イェルサリムの司祭イシヒイ フェオドルに與ふる書
清醒の事、思念と戦ふ事及び祈祷の事に関する説教
一、 清醒は心神を治むるの術なり、もし固く且熱心にして全く神の助けによりこれを練習する時は人を情欲の念と言とより救ひ又あしき行より救ふべくして其のこれを練習する者に暁り易らざるの神を暁り得らるゝ丈識るの確たる理會を與へ奥妙なる神の秘義の決定を奥妙に授くるなり。彼は亦旧約と新約のすべての誡命を成しすべて来世の幸福を與ふるなり。さて彼は本義によれば実に心の清きなり、心の清きは其の高尚なると其の良善なるとに依り、否実をいへば我等が不注意と怠慢なるとに依り今日修道士には極て希なる所のものなり、さりながらハリストスはこれを讃嘆していへらく『心の清き者は福なり彼等は神を見んとすればなり』〔馬太五の八〕。かくの如き者なるにぞ彼は貴重の価にて購はるゝなり。清醒はもし人に固く存する時は人の為めに正しく且神に悦ばるゝ生活の誘導者となるべくして其の結果は直覚力を得しむるなり。彼は我等に霊魂の三つの力[1]を正しく運動せしむるを教へ五官を固く守らしむべくして其の関係者に四つの首なる徳行[2]を日々に生長せしむるなり。
- ↑ 原文注:三の力とは思ふと激すると望むとの三力をいふ。
- ↑ 原文注:四徳とは智と勇と節制と公義とを指す。
二、 大なる立法者モイセイと特に聖神は此の徳行のいくばく無玷潔白なると其の含有する所の多くして施す所の大なるを示し且當然にこれを始め且成すべきことを吾人に教へていへらく『慎んで汝の心に無法の隠れたる言をいるゝなかれ』、〔復傳律令十五の九〕この隠れたる言とは神の憎み給へる或る罪事に於る心の一想像を名づくるものにして聖神父等は亦これを称して魔鬼より心に導き来る所の附着なりといへり、この附着の現はるゝや直ちにこれに随て我等の諸念は起るべくして我等は熱心に彼れと談話せんとす。
三、 清醒は即ち諸の徳行と神の誡命の路程なり、又彼は心の静黙とも名づけらるべく亦無妄の完全に達したる智識の守りともいふべし。
四、 盲目に生まれし者は太陽の光を見ざらん、かくの如く清醒に行進せざる者も上より豊に降る所の恩寵の光輝を見ざらん、彼は亦神の憎み給へる罪の行と言と思よりも免れざるべくして其の逝るに於ては〈彼を迎へんとする〉地獄の王を免れて通過する能はざらん。
五、 注意は心をすべての思念より絶間なく沈黙せしむるなり、彼はイイスス ハリストス神の子及び神を、彼独りを始終連綿として間断なく呼吸し、彼を呼び、彼と共に勇気に敵に対して武装し、罪を赦すの権を有するの彼れに告解するなり〈己の罪を〉。かかる霊魂は独り心腹を試むるハリストスを呼んでしばしば奥密にこれを懐抱しすべての人々には自己の甘味と自己の内部の苦行とを百方隠さんことを欲し悪敵をして竊かにこれに罪を進めて其の美なる行為を滅絶せしむるを免るを致すなり。
六、 清醒は思念〈智識〉を確と固めてこれを心の門に立たしむるなり、よりて彼は〈他の〉思念、即此の盗、掠奪者のいかに近づき来るを見ん、又此の殘賊者の何を言ひ何を為すを聞き、魔鬼が心を妄想に誘ひ入れてこれを惑さんと欲していかなる形像を写出し又は建つるを見んとす。もしかくの如きの行為を労を厭はず好んで学ぶあらば〈これに暫く勉強するあらば〉もし欲するときには彼は甚だ聡明に〈実着且明瞭に〉心中の戦の術を吾人に示さん、〈而して其の戦に於るの練達を得しめん〉。
