横浜市震災誌 第三冊/第9章

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第10章市営事業[編集]

第1節 水道[編集]

水道の破損は殆んど全般にわたり、取入口は全壊、沈澱池は一箇所を残す外、三箇所崩壊し、導水管は、破損しない所はなかった。わずかに西谷配水池に約二万石の浄水が残っていたのみで、市内中の送水管および配水管は、全く使用できなかった。

本市水道局は、九月二日直に、実地調査をすると共に、復旧工事に着手し、昼夜兼行その工程を急いだ。その後九月十一日になって、取入口は約二十万石の通水をすることができるように修理ができ、導水管は青山から四ッ谷まで、約3里半の修理を完了したのである。

しかし、該工事の完了迄には、長い日月を要するので、別に一時的応急布設の計画を立てた。すなわち西谷配水池に現存する二万石の浄水を基礎とし、西谷から市の西端藤棚に至るまで、八インチの小管を布設し、共用栓もしくは、は水槽を設けて、給水の準備をなし、11日夜半、西谷より市内久保町に至る工事を了わり、十三日西戸部藤棚まで無事通水する事ができた。その工程の概況は左のごとくである。

13日
藤棚通水8インチ6箇所の共用栓にて給水。
15日
自藤棚至野毛山貯水場 自藤棚至境谷。
以上二百間の間隔にて共用栓開始。
16日
自籐棚野毛幹、至西中耕地。
自国道追分至神奈川陸橋。
17日
自神奈川陸橋、至神奈川反町。
19日
自西中耕地、至富士山下。

2;0日:自富士山下、至清水耕地。(蒔田町廻坪迄、井戸ケ谷高免迄)自神奈川反町、至西方田谷入口・二ッ谷。 このように、配水線工事は次第に進んで、東部は神奈川陸橋から分れて、月見橋に至る路管を完成し、西は高免から更に分れて蒔田橋におよびんだが、これがため従来の応急8インチ管および4インチ管では、到底十分な需要に応ずることを得ず、現に配水全線にわたる時刻には、末端管は通水が弱くなって、時とし、断水する場合があるので、延長工事を中止し、8インチ管を24インチ管に、4インチ管を12インチ管に換えることにし、23日24インチ管は程ヶ谷水道橋までとし、浅間町は12インチ管に改修された。

しかれども、西ヶ谷配水池から野毛山貯水場に至る24インチ鉄管の改修工事は破損の個所が夥しかったのと時々の豪雨に、作業が予定のごとく進まず、14日にやっと通水するを得、次で同所より野毛町都橋河畔に至る18インチ鉄管の廷長改修工事は、24インチ本管の復旧の見込が立ったので、再び着手し、次第に進捗した。10月20日現在における通水路線は別図(図略)に示すがごとくで、改修延長工程左のごとし。

浅間町神奈川方面
程ヶ谷水道路から分れて、国道浅間町に通じ、神奈川鉄道橋に至る間は、既設8インチ鉄管を20インチないし36インチの鉄管に改修する工事が完成すると共、東方子安町まで廷長し鉄道橋から、分かれ、神奈川ニッ谷に至る。4インチ鉄管は、なお北方斉藤分に達し、鉄道橋より南方は、高島町七丁目に至る通水を了した。
西戸部町桜木町方面
24インチ本管の藤棚から分岐している4インチ鉄管は、西戸部山下の通ずる路線と、戸部電車線路に沿う鉄管と、戸部町四丁目で合し、横浜駅より楼木町駅に至る通水を了した。
日の出町長者町方面
野毛山貯水場より、都橋河畔に至る18インチ鉄管の中途野毛町三丁目において分岐する4インチ鉄管は、日の出町を経て、初音町まで通水すると共に、一方日の出町一丁目より分岐して、長者橋を過ぎ長者町7・8丁目および福富町に達した。
蒔田町大岡町方面
藤棚より野毛山貯水場に至る間一本松より分岐して、南太田町方面に至る4インチ鉄管は、井土ケ谷町より延長して、蒔田橋を通過し、蒔田町および大岡町一帯におよぶ路線の通水を了した。

以上の改修鉄管には大岡町の一部を除き、約200間の間を隔てた仮共用栓を取付け、給水を開始した。

横浜市水道工事工程表

横浜市水道工事工程表 (大正12年10月21日現在)
 管種類  既設延長  修理延長(間)  新設延長
36吋 2,397.78 516.00
30吋 960.23
26吋 865.58 319.00
24吋 3,066.70 3,066.70
22吋 457.92 457.92
20吋 1,821.23 1,821.23
18吋 4,256.75 1,397.00
15.5吋 4,841.98 1,727.00
12吋 2,113.20 1,975.00 90間
10吋 2,654.32 1,428.00
8吋 14,934.88 11,146.00
6吋 7,940.81 6,409.00
5吋 137.73 137.73
4吋 101,646.33 29,709.00 254間
3吋 243.42
148,338.86 601,288.58 344間
約69哩弱
水道開栓数表 (大正12年10月31日現在)
臨時共有栓 196箇所
施設共有栓 21箇所
公設共有栓 2,667箇所
官公署共有栓 20箇所
浴場 42箇所
工場 5箇所
船舶給水栓 1箇所
合計 2998箇所

水道工事は著々進捗した、一方震災後水の出ない所には取敢えず配水の計査を立てた。(大正十二年十二月水道工務謀長報告)

第2節 瓦斯[編集]

