イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書
清醒の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教
百廿八、 智識が平安と静黙とに撓まず進向して熱心にこれを尋ぬる者は徒に労することをなさゞらんが為めにすべて五官に属するものを易く軽視せん。されどももし彼は何の偽智を以てか己の良心を欺くあらば〈五官に属するものには一も恋々たらずといひて〉遺忘の不幸なる死に寝ねんとす。神の太闢はこれより救はれんことを祈りぬ、〈詩十二の四『我を死の寝りに寝ねざらしめ給へ』〉。而して使徒はいへらく『善を行ふことを知りて行はざるは罪なり』〔イアコフ四の十七〕。
百廿九、 されどもし直ちに奮起し熱心をもて智識〈清醒をつとむるの智識〉の不断なる実験を再び回復する時は智識は不注意よりして其の固有本来の秩序と清醒とに再び帰るあらんとす。
百三十、 磨車の驢は其の繋がれつる範囲を脱する能はず〈歩むも全く同一の処を歩むなり〉心も其の内部を善く整理せずんば完全に導く所の徳行〈清醒〉に前進せざるなり。此の徳行〈清醒の徳行〉と光り耀く所のイイススを見る能はざる者は内部の目の常に盲するなり。
百三十一、 善良なる駿馬は騎手を乗せて快馳す、されば智識ももろ〳〵の思念より免るゝをもて『朝に主の前に立ち』〔聖詠五の四〕主の光に於て愉快に楽まん。彼は自ら奮熱して智識の実験的研鑽の力により進んで直覚と言ふ可らざるの奥密と徳行との奇異なる力に入らん、然して終に高尚神妙なる直覚の無量なる深きを己の心にうくるある時は心の為めに容れらるゝだけ彼れに諸神の神あらはれん〔聖詠八十三の八〕。此れをもて打たれたる智識は其時見らるゝと見るとの神を讃美するに於て及び彼れ此れの為めに其の想像の眼をかく神に向はしむる所の者を救ふの神を讃美するに於て愛して為すあらんとす。
百三十二、 中心の静黙を聡明に持する者は大なる深きを観ん、而して静黙する所の智識の耳は神より奇異なるものをきかん。
百三十三、 旅行者は遠くして通過し易からざるの難き旅行を始めて帰路に迷はんを恐るゝや容易すく本路によりて帰るに助くべき所の枝折を途上に立つべし、然して清醒の途を進む所の人も亦自ら同く恐れて〈途に迷ひ或は後に却行せんを恐れて〉言を〈諸神使よりきゝし所の〉立てん〈目標に〉。
百三十四、 さりながら旅行者の為めに其の出でし所の処に帰るは喜びの原因なれども清醒者の為めに後に帰るは聡明なる霊魂の滅亡にして神に悦ばるゝの行と言と思ひとより退歩する兆候なり。されば彼は心霊上死すべき睡眠の時に當り己が不注意の故によりていかなる深き黒暗と衰弱とに陥りしを自ら想起し刺の如くに己を提醒する〈睡眠より〉の思念を有すべし。
百三十五、 傷心の事と脱するの望みなき免るべからざるの困窮に陥りしなば我等宜しく太闢の為せる如く同じく為して我が心と我が禱りを神の前に注ぎ我が哀みをあるがまゝに主に報ずべし〔聖詠百四十一の三〕。けだし我等はすべて我等に関するものを睿智をもて建つるを能くする所の神に告白すべければなり、而してもし有益なる時は神は我等の艱難を容易からしむべく〈忍耐し易く免れ易からしむべし〉我等を滅亡と破壊の哀みより救ひ給はん。
百三十六、 人々に対し道理に依らずして動く所の怒りと神に依るに非るの哀みと欝閉とは是れみなひとしく善良なる且聡明なる思念の為めに亡滅たるなり、されども主は我儕が痛悔の為めにこれを離散せしめて喜びを殖住せん。
百三十七、 我等が意に反してあらはれ心に留在する所の思念は常にイイススの祈祷と清醒とによりて中心の思の深き処より消失せしむべし。
