- 発行所:正教会編輯局
- 「塲」の字は異体字の「場」に改めた。
克肖なる我等が神父シリヤのフィロフェイの説教
十九、 霊魂〈罪を愛するの霊魂〉は恰も悪鬼の為に境壁をもて界限囲繞せらるるが如くにして黒暗の梏に繋がるるなり、されば此の囲繞する所の黒暗の故により當然に祈祷する能はざらん、けだし悪鬼の為に隠密に〈秘密にして深き處に或は其の如何なるを知らずして〉繋がれ内部の目の盲まるによる。されども彼れ〈己れに帰りて〉祈祷により神に趨り附くの基を立て力に及ぶだけ能く祈祷儆醒する時は其の祈祷の力により漸々暗より脱し始まるべし、否らずんば暗より脱せんこと如何んしても能ふべきなからん。此の時に當り霊魂は其の内部心中に於て他の格闘と他の秘密なる抵抗のあるを知り又悪鬼より挑撥する所の思念に於て他の戦のあるを知るなり、聖書はいかにこれを證するか、曰く『君長たる者の霊汝に向て怒ることあらんも汝の本處を離るることなかれ』〔傳道書十の四〕。さて智識の本處は是れ即ち智識が徳行と清醒とに堅く立つことなり。彼は徳行の生活にも立つべく又罪なる生活にも立つなり。けだし聖書にいへらく『悪者の謀にゆかず罪人の途に立たざる者は福なり』〔聖詠一の一〕。又使徒も教へていへり『汝等立つに誠を帯とせよ』〔エフェス六の十四〕。
二十、 願くは堅きが上にも猶堅くハリストスを持すべし、けだしこれを霊魂より取去らんと百方試むる所の者少なからざればなり。そも吾人は霊魂の地面に民〈群集〉即ち思念の多く居るが故〔イオアン五の十三〕イイススをして自ら離るるに至らしめざるを致さん。さりながら彼れを止むるは心の憂苦なくしては能はざるなり。彼れが肉身に於ける生活の跡に触るる〈跡に依りて行かんを欲し或は手摸にて行くの義なり〉に苦心せん我等己の生活を謙遜に渡らんが為なり。彼の苦難を感受せん、彼れに競ふてすべての憂愁を忍耐せんが為なり。彼が我等を監視する言ふべからざるの恩顧を味へん、心に此を甘く味ふにより主の善の幾許なるを暁り知らんが為なり。願くは此の諸事の為め將た此のすべてに先だち凡そ彼が言ふ所のものに於て疑なく信ずるを得ん、さらば願くは我等に向ふ所の彼の照管を日々に俟つを得ん、さらば何事の出来するあらんもいかなる事に逢ふあらんも感謝と愛と喜ばしき満足とをもてこれをうくるあらん、其の睿智の神妙なる法に依り悉皆を統治する独一の神を見るを学ばんが為なり。すべてこれを行ふ時は我等は神より遠ざからざらん。願くは敬虔は終を有せざるの完全なること心に於て神を捧ぐる或る完全なる人のいひしが如くなるを我等知るを得ん。
二十一、 己が生活の時間を善く購ふて死の思念と記憶とに間断なく占有せられ此れに頼りて智識を情慾より巧みに奪ふ所の者は彼のただに一の智慧の働きをもて心を清うせんを希望して哀み且哭くの思想を常に守らんとはせずして死を念ふの記憶なしに生を送る者に比すれば悪鬼の附着の時々攻撃するを看破すること常に最鋭なりとす。此後者は己が聡明をもてあらゆる有害なる情慾を手にて支へんと想ふてすべてより最悪なる所の一事に繋がるるを知らず、即ち神なくして〈或事に上進せんを期待する者の如き是なり〉高慢に陥るを知らざるなり。彼は自慢の為に智慧を奪はれざらん様に力めて清醒せんを要す。けだし使徒パウェルのいふが如く〔コリンフ前八の一〕此處彼處より智識を聚むるの霊は其意に己れより知ること少なしと思ふ所の者に対して常に高慢す、思ふにこは彼等に徳を建つる愛の閃光のあらざるに因るなり。されども死の不断の思念を有する者は其のこれを有せざる者に比すれば更に慧眼をもて魔鬼の附着を認めて容易すくこれを逐拂ひ且蹂躙するなり。
