シリヤの聖イサアクの教訓
- 祈祷と清醒の事
一、 世より遠ざからずんば誰も神に近づくことあたはざるべし。
二、 人に於て五官が勢力を有する間は心は寧静に止まり妄想なくして居ること能はざるべし。
三、 霊魂が神を信ずるによりて安静に達せざる間は五官の弱きを治せざるべく内部に属する者の為めに妨げとならんとする有形物体を力をもて打負かすこと能はざるべし。
四、 五官につとむるによりて神をもて楽むを自ら失ひ心は散乱するなり。
五、 もし欲願はいはゆる五官の生む所なりとせば娯楽〈なぐさみ〉に由りて心の平安を守らんと自ら己を保証する者は終に黙止すべし。
六、肉体に於て生ずる所の騒擾なる想起を除くが為には心を潜め好んで神の書を学び又其の意味の深きを理会するを学ぶ程充分なるものはあらざるなり。思が言中に隠るゝ所の睿智を理会するの楽みに入る時はこれにより鮮明を引出すの量に随ひて人は世を後に棄つべくすべて世にある所のものを忘るべくしてもろ〳〵の想起と世の実体を成す所のもろ〳〵有勢なる形像とは心中に消滅せん。
七、 秤衡はもし其の盤に甚だ重き荷物を負はす時は風の吹くによりて易く動揺することのあらざる如く智識も神を畏るゝの畏れと耻とを負ふに於てはこれを動揺せしめんとする者の為めに転向さるゝこと難からん。されども智識に畏れの乏くなるに随ひて転変と反乱とはこれを占領し始まるなり。されば其の進行の基に神を畏るゝの畏を据ゑんことを習ふべし。さらば途上に逡巡するなく日ならずして天国の門にあらん。
八、 汝は夫の五官に使役せられざる楽みを感受して自己の智識をもて神と体合せんと欲するか。施済につとめよ。施済が汝の内部に得らるゝ時は其の神に匹似せらるべき聖なる美は汝の中に書かるゝなり。施済の行のすべてを包括せざる無きは心霊に於て神との体合を中保無くして生ずべし。
九、 霊神上の体合〈神との〉は感銘し易からざるの記憶なり、此の記憶は誡命に違はざるにより天然に又は天然ならざるも強逼を以てせずして結合に固く止まるより力を借りつゝもゆるが如くなる愛をもて心中に不断に熱するなり。
十、 受くる者の感謝は與ふる者をして前に比ぶれば更に大なる賜を與へしむるなり。小なる者の為めに感謝せざる者は大なるものに於ても偽りなり不義なり。
十一、 病んで己の病状を知る者は必ず療法を尋ぬべし。己の病状を人に告ぐる者は其の療法に殆ど近づくべく易すくこれを発見せん。悔いざる罪の外に赦すべからざるの罪はあらじ。
十二、 汝に卓越する者の徳行を常に記憶に存すべし、彼等の量に対して己れの欠乏を断えず見んが為なり。
十三、 有力者の陥りしを憶ふて己が徳行を謙遜すべし。古昔陥りて悔改したる者の重き墜堕を記憶すべし、されど墜堕の後に彼等が賜りたる高きと栄誉とをも記憶せよ、さらば己の悔改に於て勇気を得ん。
十四、 みづから己を専ら攻めよ、さらば汝の敵は汝の近づくによりて逐はれん。自ら己れと和せよ、さらば天と地とは汝と和せん。汝が内部の第宅に入らんことを勉めよ、さらば天の第宅を見ん、何となれば彼と此とは同一なるにより一に入りて二を見るべければなり。彼の國の梯子は汝の内部に於て汝の霊中に秘さるゝなり。
十五、 憂愁の心と與に交るべし、又祈祷の勤苦及び中心よりの愛慕と與に親むべし、さらば汝の願の為めにあはれみの泉は開かれん。
十六、 感動を充たさるゝ清潔の思を心に懐抱して行ふ所の神の前の祈祷にて常に己を労せよ、さらば神は汝の智識を不潔汚穢の念より守りて神の途は汝の為めに辱められざらん。
十七、 神の書を充分に了解して読みつゝ己を常に黙想に練習せしめよ、汝の智識の閑散なるに乗じて汝の視覚〈智覚〉が無用なる思念の為めに汚されざらん為なり。
十八、 【欠】
十九、 智識が蔽はれたるの始めはまづ第一の奉事と祈祷とを怠るに於て窺知らるゝなり。けだしもし心霊が首として此れより離れ落ちることあらずんば他に心霊上の誘惑を来すべき途はなければなり、心霊は神の助けを奪はるゝ時は〈祈祷に怠るが為めに〉容易すく其の敵の手に落ちん。
