聖金口イオアン教訓下/第1講話

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第1講話[編集]

<<かみしょむをつね練習れんしゅうすべし>>


だい言者げんしゃ太闢ダウィド聖書せいしょをよむのえきりければ、つねにつとめて聖書せいしょき、これを談論だんろんするをたのしむものを、みづながれにそふてつね爛熳らんまんたる植物しょくぶつたとへり、ふありいはく『悪人あくにんはかりごとかず、罪人ざいにんみちたず、敗壊者はいかいしゃくらいせずして、そのこころしゅほうき、昼夜ちゅうや此法このほうねんするひとさいわいなり、かれみづほとりうゝときおよんでむすび、そのしぼまざるがごとし、およおこなところみなげざるなし』〔聖詠一の一~三〕。けだし水源すいげんちかきうえられたるながれに沿ふて、不断たえずこれより灌漑かんがいをうくるにより、すべて不良ふりょうなるこうためにもなんなることをべく、烈々れつれつとしてやく光線こうせん太陽たいようの〉をも乾燥かんそうしたるくうをもおそれざらん、なんとなればない十分じゅうぶん湿潤うるおいをたもつにより、すべてがいよりせまところ太陽たいようねつはなはだしきをふせかつのぞけばなり、かみしょながれ沿ふて不断たえずこれがためにうるほさるゝ霊魂たましいかくごとくなるべし、ながれと聖神せいしんつゆとをおのれに吸収きゅうしゅうし、もろもろの不良ふりょうなる境遇きょうぐうよりがいをうけずして安然あんぜんなるをん、假令たとへ疾病やまひありとも、假令たとへ凌辱はづかしめありとも、假令たとへ讒言ざんげんありとも、假令たとへ悪口あくこうありとも、假令たとへ嘲弄ちょうろうありとも、假令たとへなに惰気だきしょうずるありとも、假令たとへぜんかいのあらゆる災難さいなんかくごと霊魂たましいおそふことありともかれ聖書せいしょをよむにより、十分じゅうぶんなぐさめて、情慾じょうよくえんをたやすくふせかへさん。じつえいだいなるも、権柄けんぺいたかきも親友しんゆうるあるも、その人間にんげんのいかなるぶつも、けつしてかみしょむほどうれひなぐさむることあたはざるなり。これ何故なにゆえなるか。これぶつちてすみやかるがゆえに、これよりしょうずるなぐさめすみやかすぎればなり。されども聖書せいしょむはかみたいするなり。さればうれひるものをかみなぐさむるとき現在げんざい境遇きょうぐう如何いかなるはかれうれひしづむるをんや。ゆえつとめてこれをむをならふて、たゞかんすなはち奉神礼ほうしんれいのときに、聖堂せいどうかんとどまらざらん、なんとなればたゞ聴聞ちょうもんするのみにては、安然あんぜんんがため充分じゅうぶんなればなり、ゆえだんにこれをならはん、もしひとかはらざるかつ十分じゅうぶんなるえき聖書せいしょによりてんとほつせば、おのおのいえかへりて、聖書せいしょり、書中しょちゅうところ意味いみ研究けんきゅうすべし。それみづほとりにあるところみづ交通こうつうするはたゞさんかんあらず、毎日まいにちまい交通こうつうするなり。ゆえは、よう青々せいせいとしてかざられ、じつ豊盛ほうせいなり、たれもこれをうるおすものあらずといへども、かれみづほとりにありて、湿潤うるおいおのれに吸収きゅうしゅうするにもつてすること、あたかくだもつてするがごとくして、有益ゆうえきなる液汁えきじゅう全体ぜんたいつたふるなり。かみしょつねによみて、ながれに沿ところものもかくのごとし、かれはたとへなん解釈者かいしゃくしゃをもたずといへども、つねにこれをむによりておほいなるえきおのれにることもつてするがごとくならん。