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祈祷惺々集/イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書 (2)

提供:Wikisource

イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルあたふる書

清醒せいせいの事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教

四十一、 雨は多量に地にほどます〳〵やわらぐるが如く我が大声に呼ぶ所のハリストスの聖なる名ものしば〳〵ばるゝほど我等がこころよろこばしめかつたのしましめん。

四十二、 不鍛錬なる者はよろしく知るべしたいの肥大にしての地にうつむく所の我等にしての無形にして見えざる我が敵、すなはち悪をほつして巧みに怒らしめ敏捷びんしょう軽易にしてアダム以来今日に至るまで世々よよたたかひに老練したる者にかちを得んにはたゞ心の不断の清醒せいせいイイスス ハリストス我等の神及び造物主を呼ぶのほか他方あるなきことを。ねがはくはイイスス ハリストスの祈祷は未熟者のめに善を試みかつこれを知るの誘導とならんことを、さて練達者のめには善における最良の手段と師はすなはち実行と実地に試むること平安となり〈偽らざる平安を心神にあたふる所のものはいかに苦しからんも幸なり〉

四十三、 幼弱にして多くは無悪なる小児は他のなんなりと幻術げんじゅつを行ふを見て面白きものと思ひ己の無悪の為め此の妖人ようじん跟随つきしたがふが如く我等が霊魂も純朴なるかつは善なるものたりつゝ〈けだし自己の至善なる主宰によりかくの如くに造られたりき〉想像に現出したる所のあく附着ふちゃくを見て楽しき者となしこれに眩惑げんわくせられて其の悪なるものにおもむくこと善なる者にむかふが如く、其の悪魔の附着をもて想像に入るゝ所のものは美人の容顔たるとた又他のハリストスの誡命にて全く禁ぜられしものたるとをはず自己の思念をもてこれと融和するなり、其より霊魂は遂にこれを渇望するに至り其の現出したる所の美がはしりみし所のものを実地に導かんことをはかりて既に工夫くふうこらすものゝ如し、しかしてつひに其の思念と結合して〈内部に於て同意し罪に傾きて〉霊魂は最早もはや其の想像にえがきし所のもの〈既に編成しかつ全備したる所のもの〉を身体にり実行に導びきておもひには不法を充たしおのれに罪を定むるに至るなり。

四十四、 悪者あくしゃ狡計こうけいはかくの如くして彼はかくの如きをもてしてどくを人々の霊魂にたしむるなり。故に智識がたたかひにます〳〵経験を得るに先たちて思念をして我等の心に放入せしむること危険なくんばあらず、して我等の霊魂がなほ魔鬼まきの附着に同感しこれとおなじたのしみ好んでこれに追跡するの始めにおいてをや、さればしこれを識認するあるやただちに其の侵入又は附着の時に於てこれを絶つべし。されば智識が此の奇異なる行為に長くとどまりて教誨せらるゝ所ある時はすべてを探訪せざるなく作戦に習ふことを得ん、よりて確実にこれを弁識して預言者のいふ如く小狐雅歌二の十五〕をたやすくとらふるを得ん、其時は彼等を放ち入らしめ事情を識知すると共に証責することをも得るなり。

四十五、 一のくだに依りて火と水とを一所に通過せしむるあたはざるが如く悪者の附着の想像をもてづ心の門を屡々しばしばたたくことあらずんば心に罪を入らしむることあたはざるべし。

四十六、 第一は附着ふちゃくなり、第二は連合れんごうなり、即ち我等の思念と悪鬼の思念と融合するなり、第三は共謀きょうぼうなり、これ二つの思念が共に悪に対しおなじく相談して其の如何に為すべきをたがひに決するの時にあり、さて第四は物欲の行為なり即ち罪なり。故にもし智識が清醒しておのれに注意するとこれに抗逆すると主イイススを呼ぶとによりて附着を其の入来の始めにふある時は常にれに附随つきしたがふものは最早もはやいつ出来いできたらざるべし、けだし悪者は無形体の智なれば霊魂を誘惑するを得るもこれに思念を入るゝを以てするにほかならざればなり。されば太闢ダウィドは附着の事をいへり、曰く『あしたに地のすべての悪者をほろぼす』〔聖詠百の八〕。又大なるモイセイも共謀の事をいふあり曰く『彼等と交通せざるべし』〔出埃及記廿三の三十二〕。

四十七、 たたかひおいむすばん、即ちあくわれむすばん。故に毎時毎刻こころふかきよりハリストスばんことを要す、ねがはくばハリストスは仁慈者なるによりあくかんねがはくは休徴と勝利の光栄とを我等にたまはらん。

