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祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書 (3)

提供:Wikisource

イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルあたふる書

清醒せいせいの事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教


九十一、 愉快と喜びとを満つる所の或る熱心なる希望をもてイイススを間断なく呼ぶは極致の注意によりて心の空気が喜ばしき安静に充たさるゝを生ぜしむべし。されば心の全く清められんが為に原因者となるべきはイイスス ハリストス神の子及びすべて善なる者の原因者たる造物主なり。けだし彼は自らいへらく『我は神、和平を造る』〔イサイヤ四十五の七〕。

九十二、 霊魂はイイススをもて恩を施されかつたのしましめられつゝ或る喜びと愛とにより表信をもて恩恵に報ゆるあるべくして其の講和者に感謝すると共にもつとも虔恭けんきょうなる精神をもて呼びつゝあらん。けだし、しゅあくの妄想をいかにふを己の内部において聡明に見んとすればなり。

九十三、 太闢ダウィドはいへらく『我が智識の目は我が心中の敵を見、我が耳はちて我を攻むる悪者あくしゃのことをきく』〔聖詠九十一の十二〕又我は神によりてうちに成る所のものに於て『悪者あくしゃむくひを見たり』〔聖詠九十の八〕。心に何等の妄想もあらざる時は智識はもろ〳〵霊神的れいしんてきなるかつ愛神的あいしんてきなる極めてかんなる直覚ちょくかくに進められつゝ其の天然の順序を守るなり。

九十四、 かくの如くなれば我等が既にいひし如く清醒せいせいイイススとうとはたがい交々こもごも其の成分に入るべし、即ち極致の注意は不断の祈祷の成分に入るべくして祈祷はた智識における極致の清醒せいせいと注意の成分に入るべし。

九十五、 身体の為めにも心霊の為にも善良なる教育者は即ちおもだんなるおく是なり即ちすべて其の中間にある所のもの〈即ち現時と死時との中間にある所のもの〉を越えて常に死を看破する〈己の目前に見る〉と我が魂なき体のよこたはるべきしょうを見る是なり云々うんぬん

九十六、 兄弟よ傷つけらるゝあたはざるものとなりて常にとどまらんとほつする者は睡眠に耽るべからず。けだしの二者のうちいつは必ずなかるべからざればなり、即ちあるいは徳行より裸体となりたおれて死するかあるいは智識において常に武装して立たん〈警衛に〉、けだし敵も其の武備をそなへて常に立たんとすればなり埋伏まいふくしつゝあるなり〉

九十七、 智識に於て神出しんしゅつなるる情況は我等がしゅイイスス ハリストスを間断なく記憶しかつこれを呼ぶによりてしょうずべし、たゞ智識においじゅうしゅに祈願するの事と間断なき清醒せいせいの事及び一の切迫緊要なる事件の事を等閑とうかんにするなくんば可なり。真に同一様の方法をもておこなはるゝ所のおこなひを我等常に有せんを要す是れ即ち我等がしゅイイスス ハリストスを呼ぶことにして我等は心をもやして彼を呼ばん、ねがはくはれ我等に共に交通して我等に其の聖名をがんせしめんことを〈其名の心に沁入せんが為めに〉。けだし数々しば〳〵するは〈同じき事をしば〳〵反復するは〉徳行につきても邪悪につきても習慣の母にして習慣はそののち最早もはや天性の如くに主権を有すべければなり。かくのごとき情況に至れば智識は自ら既に己の敵をたづぬることなほ猟犬のうさぎ叢中そうちゅうたづぬるが如くなるべし、たゞかれ貪食どんしょくせんがめにたづれはかつはんが為めに尋ねんのみ。

九十八、 ゆゑに我等に悪念の増殖するあらん時は毎次我等がしゅイイスス ハリストスを呼んでこれを其の中間に投ずべし、さらば彼等の散ずること実験が吾等に教ふる如くけむりの空中に散ずる如くなるを我等直ちに見るあらんとす。此の後智識がひとりとゞまるみだす所の思念なくして〉時に再び間断なき注意と呼祈とをなさん。我等はかくの如き誘惑をうくるや毎次かくの如くに行為せん。

