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諸原理について/II/第5章

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第2巻

第5章

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正義と善について

さて、この考察は、ある人たちにとって重要な意味を持つ。すなわち、(私たちが話してきた)異端の指導者たちは、正義は一つのものであり、善は別のものであると宣言し、この区別を神聖なものにまで適用し、私たちの主イエス・キリストの父は確かに善なる神だが公正な神ではな​​い、一方、律法と預言者の神は公正だが善良ではないと主張している。そこで、私は、これらの主張に対して、できるだけ簡潔に答える必要があると思う。これらの人々は、善とは、たとえその受け手がどんな親切にも値しない、あるいは値しない人であっても、すべての人に恩恵が与えられるような愛情であると考えている。しかし、私の意見では、彼らは、苦しみや災難に見舞われた人には何の恩恵も与えられないと考えているため、その定義を正しく適用していない。一方、正義とは、各人にその功績に応じて報いる性質であると彼らは考えている。しかし、ここでもまた、彼らは自分たちの定義の意味を正しく解釈していません。なぜなら、彼らは、悪人に災いをもたらし、善人に恩恵をもたらすのが正しいと考えているからです。つまり、彼らの見解によれば、正義の神は悪人に幸運を願うのではなく、彼らに対する一種の憎しみによって動かされているように見えます。そして、彼らは、旧約聖書の中で、たとえば大洪水の罰、または大洪水で滅びるとされる人々の運命、火と硫黄の雨によるソドムとゴモラの滅亡、罪のために荒野ですべての人々が倒れ、ヨシュアとカレブを除いてエジプトを去った人々は誰も約束の地に入っていないことが判明した、などに関する歴史を見つけるたびに、この例を集めます。一方、彼らは新約聖書から慈悲と敬虔の言葉を集め、それを通して弟子たちは救世主によって訓練され、父なる神以外には善なる者はいないと宣言されているように思われる。そして、この手段によって彼らは救世主イエス・キリストの父を善なる神と称することを敢えて試みたが、世の神は別の神であり、彼らはその神を公正ではあるが善なる者とは呼ばない、と言っているのである。