二十、 己の弱きを神の前に間断なく開示すべし、さらばもし己の保護者〈守護神使〉なしに独り居るも他の為めに誘はれざらん。
二十一、 苦行と己を守るとをもて思念の清潔は流し出さるべく又思念の清潔をもて想考の光は流し出されん、されば此よりして智識は恩寵により五官が権を有せざる所のものに誘導さるゝなり。
二十二、 徳行は体にして直覚は霊なることと彼れと是れとは五官に属すると霊智に属するとの二の部分よりして精神をもて結合せらるゝ一の完全の人なることを自ら想ふべし。さらば霊魂は身体及び四肢の完全なる成形なしに存在する〈己を現はす〉能はざるが如く道徳の行を成すなうして直覚に達することも霊魂の為めにあたはざるなり。
二十三、 世といふ言は所謂諸欲と名つくる所のものを己れに包括するの集合名辞なり。もし人は先づ世のいかなる者たるを認識せずんば何の肢体にて世に遠ざかるか又何の肢体にて世と結ばるゝかを認識するに達し得ざるべし。二三の肢体にて世より脱しこれをもて世と交通するを避けたらんに既に自ら其の生活に於て世に遠ざかれりと思ふ者多し、これ彼等はたゞ二三の肢体にて世に死して其他の肢体の世に生くるを了会せず又窺知せざりしによる。彼等は己の情欲を認識するあたはざりき、而して既にこれを認識せざればこれが治療のことをも慮らざるなり。
二十四、 諸欲を合併してこれに名称を下さんとする時はこれを世と名づけ又其の名称の区別によりてこれを分たんとする時はこれを諸欲と名づくるなり。此の諸欲なるものは左の如し、富みと汁物とに恋々たるなり、身体の楽みなり、尊敬と権柄と名誉との望みなり、修飾の望みなり、猜忌怨恨及び其他是なり。此等の欲が進行を止むる処に於ては世は死するなり。人あり諸聖人の事をいへらく彼等は猶生きながら死せり、何となれば彼等は肉身にて生きつゝ肉身に依らずして生きたるによると。汝も此等の部分中いづれの部分にて生くるかを見よ、其時はいづれの部分にて世に死するを悟らん。
二十五、 諸欲は或る附添物にして霊魂は自らこれ等に於て本原たり。けだし霊魂は天性無欲なるものなり。我は信ず神が己の像に依りて造成せる所の者を無欲に造りしことを。されば像によりて造らるゝとは知るべし身体に関するにあらずして見えざる霊魂に関するを。故に諸欲は霊魂の天性にあるにあらざることと随て欲の動き来るや霊魂は其の天性の外にあることとは此れによりて確信せらるべし。
二十六、 もし徳行は天然に霊魂の健全なりとせば諸欲は最早霊魂の病なるべし、即霊魂の天性に入り来りてこれを其固有の健全より引離す偶有的のものなり。かゝれば敢ていふべし欲は決して霊魂に天然なるものにあらずと、何となれば病は健全の後にあればなり。もし欲は霊魂に於て天然のものたらば何故霊魂はこれより害をうくるにや。本来天然に属するものは彼れに害を加へざるべし。
二十七、 智識の潔きとは徳行に実験的練習を為すによりて神に属するものをもて照らさるゝ是なり。されば思念の誘惑なしに誰かこれを獲たるものありとは余れ敢て言はざるべし。さりながら思念の誘惑とはこれに従はしめらるゝをいふにあらずしてこれと闘ふの基を置くをいふなり。
二十八、 思念の動くは人に四つの原因によりて生ず、第一は天然なる肉身に属するの望願によりて生ず〈天然の要求によりて生ず〉、第二は人が聞かんと欲し見んと欲する世の事物を想像するによりて生ず、第三は預占せられたる観念により及び心の偏向〈旧習〉によりて生ず、第四は先にいへる諸の原因によりすべての欲に引入れて我等と戦ふ所の魔鬼の侵撃によりて生ずるなり。是故に人は此の肉身にて生活する間は死に至る迄思念と戦とを有せざる能はざるなり。
二十九、 すべて人は顕然且連綿として人に働く所の或る一の欲より己を衛るのみならず又二つの欲より衛るのみならず悉くの欲より衛らんこと緊要なり。徳行をもて自ら欲に勝てる者はたとひ思念の為めに擾ださるゝとも自ら勝利を譲らず、何となれば力を有せばなり、而して彼等が智識は善なる且神妙なる記憶に於て大喜するなり。