九十九、 裸体にしていでたゝかあたはざるが如くあるいは衣服のまゝにて大海をおよぎわたり又は呼吸せずに生活するあたはざるが如くかくの如く謙遜とハリストスに間断なく祈願することなしに心中秘密のたたかひを始め巧みに敵をらすことあたはざるなり。

百、 事にもつとも老練なるだいなる太闢ダウィドしゅにつげていへらく『我の力を汝に守る』〔聖詠五十八の十〈汝にはしりきて〉と、けだしすべての徳行のよりもつて生ずべき所のこころおもひ静黙せいもくちからを我に守るは我等に誡命をあたへたる主の助けにかゝるべくして我等間断なく主に呼ぶ時はこころ静黙せいもくを特に害せんとする不用なる遺忘を我等よりおひることなほみづおけるが如くなるべければなり。故に修道士は己の死〈及び滅び〉等閑とうかんして睡眠に耽るなかれなほイイススの名をもて敵を打つべし、そももつとも甘美なる名は一智者のいひし如くなんぢきゅうくべし、さらば其時汝は静黙せいもくえきおぼえん。

百一、 我等あたらざる者といへどもおそおのゝきてハリストス神我等が王の神妙至潔なる機密にあづかるをたまはる時は清醒せいせいと智識の守りと厳重なる注意とをおほいにあらはさん、ねがはくは此の神霊の火、即ち我等が主イイスス ハリストスからだは我等の罪と我等の――小となく大となく――わいほろぼさん。けだしれの我等に入るや直ちにあく怨恨えんこんこころよりかつて犯したる罪を我等に赦すべくして我等が智識は其時悪念の騒がしき窘辱きんじょくより免れ自由にしてそんせん。もし此の後こころもんに立ちておのが智識を勉めて守るあらば再び聖機密をうくる時かみからだはます〳〵我が智識を照らして星の如く光り輝くものとなさん。

百二、 遺忘は常に智識の守りを消すことみづを消すが如し。然れども間断なきイイススとうたわまざる清醒せいせいとはつひに遺忘を心より蒸散じょうさんせしむべし。祈祷の清醒につあるはなほしょう神燈しんとう蝋燭ろうそくの光りにつが如しあるいは神燈の蝋燭ろうそくの如く燃ゆる為めに風無きに於けるが如し〉

百三、 貴重なる所の者を守らんことをろうしてこころくべし、我等のめに真に貴重なるものはたゞ我等を感覚上となく思想上となくすべての悪より守る所のものなり。こはすなはイイスス ハリストスを呼ぶによりて智識を守ること是なり、即ち常に心の深きを察しおもひ間断かんだんなく静黙せいもくならしめかつなるが如くに見ゆる所の思念よりさへ静黙ならしめてすべてもろ〳〵の思念よりむなしからんことを尽力し其の下底にぬすみかくるゝあらしめざるをいたすことこれなり。さりながらたとひ我等は忍耐して心を守りつゝろうするありといへどもなぐさめは近きにあり。

百四、 黒暗こくあんにして姦悪かんあくなる魔鬼まきの形状象様及び妄想を入らしめずして間断なく守らるゝ心は常におのれより光の如くなる思念を生ずるなり。けだしすみえんしょうずる如く聖なる洗礼によりて我等が心にやどたまふの神ももし我等の心の空気が怨恨えんこんかぜよりきよまり智識の番兵にて守らるゝを見るあらば、あに我等の智識を直覚ちょくかくもえつかせしめざらんや。

百五、 我等が心の空間にイイスス ハリストスの名の常に旋転せんてんすること猶雨ならんとするに先だちて電光の空間に閃転せんてんするが如くなるべし。内部のたたかひおいて霊神上の実験有る者はこれを善く知るなり。此の心中の作戦はまたなほ尋常じんじょうの作戦とひとしかるべし。第一は注意なり、次は敵の思念の近づきしをみとむる時にこころよりのろひことばはつし怒りてこれに投ずべし、それより第三は心をイイスス ハリストスを呼ぶにむかはしめれに対し祈祷して此の魔鬼まき幻像げんぞうの直ちに離散せんことをねがふべし、然らずんば智識は此の妄想の跡をふことなほ或る巧みなるじゅつしゃ〈てづまつかひ〉眩惑げんわくせらるゝ小児の如くならん。