百三十八、 無言的思念の夥多なるによりて生ずる所の憂愁の軽減と喜悦とは我等たゞ真実と公平とをもて己を責むる時、或は又すべてを主につぐること人に告ぐる如くする時にこれを得ん。何でも此の二〈の方法〉をもて我等はすべて〈擾乱する所の者〉より平安なるを得ん。
百三十九、 立法者モイセイは神父等の為めに智識の模型としてうけらるゝなり。彼は棘中に神を見て面のあたり頌揚せられ諸神の神により「ファラオン」に神の如く崇められ其後罰をもて埃及を懲らし以色列を導き出して律法を與へたりき。これ皆心神に関係し転意をもて取らるべきものにして智識の働きと其の卓異とを象るなり。
百四十、 されども立法者の兄弟なるアーロンは外部の人の模型となすべし。されば我等も怒をもて彼れ〈外部の人〉を責めつゝ彼につぐることモイセイが罪を犯したるアーロンにつげしが如くせん、曰くイズライリは汝に如何なる不義をして汝は彼を主なる神全宰者より背く者とならしめたるかと〔出埃及記三十二の廿一〕。
百四十一、 他の善例の許多ある中に主がラザリを死より復活せしめつゝ示されしもの左の如し、即ち霊魂が婦女の如く孱弱なる欲に耽る時我等厳禁をもてこれを止むべきことと又総て霊魂を自適自誇及び驕傲より救ふを能くすべき苛刻なる〈己れに対して〉品行〈自ら責むるをいふ〉を自ら立つるに尽力すべきこと是なり。
百四十二、 大なる船なくんば海の深潭を渡る能はざるが如くイイスス ハリストスを呼ぶ無くんば悪念の附着を逐ふ能はざるなり。
百四十三、 捍禦は思念が遠く進行するの途を常に杜絶すべく呼祈〈イイスス ハリストスの名を呼ぶ〉は思念を心より駆逐すべし。もし或る五官に触るゝ物、たとへば我等を凌辱したる人或は婦人の美又は金銀等の如きが我等の目前に現はるゝにより心中に附着の形つくらるゝ時、或は此のすべてが互に我等の思念を見舞ふ時には我等の心が思念即ち懐恨或は淫慾或は利慾の念を遂げんと欲することはおのづから明白にして疑なかるべし。ゆゑにもし我等の智識が老練習熟して能く己を警戒し〈附着より〉悪者の誘惑する妄想と誑惑とを日の如く明に見るを得る時は直ちに捍禦してこれに抵抗するとイイスス ハリストスの祈祷とをもて容易すく魔鬼の火箭を消滅すべくして妄想のあらはるゝや直ちにこれに尾して進向するを自ら己れに許さゞるべく又我等が思念に附着の幻像と同意することをも或はこれと好親談話することをも或は多端なる思の喧雑に乗じこれと相合体して其後必然の勢により悪行の来らんこと夜の日に随ふが如くなることをも許さゞるべし。
百四十四、 されどももし我等の智識が聡明なる清醒の事に未だ熟練するあらずんば其のあらはれたる附着の如何を問はず直ちに偏頗の心をもてこれと連合して不適當の問をうけ又は不適當の答を與へつゝ彼れと共に唔談を始むべし。其時は我等が思念は魔鬼の妄想と混合すべくして其混合によりて妄想は更にいよ〳〵蕃殖増加すべしされば此の附着は其の誘はれて竊み去られたる智識の為めに更に愛すべく更に美に且更に心を奪はるべきものゝ如くに見ゆるを致さん。事態此の如きに至らば我等の智識に於て宛も左の事情に似たるもの成らん、即ちたとへば温柔なる羊仔を牧する所の或る原上に犬のあらはるゝありとせんに其の現はるゝや羊仔はこれにしば〳〵走り附くこと其の母に於けるが如くすべし而して其の近づくにより何の益をもうけずしてたゞ彼れより不潔と悪臭とを取るのみならん。実にこれと同様にて我儕が諸の思念もすべて我が智識に於ける魔鬼の妄想に愚にして走り附きて我が已にいひし如くこれと混合せん而して彼れ此れ互に相商議すること恰も昔しアガメムノンとメネライとがイリウポリを顚覆せんことを商議したるが如くすべし、何となれば諸の思念も魔鬼の誘惑の働きにより自分にかくの如く美に且愉快なりと見ゆる所のものを身体によりて実際に施さんに何を為して可なるべきかを共に同く商議すればなり。かくて心霊の堕落は終に内部に於て企てらるゝなり、其より後必然の勢により彼処に即ち心の内部に成熟せるものは最早外部にも潰爛せん。