四十八、 ねがはくは鏡を手に持ちて外よりこれを照らすものはなんぢめに中心の静黙せいもくの標準とならんことを、其時はなんぢ悪なるものも善なるものも想像によりて汝の心にいかに銘記せらるゝを見ん。

四十九、 無言的なるとしょうすべきとに論なくいかなる思念をも決して己の心に有せざらんやうに常に注意すべし、これかくの如くにしてなんぢ異人種すなは埃及エジプトの長子を探知するに便べんならんがめなり。

五十、 ハリストスかみなんぢに善く管理せられ人間の霊智とおほいなる謙遜とにて励まさるゝ清醒せいせいの徳はいくばく善にしてかつかいなるや、清明にして且かんなるや。全く善良明瞭にして且れいなるや、けだし彼は其の枝を冥想の海と其の深きとに及ぼすべく其の芽を甘美なる神の奥密の河に達せしむべく、死を致すべき魔鬼の悪念と肉の狂暴なる智慧ちゑ斥鹵しほぢの為に無法をもて往昔おうせきより焼かるゝ智識を潤すべければなりそそぎ且あらたにすべければなり〉

五十一、 清醒せいせいイアコフ梯子はしごの如く其の頂上に神がましましてしん使これによりて昇降せんとす、彼は悉くの悪を我等よりうばげん悪言あくげん讒言ざんげんとをつべし、また五官をたのしましむる邪悪の書券かきつけをすべて入らしめずしてこれが為めに暫時たりとも清醒の固有なる滋味の減少あるひは廃絶するを許さざるを致すなり。

五十二、 が兄弟よれ此の清醒をおほいなる熱心にてまなばん。されどもハリストス イイススに於るの清思純想をもてこれを観るに高飛して己の罪と己が以前のおこなひとをることをも守らん、これ己の罪を記憶するによりて傷心悲嘆しつゝ我等が心中のたたかひに於て我等の神イイスス ハリストスの助けを得んが為なり。けだし我等は驕傲きょうごう或は自負或は自愛心のめにイイススたすけうばはるゝやこれとあはせて心の清きをもうばはるべければなり。人は心の清きによりかみるをべし、けだし許約に依るに〔馬太五の八〕前者は後者の源因げんいんなればなり〈心の清きはかみるの源因なり〉

五十三、 己の秘密なる行為の事と又此の行為を間断なく守るによりて生ずる所の他の幸福の事とを等閑視せざるの智識は身体の五官をしてほかよりきたる所の罪誘の助力者たらざらしむることをも得ん。彼は其の徳行とくこう即ち清醒せいせいに全く注意し善なる思念にて常にたのしまんをほつして五官をして物体上又は虚幻なる思念のみちによりうちりてこれをぬすみらしめざるなり、かつ彼は五官によりいかなる誘惑の不意におこらんことを知りおほいに尽力して内よりこれを止めんとす。

五十四、 智識の注意をもつぱら守るべし、さらば誘惑にくるしめられざらん。又該處よりとほざかりつゝきたる所のものを忍耐すべし。

五十五、 やくは食欲をうしなひてしょくいとふを感ずる者の為めに益ある如く災患さいかんは悪性質なる者のめにえきあり。

五十六、 もし不幸にかゝるをほつせずんば悪を為すをもほつするなかれ、なんとなれば前者は後者に離れずしてしたがふべければなり。

五十七、 しき三欲さんよくにてくらまされん、――こうまん及びかん是なり。

五十八、 認識と信仰とは我が天性の学友たり、我等は他の物によりてよわらず彼等によりてよわりぬ〈痩せたり〉

五十九、 憤懣ふんまん忿ふん、闘争及び殺人、此等によりてそのの欲の総目は人々においきはめて強くならん。

六十、 真理を知らざる者は真実に信ずることもあたはざるなり、なんとなれば知識は天然に信仰に先だてばなり。さて聖書にところのものはたゞ我等の知らんが為にふにあらずしてそをおこなはんがめなり。

六十一、 されば我等はおこなふより始めん。かくの如くならば漸々ぜんぜん進歩して神を希望することも堅き信仰も内部の認識も誘惑よりすくはるゝことも恩寵のたまものと中心の痛悔つうかいも富める涙も信ずる者に祈祷によりてあたへらるゝを見ん、而してたゞに此れのみにあらずきたる所の傷心事を忍耐することも近者に誠実より赦すことも霊神上の法を了會りょうかいすることも神の義をることも聖神せいしんに感ずることも霊神上のたからあたへらるゝこともすべて神が此処ここにも来世らいせいにも信者にやくたまへる所の事もあたへらるべし。単にこれをへば神の恩寵をもて信仰により人が〈自分の方より〉智と心とをもて深き謙遜と放心せざるの祈祷とを専ら守る時の如く霊魂のめにかみぞうに依りて存するものとしてあらはるゝことあたはざるなり。