百六、 我等もおのれを祈祷につからして太闢ダウィドの如く呼ぶを致さん、曰くしゅイイスス ハリストスや我等ののどらさしめよれて声をなくす〉されどねがはくは慧々けいけいたる目は『我が主神を望むによりて』疲れざらんことを〔聖詠六十八の四〕。

百七、 常に祈祷してまざるべきことを我等におしへんめに主のまうけたまへる不義なる裁判者のたとえを常に記憶して〈而してたとえの如く行為して〉利益と報酬とを得ん。

百八、 太陽をじゅくする者は其の双瞳はなはきらめかざることあたはざるが如く心の空気を常に俯視ふしする者も光らざることあたはず。

百九、 しょくいんとなくんば現在生活するあたはざるが如く智の守りと心のいさぎよきとなくんば、即ち所謂いはゆる清醒せいせいなくんば無形にして神によろこばるゝ所の者を心にあたふることあたはず、たたとひたれくるしみおそるゝの畏惧いくによりしひて己をして〈実際上〉罪を犯さゞらしむるとも心中の罪よりすくはるゝあたはざるなり。

百十、 さりながら己を罪の実行よりゐて禁ずる所の者もかみしん使人々ひとびとまへさいはひなり、なんとなれば彼等は『力をもて天国をうばふものなればなり』〔馬太十一の十二〕。

百十一、 れぞ智識のめに静黙せいもくよりしょうずる所の奇異の結果なる、最初に智識をたゞ思念にてたゝく所の罪も思想にてくるあるやそののち五官に属する粗大の罪とならん、これは皆我が内部の人において心中清醒せいせい徳行とくこうにより截断せつだんせらるべし、此の徳行は我等がしゅイイスス ハリストス手号しゅごう代贖だいしょくとにより彼等をして内部にでて悪行あくこうとならしむるを許さゞるなり。

百十二、 外部五官に属する所の身体上功労の模範は旧約なり、されども新約に属する聖なる福音は省察しょうさつあるいは心の清潔の模範なり。そも〳〵旧約は人を導きて完全にいたらしめず内部の人を神によろこばるゝのおこなひおいて満足せしめず又保証せざりき、使徒いへらく『律法は一も完全なるなし』〔エウレイ七の十九〕たゞ粗大の罪をぜつしたるのみなりき、〈心の清潔を守るがめにあしき念慮と望みとを心よりつはこれ福音ふくいんかいにしてたとへば近者きんしゃ又はうばふを禁ずるよりはさらに高尚なり〉かゝれば身体上の義なることも身体上の功労の事もこれに順じて知るべし、例へば禁食きんしょく及び節制せっせいの事、てつはいみん及びその往々おうおう身体に関係して生ずる所のものと身体の欲に関係する部分を罪の発動よりきゅうせしむる所の者の如き是なり。これ皆旧約の事につきていはれたるが如く〈律法は善なりと〉もとよりし、何となれば我等が外部の人を教ふる〈即ち保育〉と欲の行為より保護するとにたすくればなり。されども此等の功労は心の罪より保護し又はこれを禁ずるものにあらず、即ち我等をそねみといかり又は其他の罪よりすくふの力あるにあらざるなり。

百十三、 されども心の清潔、即ち新約が模範たる所の智識の注意と保護とはもし我等に於て當然とうぜんにこれを守るを得る時はあらゆる欲ともろ〳〵の悪とを心より絶ち其の根を心より抜きこれにへて喜びと善き希望と痛悔つうかいあい涕泣ていきゅうと自ら己をりて己の罪をみとむると死の記憶と真の謙遜と神と人々に対する無量の愛と或る神出なる心中の悦楽とを入れんとす。

百十四、 地を行く所の者は此の空気をらざることあたはざるが如く人の心も魔鬼まきよりえずたたかひいどまれざることあたはず、たれか身体の苦行をげんおさむるありといへども魔鬼まきよりきたる所の隠れたる働きにぞくせざることあたはざるなり。

百十五、 もしたゞ外見上のみ善なる、かつは常に神と体合するの修道士たらんをほつするにあらずして真に主のめにかくの如きものたらんことをねがはゞ省察しょうさつ徳行とくこうおこなふに全力をあげて黽勉びんべんすべし、此の徳行は智識に注意してこれを守ると極めて甘美なる中心の静黙せいもく及び妄想を免れたる幸福なる性状を立つるとにあり、これ多くの人々において見ざる所の行なり。