さて、私は、まず第一に、彼らができるなら、彼ら自身の定義に従って、創造主が、洪水の時に死んだ人々、ソドムの住民、エジプトを去った人々を、それぞれの功績に応じて罰するのは正しいということを示さなければならないと思う。なぜなら、前述の人々が滅ぼされた罪よりも邪悪で忌まわしい犯罪が犯されるのを時々目にする一方で、すべての罪人がその悪行の罰を受けているのをまだ見ていないからである。彼らは、かつては正しかった神が善良になったと言うだろうか。それとも、むしろ、神は今も正しく、人間の罪を辛抱強く耐えているが、当時は、無実で乳飲み子を残酷で不敬虔な巨人とともに絶滅させたので、正しくさえなかったという意見を持つだろうか。さて、彼らがそのような意見を持っているのは、文字以上のものを理解する方法を知らないからである。そうでなければ、罪が三代、四代まで子孫に降りかかり、さらにその子孫にまで及ぶのが文字通りの正義であることを示したであろう。しかし、われわれはそのようなことを文字通り理解しない。エゼキエルがたとえ話を語るときに教えたように[1]、われわれはそのたとえ話自体に含まれる内なる意味が何であるかを問う。さらに、彼らはまた、神が公正であり、各人にその功績に応じて報い、地上の心を持つ人々や悪魔を罰する、彼らが罰に値することを何もしていないのを見て罰する、ということも説明すべきである[2]。 なぜなら、彼らによれば、彼らが邪悪で破滅した性質を持っていたなら、彼らは何の善も行えなかったからである。なぜなら、彼らが神を裁判官と呼んでいるように、神は行為よりも性質の裁判官であるように思われるからである。そして、悪い性質が善を行うことができないなら、良い性質が悪を行うことはできない。それから、次に、彼らが善と呼ぶ神がすべての人に善であるなら、彼は間違いなく滅びる運命にある人々にも善である。では、なぜ神は彼らを救わないのでしょうか。もし神がそうすることを望まないなら、神はもはや善良ではないでしょう。もし神がそうすることを望んだとしても、それを成し遂げることができなければ、神は全能ではないでしょう。なぜ彼らはむしろ、福音書の中で私たちの主イエス・キリストの父が悪魔とその天使たちのために火を準備しているのを聞かないのでしょうか。そして、彼らの見解によれば、その行為は、罰せられるほど悲しいものですが、どうして善良な神の働きのように見えるのでしょうか。善良な神の子である救い主自身でさえ、福音書の中で抗議し、「もしティルスとシドンでしるしと不思議が行われていたなら、彼らは悔い改めたであろう」と宣言しています[3]。昔、荒布をまとい灰の中に座っていた。」そして、イエスがそれらの町々に近づき、その領土に入ったとき、荒布をまとい灰の中に座って行われたしるしや不思議のあとで、彼らが悔い改めたことが確実であるなら、なぜイエスはそれらの町々に入って、彼らに多くのしるしや不思議を示すことを避けたのでしょうか。しかし、そうされないので、福音書の言葉では、彼らには悔い改めの能力があると述べられているので、邪悪な性質や破滅した性質ではなかったと示されている人々を、イエスは間違いなく破滅に委ねていることになります。また、福音書のあるたとえ話では、王が宴会で横になっている客を見に入ろうとしたとき、婚礼の着物を着ていない人を見て、彼に言いました、「友よ、どうして婚礼の着物を着ないでここに入って来たのか。」それから家来たちに命じて言いました、「彼の手足を縛って外の暗闇に投げ出し、泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするであろう」[4]。 客を見るために中に入って、汚れた衣服を着た一人を見つけると、家来たちに縛らせて外の暗闇に追い出すように命じた王とは誰なのか、彼らに語らせなさい。彼らが正しいと呼ぶのはその王と同一人物でしょうか。では、どうして家来たちに彼らの功績を調べるように指示せずに、善人も悪人も同じように招待するように命じたのでしょうか。そのようなやり方によって示されるのは、彼らが主張するように、人々の功績に応じて報いる公正な神ではな​​く、すべての人に対して無差別な善良さを示す神の性質です。さて、これが必然的に善なる神、すなわちキリストまたはキリストの父のどちらかについて理解されなければならないのであれば、神の裁きの公正さに対して他にどのような異議を唱えることができるでしょうか。いや、律法の神に対して、善人と悪人を同様に招くために遣わされた僕たちから招かれた者が、汚れた衣服を着ていたという理由で、手足を縛られ、外の暗闇に投げ込まれるように命じたことほど不当なことが他にあろうか。