三十、 〈智識の清潔は空虚なる、無益なる且は有罪なる思念に代へて清潔なる、聖なる及び神出なる思念を充たさるゝの時にあるべし、心の清潔は情欲の主眼たる物に対するもろ〳〵の同感同情より免るゝを得てたゞこれに反対なるものを愛するの時にあり〉。もし智識にして神の書をよむに拮据黽勉し禁食に儆醒に及び静黙に多少の尽力を為すあらば己が従前の生活〈及び以前の思念〉を忘れて清潔に達し得べし〈神の書より借り又神の書にて保持せらるゝ善良なる思念に充たされつゝ〉。されども彼は堅牢なる清潔を有するあらざらん、何となれば彼は速に潔めらるゝも亦速に汚さるべければなり〈されば至要なるは智識の清潔が心の清潔にかゝるにあり、心にして清潔ならざる間は智識に於て善良の思念は堅牢ならざるなり。もし或る情欲に対し心と共に同感のあらはるゝや直ちに智識にも不良なる思想の沓至[1]するあるなり〉。されば多くの憂患と剥奪と凡そ世俗に居る所の人々と世の交際を為すを避くるとにより、又此のすべての為めに己を殺すによりて心は清潔に達し得べし。一言をもてこれを言はゞ勤労と苦行とをもて己れより諸欲を逐ひ去りてこれと反対の徳行を己れに樹つるによりて達し得るなり。もし誰か心にして〈此の方法により〉清潔に達し得るあらば其者の清潔は〈堅牢にして〉或る小なるものに汚されず大なる戦をも畏れざらん、けだし連綿たる勤労により長久の間に得たるなればなり。
- ↑ 投稿者注釈:沓至とは、あとからあとから続いて来ること。
三十一、 貞潔なる且一に収束せられたる感覚は心に平安を生ず而して心をして事物を試むるに入らしめざるなり。されば心霊が事物の感触を己れにうけざらん時には勝利は戦はずして成るなり。されどもし人が漸く怠慢を生じて侵撃の己れに近づき来るを許すあらば戦を支ふるの已む能はざるあるべし。されば最単純にして且最正平なる所の元始の清潔は攪擾せられん。けだし此の怠慢により人類の大半将た全世界も天然なる且清潔なるの景状を失ふべければなり。此に因り世の人々と密なる関係を有して世に居る所の者は邪悪を多く認むるの故に智識を潔むる能はざるべし。故にすべての人は必ず戒慎して己の感覚と智識とを打撃より常に守らんことを要す、けだし清醒と不眠と預戒とは大に要用なり。
三十二、 人の天性には神に順ふの界限を守るが為めに畏れを要するなり。神に対するの愛は人に於て徳業に対するの愛を起すべくして人は此れをもて作善に誘引せらるゝなり。霊神上の自覚は自然に徳業を行ふの後にあり。されども畏と愛とは彼れと此れとに先だつべくして畏れは又愛に先だつなり。
三十三、 すべてより最寳なる者を己の内部に獲んことを心掛くべし。大なる者を得んが為めに小なる者を棄てよ。大価値の者を得んが為めに残剰なるもの及び小価値のものを軽んぜよ。死して後生きんが為めに汝の生命に於て死すべし。功労に死して怠慢に生きざるに己れを委ねよ。けだしハリストスを信ずるが為めに死をうけし者のみ致命者にあらずハリストスの誡命を守るが為めに死する者も致命者なり。
三十四、 汝は認識の小なるをもて神を辱めざらんが為めに己の願に於て無智なるなかれ。汝は栄誉をうけんが為めに己の祈祷に於て智なるべし。其の賢明なる望によりて名誉をうけんが為めにこれを猜みなくして與ふる所の者に最尊貴なる者を願へよ。ソロモンは自ら睿智たらんことを願ひ且大なる王に睿智を願ひしにより睿智なると共に地上の国をもうけたりき。エリセイは師が有したる霊神上の恩寵を二倍して願ひしに其願は成るなうして了らざりき。けだし王に軽微なるものを願ふは王の尊貴を卑んずるものなればなり。汝の価値が神の前に高まりて神の汝を喜ぶを致さんと欲せば己の願を神の栄光に順じて献ぐべし。視よや神使及び神使長即ち王の此の高貴者等は汝の祈祷する時に爾に注意して汝がいかなる請願をもて其主宰に向ふを観察し而して汝ぢ地に属する者にして己の肉体をすてゝ天に属する者を願ふを見るや驚き且喜ぶなり。
三十五、 神が自ら其照管により我等の願を俟たずして與ふる所の者又は汝と其の至愛者とに與ふるのみならず神を識るの認識に遠き所の者にも與ふる所の者を神に願ふなかれ。子は其父に自ら麵包を願はざるべし、其の父の家に於て最大なるもの及び高上なるものを切願するなり。けだしたゞ人智の弱きによりて主は日用の糧を願ふことを命じ給へり。