二十二、 神即ちイイススを念ふの極て愉快なる記憶は中心の怒りと人を救ふべき憤激とをもて思念の悉くの眩惑と種々なる嘱示と語言と空想と蒙昧なる想像とを常に破壊するなり、これを略言すればすべてを害さざる所無きの敵が我が霊魂を害せんを尋ねてすべて武装する所のものと敢て突出する所のものとを破壊するなり。イイススは呼ばれてこれを焼夷すること至て容易なり。けだしハリストス イイススの外我等を救ふ者は決してあらざればなり。此の事は救世主自らもいひ給へり、曰く『我れ無んば何も作すこと能はず』〔イオアン十五の五〕。
二十三、 ゆえにいづれの時にもいかなる瞬間にも夫の霊台の鏡を蔽ひくらます所の思念よりすべての守りをもて己の心を守らん、この鏡は一のイイスス ハリストス即ち神父の睿智たり能力たる者に印せられ且寫眞せらるべきなり。心の裡面に於て不断に天国を尋ねん、さればもし其の己の智識の目を清うするあらば己が内部に於て粒も眞珠も又酵母をも奥密に得るあらんこと必せり。これが為めに我等が主イイスス ハリストスもいへらく『天國は汝等の中にあり』と〔ルカ十七の二十一〕、これ心の内部に寓る所の神性を謂ふなり。
二十四、 清醒は良心を浄めて光り輝くに至らしむるなり。されば良心はかくの如くきよめられてすべての暗を内より逐出すこと恰も其の上に掛る所の覆を取外したるにより俄に照り輝く所の光の如くなるべし。さて暗を逐去りし後良心は連綿として継続する眞實なる清醒に由り彼の既に遺念したるもの又は認識を免れて潜める所のものを新に顕露せしむるなり。さればこれと同時に良心は亦同く清醒に由り敵と智識に於て開戦する見えざる競争と又思想に於るの戦を教ふるなり。即ち此の決闘に於ていかに鎗を投ずべきか又善良なる思念の箭をいかに巧みに〈敵に〉投ずべきかを教へ敵の箭をして智識を貫かしめざらんこと恰も有害なる暗に代へて此の有望なる光、即ちハリストスに隠れて智識の箭を放つが如くなるべし。此の光を味ひし者は我がいふ所の事を了會せん。此の光を味ふるは飢にて霊魂を殊更疲らすべく霊魂はこれをもて養はるれども未だ曾て飽かずしていよいよ味ふればいよいよ飢を覚えしむべし。智識を誘引する所の此光は目の太陽に於るが如く固とおのづから説明すべからざるの光なり、さりながら此の光はただ言を以てせずこれが作用をうくる將た精密にいへばこれに傷つけらるる者の実験を以て解明することを得べし即ちたとひ智識は今言ふ所の事を談話するをもて楽まんこと全く尚欲するなるべしといへども此の光は我れに黙することを命令す。
二十五、 『衆人と和睦をなし且聖なるべし、これを外にしては誰も主を見ること能はず』〔エウレイ十二の十四〕これ愛と潔きとを得んが為なり、けだし愛と潔きとはこれ即ち和睦することと聖なることなり。されども独り夫の心中に於て我等に敵し且裂怒する所の魔鬼に対しては怒をもて武装すべし。さりながら時々刻々我が中に運動する所の敵といかに開戦すべきに注意し左の如く行為すべし、即ち祈祷を清醒と配合せしむべし、さらば清醒は祈祷を強め祈祷は清醒を強めん。清醒はすべての為めに内部を不断に監視して諸敵のいかに彼處に入り来らんと欲するを認めてこれが為めに力に及ぶだけ其の入るを遮りこれと同時に主イイスス ハリストスの助けを呼び彼をして此の悪猾なる将軍を逐拂はしむを致さん。此の時注意は抵抗に頼りて彼の進路を杜絶すべく呼ばるる所のイイススは魔鬼を其の妄想と共に逐拂はん。
二十六、 至極の注意をもて己の心を守るべし。思念〈敵の思念〉を認むるや直ちにこれに抵抗し併て急に主なるハリストスの報復を呼ぶべし。さらば極て甘美なるイイススは汝の将に言はんとする時にいふあらん、曰く、視よや我は汝と共にす汝に代保を與へんが為めなりと。然れども汝の祈祷により此の諸敵の鎮静する後にも汝はいよいよ奮熱して心に注意することを更につづくべし。そもそも以前の波浪に比すれば更に最も大なる波浪〈思念の波浪〉の起るありて互に汝に向つて新に傾注せん、けだしこれによりて霊魂の沈没すること恰も深淵に沈むが如くにして亡ぶべきによる。さりながら門徒を励ます所のイイススは再び悪風〈思念の悪風〉を禁ずべし〈而して波浪は穏ならん〉されば汝は敵の攻撃より免るるを得て汝を救ひし者を毎時讃揚し死を思ふの思念に沈潜すべし。