百四十五、 我等が智識は動き易く且は無悪なるものなり、もし夫の情欲に対して独裁君主の如くこれを間断なく抑留し且拘束すべき所の思念を己れに有するあらずんば易々として妄想に投じ罪の思念を貪りて禁ず可らざらん。
百四十六、 直覚と認識とは常に最完全なる生活の嚮道者となり又原因者となるなりけだしこれをもて高きに取去られたる心は地上の逸楽とすべて五官を楽ましむる此世の滋味とに対すること猶無可有の物に対するが如く充分にこれを軽んずるによる。
百四十七、 ハリストス イイススによりて成る所の注意的生活は直覚と認識の父たるなり、且其の婦たる謙遜と配偶して神出の上昇と最賢明なる思念の父母たること神の預言者イサイヤの言ふが如くならん曰く『主を恃む者は力を得ん翼を張りて』主に高飛せん〔イサイヤ四十の三、十一〕。
百四十八、 人々に太だ厳にして且太だ苦しく思はるゝものは心に於てもろ〳〵の思念より黙することなり。これ実に難くして且病ましきなり、けだし無形なるものを有形なる家に繋ぎ且止むるの病ましきに至るまで苦しかるべきことは独りたゞ霊神上の戦の奥密にあづかり知らざるものゝみにあらず内部非物質的の戦に熟練したる者にも亦同じかるべし。然れども間断なき祈祷をもてイイススの懐に於て給養をうくる者は預言者のいふが如く『彼れに従ひて煩はされず且人の目を願はず』〔イェレミヤ十七の十五〕、イイススの愉快なると甘美なるとの故により其の敵即ち己の周囲に徘徊する所の不潔の鬼に耻ぢず且心の門に於て彼等につげて〔聖詠百廿六の五〕イイススをもて彼等を後に逐攘はん。
百四十九、 霊魂は死後大気に駕し天上の門に高く飛揚して彼処にハリストスを自ら己れに有しつゝ自ら其敵に耻ぢざらん、且其時には猶今日の如く侃々として門に於て彼等に語げん。たゞ其の逝世に至る迄霊魂は主イイスス ハリストス神の子を日夜呼んで倦まざるべし、さらば主は其の易はらざる神たる許約の如く速にこれに報ゆるを為さん、不義なる裁判官の譬に於て主はいへらく『視よや汝につげん速に報を作さん』〔ルカ十八の八〕と、現生に於てもかくの如くなるべく又其の体より出でし後に於てもかくの如くなるべし。
百五十、 思想の海に浮びつゝイイススによりて侃々たるべし、けだし彼は自ら汝の中に於て、即ち汝の心に於て奥密に汝に左の如く呼ばん、我が童子たる小なる「イズライリ」よ懼るゝこと勿れ、蟲なる「イズライリ」よ懼るゝこと勿れ、我れ汝を保護せんと、〔出埃及四十一の十四〕。盖し若し神が我等と共にするあらばいかなる悪者や我等に敵する。心の清き者に祝福し且律法を定め給へる神は我等と共にすべく最甘美なるイイスス独一清潔なる者は神妙に清き心を感動してこれに住らんことを欲し給はん。されど神のパウェルがいへる如く己の心を敬虔に練習するをやめざらん〔ティモフェイ前四の七〕。
百五十一、 己が心に於て不義を裁判し人の相貌を採らざる者、即ち狡猾なる悪鬼の形像を採らざる者且此の形像によりて罪を謀らず尚己が心地に臨みて厳に裁判し且宣告して罪に當然を報ゆる者は太闢の如く平和の多きをもて楽まん〔聖詠三十六の十一〕。大なる且賢明なる神父等の其書に於て魔鬼を人と名づくるも其の怜悧なるを以てなり。されば主も福音経に於ていへらく悪人これを作す即ち麦中に稗を播けりと〈これ即ち魔鬼を指すなり、けだし後文にいへらく播く者は魔鬼なりと〉。けだし我等はかくの如くなる悪の行為者を直ちに捍禦せざるによりそれが為めに思念の勝つ所となるなり。
