通俗正教教話/主の御祈祷

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(二)しゅたう[編集]

(唱名・七請願・讃揚)

問 クリスチヤニンつねになすべきたうほんとなるやうなものはございますでせうか。

答 ございますとも、『しゅいのり』としてせいしょ〔馬太六の九 - 十三〕にしるしてございまするのがそれございます。

問 『しゅいのり』ともうしますのはなんことございますか。

答 しゅたうもうしまするのは、わがしゅイイスス・ハリストスくちづからそのおでしおんおしへになりおでしすべてのしんじゃつたらせましたたうございます。

問 それではそのたうもんどんもんなのでございますか。

答 それは次の様なもんございます。
てんましまわれちちよ、ねがはくばなんぢせいとせられ、なんぢくにきたり、なんぢむねてんおこなはるるごとにもおこなはれん、わがにちようかてこんにちわれあたたまへ、われおひめあるものわれゆるすがごとわれおひめゆるたまへ、われいざなひみちびかず、なほわれきょうあくよりすくたまへ、けだしくにちからさかえなんぢよよす「アミン」』〔馬太六の九 - 十三〕。

問 『しゅたう』をくはしくしらそのいみきはめまするにはいたしましたならばよろしうございませうか。

答 それには『しゅたう』を『しやうみやう』と『七つのねがひ』と『ほめあげ』の三つにぶんしておのおのそれいてしらべましたならばくはしいいみわかるのでございます。
しやうめうのこと
<<てんましまわれちちよ>>

問 わけかみさまわたくしどもが『ちち』ととなへるのでございますか。

答 わたくしどもにんげんしゅイイスス ハリストスこのにおくだりになってあがなひみちをおてになるまであくおもとほりになるあくれいございましたが、しかし一度しゅによってわたくしどもあがなはれましたのちそのめぐみによってしゅしんずるものことごとく神様のあいとなったのでございます、そこで神様をぶにも『ちち』とばるるぶんとなったのでございます、せいしょこのこともうしてございますには『イイススをそのしんずるものにはしゅかみるのけんたまへり』〔イオアン一の十二〕『なんぢみなハリストス・イイススしんずるによりてかみなり』〔ガラテヤ三の二十六〕と。

問 おほぜいひといちごきたうをするときなれば『われちちよ』ともうしまするのもきこへたはなしございますが、ただひとりわたくしどもが神様に御祈祷をするときでもやっぱり『わがちち』よとはず『われちちよ』とつねもうしまするのはわけございますか。

答 それハリスチヤニンたるものはつねおのればかりをかんがへず、じぶんことかんがふるとどうひとうへのこともかんがへて、神様にものをおねがひするときにもつねに自分のばかりでなくひとめにもおねがひするつとめもつりまするのでひとり祈祷をするときでもいつも『われちちよ』ともうすのでございます。

問 なぜ神様をときに『てんまします』とことばそのうへかぶらせるのでございますか。

答 それず神様に御祈祷をするにさきだってこのちりおもひことごとおもひきよめてこころてんげ、神様のくにことこころうちおもかべしむるがためございます。
だいいちせいがん
<<ねがはくはなんぢせいとせられ>>

問 『なんぢせいとせられ』とわたくしどももうさずともしゅみなとこしへけがれなくせいなるものではございませぬか。

答 やうございますとも聖書に『ちからあるものせいなり』〔ルカ一の四十九〕ともうしてございますとほり、しゅみなわたくしどものぞまずともとこしへせいなるものではございますが、しかそのせいなるみなわたくしどもは自分のせいおこなひによっておそおほくもしばしばけがすのでございます、で『なんぢせいとせられ』ともうしまするのはつまりそれためもうしまするのでこのことばけつして神様のけがれてるからそれせいにしやうとふのでわたくしどもぶるのではく、神様のみないつでもせいございまするが、そのせいなるみなわたくしどもわることおこなってはどろりまするので、うかそのやうな神様のみなけがやうおこなひつつしまうとふのでぶるだいなのでございます、すなはち第一にはわたくしどもこころうちつねに神様のみなわすれないやうきざけて、そのみなけがさぬやうおこなひつねして神様をぐること、第二にはにんそのわたくしどもおこなひて『さすがハリスチヤニンである』とわたくしどもかんぷくするとともに神様のみなぐるやうつとむるのでございます、うすればここはじめて『なんぢせいとせられ』とわたくしどもとなへた御祈祷のしゅとほわけなのでございます、せいしょもうしてございまするには『なんぢひかりひとびとまへるべし、かれなんぢおこなひてんいまなんぢちちさんえいせんためなり』〔馬太五の十六〕とわたくしどもいつでもこのやうこころけをたねばなりませぬ。
だいにせいがん
<<なんぢくにきたり>>