本市の瓦斯事業は、我国における瓦斯事業の嘴矢である。すなわち明治4年7月故高島嘉右衛門氏が、当時の神奈川県令井関盛良艮氏の依頼により、瓦斯灯の建設を計画して横浜駐在スイス領事ブラノールド氏の斡旋で、フランス人技師ベルゲラン氏を聘して、設計ならびに監督の任に当らしめた。敷地を今の花咲町五丁目に定め、同5年9月竣工を告げた。そして、同月29日点火試験を了って初めて業務を開始したのである。それに要した投資金93213ドル余で、その設備は1日最高80000立方フィートの瓦斯を製造し得られるもので、水平式瓦斯製造竈8門、容量3万立方フィートの瓦斯溜器および製造ならびに供給上必要な装置に過ぎなかったが、明治8年6月、第一大区町会所は、金22万5千円で、本事業を買収し、瓦斯局と改称して、初めて公共事業として経営することになった。当時布設した瓦斯管は内径八インチを最大のものとし、延長僅に7万9千308フィートに過ぎなかった。同年12年7月には、第一大区町会所は、さらに本事業を本町外十三箇町に譲った。明治22年に市制の施行されたので、横浜市は瓦斯事業経営の計画を立て、同25年4月に、金12万円を以て、本町外十三箇町から瓦斯事業を譲り受け、爾来市営事業としてこれを経営したのである。その後市の発展に伴い、数所設備の拡張および改良に勉めた結果、製造ならびに貯載力も増大して、大正11年度末に至って左記の製造力と貯蔵力を示すに至った。その後,益々業績も上がり、市営の目的の徹底をはかる折しも、9月1日の大震災のため、平沼製造所、その他重要なる建設物の大部分は殆んど根本的に破壊され、一時瓦斯製造供給を中止するの已むなきに至った。しかれども、これが復興には、極力努力の結果、災後2年の後、製造供給を開始し得るようになったのである。

瓦斯製造竝貯蔵力(大正12年度)
立方呎
製造力 平沼製造所 傾斜式竈 4門 1昼夜 320,000
直立式竈 6門 1昼夜 1,320,000
1,640,000
立方呎
貯蔵力 本局 300,000
平沼製造所 12,00,000
本牧出張所 125,000
1,625,000

設備の大要

1 製造設備
瓦斯製造設備は、本年6月瓦斯製造供給予定期日までに大体竣工の計画の下に、概に瓦斯貯蔵器・汽罐室・汽罐・瓦斯圧送器室・瓦斯軽量器室等の建設申請の手続きを終わった。
2 供給設備
幹管修繕工事は、昨年7月より着手し、本年4月末日に、その57マイルを完成した。そして、その分布はただ僅かに区画整理地区おおよび他の小部分ばかりで、ほそぼそ震災前における供給区域と同じ。そして供給を開始するまでには、幹線延長100マイルの約8割5分の復旧ができなければならぬ。
設備費およびその財源
瓦斯事業買収費 79,141,789
内訳
土地 17,624,320
建物 6,384,280
機械 20,550,817
導管 18,209,590
街燈 5,282,400
什器 537,675
貯蔵品 10,552,707
79,141,789

(附記)本市瓦斯事業買収費は、11万円なるも、内現金の引継ぎ4万858円21銭1厘あったので、之を控除したる7万9140円78銭9厘を買収費として掲記してある。

事業拡張費
土地 375,649,982
建物 58,684,539
機械 770,873,014
導管 627,738,680
街燈 6,612,136
什器 39,620,687
貯蔵品 165,946,210
2,045,125,248
瓦斯事業買収費及び拡張費支出財源
1 買収費 本町外13箇所共有金より寄贈受く。
1 拡張費
公債(手形金) 1,852,600,000
(未償還額54,532,010償還財源は瓦斯事業その他の収入を以て之に充つ)
総入金 470,000,000
補助金 3,000,000
2,325,600,000

(備考)事業拡張費の支出財源に比較載して小額なのは、大震災に依る財産の損失に原因している。

事業の効果および影響

瓦斯は初め最も進歩した文化的燈火として、市民の一部に利便を与えたのであが、その後電気事業が発達するに随って、鐙火の用よりも、家庭の台所や、その他熱用に供せられて、便利なものとして需要されている。
大震災後一時これが供給が止まったので、いうまでもなく市民は不便を感じた。しかし14年6月から供給される事になったので、一般市民は便利になるわけである。また一方国家の一般財政に対する事業の効果と影響は、多大なものあるから、瓦斯事業の収支は特会計にしてその利益金はこれを旧債の償還および設備費に当てる方針であるが、市費の緊要な支出に対しては、臨時繰入金を行った事もある。欧洲戦乱の影響で経営困難になった時には、本市基本財産および水道積立金の繰入金の返還に努めたが、震災のため重要建物、その他設備の大部分は破壊され、事業休止の已むなきに至ったが、旧債の償還はこれを継続している。
瓦斯復興計画概要[編集]

本計画は、震災前における瓦斯製造・配送および供給の復旧を主とし、本市復興の将来を考 えて、復旧工事と共に出来るだけ各組織の改善に努め、殊に製造および配送組織の改良に留意し、設計を進めたのであるから、従末に比して、いささか面目を一新したのである。ただ復旧資金に制限があるため、直に理想的施設をすることは出来ないが、後日復旧工事の遂行と共に事業利益の一部で、これが補いになし、本市瓦斯事業の革新を期するのである。復興計画の実行をするには成るべく旧来の諸設備機械ならびに附属品の応用に心掛け、是非必要な機関はこれを新調することとした。その各設備についてその大要は瓦斯製造設備全部駄目になったので、総て新設しなければならない。すなわち新計画に依る瓦斯製造方式は、石炭の低温乾留と、完全瓦斯化とを併用するもので、石炭を予め比較的低温に乾留し、主成コークスの全部、あるいはその一部を瓦斯化して、両瓦斯を混和したものを供給するもので、副生物としては、コーライトに類似するコークス、低温タールとを、採取するものであるが、瓦斯需要量およびコークスの需要関係に従い、コークス販売量を適宜に調節するため、なお本装置は瓦斯製造炉・加熱器・送風器・蒸汽発生装置および附属機械より成り、瓦斯製造炉の上部においては、原料炭の低温度乾留を行い、底部では、乾留残滓の完全瓦斯化を行うものである。あるいはこれ等方式に単独装置を用いることもあるが、要するに石炭1トンから発熱量400熱単位以上を有する、瓦斯2万2千立方フィート以上を製造することができ、副生物は、主としてコークスおよび低温クールにして、石炭の舎有窒素分に依って多少のアンモナイトを採取し得るものである。従ってその精製装置は、タール蒸留精製および硫酸アンモニアの製造の2装置より成り、クール精製装置は、脱水装置・予熱器・蒸留釜・凝縮装置・受器・その他付属機械で組織し、1日5トンの粗悪なタールを採って、これを精製して、揮発油・軽油・防腐油・重油等を採ることができる。硫安製造装置は、アンモニア吸収器・硫安結晶器喞筒および凝縮器・遠心脱水機より組立てられ、1日約半トンの硫安を製造する能力を有している。