百五十二、 もし智識の注意により生存するを始めて謙遜を儆醒と配し祈祷を捍禦と合するあらば思想の途によりて善く進行せん、光の燈と共にするが如くイイスス ハリストスの崇拝せらるべき聖なる名と共にして罪を棄て且潔むることをも己が心の家を飾り且装ふことを為すあらん。されどももしたゞ自己の清醒又は注意にのみ依頼するならば速に敵の侵襲にかゝり衝落されて倒れん。さらば其時此の最狡猾なる姦悪者は全く我等に克つべくして我等はいよ〳〵ます〳〵悪なる思念に包まるゝこと網に包まるゝが如くなるべし、或は勝敵の劒即ちイイスス ハリストスの名を自ら己れに有せずして彼等が非常なる刺殺に容易すく罹るべし。けだしたゞ此の聖なる劒はすべての形像を空うしたるの心に断えず旋回して彼等を敗走せしめこれを斬りこれを焚き且これを滅すこと火の枯草を燬くが如くなるべければなり。
百五十三、 心を尽して多くの果を産すべき間断なき清醒の行為は智識の中に形づくらるゝ想像の思念を直ちに看破するにあり。捍禦の行為は何か五官を楽ましむるの物を思ふの想像によりて我が智識の空気に入らんと欲する思念を責證して羞を啓かしむるにあり。又これと同く抗敵者のもろ〳〵の計謀ともろ〳〵の言ともろ〳〵の妄想ともろ〳〵の偶像ともろ〳〵の悪の塔とを直ちに消滅せしむるは即ち主を呼ぶにあり。さらば我等はイイスス我等が大なる神のいかに有勢にして彼等を撃敗ると謙遜なる貧なる且まつたく不用なる我等をいかに保護するとを自ら智識に於て見るあらん。
百五十四、 我等が思念は五官を楽ましむる物と世に属する物の一妄想的形像のみにして何も他物あるにあらざることは多くの人此を知らず。されど我等清醒して祈祷に奮起する時は祈祷は我等の心をあしき思念のすべて物体的形像より免れしめてこれに敵の言〈或は敵が謀る所の攻撃の間号或は企図〉を知らしめ祈祷と清醒のこと〳〵くの益を覚知せしむるなり。『汝たゞ目を注ぎて不虔の者の報を〈心の不虔なる者の報を心にて自ら〉見ん』〔聖詠九十の八〕とは是れ神の唱詩者太闢の言ふ所なり。
百五十五、 出来るならば死を不断に記憶せん、けだし此の記憶により我等にすべての費心と虚誇とを脱することゝ心を守ることゝ連綿たる祈祷と身体に偏倚せざることと罪を憎むことゝを生ずればなり、而してもし実にいはゞすべて霊活なる実験上の徳行は大概彼れより流れ出づればなり。故に願ふ出来るならば此事の我等が感動に断えず存すること我等の呼吸の如くならんことを。
百五十六、 妄想より全く離れたる心は神妙不可思議なる思念の生じて其の内部に遊ぶこと静海に魚の遊び海豚の躍るが如くならん。海は微風にて吹上られ心の淵は聖神にて吹上らるゝなり。『汝等既に子たることを得しが故神は其子の霊を汝曹の心に送り「アバ」父と呼ばしむ』〔ガラティヤ四の六〕。
百五十七、 凡そ修道士たる者は先づ智識の清醒を立てずんば霊神上の行為に着手するに遅疑躊躇すべし、これ其の行為の美をいまだ知らざるによるか或は既にこれを知るも怠慢の故にこれを為すに薄弱なるに因るなり、されども此の躊躇は智識を守るの行為に入る時は必ず散ぜん、これ思想哲学と称し或は智の実験哲学と名づくるなり。此の行為に由りて彼は主のいふ所の途を得ん、曰く『我は途なり真実なり生命なり』〔イオアン十四の六〕。
百五十八、 彼は思念の淵とワビロンの小児の群とを見て再び躊躇せん、されども此の躊躇も心の基礎を不断にハリストスに基づけワビロンの小児を石にて撃ちてこれを抛棄する時はハリストスは必ずこれを散じ給はん。主のいへらく『蓋し我れなくんば何も行ふこと能はず』〔イオアン十五の五〕。
百五十九、 清醒を保つ者は実に眞の修道士なり、而して心に於て修道士たる者〈其心にたゞ己れと神とのみある者〉は眞の清醒者なり。