問 ここもうしてございまする『なんぢくに』とはどんなくにことなのでございますか。

答 それこのよのなかはなれたれいなるよのなかのことなのでございます、くはしくこれもうしますればそのなんぢくに』ともうしまする神様のめぐみあるくにわたくしどもつねこころうちのぞえがいてしゃくわいございましてそこにはたたかいもなければあらそひもないきはめてへいしてただしいうつくしいなかで、ぞくもうしますればつまりすべてがじゅんじょよくおこなはれている黄金世界なのでございます、せいしとパエルそのてがみうちかくごとなかことあかしてもうしましたには『かみくにいんしょくらず、すなはへいせいしんよろこびとにるなり』〔ロマ十四の十七[1]

問 ではそのやうよのなかいつるものでございませうか。

答 それあへいつまってわけではございませんそんな『くに』のるとないとはひとびとこころがけだいで、ひとが神様のむねかなただしいおこなひつねしてるならば、神様のくにそのひとこころなかつねのぞんでるのでございます、これはんかみむねもとやうおこなひをしてりまするひとには神様のめぐみあるくにとこしへのぞいたらぬのでございます。

問 それでは神様のさちあるそんくにひとびとこころうちのぞきたときにはなにかわったことでもるのでございますか。

答 いいえなにかわったことわけではございません、かみくにもっとおくゆかしくひとらざるうちのぞるものでございまして、このことは聖書にも『かみくにあらはきたらず』〔ルカ十七の二十〕とあきらかしるしてございます。

問 『なんぢくにきたり』ともうしますることばもつわたくしどもは神様の『おめぐみくに』のほかまたなにもとめなければなりませぬか。

答 それさかえくにすなはつねわたくしどもしごかうとのぞんでところさいはひおほてんごくもとめなければなりませぬ、せいしとパエルの『かれて(死して)ハリストスともらんことをねがふ』〔フィリッピ一の二十三〕とったことばじつこののぞみあらはしたおないみことございます。
だいさんせいがん
<<なんぢむねてんおこなはるるごとにもおこなはれん>>

問 だいさんせいがんのぞみあらはしたものございますか。

答 だいさんせいがんもうしてございまするのぞみのぞみなのでございます、わたくしどもおこなひますることしくはぐうぜんわたくしどもうへおこってまするすべてのことみなわたくしどものぞみどほりでなく、ただただ神様のむねどほりにおこなはるるやうにとののぞみあらはしたものなのでございます。

問 なぜそのやうことを神様にねがひいたすのでございますか。

答 なぜもうしましてわたくしどものぞみますることにはろくこといのでにんげんかんがへまことあさはかなものでございまするからそののぞみかなへたことがかへつままがいになる様なことがしばしばるのでございます、しかるに神様はすこしつみもなくかこげんざいらいすべてごぞんじのかたございまするからそのむねまかせすることははるかわたくしどもぶんねがひするよりもおほくのさいはひるのでございます、聖書にこのことを『(神は)われおよもとむるところあるひおもところよりもきわめておほすを』〔エヘス三の二十〕ともうしてございます。

問 なぜそれでは神様のむねが『てんおこなはるるごとにもおこなはるる』ことをねがふのでございますか。

答 それてんすなはち神様のくにおいてはもろもろてんおよぎじんたちすべて神様のむねどほりにものごとおこなってりますので、うかこのおいてもわたくしどもかんがふることおこなふことがあくむねでなく神様のむねかなやうにとためこのことねがいたすのでございます。
だいしせいがん
<<わがにちようかてこんにちわれあたたまへ>>