三十六、 もし神に願ふ所あらんに神が汝に速に聴くを延引する時は哀むなかれ、何となれば汝は神より智ならざればなり。さて汝に此れあるは或は汝が願ふ所の者をうくるに當らざるに依り或は汝が願ふ所の賜をうくるの速なるによりこれをして無結果たらしめざらんが為に我等は時に先だちて大なる量に手出しを為すべからず、何となれば易すく受けたる者は又速に失ふべければなり。されどもすべて中心の辛苦をもて得たる所のものは又戒慎をもて守らるべし。
三十七、 心霊上の誘惑に陥らざらんが為めに祈祷すべし、而して身体上の誘惑には其の全力を尽して備ふべし。けだし誘惑を外にして神に近づく能はざればなり、何となれば神出なる平安は誘惑の中に準備せらるゝによる。誘惑より逃ぐる者は徳行よりも逃げん。されどこは希望の誘惑に非ずして患難の誘惑を指すと知るべし。
三十八、 信仰に関係して誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の心の自負により誹謗及び驕傲の魔鬼と共に誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。神の寛容により汝ぢ己の智識にて思ふ所の悪なる思想の為めに魔鬼にゆるさるゝ顕然たる誘惑に陥らざらんやうに祈祷すべし。汝の貞潔の使が汝より離れざらんやうに又罪が汝に対して最猛烈なる戦を起さずして汝を貞潔より離さざらんやうに祈祷すべし。二心と疑念〈希望の動揺〉の誘惑、即ち心霊が大なる戦に誘はるべき所のものに陥らざらんやうに祈祷すべし、――さて身体上の誘惑は霊を全うしてこれをうくるに準備すべく且己の全体をもてこれを游渡るべくして其の両眼は涙にみたさるべし、汝の守護者の汝より離れざらむが為めなり。けだし誘惑の外に於て神の照管は窺ひ知られず、神の前に侃々たるを得るあたはず、聖神の睿智を学ぶあたはず、神出の愛の汝が霊に確立せんことも亦能ふべきなし。誘惑の先きには人は神に祈祷すること別人の如し。されども神を愛するに依り誘惑に陥らんに自ら違変をゆるさゞる時は神に帰すること恰も神をもて負債者たらしむる者の如くし又其の忠実なる友の如くするなり、何となれば神の旨を行ふに於て神の敵と戦を交へてこれを克服したればなり。
三十九、 我等が主は身体上の誘惑の為めにも祈祷すべきを命じ給へり。けだし我等が天性は土造泥製的なる身体の故に荏弱にして偶々誘惑の来るあるやこれに抵抗する能はず随て真理より失墜し背走して憂患の勝つ所となるべきを知ればなり、これ誘惑なくしても神に悦ばるゝを得るならば我等俄に誘惑に陥るを免れん様に祈祷すべきを命じ給へるなり。
四十、 今より全力を尽して身体をいやしめ霊魂を神に托ねて主の名の為めに誘惑と開戦せん。そも〳〵イオシフを埃及の地に救ひて貞潔の標準をあらはしダニイルを獅穴に無害をもて守り三人の少者を火炉に守り、イェレミヤを泥溝より助けハルディヤの軍営に於て彼に憐みを賜ひペートルを戸の閉されたる獄より引出しパウェルを猶太人の集会より救ひし者、これを略言すれば常に何の処何れの地にも其の僕と同く在りてこれに其力と勝利をあらはしこれを多くの非常なる場合に守り其のあらゆる憂愁に於てこれに助けをあらはせる者は我等をも堅むべく又我等を取巻く所の波浪の内より救ふべし。
四十一、 願くは我等の霊にも魔鬼と其の宰たる者に対してマッカウェイ及び聖なる諸預言者及び使徒及び致命者及び克肖者と義人等が有したる如きの熱心あらんことを、彼等は最危険なる誘惑の時に當り世と身とを背後に投げすてゝ義に堅立し其の霊魂と共に身体をもめぐる所の危きに自から勝利を譲らずして勇気にこれを克服したりき。彼等の名は其の一代記に録されて其の教道は我等の教訓となり又堅固となるが為めに守らる、これ彼等の履歴を目前に有してこれを生活なる且激励せらるべき亀鑑となし彼等の途を歩みつゝ智者となりて神の途を認識せんが為めなり。されば諸義人の傳は温良なる者の耳に渇想せらるゝこと猶夫の近頃植えたる植物に要する不断なる滋潤の如し。