さて、私たちが聖書の権威から引き出したものは、異端者の議論を論駁するのに十分であるはずです。しかし、理性そのものの根拠に基づいて、この問題を彼らと簡単に議論しても不適切とは思われないでしょう。そこで私たちは彼らに、人間の間で美徳と悪の根拠と見なされているものを知っているかどうか、そして、神、または彼らが考えるように、この 2 つの神において美徳について語ることができるように見えるかどうかを尋ねます。また、善を美徳と見なすかどうかという質問にも答えてください。そして、彼らは間違いなくそうであることを認めるでしょうが、不正についてはどう言うでしょうか。私の意見では、彼らは決して、正義が美徳であることを否定するほど愚かではありません。したがって、美徳が祝福であり、正義が美徳であるならば、正義は間違いなく善です。しかし、正義は祝福ではないと彼らが言うなら、それは悪であるか、または無関心なものであるに違いありません。さて、正義は悪であると言う人々に答えるのは愚かなことだと私は思います。なぜなら、私は無意味な言葉、あるいは正気を失った人々に答えているように見えるからです。彼ら自身も認めているように、善人に祝福を報いることができるのに、それがどうして悪であるように見えるでしょうか。しかし、彼らがそれはどうでもいいことだと言うなら、正義がそうであるならば、節度や思慮深さ、その他のすべての美徳もどうでもいいことだということになります。そして、パウロが「もし徳があり、称賛されるものがあるなら、あなたがたが私から学び、受け、聞き、見たこれらのことを考えなさい」と言うとき、私たちは何と答えるべきでしょうか[5]。 ですから、聖書を調べて、個人の美徳とは何かを学んでください。そして、すべての人にその功績に応じて報いる神が、悪を憎むことによって悪人に悪で報いるのだ、などと言って自分を欺いてはいけません。それは、罪を犯した者たちはより厳しい処置を必要とするからではなく、神が彼らに、改善の見込みはあるものの、今のところは苦痛の感情を生じさせると思われる処置を施すからではないのです。彼らは、洪水で滅ぼされた人々の希望について書かれていることを読みません。その希望について、ペテロ自身も第一の手紙の中でこう語っています。「キリストは確かに肉体においては死に渡されましたが、御霊によって生き返り、その御霊によって獄に捕らわれていた霊たちのところに行って宣べ伝えました。彼らはかつて不信者であり、ノアの時代に神の寛容を待ち望んでいました。箱舟が造られていたころ、その箱舟の中で、わずか八人の魂が水によって救われました。今、同じような姿の人による洗礼も、あなたたちを救っているのです。」[6] そしてソドムとゴモラに関しては、預言の言葉が創造主である神の言葉であると信じているかどうか、すなわち、火と硫黄の雨を彼らの上に降らせたと伝えられている神の言葉であると信じているかどうか、彼らに話してもらいましょう。預言者エゼキエルは彼らについて何と言っていますか?「ソドムは元の状態に戻る」と彼は言っています[7]。 しかし、罰に値する者を苦しめるとき、なぜ彼らの利益のために苦しめないのでしょうか?神はまたカルデアにこう言っています。「あなたは燃える炭火を持っている。その上に座りなさい。それはあなたの助けとなる。」[8] また砂漠で倒れた人々については、アサフの表題が付いている詩篇第78篇に語られていることを彼らに聞いてもらいましょう。「神が彼らを殺したとき、彼らは神を求めた。」[9] 彼は、他の者が殺された後も神を求めた者がいたとは言わないが、殺された者たちの破滅は、死刑に処せられたときに神を求めたような性質のものであったと言っている。これらすべてによって、律法と福音書の神は同一であり、公正で善良な神であり、公正に恩恵を与え、慈悲深く罰するということを確立している。なぜなら、正義のない善良も、善良のない正義も、神の性質の(真の)尊厳を示すことはできないからである。


彼らの微妙なニュアンスに駆り立てられた以下のコメントを付け加えよう。正義が善とは異なるものであるならば、悪は善の反対であり、不正は正義の反対であるので、不正は間違いなく悪以外の何かであろう。そして、あなたの意見では、正義の人は善ではないのと同様に、不正な人も邪悪ではない。また、善人が正義ではないのと同様に、邪悪な人も不正ではない。しかし、善なる神に悪が反対されるのに、正義の神は善より劣ると彼らが主張するが、誰も反対されるべきではないという不合理さに気づかない人がいるだろうか! なぜなら、邪悪と呼ばれるサタンがいるように、不正と呼ばれることができる人はいないからである。では、私たちは何をすべきか? 私たちが擁護している立場を放棄しよう。なぜなら、彼らは、悪い人が不正ではないとは限らず、不正な人が邪悪であると主張することはできないからである。そして、もしこれらの性質が、悪の中に不正、あるいは不正の中に悪というように、これらの対立物に不可分に内在するならば、善人は正義の人から、正義の人は善人から切り離せないものであることは疑いようがない。したがって、悪意と不正の中にある悪は同じであると言うように、善と正義という美徳もまた同じであると考えることもできる。


