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聖金口イオアン教訓下/第25講話

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第25講話

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<<つね何処いづこにもとうもつかみわしりくべし>>


かみとうするものよりうながたまふは弁舌べんぜつにあるにあらず、たくみにかざれることばにもあるにあらずして、こころにあり、さればもしこころかみよろこばるゝことをいはんときは、すべてうけざるなけん。こゝにいかなる便べんるか。人々ひとびとあいだおいてはたれ何人なんびとにかちかづかんとほつするときは、さらくうけられんがために、能弁者のうべんしゃとなり、上長じょうちょうたるものゆう人々ひとびとをよくよろこばしめ、またその種々しゅじゅことかんがふる必要ひつようあらん。しかれどもこゝにはいつみんなるこころほかなに必要ひつようなうして、かみちかづくになんさまたげもあるなし、『しゅいふわれたゞちかきにおいてのみかみたらんや、とほきにおいてもかみたらざらんや』〔エレミヤ廿三の廿三〕。ゆえかれよりとほざかるはわれにかゝりて、かれつねちかきにあるなり。さりながらわれなんぞこゝにたゞ能弁のうべん必要ひつようなきをいはん、こえ必要ひつようならざることしば〳〵これあり。けだしなんぢおの心中しんちゅうおいひ、當然とうぜんかれぶときは、かれたゞちになんぢにきかん。かくのごとかれモイセイき、またかくのごとアンナにもきゝたまへり〔出埃及記十四の十五サムイル前一の十三〕。かれかたはらにはきたところもの逐払おひはらはんとするへいあるなく、またとき遷延せんえんせしめんがために、いまときにあらず、いまあたはず、のちきたれといふの槍兵そうへいもあるなし、かへつてもしなんぢきたらざるあればかれちてかんとす、たとへはんときにも、たとへ晩餐ばんさんときにも、たとへかんにも、たとへじょうるも、たとへとうるも、たとへ寝室しんしつるも、たとへ裁判所さいばんしょにて長官ちょうかんまえつあるも、なんぢかれぶに、もし當然とうぜんぶならば、かれねがひをきゝたまふをさまたぐものあらざるなり。われついねがふをおそる、てきかれまえにありとはなんぢふことあたはざるなり。こゝにさまたげもあるなし、何故なにゆえなればかれてきかずして、なんぢねがひをしりぞけず、かへつなんぢつねかわらずしてかれだんすることをべく、これがためなん困難こんなんもあるなければなり、けだしこゝにはなんぢをみちびかんがために、門衛もんえいさいかん番人ばんにんまた朋友ほうゆう必要ひつようあらず、かへつなんぢみづからすゝみちかづきて何人なんびとにもねがはざらんときは、かれことなんぢたまはん。