二十七、 心霊の情にもろもろ中心よりの注意を加ふるをもて己の途を成さん。注意と祈祷とは毎日互に相配合して其のこれに関係する所の者を天の高きに挙ぐること恰もイリヤの火輪車の如くなるべし。そもそも余は何をか言ふや。清醒に立ちし者將たこれに立つに尽力する者にありては清潔の心は心上の天となるべくして日月星辰の輝くあり又奥妙なる視覚と上昇〈智識の卓楽〉とにより容るる能はざる所の神を容るるものとならん。人に神の徳行に対するの愛あるやすべて瞬間といへども主の名を誦すると悉くの熱心をもて言を実行に施すとに尽力せしむべし。通常霊魂の由りて以て傷はるる所の己が五官を強めて抑制する者はどうでも熱心の苦行と戦とを智識の為めに容易なるものたらしむるなり。故にすべて外部に属するもの〈霊魂の為めに有害なる附着及び感得〉を預め除くことに工夫を凝すべし、されども其の彼等によりて内部に生ずる所の思念に対しては心神を治むるの手段にて導かれつつ神與の方法をもてこれと闘はざるべからず、即ち儆醒の業をもて五官を楽ましむるの逸楽に向ふ嗜好を止め食と飲とに節制を守りて己の躰軀を充分に飢疲らすべし、これ己の為めに心上の戦を適時に容易なるものとならしめんが為なり。此のすべては己に福するなり、他の為めにあらず。死を思ふの思念をもて己の霊魂を苦ましむべく又ハリストス イイススを念ふの記憶をもて其の散乱したる智識を収むべし、况して夜間智識が常に益々純潔清明にして神とすべて神に属するものとを黙想しつつあるの時に於てをや。
二十八、 身体上に関する苦行の労をも我等は斥けざらん、けだし麦の地より生ずるが如く心神の喜びと善事に於けるの経験とは彼より生長すべければなり。不正なる推理をもて良心の要求を避けざらん、けだし良心は我等に救に関する実験上の事を暗示して常に我等が職分のある所と我等何を為さざるべからざるとをいひあらはせばなり、まして彼れ霊活勤勉にして且精細なる智識の清醒をもて潔めらるるの時に於てをや、此る場合に於て良心は其の清潔の故に因り常に明白なる判断を下すべし〈すべて遭遇する所の事につきて〉、即ち當然にして且確定なるまつたく遅疑せざるの判断を下すべし。すべて此れが為めには不実の推理によりて路より失脚すべからず、けだし良心は神に悦ばるるの生活を我等に内部に於て報ずればなり、而してもし霊魂が罪の為めに才智を汚さるるあれば厳にこれを責證して陥りし心に悔改するを勧め且これに甘美なる自信と共に其の療法をも示して罪を治する方法をあらはすなり。
二十九、 薪より出づる烟は目の為めに苦しからんも其後目に光をあらはして先きに不愉快ならしめたる者を楽ましむるなり。注意もかくの如し、智識の目を不断に張りて放たしめず以て頭脳を疲らし且苦しむるなり。然れども祈祷に於て呼ばるる所のイイスス来りて心を照明す。彼を念ふの記憶は照り輝く〈我等の内部に〉と共に最高上なる善〈即ち主〉を得しむるなり。
三十、 敵は我等が智識を擾だすに慣れ我等をして彼れと共に塵にて養はれしめ神の像によりて造られし者をして腹行するに至らしめんを欲す。さりながら神はいへり『汝と彼れとの間に仇を置かん』〔創世記三の十五〕、此に因り我等は魔鬼の火箭に傷つけられずして毎日を送ることを得んが為めに常に神に慨嘆すべし。言ふ〈神が唱詩者に〉『彼れ我が名を識るによりて我れこれを衛らん』〔聖詠九十の十四〕。又いふ『彼の救は彼を畏るる者に邇し』〔聖詠八十四の十〕。