四十二、 太初より今に至る迄一切を保護し給へる神の照管を智識に蓄ふること猶弱き目の為めに或る善良なる療法の如くすべし。此れが記憶をいづれの時にも守り此を回想し此を掛念して己の為めに教訓を此より引出すべし、汝をして神の尊貴の大なるを憶ふの記憶を己の心中に守るに練習せしめんが為めなり、又我等が主ハリストス イイススに於ける永遠の生命を己の心中に得しめんが為めなり、けだし彼は神とし又人として神と人との仲保者となり給ひし者なればなり。
四十三、 何の情欲にか打負かさるゝ者にして仆るゝある時は己が天父の愛を忘れざるべし、さりながらもし彼れ種々の犯罪に陥るの場合ある時には善事に熱心して息まざるべし。己の進行を礙へられざるべし、然のみならず新に征服せらるゝ者も起ちて己の敵と戦ふべく自ら此世を逝るに至るまでは預言者の言を口に有して日々に其の破壊せられたる家に基を置くを始むべし、曰く『我が敵よ我が為めに悦ぶことなかれ、仆るゝも復た起きん、もし暗きに居るも主は光となり給ふ』〔ミヘイ七の八〕而して自己の死に至るまで呼吸のあらん間は少しくも休戦せざるべし、たとへ敗北の時といへども己の霊を勝利に渡さゞるべし。然れどももし其の小舟が毎日打砕かれ積荷は悉皆破壊するの難に逢ふある時には自ら慮り自ら貯ふるを止めざるべく借り集むるだになして他の舟に移り希望をもて浮ばんことを止めざるべし、以て主が己の苦行を眷み己の悲嘆に憐みを垂れ己れに其の仁慈を降して己れに敵の火箭を逢ひ且忍耐するの強き奨励を與ふるの時に及ぶべし。己の希望を失はざる智なる病者はかくの如し。
四十四、 或る慈善なる神父のいへらく『子輩よもし汝等は真に徳行に志すの苦行者にして汝等に真実の熱心あらば汝等の心をハリストスの前に清潔なるものとしてあらはし其の意に適する所の行を為さんとの望を起すべし。けだし我等はこれが為めに天然の諸欲と此世の抵抗と常に止まざる魔鬼の謀慮と其の悉くの悪計とによりて起る所のもろ〳〵の戦を必ず防ぎ守らざるべからざればなり。戦の猛烈なるが連綿として長く続くを畏るなかれ、慄くなかれ、もし或は汝等に一時失脚して罪を犯すの変事あらんも失望の淵に陥るなかれ。さりながらたとへ此の大なる戦に於ていかなる害をうけ面を撃たれ傷を負ふことあらんもそは汝等の善良なる目的に進行するを少しくも妨げざるべし。されば汝等が既に選びし所の行為を殊に大に固く守りて其の希望したる且賞讃すべきの終りに達せしむべし、即ち戦に於て堅固にして勝たれざる者となり己が負傷の血に染まる者とならざらんが為めなり。されば如何にしても其の敵と闘ふを廃むるなかれ』。
四十五、 我が約束を偽り又我が良心を蹂躙して魔鬼に手を貸し彼れをして小となく大となく何の罪にか我を引誘したるをもて自ら誇らしめ其の霊魂の挫折せられし部分をもて敵の面前に復び立つ能はざる所の修道士〈及びすべての「ハリステアニン」〉は禍なり。彼は其の親友の既に清潔に達して互に逢迎する時何の顔をもて裁判者の前にあらはれんとするか。彼は其途上に於て親友と相別れて滅亡の逕を行き克肖者が神前に有する所の勇気を失ひ又清き心より出でて神使の軍よりも高く昇さるべき所の祈祷を失へり、即ち其の願ふ所を未だうけずして其の献ぐる所の口に喜びと共に帰らざる迄は何物を以ても禁ぜられざる所の祈祷を失へり。且や最怖るべきは彼は茲に其の途上に於て親友と相別れし如くハリストス主が其の潔白をもて光り輝く所の体を清明の雲に乗せて其の巓に持ち去りこれを天上の門に立たしむるの日に於て彼を其親友と別れしむること是れなり。
四十六、 己の心を欲より守る者は毎時主を見ん。神を常に思念する者は己れより魔鬼を逐ひそが憎悪の種子を絶さん。毎時己の霊魂に目在する者の心は啓示をもて楽まん。智慧の視覚を自ら内部に集中する者は己れに於て霊神上の天映を見ん。智識のもろ〳〵の飛揚を軽んずる者は自己の心内に於て己の主宰を見ん。