六十二、 真におほいなる善を我等は実験によりてうけたりき、即ち誰か己の心をきようせんをねがはゞ心中の敵に対して主イイススを不断に呼ぶを要する事れなり。そも〳〵我が実験によりていふ所のことばは聖書のあかしといかに符合するを見るべし。聖書にいへらく『「イズライリ」よ汝がしゅかみを呼ぶのそなへをなせ』〔アモス四の十二〕。又使徒もいへり『断えず祈祷すべし』〔ソルン前五の十七〕。かつ我等の主もかたりていへらく『我を離るゝ時は何もおこなふことあたはず。人もしれにれに居る者は多くの実を結ぶべし。人もしれにらざれば離れたる枝の如く外にてられてかるるなり』〔イオアン十五の五、六〕。大なる善は祈祷なり。これおのれに諸善を兼有するものにして其の心をきようするの如何いかんに依りて信者のめに神は見らるゝなり。

六十三、 けだし謙遜けんそん宝蔵ほうぞうは我等にある所のもろ〳〵の悪とすべて神の憎む所のものとをめつすのちからを自らおのれにゆうおほいなるものをしょうずべくして神の愛し給ふものなるが故に容易たやすらるゝものにあらざるなり。汝は一個の人におい許多あまた徳行とくこうの或る特殊の行実ぎょうじつを発見せんことけだし容易たやすからん、されどもれにおいて謙遜の芳香を捜してこれを見着みつけんことは恐らくはあたはざるべし。故に此の宝蔵を得んがめには注意と尽力とを多く要するなり。聖書に魔鬼まきを不潔と名づくるも彼が此の謙遜の善なる宝蔵を最初よりしりぞけて驕傲きょうごうを愛したるによるなり。けだしまつたく非物質にして形体なく四肢の合成をなさゞる所の霊物はいかなる身体上の不潔を遂げ得てそれめに汚者と名づけらるゝに至るべきにや。これれの不潔と名づけられしは驕傲のめにして潔白光明けっぱくこうめいしん使より汚者の名を下されしものなることあきらかなり。『すべて心にたかぶる者は神の前に不潔なり』〔箴言十六の五〕。聖書をあんずるに初先第一の罪は驕傲なり、〔シラフ十の十五〕。そもファラオンのいふ所を見よ、いはく『れ汝の神をらず又「イズライリ」を放ち去らしめず』と〔出埃及記五の二〕。

六十四、 我等自ら己のすくひの事を等閑に付せずんば謙遜の善徳をもとべき所の智識のはたらきは多くあるべし、例へばことばおこなひおもひとにて犯せる罪の記憶と其他思弁上にあらはるゝ許多の事はおほいに謙遜に助くるなり。又たれ近者きんしゃ徳行とくこうえず心に往来せしめ己を他と比較して近者きんしゃの他の天然の卓越を称揚する時はこれまた真実の謙遜をいんせしむるなり。かくの如く己の悪なることとおのが兄弟の完全より幾ばく懸隔けんかくすることとを己の智識においあきらかば人は自然に己を塵灰じんかいすべくひとにあらずしていぬなりとさへ思ふに至らん、なんとなれば地上に存するすべての有智なる造物より全く懸隔けんかくことごとくの者より乏しくかつひんなればなり。

六十五、 ハリストスの口にして教会の柱なる我等が大神父ワシリイのいへるあり罪を犯すもじつ再び同行為におちいらざらんとほつせば此れがめ其の日の終りにおいて自己とすべて自己に属する所のものとを良心の裁判にし我等何において失脚したるか又何において正しく行為したるかを見んこともっともえきありと。約百ヨブも自己に関係し又其の諸児に関係してかくの如く行為したりき。此の日々の答責とうせきは我等を照明していづれの時にも當然とうぜんに行為すべきことをおしふるなり。

六十六、 又他の神智を得たる人のいへらく『豊饒ほうじょうの始めは花なり、然して勤勉なる生活のはじめは節制なり』と。されば節制を自得せん、且や諸神父のおしふるが如く尺度と秤量ひょうりょうとをもて毎日十二時間を智識の守りにおいて経過せん。かく行為しつゝ我等はかくの如く自らつとむるによりて神の助けをもておのれに悪を消滅しかつ減少するをべし。けだし徳行の生活は要用にしてこれがめ天国をあたへらるべければなり。

