<<常に何処にも祈祷を以て神に趨就くべし>>
神が祈祷する者より促し給ふは弁舌の美にあるにあらず、巧みに飾れる辞にもあるにあらずして、心の美にあり、さればもし心が神に悦ばるゝことをいはんときは、すべてうけざるなけん。こゝにいかなる便利を見るか。人々の間に於ては誰か何人にか近づかんと欲するときは、更に善くうけられんが為に、能弁者となり、上長たる者の左右に在る人々をよく悦ばしめ、又は其他種々の事を考ふる必要あらん。然れどもこゝには一の不眠なる心の外何も必要なうして、神に近づくに何の妨もあるなし、『主いふ我たゞ近きに於てのみ神たらんや、遠きに於ても神たらざらんや』〔エレミヤ廿三の廿三〕。故に彼より遠ざかるは我等にかゝりて、彼は常に近きにあるなり。さりながら我何ぞこゝにたゞ能弁の必要なきをいはん、声も必要ならざることしば〳〵これあり。けだし汝は己が心中に於て言ひ、當然に彼を呼ぶときは、彼は直ちに汝にきかん。かくの如く彼はモイセイに聴き、又かくの如くアンナにもきゝたまへり〔出埃及記十四の十五、サムイル前一の十三〕。彼の側には来る所の者を逐払はんとする兵士あるなく、又時を遷延せしめんが為に、今は時にあらず、今は入る能はず、後に来れといふの槍兵もあるなし、却てもし汝の来らざるあれば彼は立ちて聞かんとす、たとへ午飯の時にも、たとへ晩餐の時にも、たとへ夜間にも、たとへ市場に在るも、たとへ路頭に在るも、たとへ寝室に在るも、たとへ裁判所にて長官の前に立つあるも、汝彼を呼ぶに、もし當然に呼ぶならば、彼が願をきゝ給ふを妨ぐものあらざるなり。我就て願ふを恐る、我が敵は彼の前にありとは汝言ふことあたはざるなり。こゝに此の妨もあるなし、何故なれば彼は敵に聴かずして、汝の願をしりぞけず、却て汝は常に易らずして彼と談話することを得べく、これが為に何の困難もあるなければなり、けだしこゝには汝をみちびかんが為に、門衛、家宰、監視、番人又は朋友の必要あらず、却て汝自からすゝみちかづきて他の何人にも願はざらんときは、彼は特に汝に聴き給はん。