四十七、 もし其の由りて以て萬物の主宰を見るを得べき所の清潔を愛するならば誰をも議するなかれ、其兄弟を議する者の言を聴くなかれ。もし他の人々が汝の側に於て紛争するあらば己の耳を蔽ふて其処より逃ぐべし汝ぢ怒れる者の言をきかざらんが為めなり、又汝の霊魂が生命を奪はれて死せざらんが為なり。忿然として怒れる心は己れに神の奥旨を容れず、されども温良謙遜なる者は新世界の奥旨の泉なり。
四十八、 もし汝は潔きを得ば汝の内部に天ありて諸神使と其の光とを自ら己れに於て見ん、且彼等と共に彼等によりて神使の主宰をも見ん。
四十九、 己の舌を守る者は終生舌の為めに盗み去られざらん。沈黙の口は神の奥旨を解釈す、されども言に急遽なるは自己の造成者より遠ざかる。舌を噤む者はすべて己の外部に於て謙遜と秩序とを得ん、且彼は労なうして情欲を統御せん。
五十、 物体の海の寂然として静なる時は海豚躍りて浮ぶが如く心の海に於ても憤激と怒気の寂黙穏静なるあるや毎々奥旨と神出なる啓示とは彼れに躍るありて心を楽ましむるなり。
五十一、 間断なく思を神に潜むるにより欲は根を絶さるべく且背走すべし。これ欲を殺すの劒なり。己れの内部に於て主を見んと願ふ者は神を絶えず記憶するが為めに己の心を潔むるに尽力するを為す、かくの如くなれば其智識の目の明瞭なるによりて彼は毎時主を見ん。水より出たる魚に有るべき所のものは神の記憶を失ひ世の記憶にて飛揚する所の智識にもこれ有らん。
五十二、 人々と会談するより遠ざかる程は人は己の智識にて敢て神と会談するを賜るべく又此世の慰めを自ら絶つの量に随ひて聖神に於ける神の悦楽を賜はるなり。魚は水の乏きが為めに隕つる如く神の助に由りて生ずる所の聡明なる感動も世の人々と数々交際して時を消費する所の修道士の心に尽きん。
五十三、 もゆるが如き熱心をもて己の心に日夜神を尋ね敵によりて起る所の附着を心に剿絶する者は魔鬼の怖るゝ所となり神と其の使とに望を属さるゝなり。心霊の潔き者には其の内部に思想の域あり彼れに光り輝く所の太陽は至聖三者の光なり、此域の住者の呼吸する空気は撫恤なる且至聖なる神なり。彼の域に同く坐する者は聖にして無形なる造物なり、然して彼等の生命と喜びと楽みとはハリストスなり即ち光よりの光、父よりの光なり。かくの如き者は其の心霊の視覚をもて太陽の光明よりも実に百倍光輝く所の美麗を毎時楽み且これを奇とせんとす。これイェルサリムなり主の言にいふ如く我等が内部に隠るゝ所の神の國なり。此の域は即ち神の光栄の雲にしてたゞ心の清き者は入りて其の主宰の顔を見るべく主宰の光の光線にて其の諸の智識を照らさん。
五十四、 慍る者、怒る者、名誉を好む者、得るを好む者、腹を悦ばす者、世と交際する者、我意を遂げんと欲する者、短慮にして欲に充たさるゝ者、すべてかくの如き者等は生命と光の域の外にあらん、けだし此の域は其の心を清潔になしゝ者の領分なればなり。
五十五、 己を卑うして自ら抑損する者を神は極て賢ならしむるなり。されども自ら己を極て賢なりと思ふ者は神の睿智より離れ落ちん。
五十六、 貞潔謙遜にして言を恣にするを嫌ひ忿怒の気を心より逐出す者は祈祷に立つや己の心中に於て聖神の光を見るべく其の光にて照らさるゝ光輝によりて躍るべく且此の照し輝くの栄を見るにより変化して自ら彼れと相似る迄に至るをもて楽まん。神に観る現象の如く汚鬼の軍勢を打負かすべき所の行為は他にある無し。
五十七、 此の生涯より逝るべきを記憶して此世の楽みに恋々たるを節する者は福なり、何となれば彼は其の逝る時に於て二倍の尊崇を数回うくべければなり。彼は神によりて生まるゝ者にして聖神は彼れの傳育者たり、彼は生命の糧を聖神をもて心に吸収し其の香を嗅ぎて自ら楽まん。
五十八、 聖神をもて心に吸収して心霊を聖ならしむ所の火を冷にするは世の人々と交際すると多言と百般の談話とに過ぐるはあらじ、神を識るの認識を増すと神に親近するとに資くべき所の神の奥旨を子輩と談話するは此の限にあらず。けだしかくの如き談話は霊魂を生命に鼓舞し欲の根を絶ち不潔の思念を寝らしむることすべての徳行より猶有力なればなり。此等の苦行者と同く在りて共に交際するは神の奥旨をもて富まさん。