六十七、 認識に至るのみちは無欲と謙遜なり、これなくんば誰も主を見ざらん。

六十八、 己の内部に間断なくふかとどまりて彼処かしこに常に旋転せんてんするものは正しく推理するなり、たゞにこれのみならず彼は更に直覚に入り神学に通じ而して祈祷せん。これぞ即ち使徒がいふ所のものなる、曰く〔『〕しんによりてあゆむべしさらば肉の慾を成すなからん』〔ガラティヤ五の十六〕。

六十九、 属神のみちによりて行くをくせざるものは欲念のめに慮るあらずして全くたゞ身体のめに占有せられあるいは腹をよろこばして放蕩しあるいは自らかなしみ自ら怒りかつうらみてこれにより己の智識をくらますべくあるいは分にぎたるの功労を始め思想を乱して意味なきものとなさん。

七十、 此世に属するもの、すなはちつま、財産及びそののものをてし者はたゞ外部の人を修道者となしたるのみにて内部の人はなほいまだし。されどもたれか欲念と此の後者こうしゃすなはち才智をてたる者はれ眞の修道者なり。もしほつするあらば外部の人を修道者となさんことは容易なり。されども内部の人を修道者となさんことはしょうなる功労こうろうにあらず。

七十一、 たれか此の世において欲念より全く自由を得て潔白なるかつ非物体なる間断かんだんなきとうたまはりしものやある、これぞすなはち内部の人の表徴なる。

七十二、 我等が心底には多くのよくかくるゝあり、されども自らこれを証責するはたゞ其の欲の原因が目前にあらはるゝ時にあるのみ。

七十三、 身体上の練習に全く占有せらるゝなかれ、身体のめには力に応ずるの苦行を定めてすべての智識を内部にむかはしめよ、曰く『身体の練習は汝等にえきすくなし、されども敬虔はすべてに益あり』〔ティモフェイ前書四の八〕。

七十四、 よくきゅうして働かざる時に〈たゞあるいは欲の原因の絶たれたるによりあるいは魔鬼が狡猾にして退しりぞきたるにより欲の働かざる時に〉驕傲きょうごうしょうず。

七十五、 謙遜と不幸〈苦行者身体上の剥奪〉は人をすべての罪より解脱せしむるなり、かれは心の欲を絶ち、これは身の欲を絶つなり。故に主はいへらく『心の清き者はさいはひなり彼は神を見んとすればなり』〔馬太五の八〕愛と節制をもて己を清むる時は神と神に存するの宝とを見ん、況していよ〳〵清めらるゝ時はいよ〳〵これを見ん。

七十六、 すべて徳行の事の説話を熟察する〈理会する〉は智識の守りなるあたふる〉こと往昔おうせき太闢ダウィドの守望者サムイル後書十八―廿四が心の割礼を預示したる如くなるべし。

七十七、 物体上有害なるものを見てそこなはるゝが如く思想に属するものに関してもかくの如くなるべし。

七十八、 植物のしんそこなひし者はそのすべてをつからすが如く人心につきてもまたおなじしかるをるべし。時々刻々に注意すべし、何となれば掠奪者りゃくだつしゃ欠伸あくびせざればなり。

七十九、 主はすべての誡命の義務的なることと又義子となることとは主の真血により人類にたまはりしものなることとを示さんとほつしていへらく『すべて汝等に命ぜられしものをおこなひし時もいふべし無益の僕たりおこなふべき所をおこなひしのみ』と〔ルカ十七の十〕。故に天国はこうめの報酬にあらずして忠義のぼくそなへられたる主宰しゅさいたまものなり。僕は自由を報酬の如くにうながさゞるなり、しかるに〈これをうくれば〉負債者として感謝すべく〈受けずんば〉矜恤きょうじゅつとしてこれを待たん。

八十、 聖書にるにハリストスは我等が罪のめに死し而して善くれにつかふる所のぼくに自由をたまふなり、けだしいふあり、曰く『美なるかな善にしてかつ忠なる僕よなんしょうなるものにおいて忠なり大なる者の上に立てんとす、汝が主の喜びにすゝむべし』〔馬太廿五の廿一〕。然れども忠僕とはたゞ知る〈僕の本分を〉にのみ依頼する者をいふあらずして誡命をあたへたるハリストスに従順にして忠義をあらはす者をふなり。

