コンテンツにスキップ

通俗正教教話/望を得る方法

提供: Wikisource

通俗正教教話下巻(望と愛の巻)  加島あきら編

▲望(のぞみ)のこと

(一)望(のぞみ)を得(う)る方法

[編集]
(祈祷と眞の教)

問 基督信者(ハリスチヤニン)が常(つね)に有(も)つて居(お)ります所(ところ)の希望(のぞみ)は何(ど)んな希望(のぞみ)で御座(ござ)いますか。

答 私共(わたくしども)信者(しんじゃ)の希望(のぞみ)は、神様が人々の為(ため)に慮(おもんばか)って被下(くださ)る救贖(あがない)と人類に御(お)約束(やくそく)なさった幸福(さいわい)とを確(かた)く心(こころ)に信(しん)じて神様を一重(ひとへ)に頼(たの)んで心(こころ)を安(やす)んずることなので御座(ござ)います、聖書に此(この)希望(のぞみ)のことを左(さ)の様(よう)に申(もう)して御座(ござ)います『主(しゅ)イイスス・ハリストスは我(われ)等(ら)の望(のぞみ)なり』〔テイモヘイ前書一の一〕『故(ゆえ)に爾(なんぢ)等(ら)の心(こころ)の腰(こし)を束(つか)ね、敬醒(けいせい)してイイスス・ハリストスの顕現(あらはれ)の時(とき)に爾(なんぢ)等(ら)に賜(たま)ふ所(ところ)の恩寵(おんちよう)を全(まった)く望(のぞ)め』〔ペトル前一の十三〕


問 では其様(そん)な幸(さいわい)な希望(のぞみ)を得(う)るには何(ど)う致(いた)しましたならば宜(よろ)しいので御座(ござ)いませうか。

答 其(それ)を得(う)るには先(ま)づ第一には祈(き)祷(とう)をなし、第二には幸福(さいわい)を来(きた)す眞(まこと)の教(おしへ)に誠心(まごころ)を以(もつ)て従(したが)ふので御座(ござ)います。


問 神様に祈(き)祷(とう)を捧(ささ)ぐることが希望(のぞみ)を得(う)る一(ひとつ)の方法(しかた)で有(あ)ることは聖書(せいしょ)に記(しる)して御座(ござ)いますか。

答 記(しる)して御座(ござ)います主(しゅ)イイスス・ハリストスの仰(おほ)せられました言(ことば)の内(うち)に此(こ)う謂(い)ふ文(もん)句(く)が御座(ござ)います。
『求(もと)めよ然(しか)らば爾(なんぢ)等(ら)に與(あた)へられん、尋(たづ)ねよ然(しか)らば遇(あ)はん、門(もん)を叩(たた)けよ然(しか)らば爾(なんぢ)等(ら)の為(ため)に啓(ひら)かれん、葢(けだ)し凡(およ)そ求(もと)むる者(もの)は得(え)、尋(たづ)ぬる者(もの)は遇(あ)ひ、門(もん)を叩(たた)く者(もの)には啓(ひら)かれん』〔馬太(マトフェイ)七の七、八〕又(また)『爾(なんぢ)等(ら)の我(わが)名(な)に因(よ)りて求(もと)めん者(もの)は我(われ)行(おこな)はん』〔イオアン四の十四〕『求(もと)むる』とは祈(き)祷(とう)の内(うち)に求(もと)むることなので御座(ござ)います。


問 祈(き)祷(とう)と謂(い)ふのは何(ど)う謂(い)うことなので御座(ござ)いますか。

答 祈(き)祷(とう)と謂(い)ふのは智慧(ちえ)と心(こころ)を神様に向(む)けまする事(こと)で、之(これ)を外(そと)に表(あらは)す為(ため)に種々(いろいろ)な敬(うやまひ)の言(ことば)を述(の)べるので御座(ござ)います。

問 其(それ)では智慧(ちえ)と心(こころ)を神様に向(む)けて何(ど)う謂(い)ふ事(こと)をしなければなりませぬか。

答 第一には神様が何事(なにごと)にも不(ふ)足(そく)なき立派(りっぱ)な至(いた)って円満(えんまん)な御(お)方(かた)で有(あ)ることを讃(ほ)め称(たた)へ第二には神様が私(わたくし)共(ども)に被下(くださ)る御(おん)恩恵(めぐみ)と御(おん)慈愛(いつくしみ)に対(たい)して御(お)礼(れい)を申(もうし)上(あ)げ、第三には自分が此(この)世(よ)を送(おく)るに必要欠(か)くべからざる物(もの)を賜(たまは)る様(よう)に御(お)願(ねが)ひ致(いた)すので御座(ござ)います、其(それ)で御座(ござ)いまするから祈(き)祷(とう)には讃揚(さんよう)(ほめあげ)と感謝(かんしゃ)(御礼(おれい))と請願(せいがん)(御願(おねがい))との三つの物(もの)が無(な)くてはならぬ物(もの)なので御座(ござ)います。