七、 一方には神に棄てらるゝによりて生じ又一方には偶然の出来事〈生活の〉をもて人をして悟るあらしむる所の誘惑によりて生ずる二倍の畏れは常に人の智識を監督注意するの緻密を生ぜしめてあしき思と行の源を杜がんとす。これによりて我等が行を修めしめんが為め神より棄てらるゝあり又計らざる誘惑を遣さるゝあるなり、特に誰か此の善事〈注意と清醒〉より休するの甘薬を甞め漸く怠慢を生ずる時にこれあるべし。此注意の緻密よりして習慣を生じ習慣よりして清醒のおのづから間断なき〈緻密〉を生ずべし、且此れよりして彼の性質に循ひ漸々戦況を観察することも生ずべくして其の後イイススに於る耐苦なる〈艱辛なる〉祈祷と妄想を絶てる心の快然たる安きとイイススによりて〈彼れと配合するによりて〉成る所の〈奇異なる〉性状も亦随て生じ来らんとす。
八、 敵に対し立ちてハリストスを呼び彼れに趨り就く所の意思はこれを或る野獣の群犬に囲まれ柵塀に己れを覆ふて猛然これに抵抗して立つに比すべし。彼れ〈意思〉は見えざる敵の心算を心に遠く看破し不断彼等に対して講和者たるイイススに祈祷す、由りて其の咬む所とならずして存するなり。
九、 もし汝ぢ晨に祈祷に立ちただに見らるゝのみならず、見ることをも〔聖詠五の四〕與へらるゝを知らば汝は我が言ふ所のことを了解せん、然らずんば清醒せよ、必ずうけん。
十、 海を成すものは夥多の水なり。然して清醒と不眠と心の深黙の穹蒼を成し同く又奇異にして言ふ可らざるの直覚力と智慧ある謙遜と公正と愛との淵を成すものは〈亦同じく〉極致の清醒とイイスス ハリストスに対するの雑念なき祈祷なり、且又連綿として已むなく日夜勤めて憂ふることなく倦むことなきの祈祷なり。
十一、 主はいへらく『凡そ我を称して主よ主よといふ者は未だ悉く天国に入らずただ我が父の旨を行ふ者は入らん』〔馬太七の二十一〕。さて彼の父の旨といふは即ち『主を愛する者や悪を憎めよ』〔聖詠九十六の十〕といふもの是なり。ゆえにイイスス ハリストスに祈祷する時は悪しき思念を憎まん、さらば神の旨は成らん。
十二、 我等が主宰及び神は既に人体を藉りてすべて徳行の状を己が肉身の上に盡出して諸徳の雛形を示し以て人間の模範となし徃昔の墜堕より呼び起しぬ。其の示されたる善模良範は他に多くありけるが其の中に於て彼は領洗の後曠野に登り彼処に於て常人の如く彼に就きたる魔鬼と思想上の戦をなしたりき、且其の彼等に勝つの方法、即ち謙遜と禁食と祈祷と清醒との如きは彼れ神として又諸神の神として一も乏きことなく有持したりしも我等無益の僕にもこれをもて悪鬼に対し當然に戦を持すべき所以を教へ給へり。
十三、 智識を欲念より漸々に清め得る所の清醒の方法〈手段〉は我が考によるに幾許ありや、視よ余は能弁を以てせず又繁雑の言を以てせずしてこれを汝に示すに自ら怠らざるべし。けだし余は此の説教に於ても軍談記事に於て見るものの如く暗号をもて有益なることを秘し特に常人の為に益あることを秘するをもて智とは為さざるなり。余は汝に使徒の言にてつげん、汝ぢ子ティモフェイよ誦する所の者に注意せよと〔ティモフェイ前四の十三〕。
十四、 故に清醒の一方法は妄想の為め將た附着の為めに油断なく注意するにあり、けだし妄想なくんば「サタナ」は人を仮偽の幻像にて誘惑せんが為めに思念を仮設してこれを智識にあらはすこと能はざればなり。
十五、 他の方法は常に深く沈黙しもろもろの思念より揺動せられざるの心を有して祈祷するにあり。
十六、 或る方法は主イイスス ハリストスを不断に謙遜をもて呼ぶにあり。
十七、 又或る方法は死の事を間断なく心底に記憶するにあり。
十八、 愛する所の者よ、凡て此等の行為は恰も門衛の如く悪念の入るを禁ずるなり。されどもただ天に向つて注視し〈常に心が天上の事を黙想するをつとめ〉これに決して地〈及びすべて地上の物〉を加入せしめざるべき事もこれ亦他の方法と同じく有能なる方法の一なり、余は此事につきては言を與ふる神の助けにより他の処に於て更に詳述せん。
十九、 もしただ暫時の間欲の原因を絶ち心神の黙想を勤むるも此を勤めつつ生活の此順序に永く忍耐して止まるあらずんば易すく肉慾に再帰しこれが為めに〈善なる企業の為めに〉他の如何なる結果もうけずしてただ智識を全く昏まし物体上の事に傾かしめんのみ。