百六十、 人の生命は年月、週間、昼夜、時刻の代替と共に前進するなり。これと併せて我等は徳業をも前進せしめざるべからず〈完全に〉。徳業とは清醒と祈祷と中心の甘美と併て我等が逝るに至る迄守る所の不屈不撓なる静黙を謂ふなり。
百六十一、 死期は我等の上にも終に臨み来らん、我等これを遁るゝこと能はず、嗚呼世界と空気との王が其時に来りて我等が不法の微小なる且は無なるを見て我等を公明に責むる能はずんば可なり。然らずんばたとへ益無しといへども其時に痛哭せん。けだし主のいひし如く『其の主人の旨を知りて行はざる僕は打たるゝこと多からん』〔ルカ十二の四十二〕。
百六十二、 禍なる哉心を滅したる者よ。彼等は主の巡見し給ふ時何を為さんとするか〔シラフ二の十四〕。されば兄弟よ益々奮熱して心の業に着手せん。
百六十三、 多欲なる思念は単純にして無欲なる思念に随て生ずること久しき実験と観察とにより我等が識る所なり、前者は後者の為めに入口となり、無欲なる思念は多欲なる思念の為めに入口となるなり。
百六十四、 真実に人は甘んじて己を両断すべく最賢明なる思念をもて己を裂くべし、実に人は自己の為めに和すべからざるの敵とならんこと當然なり。誰か己を極めて凌辱憂苦せしめたる人に対して如何なる心地を有するか、我等も至大第一の誡命を行はんと欲せば、即ちハリストスの生涯たり人体を藉れる神の生命たる所の有福なる謙遜を成さんと欲せば亦前者と同様なる或は其よりも尚悪しき心地を有すべし。故に使徒はいへらく『誰か我を死の体より救ふか』〔ローマ七の廿四〕『蓋神の法に従はず』〔ローマ八の七〕。又身体を克服してこれを神の旨の下にあらしむるは我等の務むべき行事の一たるをあらはしていへらく『我等もし己を審きしならば罰を被むることなかりしならん、されど今罰せらるゝは主の我等を懲らし給ふなり』〔コリンフ前書十一の三十一、三十二〕。
百六十五、 豊熟の始は花なり、而して智識の清醒の始は飲食を節するともろ〳〵の思念を棄て且絶つと中心の静黙となり。
百六十六、 我等ハリストス イイススにより力を得て堅く卓立し清醒に進行するを始むるや其時先づ我等が智識にあらはるゝものは恰も或る燈の如く智識の手にて我等を持して我等を思想の路に導く所のものなり、次は光明なる月の如く心中の穹蒼に廻転する所のものなり、終りに太陽の如きもの、即ちイイススなり彼は恰も太陽の如く義をもて照して自ら己れを現はし又其の光明ならざる所なき洞察の光をあらはすなり。
百六十七、 これぞイイススが其誡命を忍耐して守る所の智識に奥密に啓示し給ふものなる、曰く『汝曹の頑なる心に割礼を行へ』〔復傳律令十の十六〕。然り、勉励なる清醒は人に奇異なる真理を教ふるなり。故に主はいへらく『汝曹我れに聴きてこれを暁れり、それ有るものはこれを與へて余りあらしめ有る無きものは其の有る所をも奪はるゝなり』〔馬太十三の十三〕、使徒は又いふ『すべての事は神を愛する者に咸々く働きて益をなさしむ』〔ローマ八の廿八〕。況して諸の徳行は我等に其の進歩を助くるあらざらんや。
百六十八、 舟は水なくんば前進せざるべし。智識の守りも清醒と謙遜とイイスス ハリストスに於る不断の祈祷なくんば少しくも進歩せざらん。
百六十九、 家屋の基は石なり、然して此の徳行〈智識の守り〉の基たるもの又其頂たるものは我等が主イイスス ハリストスの崇拝せらるべき名なり。颶風の時に當り船長を解放し橈と帆とを海に投じて自ら寝ねかゝる所の愚なる舵人は速に易すく破船に逢ふべし、されど附着の起るに當り清醒とイイスス ハリストスの名を呼ぶことを等閑にする霊魂は魔鬼の為めに溺没せしめらるゝこと更に速ならん。