瓦斯貯蔵器は、震災前は四基を有したが、これ等の内、第四号器を売却し、第六号器を改造して、容量85万立方フィートとし、第五号器は大修繕を加え、合計瓦斯貯蔵能力170万立方フィートを備えようとした。第三号器は移転の必要がないので、現在の位置に供え、修繕の上、当分の用に使うことになっている。配送および供給組織は、高圧輸送低圧供給式であって、各供給区域には、高圧瓦斯調整器を設置し、これを連環するに高圧幹管を以てし、低圧幹管に対する瓦斯配送供給を掌らしめ、低圧幹支管網を作って、これにより供給をするのである。都市計画による新設路線延長約27マイルおよび旧幹管網に対し、配送薔供給の完全にする篇新たに配送系統を計画しているが、実施は市街建設の時機等と並行しなければ、その完備は出来ないので、本計画に於いては先ず高圧輸送幹管および配送供給の完全にするため、新たに配送系統を計画しているが、実施は市街建設の時機当と平行しなければ、その完備はできないので、本計画においては先ず高圧輸送幹管を修繕復旧して、次いで六インチ以上の低圧瓦斯配送配送幹管を修繕復旧して、各区域に対する配送を安全ならしめ、漸次五インチ以下の幹支管修繕の工を進めることにしている。 (瓦斯局工務課長報)

第3節 電気[編集]

1 一般被害[編集]

大震災のために被った本事業の損害額よび範囲は極めて多大である。概算によれば、損害総額は280万8千円に達し、総資金約870万の1/3に当たり、応急費のみでも、約40万円以上に達する予定である。大正12年度における予定乗客収入は、280万8千円であったが、震災の結果、220万円即ち約2割2分減の収入を予定せざるを得ない状態となったのである。なお詳細各項について、その被害の状態および復旧の経路を述べよう。

被害概算額表
1 軌道 201,000円
2 電線路 118,500円
3 車輌 1,300,000円
4 建物 538,950円
5 変電所 140,000円
2,298,450円
2 軌道の被害[編集]

軌道は全部破壊され、特に神奈川・横浜駅・吉田橋・駿河橋間、市役所・元町隧道間、および塩田・日本橋間において、その被害最も甚だしく、神奈川・横浜駅間では、月見橋の南北橋台決裂と共に沈下し、築地橋は鉄柱構造の橋脚、水面から折断して墜落し、軌道は全く破壊された。ライジングサン石油会社から川筋水面上に流れ出た石油の燃焼によって下から橋を焼いて、損害を大ならしめたのである。この区間は本来埋立地で、極めて脆弱であったから、震害と共に軌道面を隆起し、陥落した上に移動を生じたので、復旧を困難ならしめたのである。吉田橋・日本橋間と足曳町角より日本橋に至る間の軌道は、運河に沿って施設されていたが、ここもまた決裂と共に、軌条は運河の方面に不規則に移動し、この区間の線路は全く破城され、甚しい箇所は、約6尺の移動を見た。市役所・元町間被害は、前者に較べて甚しくなかったが、移動・隆起・陥没等はことに著しく、到底その用をなさず、西の橋は両橋台破壊して、橋面は焼失し、元町の墜道は坑門口炉破壊し、土砂が崩落し、墜道の一部が亀裂したため、線路を閉塞した。しかし内部の損害は幸いに軽徴であった。塩田・日本橋間即ち戸部線の中被害の最も甚しかったのは、久保山を中心とした左右切取箇所に多く、即ち切取の方面および石垣の破壊崩落、煉瓦積歩道橋の一部等の破壊は甚だしく、その他弘明寺線・本牧線・八幡橋線等はいずれも甚大なる損害を受けた。しかし前者に比しては、やや軽徴な損害であった。そして橋梁は全般にわたり、何れもその両橋台とも川に向って傾き、沈下または破壊したので、両橋詰線路の勾配は非常な急傾斜となって、電車運転上甚しき支隙を来たした。かくのごとく軌道は全線にわたって、大なる破壊を見たのである。

軌道被害表
種別 数量 単価 金額
人件費 15,000人 33円 45,000
軌条及び附属品 3哩 12,000円 36,000
その他材料 40,000
橋梁(築地橋) 45,000
その他橋梁費 20,000
隧道 15,000
201,000
3 電線路の被害[編集]

電線路の被害は激震のため、鉄柱を破壊されたものを除けば、その他の大部分は火災によって焼失したものである。熾烈なる火焔は鉄柱を焼切り、あるいは屈曲せしめ、なおこれに付属している支持物をも溶し、電車線路は饋電線と共に路上に垂下墜落するに至った。こ。饋電線の損害の甚しき箇所は左のごとく、亘長約3哩半、すなわち全線の3分の1に達した。

常磐町変電所 == 駿河橋間 亘長約 1哩3分
常磐町変電所 == 大江橋 亘長約 0哩4分
常磐町変電所 == 元町間 亘長約 1哩
花咲橋 == 高島町8丁目間   亘長約 0哩4分
日本橋 == 霞町間 亘長約 0哩4分
亘長約 1哩3分
4 電車線路の被害[編集]

電車線路は、鉄柱の半ば破壊したもの400本、全部破壊したもの20本で、燃焼して屈曲したものが約10本あった。 なお次の区間は全く使用し得ざる程度に焼失したものである。

馬車道    == 駿河橋間      亘長約 1哩
馬車道 == 元町間 亘長約 1哩
税関線 亘長約 1哩
その他 亘長約 0哩5分
亘長約 3哩5分
電線路被害表
種別 数量 単価 金額
鉄柱 150 3,000.00
トロリー線 10,000呎 2,500.00
饋電線 40,000 40,000.00
その他架線材料  15,000.00
私設電話 30,000.00
電燈一式 5,000.00
信号 5,000.00
人件費 6,000人 3円 18,000.00
118,500.00
5 車輌の被害[編集]

車輌の焼失は運転上非常な障害をきたした。当時市内運転中の客車は88輌中57輌、および貨車一輌は焼失した。高島町所在の客車17輌も同所の焼失と共に、車輌は焼失した。瀧頭修繕工場が潰倒したために、破壊した電車は19輌で総計94輌の多きに達したのである。運転のできる完全な車はわずかに59輌残っただけであった。

車輌損害表
種別 数量 程度
客車 71輌 焼失
手荷物客車 1輌
貨車 3輌
客車 10輌 大破損
94輌
6 変電所の被害[編集]