二十、 内部に於て奮闘する者は左の四者〈四の行為〉を瞬時も有せずんばあるべからず、謙遜、極致の注意、抵抗〈思念に抵抗〉及び祈祷是なり。謙遜はけだし敵たる驕傲の魔鬼と出で戦ふに常に心の手にハリストスの助けを有せんが為なり、けだし主は驕傲なる者を憎み給へばなり。注意は其の心を常に操持して如何なる思念もたとひ善なるが如く見ゆるものといへども有せざらんが為なり。抵抗は慧眼をもて何物の来るを悟るや直ちに怒りをもて抵抗せんが為なり、いふが如し曰く『我は吾を侮る者に答へん』〔聖詠百十八の四十二〕、『我が霊は豈神に従はざらんや』〔聖詠六十一の一〕。祈祷は既に抵抗したる後言ふ可らざるの慨嘆をもて心の深きよりハリストスを呼ばんが為なり。さらば其時此の奮闘者は崇拝せらるべきイイススの名により其の敵と其の妄想の散々に逐拂はるゝこと恰も塵の風に飛ぶが如く又其の消ゆることは烟の如くなるを見るあらん。
二十一、 思念より離れたる清き祈祷を有せざる者は戦に臨んで武器を有せざるなり、我れいふこれ心中内部の奥密に於て不断に交戦して其の隠に戦ふ所の敵を主イイスス ハリストスを呼ぶをもて撃ち焼くの祈祷を指すなり。
二十二、 汝は智識の眼を鋭くし且これを張りて其の入る所の者を察知せんが為めに内部を見んことを要す。もし察知する時は直ちに抵抗して蛇の首を粉砕すべくこれと併せて慨然としてハリストスを呼ぶべし。さらば其時汝は見えざる神の代保を始めて試むることを得べく心の正しき〈いかに心を正しきに操持すべき〉を明瞭に見るを得ん。
二十三、 手に鏡を持して他の衆人の中に立つ者は鏡に見て自己の面貌の如何なるを見併て又其の同く鏡に照さるゝ所の他の人々の面貌をも見るが如くかくの如く自己の心を普く俯視する者は一の心に於て自己の性状を見又其の心中の鬼の黒暗なる面貌をも見ん。
二十四、 智識はただ自己のみを以ては魔鬼の妄想に克つこと能はず、決して此を敢て試むることをせざるべし。けだし狡計〈我等の敵の〉は勝たれたる者の如く己を装ひて他方より高慢によりて打倒さんとすること屡なればなり〈角闘者を〉。されどもイイススの名を呼ぶに対しては彼れ片時も汝に対し立つて姦悪を逞すること能はざらん。
二十五、 慎んで古の「イズライリ」の如く自負に陥るなかれ〈又自己の創思に依頼するなかれ〉。然らずんば汝も心中の敵に付されん。けだし彼は萬有の神をもて埃及人より救はれて其後自ら己の幇助者――シリヤの偶像を創思したりき。
二十六、 シリヤの偶像とは知るべし我が荏弱の智慧をいふなるを、智慧は悪鬼に対してイイスス ハリストスを呼ぶ間は容易すく彼を逐斥けて見えざる敵の軍勢を巧に逃走せしめん、されどもし無智にして敢て自己に依頼する時は墜ちて打砕かるゝこと所謂疾翼の鳥の如くなるべし。例へば鳩即ち「トウルマン」の如し、翼を巻て下降するやもし其の翼を張るの間に合はざるあらば全く飛び失して地下に落ち打たれて砕け死するに至らん。言ふあり曰く『我が心主を頼むに主は我を助けたり我が肉は花咲けり』〔聖詠二十七の七〕又言ふあり主の外『誰か我が為めに起ちて悪者を攻めんや、はた誰か我が為めに起ちて不法を行ふ者を攻めんや』〔聖詠九十三の十六〕――無数の思念を攻めんやと。自己を頼みて神を頼まざる者は最驚くべき墜堕によりて堕落せん。
二十七、 夫れ心の静黙を得るの方法と其の順序とは左の如し、もし汝は作戦せん〈幸に且當然に〉と欲せば小動物即ち蜘蛛は此事に於て汝の為に模範となるべし。彼は小なる者即ち蝿を捉へてこれを殺す、されば汝も彼と同じく〈己が蛛網に坐し〉自己の霊に於て耐苦して静黙を守る時はワビロンの兒を常に撃殺して止むなかるべし、其のこれを撃殺すが為めには聖神は太闢によりて汝に福せん〔聖詠三十六の九〕されどもし汝に此れ無くんば汝は未だ智識にて當然に静黙せざるなり。