百十六、 此の徳行はすなはち思想の哲学としょうさるゝなり。さればなんぢおほいなる清醒せいせい熱心ねつしんイイススとう謙遜けんそん間断かんだんなきと感覚上及び思想上のくちきんずるとしょくいんとをせつするとすべて罪に属するものよりとほざかるとをもつてこれをまなぶべくまたそうみちすがら巧みに細心をもてこれをならはすべし、されば彼は神の助けによりてかつて想像せざりし所のものをなんぢあらはしてなんぢにこれを知らしめ汝を照明し汝の智慧を増すべくしての汝が遺忘と意思の混乱の淵に沈みて情欲じょうよく蒙昧もうまいなるおこなひ暗中あんちゅう彷徨ほうこうするあるや汝の心にきたあたはざりし所の者をもなんぢおしへんとす。

百十七、 山間の平地は麦を豊殖ほうしょくするが如く此の徳行は汝の心にもろ〳〵の善を豊産ほうさんするなり、これを詳言しょうげんすれば我等がしゅイイスス ハリストスすなはれなくんば我等何も行ふあたはざる所の者はづからこれを汝にあたへん。されば汝は最初に此の徳行を階梯かいていおいて発見すべく次は読まんとする所のしょおいて発見すべくおはりにはいよ〳〵上進してこれを天上のイェルサリムじょうにて発見せん、されば汝は能力のうりょくおうなるイズライリハリストスを其の同一体なるちち及び崇拝せらるべき聖神せいしんともに実に智識をもてんとす。

百十八、 魔鬼まきは常に不実なる妄想をもて我等を罪にひきるゝなり。かくの如く彼はみと利益の妄想により不幸なるイウダ煽動せんどうし彼をして万物の主及び神を売らしめたりき。魔鬼は此れにみちびきつゝもとより論ずるにも足らざる身の安楽の事ととみと尊と栄の事の妄想をもて彼を囲みて其後そののちれをくびれて死するに導き入れ永遠の死に服せしめたりき。狡猾なる魔鬼は其の妄想又は其の附着においてあらはしたる所のものと全然反対なるものをもてイウダむくゐたりき。

百十九、 視よ我等がすくひの敵は妄想もうそう虚約きょやくとをもて我等をいかに擠陥せいかんするか。そも〳〵「サタナ」は自らもまたかくの如く神にひとしからんを妄想して天の高きよりいなづまごとくにちたりき。かくの如く彼は其後そののちアダムに神の事〈或る尊位の事〉の妄想を入れて彼を神よりとほざけまた詐偽さぎ悪猾あくかつなるてきはすべて罪をおこなふ者をも常にかくごとく誘惑するなり。

百二十、 我等が心は遺忘の故にようや怠慢たいまんして省察しょうさつイイススとうとより長く他に引誘いんゆうらるゝや悪しき思念の毒によりくるしみにたさるゝなり。されども属神の事を愛するに依りきょうの熱心をもて我がおもひの製造所におい〈心に於て〉前述の事〈即ち省察と祈祷〉を整然とおこなはじむる時は心はふたたび或る有福なる喜びをもてたのしむの情により甘美を充たさるゝなり。其時に我等は中心の静黙せいもくつね出入しゅつにゅうするのかくたるこころざしを定めんこれ他の故にあらずれによりて心中に感ぜらるゝ愉快なる滋味と喜悦とのめなり。

百二十一、 学問の学問、技芸の技芸は悪を為すの思念をおさむるに通暁つうぎょうすることこれなり。この思念に対する最良なる方法とこれが狡猾に勝つのもつとも有望なるものとは其の附着のあらはるゝをしゅによりて察見さつけんするにあり又其のおもひを常にいさぎよく守ること身体の目を守るが如く鋭くこれを點撿てんけんして其のこれをそこなふべきものを近づかしめずじんといへどもこれにらしめざらんと百方ひゃっぽう尽力するにあり。