変電所の動力は、千歳橋および常盤町の二変電所からこれを受け、予備として、高島町の火力発電所が設けられてあった。震災のため、高島町発電所は倒潰焼失した。千歳橋発電所は幸い焼失を免れたが同じく倒潰したので設備機関に大破損を受けたので変電所は全市を通じて絶無となったのである。

変電所被害表
所名 据付機械 基数 被害の状況
千歳町変電所 電動変流機 300キロワット  2 建物倒壊と共に全焼す
同上 同上 500キロワット 1 建物倒壊と共に大破す
常磐町変電所 廻転変流機 300キロワット 2 建物倒壊後全焼す
同上 電動変流機 300キロワット 2 同上
高島町火力発電所  直流変流機 300キロワット 1 同上
同上 横置凝縮複式蒸気 450馬力 1 同上
同上 パフコックエンドウィル 
コックス水管式汽罐
1 同上
7 建物の被害[編集]

諸建物の被害もはなはだ多い。総坪数3150坪中、完全に残ったのは、わずか200数坪に過ぎない。千歳・常盤の両変電所、滝頭構内の車輌修繕および検査の両工場は、激震に倒潰し、これに接続して建っていた鉄骨で出来た工場も遂に同じく倒潰した。木造建諸種の建物は一部破壊し、同時に火災によって大部分焼失した。高島町運転課出張所は倒潰を免かれたが、全部焼失した。ただ鉄道小屋構造の機械木工場倉庫および鉄筋コンクリート構造の3建物は、幸い少しの災害おも被らなかった。これを要するに鉄筋コンクリートの建物は安全であったが、その他の諸建物は、いずれも大損害を被ったのである。

電線路被害表
種目 完全小破損 半潰 全潰 倒壊後全焼 不倒壊全焼
木造瓦葺平家 125.19 346.85 296.38 124.25 892.67
木造瓦葺2階建 64.28 51.17 69.60 185.05
木造亜鉛葺平家 69.43 104.28 3.00 29.73 67.41 273.85
木造スレート葺平家 44.00 271.33 135.00 450.33
木造板葺平家 58.75 2.50 5.50 62.40 129.15
煉瓦造亜鉛板葺 0.55 17.50 506.00 167.00 691.05
鉄柱鉄骨小屋平家 93.33 416.54 509.87
鉄筋コンクリート建平家  2.00 2.00
同2階家 15.00 15.00
209.31 15.00 641.33 1,461.06 568.21 254.06 3,148.97
8 吏員およびその他の被害[編集]

その数1000有余の吏員と、従業員とのある市で惨死の不幸を見たるものはなはだ少なかったの、幸いなことであった。震災のために吏員中死んだ者は全局を通じて、わずかに5人を出したに過ぎない。嘱託医と看護婦とは本局附属の診療所で執務中、家屋の倒潰のため圧死した。職工は変電所や、車輌工場の倒潰と共に惨死を遂げた。しかれども吏員その他の従業員各自の住居・財産に及ぼせるこれが損害を見る時は、その額多大なるものである。その全焼の悲運に会ったもの384人、宇倒潰以上のもの実に950人の多きに及んだ。

吏員その他死亡調
種別 吏員 嘱託 雇員 監督 職工
工夫
車掌
運転手
役夫
その他
総数 51 3 25 54 228 632 26 1,019
内死亡者 0 2 0 0 3 0 0 5
吏員その他被害表
種別 吏員 嘱託 雇員 監督 職工
工夫
車掌
運転手
役夫
その他
総数 51 3 25 54 632 228 26 1,019
内全焼 15 1 9 17 241 84 17 384
内全壊 19 6 19 150 53 3 250
内半倒壊 10 2 10 9 196 83 6 316
44 3 25 45 58 220 26 950
9 貯蔵物品の被害[編集]

貯蔵品中の被害はまた少なくない。高島町変電所構内テルミット全部の焼失を始めとして、高島町運転課構内の枕木焼失数は実に2千挺の多きを算した。なお当時各所出没した掠奪団は、本局附近にも徘徊横行し、貯蔵中の洋服類および遺留品中の洋傘、弁当箱、その他ありたけの物を掠奪されたのである。この被害は約2万9千円に上った。

10 応急施設[編集]

電気軌道損害の隠急施設をなすに臨み、その最も主要なものは、軌道・電線・枕木が最も必嬰なものであったが、購入には困難であった。幸いに本期間は、新線延長の実施施行中であったので、各種の貯蔵材料が豊富だったので、これを応急工事に用いることができたのである。これと従業員の努力と二者相俟って、応急工事を速進せしめた。そしてその他の各種諸材料は東京・大阪方面に求めるより道がないので直に吏員を、大阪に派遣し、同市の援助によって、短時日の間に必要な用品を容易に購入し、応急工事に充てる事を得たのである。

震害と同時に瀧頭本局においては、局長指揮の下に、技術長・各課長吏員と共に、部署を定めて、構内の警備をなし、その他従事員の保護に努め、周到なる警戒に、何等の不安なく仕事に従事することができたのである。

軌道の応急工事は対底本局員ばかりでは、修繕の完全は得られないので、当局に向け鉄道省線応急工事施工のため、派遣中の鉄道第一連隊(千葉)所属の約300名の助力を得て、9月18日から26日に至る9日間にわたって、被害いちじるしい神奈川・横浜駅間、足曳町・日本橋間の工事を復旧し、その他も専ら工事を進め、10月2日より神奈川・馬車道間を開通せしめ、同月26日には震災後約60日も経たぬ間に、全線の開通を見るに至ったのである。また架空線の垂下しているのや、落ちているのは、交通上に非常な支障をおよぼすので、先づ切断整理に着手し、交通の安全を計り、逐次電線の応急工事に着手した。これも同様損害甚だしく、本局員のみでは対底修繕も至難であったので、大阪・京都・名古屋の三市より技手2名・工夫13名雇い入れ、この間10月11日より11月6日にわたり、その工程を進め、軌道修補と相俟って復旧を了した。

