Page:成吉思汗実録.pdf/169

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​何處​​イヅコ​に​去​​サ​らん、​彼等​​カレラ​。​馬​​ウマ​に​乘​​ノ​りきりにて、​木​​キ​に​蔽​​オホ​はるゝことに​爲​​ナ​りぬ、​彼等​​カレラ​(明譯​毎​​ゴトニ​​人​​ヒト​​止​​タヾ​​騎​​ノリ​​著︀​​テ​ ​一匹馬​​イツピキノウマニ​、​夜裏​​ヨルハ​ ​必​​カナラズ​ ​在​​ニ​​樹木下​​キノシタ​​宿​​ヤドラン​)。​彼等​​カレラ​を、​來​​コ​ずば、​往​​ユ​きて​馬​​ウマ​の​乾糞​​カンプン​の​如​​ゴト​く​包​​ツヽ​みて​持​​モ​ち​來​​コ​んぞ、​我等​​ワレラ​は​彼等​​カレラ​を」と​云​​イ​へり。​阿赤黑失㖮​​アチクシルン​の​此​​コ​の​言​​コトバ​につき​王罕​​ワンカン​ ​言​​イ​はく「​然​​シカ​り。さあらば、​子​​コ​ ​艱​​ナヤ​むらん。​子​​コ​を​動​​ウゴ​かさず​介抱​​カイハウ​せよ」と​云​​イ​ひて、​戰​​タヽカ​へる​地​​トコロ​より​回​​カヘ​り​退​​シリゾ​けり」と​云​​イ​へり。


§175(06:18:03)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​合勒合 河​​カルカ ガハ​の行軍

 ​其處​​ソコ​より​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は、​荅闌 捏木兒格思​​ダラン ネムルゲス​より​合勒合 河​​カルカ ガハ​(今の車臣汗 部 東邊の喀爾喀 河)に​沿​​シタガ​ひ​動​​ウゴ​くに、​數​​カズ​(人數)を​數​​カゾ​へ​合​​ア​へり。​數​​カゾ​へ​合​​ア​へれば、​二千 六百​​ニセン ロツピヤク​となれり。​一千 三百​​イツセン サンビヤク​は、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​[​率​​ヒキ​ゐて]、​合勒合 河​​カルカ ガハ​の​西​​ニシ​の​邊​​ホトリ​に​依​​ヨ​り​起​​タ​ちぬ。​一千 三百​​イツセン サンビヤク​は、​合勒合 河​​カルカ ガハ​の​東​​ヒガシ​の​邊​​ホトリ​に​依​​ヨ​り、​兀嚕兀惕​​ウルウト​、​忙忽惕​​モンクト​(親征錄​兀魯吾​​ウルウ​、​忙兀​​モング​ ​二部​​ニブ​)[​率​​ヒキ​ゐて]​起​​タ​ちぬ。かく​起​​タ​ちて​來​​ク​る​時​​トキ​、​行糧​​カウリヤウ​(野獸)を​圍獵​​マキガリ​しつゝ​行​​ユ​く​時​​トキ​、​忽亦勒荅兒​​クイルダル​ は、その​創​​キズ​ ​痊​​イ​えざるに、​成吉思 合罕​​チンギス カガン​ ​止​​トヾ​むれども​肯​​キ​かず、

​忽亦勒荅兒​​クイルダル​の死

​獸​​ケダモノ​を​衝​​ツ​きたれば、​再發​​サイホツ​して​歿​​ミマカ​りぬ。そこに​成吉思 合罕​​チンギス カガン​は​合勒合 河​​カルカ ガハ​の​斡兒訥兀 山​​オルヌウ ザン​(親征錄​斡兒努兀​​オルヌウ​)の​半崖​​ハンガイ​(蒙語​客勒帖該 合勒都︀惕​​ケルテガイ カルドト​、親征錄​遣忒哥 山岡​​ケンテゲ サンカウ​)に​彼​​カレ​の​骸​​カバネ​を​放​​ハナ​た(葬ら)しめたり。


§176(06:19:08)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年) Open original book in Wikimedia


​帖兒格 阿篾勒​​テルゲ アメル​ 等の降附

 ​合勒合 河​​カルカ ガハ​の​不余兒 納兀兒​​ブユル ナウル​(親征錄​盃而 之 澤​​ブイル ノ タク​)に​注​​ソヽ​ぐ​源​​ミナモト​(湖水の頭)に、​帖兒格 阿篾勒​​テルゲ アメル​(卷四の迭兒格克 額篾勒、親征錄 帖木哥 阿蠻、また溺兒斤)​等​​ラ​の​翁吉喇惕​​オンギラト​あ