三十一、 福なる使徒、ハリストスの所謂選器なる者は我等が内部に起る所の無形なる心中の戦に多くの実験を有しエフェス人に達する書に於て左の如くいへり、曰く『我儕は血肉と戦ふにあらず執政または権威または斯世の暗昧を司る者または天の處にある悪の霊と戦ふなり』〔エフェス六の十二〕。使徒ペートルも亦いへり、曰く『謹慎儆醒せよ、なんぢ等の敵なる魔鬼は吼る獅子の如く徧行りて呑むべき者を尋ぬ、汝等信仰を堅くしてこれを禦げ』〔彼得前五の八、九〕。我等の主イイスス ハリストスは神の言を聴く者の心地の同じからざるを談論していへらく『其後魔鬼来りて心より言を奪ひ去る』と、彼れ其の有害なる遺忘を蒙らしめてかかる盗奪を為すは『信じて救を得んことを恐るるなり』〔ルカ八の十二〕。而して使徒〈パウェル〉は又いへらく『夫れ我れ内なる人に於ては神の律法をたのしむ、されども我が肢体に他の法ありて我心の法と戦ひ我を擒にして我が肢体の中に居る罪の法に従はするを悟れり』〔ローマ七の二十二、二十三〕。是れ皆我等を教へ且我等に隠るる所のものを知らしめていへるなり。
三十二、 霊智は自ら責むることと謙遜とを失ふ時は自ら衆人より高しと意ふて常に高慢するなり。我等は己の弱きを識るの自認を得んを欲してこれを深く慮ること左の如くいひし者の深く慮りしが如くせん、曰く『兄弟よ我れみづから之を取れりと意はず、唯此の一事を務む、即ち後にあるものを忘れ前にあるものを望み上より召す所のハリストスの賞を得んと欲す』〔フィリプ三の十三、十四〕。又曰く『我が趨るは定向なきが如きにあらず我が戦は空を撃つが如きにあらず、己の体を撃つてこれをして服せしむ、そは他人を教へて自ら棄てられんを恐るればなり』〔コリンフ前九の二十六、二十七〕。汝は彼れの謙遜の如何なると併て又其の道徳に進向するのいかなるを見るか。聖なるパウェル程の人にして其の謙遜の如何なるを見るか。〈されども汝は彼れが更に言ふ所をきけ〉曰く『ハリストスは罪人を救ふが為めに世に来れり衆罪人の中我れ第一なり』と〔ティモフェイ前一の十五〕。然るを我等は天性の此の如くにあしきを有しつつ謙遜せずして可ならんや、けだし塵より悪しければなり。されば我等は神を記憶すべし、何となれば我等は彼の為めに造られたればなり、且我等は己を節制の功労に習はさんを要す、我が主の跡に従て更に容易すく進行せんが為なり。
三十三、 悪念に溺るる者は外部の人に於ても罪より清めらるる能はず。悪念を心より抜かざる者はこれと相応する所の悪行にこれを露はさざること能はざるなり。慾を懐きて他を見るの因由は先づ内部の目の迷ふて昏くなるにあり。又耻づべきことを聞かんと望むの因由はすべて汚鬼が内部に内部に於て我等に亡びの事を耳語するを心霊の耳にて甘んじて聴くにあるなり。我等は主によりて内外交々己を潔うすべし、我等は各々己の五官を守り欲に従ふの渇望と罪悪とより日々に己を潔うすべし。先きに我等無智の日に當り世に於て智識の空しきに旋転したりし時は智を全うし情を全うして罪なる美形に勤めたりしが今や我等は神に依るの生活に変じたれば亦其の如く智を全うし情を全うして生活眞實なる神と神の義と旨とに勤むべし。
三十四、 先きに附着あり〈附着は希臘語を按ずるに打撃の義にして投ずる所の物が其の投ぜらるる所の物を打つ時にあるの働なり〉、然後に配合あり〈希臘語を按ずるにこは二者合して一となるの義にして注意が物にて鍛合はさるるなり、因りて霊魂は即ちただ其のこれを打つてこれを占領したる所の物といふべきのみ〉、次で合体あり〈打つて注意を占領したる所の物が希望を起さしめたるに霊魂はそれに同意せり即ち合体したるなり〉、此後に捕虜あり〈物が其の欲する所の霊魂を虜にすること猶其の縛したるの奴を曳て苦役に就かしむるが如し〉、終りに情欲あるなり〈希臘語を按ずるにこれ霊魂の病の義なり〉、これしばしば反復するをもて〈同一の希望を満足せしむるをもて〉及び習慣するをもて〈其の満足せしめらるるの事に〉霊魂に入りて性質となれるなり〈特質となれるなり〉。是れぞ我等に起る所の戦に於て勝利を得るが為めの道場なる。聖なる神父等に於ても亦かくの如く説定せり。