また車輌の修理に関し、工場では残った諸機械を整理し、一部仮工場の上屋を建設して、破損車輌の修繕を計り、市内各所に散在焼失した車台のみを取集め、9月中ほぼほぼこれを完了したが、完全車輌は前述の如く僅に52輌に過ぎないので先ず12月末に100台、1月末に110台の運転計画を立てた。その結果10月2日、始めて残留車輌52輌で、神奈川・馬車道間の運転を開始し、10月26日には全線の開通を見るに至ったが、さきに京王電車株式会社より購入した16輌をも運転に加え、本局に於いて急造した13輌の無蓋客車(所謂バラック電車)を同月28日、同月31日には大破損客車を改造修理したバラック電車6輌、以上87台の運転を見るに至った。しかれども以上の輌数では未だ充分でない。それがために10月8日までには、無蓋客車5輌を本局で急造してそれを加え、12月24日に至り、さきに震災直後、大阪の藤永田造船所に注文した15輌の電車の到着を俟って、運転に資したのである。

その後もなお、工を進め、本局では昼夜兼行で新造したもの14輌と、大阪市電気局より購入の10車輌とその他無蓋客車に屋根を取付けたるもの10輌、併せて134台を仕上げることができて、年内に百台運転の実を挙げることができたのである。しかしまもなく歳晩の寒さがやって来たので、バラック電車はその8台の使用を廃止した。

変電所の変流機は、半ば焼失し、半は破損、運転し得るもの一つもなかった。その応急策として、京浜電気および群馬電力の両会社に交渉し、京浜電気鉄道の鶴見菱電所から、直接電圧600ボルト最大電力300キロワットの供給を受け始めて神奈川・馬車道間約2マイルの運転を見るに至った。

なお千歳橋変電所にある。500キロワットの電動変流機の破壊したものを調査の結果、多少の修繕を加えさえすれは使用できる見込がついたので、修繕した上、10月10日試運転を開始した。震災後時を移さず、京浜電気鉄道株式会社に交渉し、借入れたる400キロワット電動変流機を千歳橋変電所に据付け、12月20日より運転を開始した。

震災当初において電力機は内地においてこれを新調する事は不可能で、これを外国から仰ぐことは何箇月もかかるので、阪神電気鉄道株式会据付中の二百キロワット電動変流機2台を購入して据え附けた。なお当所で破壊した変流機も修繕中である。

建物もバラック木造で千歳橋菱電所を建て、常盤町変電所を廃止し、港橋市役所前大岡川畔に港橋変電所を建設し、全社はその工事を終ったが、後者は目下建築中である。次に滝頭運輸課出張所を修理し、高島町市営バラック住宅の一部を改造して、このところに運輸課出張所を設け、神奈川・馬車道間の運輸の事務所とした。次で各線の運転開始と同時に、日本橋出張所はバラックの建築が終ったので、10月19日、これを日本僑出張所として事務を掌理せしめた。その他馬車道・元町・本牧等の終点に詰所或は待合所を設備したのである。

また本局では、震災後焼失家屋の残材で構内に従業員各自の小住宅の仮設を許し、一時 の凌ぎにさしたが、その後三井合名会社からの6棟180坪のバラック住宅寄贈があったので、目下これに改造を加え前記の仮宅からこれに移転させるため、工事を急いでいる。諸工場建設は、倒潰工場の鉄材に補修加え、検車工場・機械工場・修理工場の合計三棟を、540坪の地に建設中である。(電気局技師長報告)

11 市内電車運転に関する当局よりの報告[編集]
大正12年9月1日より同年10月1まで運転休止
同 年10月2日開通区間
神奈川・馬車道間 午前5時開始 午後8時終業。
同 年10月10日開通したる区間
馬車道・日本橋間 午前6時開始 午後8時終業。
同 年10月15日開通したる区間
税関線 午前6時開始 午後8時終業。
同 年10月20日開通したる区間
馬車道・本牧間 午前6時開始 午後8時終業
同 年10月26日開通したる区間;弘明寺線及び戸部線
以上全線開通 午前6時発車し、午後10時終業と改正す。
乗客その他
月日 人員 収入賃金 使用平均
車台数
備考
乗車 下車
自10月2日至同10日 31,173 1,104,000 20 神奈川・馬車道・日本橋間、片道4銭、往復11銭
自10月11日至同19日 42,053 1,817,000 30 同上、八幡橋・税関線、片道6銭、往復11銭
自10月20日至同22日 58,000 3,400,000 50 全線の中戸部・弘明寺線を除く
131,226 6,321,000 100
人員数は平均1日分にして、全線開通と同時に震災前の賃金に改めた。
片道7銭 往復13銭
市営電車震災後運転車輌数一覧表
年月 運転車輌数
大正12年10月 開通当時 20
全通当時 64
同   11月 82
同   12月 95
大正13年1月 100
同   2月 100
同   3月 104
同   4月 108
同   5月 109
同   6月 110
同   7月 120
同   8月 120
市営電車復旧状況一覧表
種別 復旧月日  輌数  同上累計 摘要
震災前に於ける完全車 143 143
震災のため焼失電車 72 52
同 修繕工場にて大破損車   19
無蓋バラック式電車 大正12年10月 13 65 局製
大破損修繕電車 6 71 局にて修繕
無蓋バラック式電車 5 76 局製
京王電気軌道株式
会社より購入電車
大正12年11月 16 92
無蓋バラック式電車を有蓋
バラック式に改造電車
同  12月 10 92 局にて改造
新造電車 15 107 車体は他に註文車台は局にて修繕
無蓋バラック式電車廃止 同 末 8 99
新造電車 大正13年1月 14 113 局製
大阪電気局より購入電車 25 138
有蓋バラック式電車廃止 同 末 10 128
新造低床電車 同  5月 10 138 局製
同 上 同  7月 20 158 一切新規購入
現在 158

備考 今日現在の車輌数158輌震災前の車輌数143輌に比し寧ろ15輌増加したる状態なり。

第4節 病院および救護所[編集]

第1項 十全医院[編集]