八十一、 己の主人を尊敬する者はおのれに命ぜられし所のものをみづから過ちあるいはいしておこなふある時はこれがめにおのれに何事の生ずるあらんも當然とうぜんとしてそれを忍耐せん。智識を得るを好む者となりつゝあはせろうを好む者となれ、けだし一の裸体なる智識は人を燻黒くんこく〈すゝけらかす〉ならしむればなり。

八十二、 我等に期せずしておこる所の誘惑は愛労者となるべきことを〈即ち誡命を行ふに〉親切に我等におしふるなり。

八十三、 星に附属するものは其の周囲をめぐる所の光なり、然して敬虔にして神を畏るゝ者に附属するものは極貧と謙遜なり、何となればハリストスの門徒の判然明白なる表徴となるべきに定められたるは他にあらずして謙遜なる智慧と自卑なる形状となればなり。よつの福音書は此事を大声たいせいに宣言す。さればかくの如くならざる者、即ち謙遜にして生活せざる者は彼の十字架にくるしみをうけ死にいたまで己を謙遜して神の福音の実験的立法者たる所の者〈福音経にしるされたる行為と生活とにて我等の為めに義務たる誡命を証示したる者〉おけるの分をうばはるゝなり。

八十四、 預言者いへらく『かつする者はきたりて水にけ』〔イサイヤ五十五の一〕と、神に渇する者は来りて智と心の潔浄けつじょうくべし。されどもこれを過ぎて高くようするものはを転じて其の極貧の地にむかはしむべし。謙遜けんそんなるものより高きはあらじ。光の無きところにはすべてやみ暗々あんあんたるがごと謙遜けんそん無き時にも我等が神のめに勉励べんれいするろうことごときょにして無結果たらん。

八十五、 『凡てことばの結局する所を聴くべし、曰く神を畏れて其の誡を守るべし』〔傳道書十二の十三〕即ち思想上においても感覚上においても守るべし。もし思想上に於て己をこれを守るにふる時は感覚上に於てもその労のめにとぼしきを有することすくなからん。太闢ダウィドいへらく『れ汝の旨をおこなふを望む汝の法はが心にあり』〔聖詠三十九の九〕。

八十六、 もし人は神の旨と其の法とを腹中ふくちゅうすなはち心中に行ふあらずんば外部においても容易たやすくこれをおこなあたはざるべし。

八十七、 物体上の塩はパンとことくの食物を賞翫しょうがんすべからしめ肉の腐敗を防ぎて長くこれを保全するが如く思想上の滋味と奇異なる〈心中にある〉働きとを智識にて守るの事もそれに準じて知るべし。けだし彼は内部の人をも外部の人をも神妙にたのしましめ悪念の臭気をひ我等を守りて善に恒固ならしむるなり。

八十八、 附着によりて夥多かたの思念を生ずべく又此の思念によりて五官をたのしましむるの悪行を生ずべし。イイススと共に前者を直ちにうちす者は後者をものがれん、而して彼は極めて甘美なる識神の認識に富み在る所として神を見ざる無けん、かつ心の鏡を神に対立せしめて神に光照せらるゝことあたかも太陽にむかつて立つる所の清浄なる(王皮)はりの如くならん。其時智識はついに其希望の最後の域に達して他のおのれにおけるもろ〳〵の観察よりきゅうするなり。

八十九、 けだしもろ〳〵の思念は想像によりて何か物体に属するものを心にるゝ〈物体に属する者を智識に属する者に混ずる〉ものなるが故に神性の有福なる光の智識を照らし始まるは智識がすべての物よりむなしくなりて全く無様なるものとなる〈何等の形状象様もあらはさゞるものとなる〉の時にあり。けだし此の光明はもろ〳〵の思念の衰弱したるを條件として最早もはや潔浄なる智識にあらはるゝなり。

九十、 儆醒けいせいして智識に注意する程いよ〳〵熱切なる希望をもてイイススに祈祷すべく而してた智識を等閑に監督するだけイイススよります〳〵遠ざかるべし。前者は智識の空気を烈しく照らすが如く後者は儆醒けいせいしてイイススを極めて愉快に呼ぶより離れしむべく常に智識を全くくらまさん。此事の我等いひしが如くなるべきは自然の理なり、然らずんば此事はあらざらん。これなんぢ実際に事をこころむるの時経験によりてらるゝなり。けだし徳行と又特にかくの如く光明こうみょう赫奕かくえきとしてきはめて愉快なる行為は常に経験を以てせずしては学び知るあたはざるなり。