問 『にちようかて』とはなんことございますか。

答 『にちようかて』とふのはにんげんいのちささへてくにひびひつようくべからざるものたとへばこめとかみづとかやうものもうすのでございます。

問 なぜそんなにちようかてを神様にねがいたすのでございますか。

答 それわがしゅイイスス ハリストスのおおしたまひしいましめしたがってねがいたすのでけつして自分勝手にぶるのではございません、しゅかつそのでしに、なんぢただ生活のためひつえうくべからざるもののみをかみねがったならばそれじうぶんる、そのものみなかみむねまかせてけばよろしい、してかみなんぢくださったならばそれかんしゃしていただくださらなければべつそのことしんぱいすることい、なんとなればかみなになんぢひつえうで、なにった方がよいとことは『なんぢねがはざるさきなんぢもとむるところる』〔マトヘイ五の八〕ともうされたことがございます。

問 それではなんために『にちようかて』をただこんにちのみねがいたすのでございますか。

答 それわたくしどもこころつねったりんだりすることばかりにかたむくのをふせためで、わたくしどもそのそのなんゆうもなくくらしてったならばなんの一年も二年もさきことしんぱいせずともいので、さきざきことは『わたくしどももとむるよりさきぞんじておいでになる』神様にまかせしてけばすこしもしんぱいすることなくたのしくこのすごごすことができるのでございます、『にちようかて』をこんにちのみねがふのはわけなのでございます。

問 『にちようかてこんにちわれあたたまへ』といのりをもつわたくしどもこめしおほかまたなにものもとめなければなりませぬか。

答 たましひやしなってかてもとめなければなりませぬ、そのやうかてかったならばたましひうえて死んでまうのでございます。

問 ではたましひかてとはどんなものでございますか。

答 それは神様のことばわがしゅイイスス ハリストスあがないおたてになったたいございますせいしょもうしてございます『ひとただぱんのみをもつくべきにあらず、すなはちおよかみくちよりづることばもつてす』〔馬太四の四〕、『しゅたいまことかてなりそのまことのみものなり』〔イオアン六の五十五〕。
だいごせいがん
<<われおひめあるものわれゆるすがごとわれおひめゆるたまへ>>

問 ここもうしてございまする『われおひめ』とはなんことなのでございますか。

答 それわたくしどもつみことございます。

問 それではなんで『わたくしどもつみ』を『おひめ』ともうすのでございますか。

答 それわたくしどもにんげんは神様からばんおいつくされぬめぐみけてりながらそのおんがえしをいたすことができないばかりでなくしばしば神様のいましめそむそのむねさからやうなことをなしまするので、つまり神様にたいしてじやうかりわけございます、それございますから『わたくしどもつみ』を『おひめ』ともうしたのでございます。

問 『われおひめあるもの』ともうしまするとひとことなのでございますか。

答 それにはいろいろしゅるいございます、かねしてってそれかへさぬ人もおひめあるものございますれば、いろいろせわをしてってもそのおんかへすことをしらひとおひめあるものございます、要するにわたくしどもたいしてたうぜんになすべきことをさぬひとみなわれおひめひとなのでございます。

問 そのやうわたくしどもは神様のまへおひめるとしましたならば神様のおさばきときそれではそのおひめわたくしどもうしてのがれるのでございますか。

答 それのがれるにはわがしゅイイスス ハリストスたのんでそのなかだちって神様にじぶんおひめゆるしねがいたすのでございます、せいしょにはそのことやうもうされてございます。
かみいつなり、かみひととのあいだにはなかだちまたひとりなり、すなはちひとハリストス・イイススしゅうじんあがなひのためおのれあたへしものなり』〔テモエイ前書二の五、六

問 それではわたくしどもが神様にじぶんつみゆるしねがひしながらひとをかしたあやまちゆるさなかったならばうでございませうか。

答 そのときには神様もわたくしどもつみゆるしてくださらないのでございます、このことあきらかせいしょもうされてございます『なんぢひとそのあやまちゆるさばなんぢてんちちなんぢにもゆるさん、ひとそのあやまちゆるさずばなんぢちちなんぢあやまちゆるさざらん』〔馬太六の十四、十五