十全医院は、東京湾を一目に見渡すことができる老松町の高台の閑静な所に建てられていた。

今その沿革を辿って見ると、明治5年7月、当時の権令大江卓氏が首唱して、太田町六丁目に仮病院を設立し、これを横浜市病院と命名した。その後この医院が十全医院の前身となったのである。かくて日一日、病院が隆盛となり、篤志家の寄附金額6600円を資金として野毛山修文館跡に仮病院を移転した。同年6月米人ドクターセメンズを聘して院長となし、2名の助手を置いて、一般の治療に応じた。翌年2月初めて十全病院と改称し、爾来幾度も拡張をして、今日に至ったのである。建物は1600余坪すなわち明治44年改築した本館367坪で、本館の階上は全部病室で、階下は各科の診察室・薬剤局・事務局・エキス光線室および試験その他の附属室であった。また本館の南には隔離病室の一棟があって、山手館は病室と手術室、消毒室、看護婦寄宿舎および附属室で、本館および隔離室を併せて総計150箇の病床があったのである。

なお特に記することは、同院が天然痘の種痘制の嘴矢をなしたことで、我が医学史上の一頁を飾ったのである。9月1日の震災における被害状況と応急救護施設および同院復旧等に就いてその状況を次に記述する。

1 災害状況[編集]

最初の激震によって山手館は約35度の傾斜をなすと同時に、いたる所の天井は落下し、廊下一帯の窓硝子はものすごい音を立てて破壊された。濛々たる砂塵の中から、職員・看護婦その他軽徴の患者は辛うじてのがれて、本院の中庭に出た。中にも足腰の立たない患者は、看護婦および諸員の手によって救い出され、庭に運ばれた。患者中に一人の死傷者も出さなかった事は幸いであった。後刻になって看護婦2名、付添人3名が廊下で下敷になっているということが判って、時を移さず駈けつけて救い出した。ここに全員少数の擦過傷者を出したのみであった。一同ようやく安心してふと市街を眺めた時、早くも火災は市中いたる所に上っていた。火に逐われつつ悲嗚を挙げながら、無数の人々は老松町から野毛坂へと、群を作って逃げて来る。火は病院にも刻々と迫って来た。近藤病院の入口には、若い婦人が肢をもぎとられて瀕死の状態でいたなど、幾多惨事は諸所に演じられた。職員や看護婦など、病院の一同は、患者を連れて、田中新七氏邸に避難したが、伊勢山方面から襲って来る黒煙に取り巻かれので、一同は再び患者を引連れ、病院の裏地テニスコートに移ろうとした。

時に山手館の東部に差しかかると、一帯の崖は崩壊して、よじ登る事もできない。火は刻々に迫って来るので如何となす術もなく、途方に暮れていたが、最後の死に場所と覚悟していた時、勇敢な職員の一人、火に包まれんとする病院に入って消火用ポンプのゴム管を持って来て直に崖上から、垂らしてそれに掴まって下から上って行った。目的の避難地は、コートであったが、既に立錐の余地もなく、小松原方面の避難民は一杯に密集しておるのであった。午後5時頃になって病院は淡わくも猛火に包まれてしまった。止むなく病の軽い患者は、附添人に一任し、自由に逃げさした。しかし重態患者のみは看護婦に伴わせ、上地に避難さしたたが、やがて市長公舎を襲う猛火に攻められて、さらに茂木山の樹林に転じ、ようやく最後の難を免れたのである。かかる惨状裡に一人の死傷もなく、患者を救助し得たのである。病院から持ち出して最後まで持運んだ物は、顕微鏡3台と、膀胱鏡一具、診察用秒時計一個、その他診察用具の一部と、包帯材料の一部、外に事務室における出納書類および庶務書類(現金は当日出納閉鎖後であったから取扱銀行に持ちかえり済みであった)のみであった。午後8時頃になって、近藤病院から襲ぅて来た猛火のために本院も最後を告げ、一燼の灰となったのである。

本院の建物その他の被害は、建物2962坪、777000余円、器具150000余円、その他78300余円である。

2 応急救護施設[編集]

翌2日になって、罹災民が困ったものは、第一に飲料水、次は食料であった。何んとかしてそれ等を得ようと苦心したが、殆んど目当てはなかった。かくする内に、誰人か横浜ドックク会社貯蔵庫から糧食は運ばれているとの報が伝わったので、時を移さず、本院の賄方人6名と看護婦15名を早速取りにやった。さんざん苦心をして、ようやく六俵の米を得た。同時に幸いにも水道貯水地の後に一つの井戸を見出したので、これまた直に二三人をやって水を汲んで来た。これによって重病患者もその他の諸員も生命をつなぐことができた。夕刻からは重患者を収容すべきバラックが必要なので、一同は寝食をも忘れ、焼跡を辿り、まだ熱気のある焼トタンをあさって来て小屋を立てて収容した。鮮人襲来の兇報に一同は不安に駆られた。諸員は一同徹宵警戒に努めた。3日午後3時頃から驟雨があって不完全なトタン屋根は両漏りをはじめたので、応急の修理をして、一方予定のドックに人をやって、糧米を運んだ。この日は洋行中の院長も帰浜して、その後の所置に当った。4日県庁から求めに応じ、看護婦5名を派遣した。同日、本院は市内外に医員その他の者を派遣し、薬品・医料等を調達した。遠くは大阪・神戸等に派遣した。一方市内には外傷患者が沢山あるので救護班派出の必要を認め、3班を組織して避難民の中心地点である方面、および市役所に派出し、応急治療に当たらしめた。1班には医員1名と看護婦7名とであった。一方片山院長、入江・横田の3氏は、平沼久三郎邸を病院として、借受けたい旨を交渉したのであるが、当時同邸内には直後引続き約4から500名の罹災民が避難所として居たので、仕方がなく見合せる事になって、片山院長は横田事務長と共に昼夜の別なく、市内に残った公共建物を一々巡検して、仮病院に適当な建物を探したが、一本松小学校・第一中学校・稲荷台小学校舎・南太田小学校舎等は何れも欠陥があって病院には適しなかった。ここにおいて止むなく平沼邸とする事になった。罹災民の多数は新に避難地を探すべく仕方なしに邸内を出た。かくて6日になって、初めて一般診療を開始することができたのである。

開院後における煩忙はいう迄もなく、準備に当った職員の献身的行動に、来院者はどんなに喜んだか知れない。次に薬品・器具等の補充は東京方面から調達し、さきに派遣して交渉した阪神からの材料も、ようやく到着したので、応急治療設備も整うに至った。一方更に仮病院開設の宣伝に努め、遍く市民に知らせたので、その結果、続々入院患者も激増し、到底現状の建物のみにては、その使命を果し得なかったので、直に香港より寄贈に係る144坪3棟のバラックを元病院跡に建造した。12月6日になって、更に応急病院の必要に迫り、南吉田町万治病院跡に1504坪の応急病院を建築する事になり、翌年3月工事に着手し、同年6月23日同院完成して、平沼邸より移転したのである。12月16日より、一般の秩序も回復し、市民も生業に就いたので、一部施療を存続するの外は、安い入院料および諸料金を取った。震災後107日を経て、有料となったのである。今日は診療設備は総て整えられた。