五十九、 常に祈祷に止る者の食物はすべて麝香の良香よりも又香油の薫香よりも甘美なり、神を愛する者は此の食物を価すべからざる珍宝の如く願欲するなり、禁食して固く警醒を守り主の為めに労する者の食物より生命の療法を借るべく且其の霊を死せるが如くなるより呼び醒すべし。けだし至愛者は彼等の中にありて彼等を聖にしつゝ席坐し彼等が災難の苦みは其の説明すべからざる甘味によりて鎔解すべくして夫の無形なる天の奉侍者は彼等の聖なる食物とを庇ふべければなり。且我れ一の兄弟が其の己の目をもて明に此を見たりしを知る。
六十、 人あり其の実験の一を余に語ること左の如し、曰く『何れの日ぞや我れ某と談話を為すに日に乾麵包三つ或は四つを喫せり、さて自ら己を強めて祈祷に立つあるや我の智識は神に対して勇気を有せず思を神に向はしむること能はざりき。さるを我れ会話者と別れて静黙に入るや初日は我れ自ら強めて乾麵包一と半を喫し次日は一を喫す、されど我が智識の静黙に確立するや強めて一の乾麵包を全く喫せんとするに余は能はざりき、されど我が智識は我れ自から強めずといへども断えず侃々として神と談話し神性の光耀は乏しからず我れを照らして神出なる光の美を見せしめこれをもて自ら悦楽せり。されども静黙の時に當り誰か不意に来るありて一時間といへども我れと小談話を為すや其時余は食を加へざらんことも規則を廃せざらんことも此の光を直視するに智識の弱らざらんことも能はざりき』。
六十一、 我れ一の兄弟の所に在りて目撃したる所次の如し。此の兄弟は夜起きて甚だ長く詩を誦しぬそれより俄に規則を罷めて己の面を俯伏し而して恩寵が彼の心に燃やしたる熱愛と共に地に叩頭すること百回或は其餘に至れり。かゝりし後起ちて主の十字架に接吻し更に叩拝を行ひ又同く十字架に接吻して重て又其面を俯伏したりき。そもかくの如きの常例を彼は畢生守りたりしが其の屈膝の多きこと我れ数にて言あらはすこと能はざるなり。然り此の兄弟が毎夜なしたる叩拝は誰かこれを数へ得んや。畏れと熱愛とをもて及び虔恭にて鎔解せられたる愛をもて彼は二十次十字架を接吻し更に復た叩拝と誦詩とをなし始めたり、されど或る時には彼れ此の熱愛にて灼く所の思念の大なる奮熱により其の火焔の烈しきに堪へ得ざりしや喜びの勝服する所となり自ら禁ずる能はずして俄に叫びたりき。さて彼れ晨に読誦の為めに坐したる時は恰も囚人の如くなりき、而して其読む所の連章の間に於て一回ならず己が面を俯伏し且其の許多の節條の間に於て其の手を天に挙げて神を讃栄したりき。
六十二、 我れ一の老人よりきけり、曰く『すべて身体を労らすことなく心を砕くことなきの祈祷は流産したる胎実と一に帰す、何となればかゝる祈祷は己に精神を有せざればなり』。
六十三、 「ヘルヴィム」に似たるものとなれ、而して汝と神との外他に地上に於て汝を慮らんとする所の者ありと思ふなかれ。
六十四、 或は祈祷上の歓楽あり、或は祈祷上の直覚あり、後者の前者より高き数等なるは成全なる人の不成全なる童子より高きが如し。時として詩句が極めて口に甘美にして他の句に移るをゆるさず祈祷に於て一句の言を算ふ可らざる程反復するに祈祷者飽くを知らざることあり。又時として祈祷により或る直覚の生ずるありて其の口頭の祈祷を断たんに其直覚によりて祈祷する者身体の麻痺するだも暁らざることあり。かゝる形状を我等は名づけて祈祷上の直覚といふ、されどもこは示現及び大悦に非ず又は或物の妄想的幻像にもあらざるなり。
六十五、 凡そ神が人類に賜ふ所の律法と誡命の旨趣は諸父の言によるに心の清きをもて限度〈かぎり〉とするが如く祈祷の悉くの種類及び形状、即ち人々がこれをもて神に祈願する所のものも亦清き祈祷をもて限度とはするなり。けだし慨嘆も跪坐も熱心なる願、最甘美なる呼籲も祈祷の悉くの形状も清き祈祷をもて限度と為すべくして唯此の祈祷に至る迄に拡充するを得るのみなればなり。祈祷に於るの苦行は即ち唯此の祈祷に至る迄なり、されば此の限度の外にありては最早大悦にして祈祷にはあらざるべし何となれば祈祷に属するものは悉皆終りて或る直覚の来り到るあればなり。