二十八、 紅海は天の穹蒼星宿の間に現るゝ能はざるが如く又地を行く所の人は此處の空気を呼吸せざる能はざるが如く我等もイイスス ハリストスの名を屡々呼ばずして己の心を欲念より清め心中の敵を逐ふこと能はざるなり。
二十九、 もし汝は謙遜なる智慧と死の記憶と自ら己を責むることと抵抗すること〈思念と〉とイイスス ハリストスを呼ぶこととを常に己の心に存し且此等の武器をもて思想の途即ち窄小にはあれども喜を生ずべき所の愉快なる途を日々穏當に過ぐるあらば諸聖人の聖なる直覚に入りハリストスより深奥なる秘義を知るの智慧にて照らされん、言ふあり曰く『智慧と智識の蓄はすべてハリストスに藏る』〔コロス二の三〕『神の充足せる徳は悉く形をなしてハリストスに住めり』〔同く九〕。けだし汝はイイススによりて汝の霊に聖神の降るを感ずべくして人の智識は聖神に照され露面をもて見ん〈主の榮を〉〔コリンフ後書三の十八〕。使徒いへらく『聖神に感ぜざれば誰もイイススを主といふこと能はず』〔コリンフ前書十二の三〕聖神は主を尋ぬる者をして奥密に確信せしむるなり〈其事の真実なることを〉。
三十、 学を好む者は左の事をも知るべし、悪なる魔鬼は戦の為めに大なる益あると智慧を増すと神に上昇するとの故により我等を嫉みつつ此の心中の戦をしばしば我等に隠し又はこれを息むるなり、これ我等魔鬼より来るべき攻撃の危きを忘れて掛念せざる時に乗じ俄に我等の心を奪ひ〈妄想によりて〉我等をして再び心に注意せざるの怠慢者とならしめんが為なり。けだし彼等に於て唯一の目的と掛念と苦心は他にあらず我等自己に注意するによりいかなる富を心中に集むべきを知り我等が心をして己に注意するを得しめざるにあるなり。然れども我等は其時に〈戦のやむ時に〉殊に我が主イイスス ハリストスを記憶すると共に霊神上の黙想を益拡張せん、さらば戦は再び智識に臨み来らん、ただ我れいふ主の教訓により又大なる謙遜をもてすべてを為すあるべし。
三十一、 我等は会住をなし自ら甘んずる願意と預備したる心とをもて長老に対しすべての我意を絶つべし、さらば神の助けにより自ら従順なる者となり不自由なる者の如くなるを得ん。此の時我等は百方工夫を凝らして激怒の為めに擾されざらんことと無智なる且不理なる発怒を許さざらんことを要す、然らずんば霊神上の戦の時に我等は無気力なるもの〈勇気を奪はれたるもの〉となるべきによる。けだし我が意はもし自から甘んじてこれを絶たずんばすべて強て〈我等の望に反して〉これを絶たんと試むる所のものに対して常に激し易ければなり、此れが為めに動かされたる怒は宛も悪盗の如く大に労して僅に得たる所の作戦の熟識を滅さん。怒は本来破壊的なり。もし彼は魔鬼の念慮に対して動かさるゝ時はそを害し且滅さん、されどももし人々に対して激さるゝあらば此の場合に於ては我等の善なる思念を滅すべし。かくの如くなれば怒は諸種の思念の為め、即ち其の悪なると將た或は正しきとに論なくこれが為めに破壊的としてあらはるゝこと明なり。彼は武器として又弓として神より我等に賜はりしものなるによりもし其の己が天分より離れずんば武器たるべく又弓たるべし。されどももし其の天分に適合せずして行為するある時は破壊者たるなり。他時勇猛にして狼に突進したりし犬の却て羊を裂殺すを我れ見しことありき。