皇后陛下行啓 11月5日、皇后陛下横浜市震火災の情況、ならびに各臨時病院の傷病者の御慰問に行啓あらせられた。当日午後零時40分、当院にも行啓遊ばされ、親しく入院患者の容態ならびに診療の情況を御視察あらせられた。この日片山院長救療患者の情況を御報告申上げ、かつ本院の浩革書を宮内官に提出した。

10月25日罹災患者の状況を御軫念遊ばされ、思召を以て、本院入院患者78人に対し衣類一著宛を下賜された。一同慈仁なる国母陛下の尊き御心に感泣した。

(十全医院案内動員事務日誌記)
第2項 万治病院[編集]
1 被害と応急救護[編集]

同院は、南吉田町九百三十八番地にあって、市営の伝染病々院である。震災のため、自動車置場・看護婦寄宿舎・賄方居室・物置・病室廊下約30間以上は全潰した。第2号病棟・第4号病棟・第5号病棟等も全く使用できないほど大破した。その外薬局の医療用薬品材料等が顛落して、使用できない様になった。当時病院勤務職・看護婦・やとい傭人は皆患者の救護に尽くし、入院患者44名中、幸いに一名の負傷者をも出さず、一時病院内庭園広場に移し、敷布あるいは毛布を利用して、日覆を造り、3日間ここに避難さしたのであった。

9月3日午後、南の強風が吹いて大両が降ったので、毛布の屋根では患者を収容して置くことがききなくなったのでトタン板塀を破壊して、バラック建を造ったが、矢張り収容に不完全なので、第七号病棟(ベスト病室)が比較的安全なので、患者を慰めて、全部室内および廊下に収容し、患者の守護と治療とに努めた。一方早くも附近住民の負傷者の救護を開始し、医員1名、看護婦1名を派して、負傷者21名を収容した。翌2日は午前から、一般患者が25~6名来院した。一方横浜公園内仮市役所本部から急命があったので、午後2時、医員2名、看護婦3名を直に公園内に送った。派遣員なる浅野・山崎の両医員は、看護婦3名を連れ、僅にヨードチンキ少最を稀薄したものと、硝酸銀の少最と、その他の業品とを用意していた。焼野原に燃え残った材木などが転がっている所を、四苦八苦の想いでようやく通抜けて、伊勢佐木町に出で、鉄の橋を渡って、ようやく三時半頃に公園に着いた。グラウンドの端の黒山のような群集の中へ入と万治病院の救護班は来たと、多数の傷病者等は狂喜した。ただちに治療をしようとしたが、水がなく大いに困ったが、兎に角医員は外傷でない患者の多くは、一時的の治療を施した。即ち敺打療法や、接骨療法で医員と看護婦とが総掛りで、数百の患者を恢復させた。ようやく治療を済ませて、一同は午後10時帰院した。これが横浜公園内の救護班の最初であった。爾後引続いて同病院へ10月11日までに入院した患者は延227人、外来傷病者は延2870人の救護に繁多を極めたのである。

9月3日、亀の橋病院の入院患者8名を、同院医員・看護婦とが連れて来たので、これらを病室の一部に収容した。その他附近の罹災民は、当日から本院の治療を求めるもの多く、その雑沓一方ならなかった。9月2日以降の死体処置は、応急の処置として同院内の一隅に火葬場を設けて、16名を火葬に附し、それぞれの遺族に引渡した。

かかる混乱中における当座の困憊は、飲料水の欠乏と食料品の欠乏とであった。飲料水は最初岡村天神附近の流水を濾過して、使用に供したが、不便なことはいうまでもなかった。そこで同院傭人等達が井戸を掘穿し、8日後始めて幾分の水を得ることができた。従来患者の賄は請負契約であったが、9月6日に至って、全然患者に給する食餌原料品の欠乏を需めたが、不調に終わり、県市の救助を受けて、7日よりようやく供給を満たしたのである。

2 入院患者収容の状態および増加の状況[編集]

震災後ほど過ぎて、赤痢・腸チブス患者にわかに増加し、殆ど病室満員となった。器具・看護婦・使丁・傭人等不足のため、これ等補充の援助を仰ぐと共に、募集の広告を出した。第1期9月初旬にはバラック2棟に158人内外の患者を収容する病室新設の必要に迫って市当局者に謀って計画したが、木材欠乏のため、完成予定期遅れ、10月24日頃に至って落成し、収容することができた。

かくして9月1日以降、事務多忙を極め、医員・事務員・調剤員・その他傭人に至るまで、殆んど寝食を忘れて、救護に従事し、院長も昼夜兼行、諾般の指揮に従事して、今日になってやや病室の秩序も回復に向ったのである。(万治病院震災救護施設概況報告、同院医員談話)

第3項 横浜療養院横浜消毒所および隔離所[編集]
1 横浜療養院[編集]

横浜療養院は保土ケ谷町に設置せられていたのであるが、今回の震災において全く倒壊し、その被害も相当大なるものであった。当日ならびに直後の状況は左の報告文によりて知得されるのである。