問 祈(き)祷(とう)は何(なに)で御座(ござ)いますか。言(ことば)を出(だ)さず心(こころ)の内(うち)で出来(でき)ないもので御座(ござ)いますか。

答 否(いいえ)、言(ことば)を口(くち)に出(だ)さなくとも智慧(ちえ)と心(こころ)を以(もつ)て祈祷し得(え)らるるので御座(ござ)います、例(たと)へば旧約時代のモイセイがイズライリ人を引率(ひきつ)れて阿拉比亜(アラヒヤ)の紅海(こうかい)を渡(わた)りまする時(とき)に為(な)しました祈祷は心(こころ)の内(なか)の祈祷で決(けつ)して口(くち)に言葉(ことば)を出(だ)したものでは御座(ござ)いませぬ〔埃及出記(エギペトをいづるき)四の十五〕。


問 其様(そん)な祈祷は何(なん)とか別(べつ)に名(な)が有(あ)りますので御座(ござ)いますか。

答 御座(ござ)います、其様(そん)な祈祷を『心(こころ)の内(なか)の祈(き)祷(とう)』又は『黙祷(もくとう)』と申(もう)して居(お)ります、で、口(くち)に言(ことば)を出(だ)しましたり種々(いろいろ)な形容(かたち)をしまする祈祷は之(これ)を口(くち)の祈(き)祷(とう)又は外貌(おもて)の祈(き)祷(とう)と申(もう)します。


問 心(こころ)の内(なか)の祈祷をせず唯(ただ)外貌(おもて)許(ばか)りの祈祷をすることが出来(でき)ませうか。

答 出来(でき)ますとも、若(も)し少(すこ)しも真面目(まじめ)な心(こころ)を持(も)たず只表(ただうは)の空(そら)で祈祷をしたならば其(それ)は外貌(おもて)許(ばか)りの祈祷で、其様(そん)な祈祷は神様の御(お)心(こころ)持(もち)を悪(わる)くする外(ほか)には何等(なん)の甲斐(かい)もないので御座(ござ)います、神様は其様(そん)な表(うわ)の空(そら)の祈祷をする人を憤(いか)つて聖書(せいしょ)の中(うち)に斯(こ)う申(もう)されて居(お)ります『斯(こ)の民(たみ)は口(くち)にて我(われ)に近(ちか)づき唇(くちびる)にて我(われ)を敬(うやま)へども其(その)心(こころ)は遠(とほ)く我(われ)に離(はな)る』〔馬太十五の八〕。


問 其(それ)では私(わたくし)共(ども)は外貌(おもて)に表(あらは)るる祈祷をせずに心(こころ)の中(なか)の祈祷許(ばか)りを為(し)て居(お)ったならば其(それ)で充分(じゅうぶん)では御座(ござ)いませんか。

答 否(いいえ)、決(けつ)して充分(じゅうぶん)では御座(ござ)いません、何(なん)となれば人間(にんげん)と申(もう)しまするものは霊魂(たましい)許(ばか)りの物(もの)では無(な)く身体(からだ)と霊魂(たましい)が相(あい)合(がつ)して初(はじ)めて出来(でき)上(あが)って居(お)るもので御座(ござ)いますから祈祷をしまするには只(ただ)心(こころ)許(ばか)りでなく身体(からだ)も心(こころ)と共(とも)に祈祷しなければなりませぬ、心(こころ)に在(あ)る事(こと)が口(くち)に出(で)て外貌(うわべ)に表(あらは)るる〔馬太十二の三十四〕のは自然(しぜん)の理(り)で、霊(たましい)と体(からだ)は常(つね)に相(あい)伴(ともな)って行(ゆ)くもので御座(ござ)います、で御座(ござ)いますから我主(わがしゅ)イイスス・ハリストスも其父(そのちち)に御祈祷をなさいました時(とき)には、只(ただ)心(こころ)許(ばか)りの祈祷でなく常(つね)に言(ことば)を発(いだ)し姿勢(すがた)を正(ただし)くし、目(め)を挙(あ)げ天(てん)を仰(あふ)ぎ膝(ひざ)を屈(かが)め又(また)は俯伏(ふふく)して御祈(ごき)祷(とう)をなさったので御座(ござ)います〔イオアン十七の一、ルカ二十二の四十一、馬太二十六の三十九参照〕。