三十二、 されば無遠慮〈他人との交際を謹まざる放恣〉を避くることは毒蛇の毒の如くなるべく頻繁の会談に遠ざかることは蝮蛇の類の如くなるべし、何となればこれ我等をして最速に内部の戦の事を全く忘るゝに至らしむべく其の霊魂を心の清きによりて達し得る所の喜ばしき高処より下界に引落すべければなり。詛ふべき遺忘より不注意を来すべく不注意より軽忽にする〈霊神上生活の順序を〉と退屈する〈其れに退屈する〉と不相當の願とを生ずべし、かくて復た再び後に戻ること『其の吐く所のものを食ふ犬』の如くならん〔ペートル後書二の二十二〕。されば放恣を避くることは死すべき毒の如くせん、而して遺忘の有害なる得物と併てこれより生ずる所のものとは智識を極めて厳に守ると我等が主イイスス ハリストスを呼ぶとによりてこれを療せん、けだしイイススなくんば我等は『何も行ふこと』能はざればなり〔イオアン十三の五〕。
三十三、 蛇と交親するの俗はあらじこれを己が懐に抱くことは能はざらん、かくの如く肉体も其の必ず要用なるものを達せしむるの外種々にこれを寵し且愛してこれを悦ばすこと能はざるなり、されば其の要用を達せしむると共に天上道徳の事を心に懸くべし。けだし彼れ〈蛇〉は其の天性に於て留め置かるべきものにあらず其の煖めし所の者を刺さざらんが為なり、然して此れ〈体〉も亦其の好色の挙動をもて其意を悦ばす者を汚さざらんが為なり。身体が何に於てか罪を犯すある時は容赦なくこれを鞭撻して疵を見るに至ること猶罪を行ひて逃亡したる僕の如くすべし、さらば願くは彼は其の己を罰すべき主人〈智識〉のあるを知らん願くは酒家に於て酒に酔ふが如く〈肉慾に〉酔ふを尋ねざらん願くは此の腐敗したる僕、即ち塵灰は腐敗せざる自己の女王〈霊魂〉あるを知らざる無らん。自己の逝るに及ぶ迄己の肉を信用するなかれ。使徒いへらく『肉の慾は霊に逆ふ』〔ガラティヤ五の十七〕又『肉に居る者は神の心に適ふ能はず我等は肉に在らずして霊にあり』〔ローマ八の八、九〕。
三十四、 善智の行とは我が憤激の力を常に内部の戦に接すると自ら己を責むるとに向て動かしむること是なり、聡慧の行とは我が思想の力を厳重にして間断なき清醒に盡さしむること是なり、正義の行とは希望の力を徳行と神とに向はしむること是なり、剛勇の行とは五官をして我が内部の人即ち心も、外部の人即ち体も汚さざらしめんやうに五官を制御主治すること是なり。
三十五、 『其の威厳はイズライリの上にあり』即ち出来るだけ神の光榮の美を見る所の智識の上にあり、『其の能力は雲にあり』〔聖詠六十七の三十五〕即ち朝に其眼を父の右に坐する者に注ぐ所の燦爛たる霊魂にあり、彼れが霊魂を照らすは恰も太陽の光線にて清き雲を照すが如くして霊魂を最愛すべきものとならしむるなり。
三十六、 聖書にいふ『一人の罪を犯すは許多の善事を害ふ』〔傳道書九の十八〕されば智識は罪を犯して前章に書せる所のもの即ち此の天上の食と飲とを害ふなり。
三十七、 我等はサムソンよりも力あらずソロモンよりも智ならず神の太闢よりも達ならず、我等は長坐たるペートルよりも尚多く神を愛さず。されば願くは我等は己を頼まざらん、聖書にいふあり己を頼む者は驚くべき墜堕によりて堕落せんと。
三十八、 我等は温柔をハリストスより、謙遜を太闢より学ばん、又遭遇すべき所の堕落の為めに痛哭することをペートルより学ばん、さりながら絶望せざることはサムソン イウダ及び大なる智者ソロモンの如くせん。
三十九、 『悪魔は吼る獅子の如く徧行して其の軍勢と共に呑噬すべき所の者を尋ぬ』〔ペートル前五の八〕。されば願くは信実なる注意と清醒と抵抗〈思念に〉と我等が神ハリストス イイススに於るの祈祷とは永く我等に断ゆるなからんことを。けだしイイススの助けの外に更に善き助けは汝の生涯中に汝に来らざるべければなり、何となればただ彼れ独り主は神として魔鬼の悪計、徧行及び詭詐を知るによる。
四十、 故に霊魂は敢てハリストスを望むべく、ハリストスを呼ぶべく決して怕るゝこと無るべし、けだし独りただ霊魂のみ呼ぶにあらずして畏るべき王イイスス ハリストス凡て形あると形なきと見ゆると見えざるあらゆる者の造物主と共に呼べばなり。