六十六、 誡命を行ひそれによりて心霊の清きに達せし者は数千人中僅に一あるが如く大なる勉励と儆醒とにより清き祈祷に達するを賜はりし者も数千人中一あるのみなり、されども最早此の祈祷の外にある所の奥密に達したる者は世より世に入りて僅にこれを見るべし。
六十七、 祈祷とは或は求望或は感謝或は讃栄を包含するの祈願是なり。祈祷の動作は此の三の動作をもて限らるゝなり。されば祈祷の潔と不潔とは繋る所左の如し、智識が此動作の一を献ぐるに準備せらるゝ時に當りてこれに或る他の意思又は或る他の思慮の来り混ずるある時は其の祈祷は潔きものと名づけられざるなり。
六十八、 諸聖人は其の智識を聖神にて渦入るゝ所の来世に於ては祈祷にて禱るあらず、彼等を楽ましむるの光栄に大悦と共に定住するなり。我等にもかくの如きあらん。もし智識が来世の福楽を感ずるを賜はるや彼は自己をも忘れ、すべて此処にある者をも忘れて己れに於ては最早何物にも感動を有するあらざらん。通常智識は感覚と思念の摂理者にして情欲の王たるなり、さりながら聖神の統治の彼れに主たる時は其の権を取上らるゝにより最早導かるゝあるべきも導くことあらざらん。されば天然が己れの上に権を有するあたはずして他の力をもて導かれ自ら何処に行くを知らざるやこれと同時に其の天然を捕へたる力の占有する所となり其の力をもて何処に導かるゝを覚知せざるに當りては其時何処に祈祷あるべけんや。其時人は体の中にあるか将た体の外にあるだも知らざるなり〔コリンフ後十二の二〕。されば最早夫程心の奪はるゝありて自から己を意識せざる者に於ては祈祷は豈あるべけんや。
六十九、 かゝる形状は祈祷の通常の動作を有せずといへどもさりながらこは神の前に立つものなるに因ても又此の恩寵を祈祷の時に於て堪能者に與へられて其の始を祈祷に於て有するものなるに因ても亦同く祈祷と名づけらるゝなり、けだしかくの如きの時を除て此の栄誉ある恩寵の降るべき位置あらざればなり。他時に於ては恩寵は位置を有せず。けだし許多の聖人が一代記に録する如く祈祷に立ちて心を奪はれしことは汝の知る所なり。さりながらもし誰か汝に向つて何故此の時に於てのみ此る大なる且言ふ可らざる賜ありやと問ふあらば答へていふべし此の時に於てはすべて他時に於るよりも人は自ら己の心を集中し神に注意するに準備するありて神よりの仁慈を願望企待するによるなりと。これを略言すればこは王に嘆願せんが為めに王門に立つの時なり、されば嘆願し且呼ぶ者の願を此時に於て充たしめらるゝこと適當なり。けだし人がかくの如く準備しかくの如く自己を看守するを得るは祈祷の時を除ていかなる時あるべけんや。けだし諸聖人は其のすべての時を霊神上の事にて占領せらるゝにより閑散の時を有するあらずといへども彼等にも祈祷に準備せざるの時あるべし。けだし或は生活上遭遇する所のものを思念するが為め或は萬物を観察するが為め或は他の実に有益なる所の者の為めに占有せらるゝこと稀なるにあらざればなり。然れども祈祷の時に於ては智識の直覚力は独一の神に注ぎ其のすべての進行を彼れに向け勉励と連綿たる熱愛とをもて中心より彼れに祈願を献げんとす。故に心に唯一の配慮あるの時に於て神の慈愛の流れ出づることは適當なり。
七十、 凡て諸聖人にあらはるゝの現象は祈祷の時にこれありき。けだし人が神と談話する祈祷の時の如く聖にして又其の聖なるが為め賜をうくるに敵當なる他のいかなる時あるべけんや。此の神の前に祈祷と嘆願とを行ひ神と談話する時に於て人は力を尽してあらゆる感動と思念とを処々方々より一に収束して思を独一の神に潜め其の心は神にて充たさるゝなり因りて人は及ばざる所のものを会得するなり。けだし聖神は各人の力に応じて其者に働き且や其働の端緒を其の祈祷する所の者より借りつゝ働くなり、よりて心の動きは祈祷の注意をもて奪はるべく智識は駭異の為めに打たれ且呑まれて最早此の世にあらざらんとす。