しかし、彼らは再び、彼らの有名な質問を持ち出して、聖書の言葉に私たちを呼び戻します。聖書には、「悪い木が良い実を結ぶことはない。木はその実によってわかるからである」と書いてあると断言します[10]。 それでは、彼らの立場は何でしょうか。律法がどのような木であるかは、その実、つまりその戒めの言葉によって示されます。律法が善であるとわかれば、律法を与えた方は間違いなく善なる神であると信じられます。しかし、律法が善ではなく正義であるなら、神もまた正義の立法者とみなされるでしょう。使徒パウロは、「律法は善であり、戒めは聖であり、正義であり、善である」と言うとき、回りくどい表現を一切使っていません[11]。 そこから、パウロは正義と善を切り離す人々の言葉を学んだのではなく、神によって教えられ、同時に聖であり、善であり、正義である神の霊によって照らされていたことが明らかです。そして、パウロは、その霊によって、律法の戒めは聖で、正しく、善いものであると宣言した。そして、律法の戒めには正義や神聖よりも善いものがあることをさらに明らかにするために、自分の言葉を繰り返し、これら3つの形容詞の代わりに、善いものだけを用いて言った。「それでは、善いものがわたしの死となったのか。そんなことはあり得ない。」[12]パウロは、善が美徳の属であり、正義と神聖がその属に属する種である ことを知っていたので、前の節では属と種を一緒に挙げていたので、自分の言葉を繰り返すときには、属だけに頼った。しかし、次の節では、「罪は善いものによってわたしのうちに死をもたらした」[13]と言っており、ここでパウロは、以前に具体的に説明したことを総括的に要約している。そして、次の宣言もこのように理解されるべきである。「善人は、その心の良い宝から良いものを出します。悪人は悪の宝から悪のものを取り出す」[14] ここでも彼は、善でも悪でも、善良な人には正義、節制、思慮深さ、敬虔さ、そして善と呼べる、あるいは善であると理解できるすべてのものが備わっていることを疑いなく指摘した。同様に、不正、不純、不道徳、​​そして単独で悪人となるすべての要素を疑いなく備えている人は悪人であるとも言った。なぜなら、これらの悪の兆候がなければ誰も悪人だとは考えないのと同様に(実際、悪人になることはあり得ない)、これらの美徳がなければ誰も善人だとは考えられないことは確かだからである。しかし、彼らには、福音書にある主の言葉がまだ残っており、彼らはそれが盾として特別に与えられたと考えている。「父なる神以外に善なる者はいない」[15] 。彼らは、この言葉はキリストの父に特有のものだと断言するが、父は万物の創造主である神とは別であり、神はその創造主に善という呼び名を与えなかった。さて、旧約聖書では、預言者の神であり、言葉の創造者であり、立法者である神が善と呼ばれていないかどうかを見てみましょう。詩篇にはどのような表現がありますか。「神はイスラエル、心の直き者にとってなんと善いことか!」[16]そして、「イスラエルよ、今、神は善いと言え、その慈しみはとこしえに続くと。」[17]エレミヤの哀歌では、「主は、主を待ち望む者、主を求める魂に、善い。」[18] とあります。旧約聖書では神が頻繁に善と呼ばれているように、私たちの主イエス・キリストの父も福音書では正しいと称されています。最後に、ヨハネによる福音書では、私たちの主自身が父に祈るときに、「ああ、正しい父よ、世はあなたを知りませんでした。」と言います[19]。 そして、彼らが、イエスが人間の肉体をまとったからこそ、世界の創造主を「父」と呼び、「正しい」と称したのだと言うかもしれないが、そのすぐ後に続く「世はあなたを知らない」という言葉によって、彼らはそのような避難所から除外されている。しかし、彼らによれば、世は善なる神だけを知らない。なぜなら、世は疑いなくその創造主を認めており、主ご自身が、世は自分のものを愛していると言っているからである。したがって、彼らが善なる神とみなす方は、福音書の中で正しいと呼ばれているのは明らかである。誰でも、新約聖書で私たちの主イエス・キリストの父が正しいと呼ばれている箇所や、旧約聖書で天地の創造主が善と呼ばれている箇所など、より多くの証拠をゆっくりと集めることができる。そうすれば、異端者たちは、多数の証言によって有罪とされ、おそらくいつかは恥をかくことになるだろう。


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脚注

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  1. エゼキエル書 18章3節
  2. [Cum nihil dignum pœna commiserint. S.] 処罰に値する行為を何もしていないとき。
  3. Pœnitentiam egissent. 彼らは苦行をしただろう。
  4. マタイ 22:12-13
  5. ピリピ 4:8-9
  6. 1ペテロ 3:18-21
  7. エゼキエル書 16章55節、53節を参照。
  8. イザヤ 17:14-15、ここでの七十人訳聖書はヘブライ語とは異なります。 βοήθεια.
  9. 詩篇 78:34
  10. マタイ 7:18、12章33節を参照。
  11. ローマ 7:12
  12. ローマ 7:13
  13. ローマ 7:13
  14. マタイ 12:35
  15. マタイ 19:17
  16. 詩篇 73:1
  17. 詩篇 118:2
  18. 哀歌 3:25
  19. ヨハネ 17:25、Juste Pater. 正しい父よ。
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原文:

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翻訳文:

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