三十五、 そも附着とは裸体の思念なり、或は目下心に生じて智識にあらはれしのみなる或物の形像なり、配合は多欲若くは無欲に論なく其の想像にあらはれたる所のもの〈事物又は形像〉と会話するなり合体は智識の目をもて楽んで見る所の物に心の傾くなり、捕虜は強て意に反きて心を曳去られ〈捕虜に〉拘留せられて其の捕ふる所の物と混淆して一の生命を成すが如くになり且これ〈混淆〉によりて我等が良善なる性状を耗盡するなり〈平安を失ふなり〉、さて情欲とは総て久しく執着する〈或る者に〉により霊魂に感染するなり。すべて此等の〈行為或は性状の〉中第一は無罪なり、第二は全く無罪なりとはいふ可らず、第三は戦者の景状に依るべし〈けだし苦行或は抗敵の度に応ずるなるべし〉、されば戦は或は栄冠の因ともなるべく〈誰か能く立つ時は〉或は痛苦の因ともなるべし〈陥る時は〉。
三十六、 捕虜は或は祈祷の時にこれあるべく或は祈祷の時にあらずしてもこれあるべし。情欲は或はこれと同等の力なる〈反対的重き〉痛悔に或は未来の痛苦に疑なく属するなり。前者に即ち附着に抵抗し或は無欲をもてこれに対する者は凡て耻づ可き所のものを一度に断割するなり。修道士及び修道士たらざるも凱旋と勝利とが有るべき者に対する悪鬼の戦のかくの如くならんことは我等の已にいひしが如し。勝者を待つは栄冠にして陥りて悔いざる者を待つは痛苦なり。されば我等は心中に於て彼等に対し奮闘せん、彼等の悪謀をして顕然たる罪の行為を實成するに至らざらしめんが為なり。すべての罪を心より截去り自ら己の内部に於て天國を得るに熱心せん。かくの如き最美なる行為に由り我等は心の清潔と神の前に間断なき悲嘆とを守らん。
三十七、 修道士の中魔鬼より受くる所の智識の誘惑を知らざる者多し。彼等は智識の為めに慮るあらずして行為に於て端正者たらんを勉め正直と詭譎なきとに於て生命を送らんとす。思ふに彼等は心の清潔を味へずして内部なる情慾の暗さを全く知らざるなるべし。聖パウェルが言ふ所の戦を知らざる者は多分試験の上に於て善なるものと表はるることあらざるべし、彼等はただ事実に行はるる所の罪のみを墜落と思ひて肉眼に見えざる心中の克勝と凱旋とを計算に入れざるなり、何となれば此等は深く秘されてただ一の苦行の立定者たる神と又其の苦行する者の良心にのみ知らるべきものなればなり。意ふに左の聖書の言はかくの如き者に対していへるならん、曰く『彼等は平安あらざるに平安平安といふ』と〔イェゼキリ十三の十〕。正直によりかかる境遇に在る者の為にはよろしく祈祷して出来るだけ彼等を教へただ顕然の悪事より遠ざからしむるのみならず心に働く所の悪よりも遠ざからしむべし。されば神出の望を有する者の為め、即ち心霊の目〈實義に依れば心霊の視覚〉を清うせんとの望を有する者の為めには或はハリストスの行為あり或は機密あるなり。
三十八、 死を念ふの深き記憶は實に多くの徳行を含有するなり。彼は哀みの母なり、すべての節制に至るの誘導者なり、地獄の想起者なり、祈祷と涕泣の母なり、心の番兵なり、深考細心の泉なり、而してこれ等の子輩即ち神を畏るる二倍の畏れと心を欲念より清むるとは主の誡命を多く包括するなり。極めて労苦して支へ得る所の戦と功労とは其時此の如き心に於て見るを得ん。そも此事はハリストスの多くの兵士の全慮を注ぐ所なり。
三十九、 期せざる所の事変將た攻撃は常に心中の注意を害ふのみならず智識を救を建つるの善なる経営より奪ひ且最善良なる希望をも打消してこれを罪なる好弁と好争とに誘ひ去らんとす。されば我等の為めにかかる有害なる災難の因たるものは誘惑の為に何等の慮もなさざるにあり。〈分時毎に我等を襲はんとするを全く知らざるにあり〉。
四十、 時々刻々に我等が遭はんとする如何なる傷心事といへどももし其の避くべからざるを自認して始終これを思に持するあらば彼は我等を乱すことあらざるべく又我等を哀ましむることあらざるべし。故に神の使徒パウェルはいへり『我れ懦弱と凌辱と空乏とにあふを楽みとせり』〔コリンフ後十二の十〕。又いへり『すべてハリストスに在りて神を敬ふて世を渡らんと欲する者は窘をうくべし』〔ティモフェイ後書三の十二〕。彼れに光榮は世々に帰す、あみん。