百廿二、 雪はえんを発せず水は火を生ぜず荊棘いばら無花果いちじくを産せざるが如くかくの如く各人の心ももし其の内部にあるものをきよむるなく、清醒せいせいイイススの祈祷と配合するなく、謙遜と心の静黙とをるなく、前進を急ぎて全くの熱心をもて進行するなくんば魔鬼まきの思と言と行とよりまぬかるゝを得ざるべし。おのれに注意せざるの霊魂は善にしてかつてんなる思念に対して必ず無結果たらんことなほ不生産なる驢馬ろばに似たるあり、何となればれに霊神上の智慧を会得するあらざればなり。真にイイススの名を呼んで欲念をとどむるは心の平安を殖住せしむべききはめて愉快なる行なり。

百廿三、 霊魂が身体と合同して器に入る時は彼等自慢のみやこ驕傲きょうごうとうと又これに居住するの不敬虔なる思念を建てん。然れども主はごく畏懼いくをもて彼等に擾乱じょうらんしょうぜしめ彼等を分離せしめて主人たる霊魂に深くおもんばかりて身体と疎遠なるかつは反対なるものをはしむるなり。此の畏懼いく不和ふわとによりて生ずるものは次の如し、曰く『肉の事をおもふは神にもとる、そは神の法にしたがはざればなり』〔ローマ八の七〕。

百廿四、 我等が日々におこなふ所の業事は時々これに注意を加へてこれをはかるべし、然して暮夜には必ず悔改をもて力に及ぶだけこれが重荷をゆるうすべく、もしねがはゞハリストスの助けによりおのれにおいて悪にたんこと肝要なり。かつ我等はすべて己の五官に属する事と見ゆる事とを行ふははたして神に依るや、はたして神の面前にあるや、はたして独一の神の為めなるや否を點撿てんけんすべし、然らずんば無智の故に或る不良なる感覚をもてぬすみらるゝをまぬかれざらん。

百廿五、 もし我等は神のたすけをもて我等が清醒せいせいり何なりとも日々に得るあらばえらぶ所なしに人と交際を開くべからず、或る誘惑的の談話により損耗そんもうこうむらざらんが為なり、かつ此のもつともあいすべくおほいに甘美なる徳行とくこう〈清醒の徳行〉の美にして且作善なるが為めにすべて虚幻きょげんなるものは殊に軽視すべし。

百廿六、 霊魂のみつちからには我等其の天性に適順したる及び其のこれをつくれる神の意思に符合したる正しき活動をあたふべし。即ち忿ふんちからは我等外部の人に対し又へび即ち「サタナ」に対してたたかはしむべし。ふあり『怒るも罪を犯すなかれ』〔聖詠四の五〕。これ即ち罪に対して怒るのいひにして自己に対しまた悪魔に対して怒るも神にむかつて罪を犯さゞらんやうにせよとなり。又ぼうちからは神と徳行とに向はしむべく而してそうちからは此等二者の上に立てゝ命令者とならしむべしれ智慧と明断とをもて彼等を整理し彼等に瞭解りょうかいせしめ且これを督責とくせきして王が僕の上に立ちて指揮する如く彼等を指揮せしめんが為めなり。然る時は我等に存する神におけるの霊智は彼等を治めん、〈即ち彼等の上に主たる時は〉たとひ諸慾は霊智に向つて背叛はいはんすといへども我等は霊智が彼等の統治者となりて止まらんを促して止まざるべし。けだし主の兄弟の言にいへらく『人もし言に於て〈即ち言に於て又霊智に於ての義なり〉あやまりなくばこれ全人たり而して全体にくつわを置き得るなり』〔イアコフ三の二〕。実にいはんにすべての不法と罪悪とは此のみつちからにて行為せらるべく、而してもろ〳〵の徳行と正義とはまた此のみつちからにて成就せらるゝなり。

百廿七、 修道士たる者はあるいは人と世俗の事を談論しあるいは自ら心中に於て此事をあるいは其の身体は才智と共に或る五官に属するの事にいたづらに占有せられあるいは総て多忙の事に耽る時は智識はくらまりて無結果とならん。けだしかゝる場合に於ては直ちにこれにしたがつて熱心も痛悔も神に対するの勇気も認識も〈神の秩序の認識と神の事の記憶なり、彼は神の事と秩序の事を忘るゝに至るなり〉うしなはんとすればなり。ゆえに我等智識に注意する時は其丈それだけ智識は照明しょうめいせらるべくこれに注意せざる時はまた其丈それだけくらくなるべし。