のその言コトバにつき、[成吉思 合罕チンギス カガンは]「來コば戰タヽカふべきなりき。敵テキに逃ニげ動ウゴかれば、我等ワレラは、軍イクサを整トヽノへて[後ノチに]戰タヽカはんぞ」と云イひて動ウゴきたり。動ウゴくに、兀勒灰 失魯格勒只惕 河ウルクイ シルゲルヂト ガハに泝サカノボり動ウゴきて、荅闌 捏木兒格思ダラン ネムルゲスに入イりたり。(この河は、前に云へるが如く南に流るゝ河なれば、泝るとは、南より北に還るを云ふ。然らば合剌合勒只惕にて敵に追ひ附かれて起れる この名高き合戰は、その河の下流、卽ち塔塔兒 四部の奧魯の在りし處、卽ち今の烏珠穆沁 左翼の地にて起れるなり。この古戰場を尋ねんと欲する人は、その地方にて求むべし。)
§174(06:15:09)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
合荅安 荅勒都︀兒罕カダアン ダルドルカンの報吿
そこに後シリヘより合荅安 荅勒都︀兒罕カダアン ダルドルカンは、妻子ツマコより離ハナれ來キぬ。(この人は、卷四に見えたる如く、旣に成吉思 汗に降りたりしが、今度の變に妻子と共に王罕に降り若しくは虜︀へられて、今 逃げ回りたるなり。)來キて、合荅安 荅勒都︀兒罕カダアン ダルドルカン は、王罕ワンカンの言コトバとて言イはく「王罕ワンカンは、その子コ 桑昆サングンを兀出馬ウチユマ(箭の一種の名)にて赤アカき腮ホヽを倒タフるべく射イられて、彼カレの上ウヘに翻カヘりて、そこに言イひき。「惹ヒ喜魯合惕忽くべからざるに惹ヒ喜魯合惕罷きたり。鬭タヽカ合勒忽ふべからざるに鬭タヽカ合勒渾ひとなり、可惜アタラ合亦㘓 我ワが子コの腮ホヽ合察兒に釘クギ合荅阿孫を釘打クギウ合荅兀勒たしめたり。子コの命イノチを失ウシナふまで衝ツき戰タヽカはん(明譯就ニ㆓我ワガ 兒子コノ 性命イノチ 有時アルトキ㆒、可ベシ㆓再フタヽビ敎シム㆒㆑衝ツカ)」と云イへば、その時トキ 阿赤黑失㖮アチクシルン 言イはく「罕カン、罕カン、止ヤめよ。背處カゲに在アる子コ(生まざる子)を求モトむるに、祈︀イノり願ネガひをなして、阿備巴備アビバビ(譯し得ず)とて求モトめ願ネガひたり、我等ワレラ。この生ウマれ畢ヲへたる子コ 桑昆サングンを介抱カイハウせん(明譯末ザリシ㆑生ウマ㆓兒子コヲ㆒時トキハ、禱祈︀著︀コヒノミテ 要モトメキ㆓子嗣シシヲ㆒。將ヲ㆓這旣生了的コノスデニウマレヲヘタル 兒子コ 桑昆サングン㆒擡擧タイキヨセン)。忙豁勒モンゴルの多數タスウは、札木合ヂヤムカと共トモに、阿勒壇アルタン、忽察兒クチヤルと共トモに、我等ワレラの處トコロに在アり。帖木眞テムヂンと共トモに背ソムきて出イでたる忙豁勒モンゴルは、