問 神様はなぜわたくしどもひとあやまちゆるさなければわたくしどもつみをもゆるしてはくださらないのですか。

答 なぜもうしまして、わたくしどもひとあやまちゆるさなかったならばわたくしどもとりなをさずじひきわまるわるものございますから神様のめぐみあづかけんいのでございます。

問 わたくしどもが神様においのりをして『われおひめあるものわれゆるすがごとわれおひめゆるたまへ』ととなへまするときにはこころがけってらなければなりませぬか。

答 このことばとなへまするときにはこころうちすこしのうらみいかりひとかまへず、こころおだやかにしてなんびとともぼくしてひとびとしんせつなるこころがけたねばなりませぬ。せいしょこのこといましめて『なんぢれいぶつさいだんたづさいたり(神様にささぐる為に)かしこおいなんぢけいていなんぢひまあるをおもおこさばなんぢれいぶつさいだんまへきてきてなんぢけいていやわらのちきたりてなんぢれいもつけんぜよ』〔馬太五の二十三、二十四〕ともうしてございます。

問 しかわたくしどもいくらひとぼくしませうとおもひましてもむかふのひとわたくしどもなかなをりをするがなくまたそのひとえんごくためすみやかなかなほりをすることができないあいにはいたしましたならばよろしいのでございますか。

答 そのときにはざるところなき神様のまへおいこころなかそのひとびとぼくしたならばよろしいのでございます、せいしょに『くすべくばなんぢちからつくしてしゅうじんあひせよ』〔ロマ十二の十七〕ともうしてございますとほできうかぎぼくつとできえざるところは神様のまへぼくしたならばそれよろしいのでございます。
だいろくせいがん
<<われいざなひみちびかず>>

問 ここもうしてございまする『いざなひ』とはどのやういざないなのでございますか。

答 それは神様にたいするしんかううしなはせたり、またおもつみおとしいれんとするやうあぶないざなひございます。

問 ではそのやういざなひたれたくらむのでございますか。

答 それたくらむものはわたくしどもこのからだけんすなはにんひとまどはさうまどはさうとつねおもってあくとでございます。

問 それでは『われいざなひみちびかず』といのりことばもつわたくしどもどのやうなことを神様におねがいたすのでございますか。

答 それは第一にわたくしどもいざなひおちいったとき神様がわたくしどもかへりみてそのいざなひわたくしどもしたがはぬやうにしてくださることと、第二には神様がわたくしどもこころりになるためわざいろいろいざなひわたくしどもくだしになったあいわたくしどもそのいざないけてほろぶるやうなことのやうあらかじめ神様にねがいたしてくのでございます。
だいしちせいがん
<<なほわれきょうあくよりすくたまへ>>

問 ここもうしてございまする『われきょうあくよりすくたまへ』とことばもつわたくしどもなにごとを神様にねがいたすのでございますか。

答 それは神様がわたくしどもあくかんあくなるはかりごとよりすくいだたまことなのでございます、かいばんしょじんアダムつみおちいったらいみなあくふくする』〔イオアン一書五の十九ものとなってつねわたくしどもざいあくおとしいやうたくらんでるのでございますからわたくしどもそのはかりごとかからないやうに神様にたすけもとむるのでございます。
ほめあげのこと
<<けだしくにちからさかえなんぢよよす「アミン」>>

問 しゅいのりうちに神様をぐることばへてございまするのはなんためなのでございますか。

答 それは第一にわたくしどもてんまします神様にこのことばもつうやまひあらはし、第二には神様のかぎりなきちからさかえとをつねこころうちおもうかべて、神様はかならわたくしどもねがひききれてくださるとかたしんかうこころうちつがためございます。

問 『アミン』とことばいみことばございますか。

答 『アミン』とことばはエウレイ(ヘブライ)のことばございますがこれを日本語にやくしてもうしますれば『まことそのとほりでございます』とかまたは『そのとほりになることのぞんでります』とかもういみなのでございます。

問 それではなんためこのことばほめあげことばをはりけるのでございますか。

答 それせいしとヤコフそのてがみうちおいおしへてりまするとほり『しんもつすこしうたがはずして』〔一の六〕神様にそのねがひぶるがためございます。

脚注 [編集]

  1. 原文は「ロマ十五の十七」ですが、明らかに誤植と思われるので「ロマ十四の十七」に訂正しました。