​也​​モ​ ​幾曾​​イクタビカ​ ​說​​イヒ​​是​​ナリト​​安荅​​アンダ​​來​​キ​。​只​​タヾ​ ​說​​イフ​​脫黑脫阿​​トクトア​ ​師翁​​カンナギ​ ​續​​ツヾキ​​著︀​​テ​ ​回回​​フイフイノ​ ​羊尾子​​ヒツジノヲニ​​行有​​ユキタリト​元の世にても已に意味を解りかねたりと見えて、親征錄には「彼何嘗實意待我爲案荅。特以玩物視︀我耳」と譯せり。別咧津は剌失惕を譯し、「彼は我を安荅と呼べども、又 常に我を罵る」と約めて、自注に「下に脫忽布惕の一語あり、篾兒乞惕の說克塔の事ならん。意 解し難︀し」と斷れり。)かくて​王罕​​ワンカン​より​阿兒孩 合撒兒​​アルカイ カツサル​ ​回​​カヘ​る​時​​トキ​、​速格該 者︀溫​​スゲガイ ヂエウン​の​妻子​​ツマコ​は、そこに​脫斡哩勒​​トオリル​の​處​​トコロ​に​居​​ヲ​りき。

​速格該​​スゲガイ​の居殘り

​去​​サ​る​心​​コヽロ​になりかねて​速格該 者︀溫​​スゲガイ ヂエウン​は、​阿兒孩​​アルカイ​より​後​​オク​れき。​阿兒孩​​アルカイ​ ​來​​キ​て、この​言​​コトバ​どもを​成吉思 合罕​​チンギス カガン​に​言​​イ​へり。


§182(06:43:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​巴勒主納​​バルヂユナ​湖の​駐營​​チウエイ​

 かくて​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​去​​サ​りて​巴勒主納 納兀兒​​バルヂユナ ナウル​に​下馬​​ゲバ​せり。(巴勒主納の湖は、斡難︀ 河の北にて、露西亞の咱拜喀勒 州なる赤塔の南にあり。禿喇 河それより流れ出でて因果塔 河に入る。その地は、林木 多くして駐夏に宜しく、蒙古人は、今もその地を指して、成吉思 汗の難︀を避けたる處なりと云ひ傳ふと云ふ。親征錄は河の名とし、喇失惕は地の名として、そこに小河どもありと云ひ、他の西史は、錄の如く河の名とせり。禿喇 河を昔は巴勒主納 河と云へるにや。又は別に湖に注ぐ巴勒主納 河ありしかも知れず。親征錄、元史 雪不台の傳​班朱泥 河​​バンヂユニ ガハ​。太祖︀ 本紀、札八兒 火者︀、速不台、鎭海︀、哈散納、阿朮魯、紹古兒の傳には、班朱尼 河とあり。下に委しく引けり。元史にて湖の名としたるは、朮赤台の傳に班眞 海︀子とあるのみなり。)そこに​下馬​​ゲバ​する​時​​トキ​、​搠斡思察罕​​シユオスチヤガン​()​豁嚕剌思​​ゴルラス​()、​正​​マサ​にそこに​遇​​ア​ひ​合​​ア​へり。それらの​豁嚕剌思​​ゴルラス​(親征錄 元史​火魯剌 部​​ホルラ ブ​)