大正12年9月1日午前11時58分強震襲来、別紙明細書の通り、多大の損害を得候。就中患者93名および看護婦その他合せて120余名居りし、病舎3棟震動と同時に全部倒壊、前掲の人員ことごとくその下敷となり、救援を求むる声、その中より聞え、凄惨その極に達し候。すなわち直ちに職員一同をうながし、全力を傾注して、その救助に努め、自ら抜け出でまたは救い出されし看護婦、軽症患者等と力を合せ、屋根を破り梁を片寄せて、翌朝(2日)午前10時まで作業を続けようやく救助せるは、患者12名、その他10数名におよび候えども、救助の効を秦せざりもの、患者11名、附添人1名、見舞人1名、合計13名の圧死者を出せるは、小職の甚だ遺憾とする所に御座候。その間当院賄方に炊出しを命じて、飢餓に備え、全員に令して盗難と火災を戒しめ、生残れる82の患者の看護を顧慮し、患者に安心を与えしめて、僅かに倒壊を免がれし廊下、その他を収容所に充当して、一時の急を救い候。幸にして看護婦2名の軽傷を除いて、職員46明一同無事なりしは不幸中の幸に有これ候。
すなわち人名救助一段落を告げしをもって小職はただちにその概況を報告すべく、衛生課に出頭(2日午前11時過ぎ)せしが、衛生課もまた既に焼尽し、隻影なく、公園に至りてようやく衛生課書記竹川寅吉氏に会し、一応の報告をなせしが、ついに課長には会見するの機を失い候。すなわち竹川書記の案内にて、青木助役・芝辻助役に会い、その情況を報告して医院災害後の処置と患者に対する看護、患者および職員に対する食料の供給、暴行鮮人に対する警備等をなすべく、相当の混乱を極め候。ことに当療養院は保土ケ谷町に属し候え共、畠畑の中に孤立せる建築物にして久保山の青年団警備隊および保土ケ谷青年団警備隊の警戒線外に有り、加えるに戸塚・保土ケ谷間鉄道線路工事に従事中の鮮入約100名、なお向こう側井土ケ谷方面の丘陵に現われしとの情報あり。日没して、青年団追撃の威嚇銃声益々甚だしく、弱き病者と若き看護婦の保護は、警備隊なしには到底不可能なるをもって、2日の如きは、日没後職員・看護婦全部協力して、患者を久保山青年団の警戒線範囲内なる久保山光明寺前の路傍まで、数町の間運びて、そのところに一夜を明し候。これにおいて自警の策をたて、即ち男子職員全部を3組に分ち、徹霄警衛の任務に服せしめ、11日まで続け来り、軍隊の警衛隊到着せしをもって12日より普通の宿直制度に復し候。
4日には衛生課書記山口松太郎氏来院、情況を視察して帰られ候。
2日朝、賄方の食料品を検せしに、はなはだ豊富ならず。交通不便の地にありて食料品の需供容易ならざるを感じ、朝夕2回の粥食となして、もって持久戦を採の策を講じ俟。幸にして市役所供給係より米・野菜・味噌等の供給を得て、6日より常食に復し、今日に至り候えども副食物の欠乏と砂糖の不足には、多少の不便を感じおり候。もっとも困難なるは飲料水の絶無に御座候。すなわちその供給には遠く保土ケ谷近傍、または光明寺裏まで協力して汲出しに往かざるべからざるをもって、院内松林内に井戸を掘り、その需用を充しおり俟えども、良質の飲料水を得ることを得ず、困難致しおり候。患者収容の場所としては、その後衛生課の了解を得、建築係に依頼して、バラック式の建築を造りて、病室・薬局・事務室・看護婦寄宿舎・賄所・消毒所・機関室・洗濯室・浴場に充当して、患者療養の道を講ぜんと致しおり候。思うに横浜全市焦土と化し、候上は凡て療養の途なき市民と相成、全市の結核患者は息者はことごとく収容せざるべからざる運びに至るべく、療養院の復旧に対しては、最善の努力を致し度何分の御配慮奉仰候。
大正12年9月14日
横浜療養院長
高橋省三郎(印)
‘横浜市長 渡邊勝三郎殿
2 横浜消毒所および隔離所[編集]

横浜消毒所および隔離所は南吉田町字南川外に設立されていたのであるが、左記報告書のごとく、相当の損害を被ったのであった。

大正12年9月25日
横浜市消毒所および隔離所書記 山田禰四郎
横浜市長 渡邊勝三郎 殿
消毒所および隔離所震災報告の件
右は去る9月1月の震災のため被害を生じたる個所左の通に候條此段および報告候也
消毒所
  • 汽罐は据付の煉瓦およびコンクリーに裂疵を生じ、蒸気管および各弁に数箇所破損せる個所あり。煙突は高さ78尺のところ、36尺の高所より切損す。煙道の煉瓦およびコンクリー裂疵を生じ、ために汽罐の据付直しを行い、県保安課の検査の上にあらざれば使用致しかね候。
  • 蒸罐は据付のコンクリーの手直を要すべく候。
  • 附属器具は修繕手入にて使用出来得べく候。
隔離所
  • 南吉田町938仮隔離所建物および附属家具共に全焼し、外囲のトタン塀も全焼致し候。
  • 汽罐および蒸罐は元据付位置に鉄材および煉瓦のみ焼残り候。
  • 備品消耗品薬剤品等全焼仕り候。
以上
第4項 本市救護所[編集]
1 被害と応急救護[編集]

本市救護所は、震災当日、同所の収容患者は180名であった。すなわち窮民21名、行路病人62名、精神病者81名、その他入所施療16名であった。激震と同時に、約350坪の病室は半潰して、疾病内一時大混乱を呈した。収容者の大部分は足腰も立たない行路病者と、老療者等であったから、いかに全員総がかりして救出うとしても、到底一時には搬び出すことは困難であった。幸に建物は半潰ですんだので、その後震動のやむのを見計らって、所員一同必死の努力をもって救出し、所長の指揮の下に、久保山電車停留場南方約500坪の私有空地に、一同を無事避難せしめた。それから以後三日間は同地にあって、4日よりは半潰の旧病室に立戻り、引続き入院および外来患者の救療に努め、その後10月20日までの救療数、外来患者3565名、入院患者49名に達した。

この久保山は本市の罹災者の大部分が避難した所で、無数の避難民中には、血だらけになった鮮人50名、警察署員に連れられて、同所に救護を求めた。中には5名の傷ついた哀れな朝鮮婦人も交っていた。全く誤解から兇刃に傷つけられた重傷者等は、所員の同情によって手当されて、恢復することができたのである。

市中は火の海と化している際とて、いかに医療薬餌を求めようとしても、到底望みの絶えたことであるが、久保山に逃げて来た罹災民中の傷病者は、幸にも救護所があったので、これに押かけて治療を乞うたのであった。ために当所ははなはだしく雑沓した。かくて同所は一切の医薬諸材を出して、ことごとく皆をこれが手当に使用し、更に窓掛け、敷布までも利用て、臨機の救療所を設けたのであった。ところが名前が救護所だからと云うので、食物を下れると思ってか、食料を求め来た者が多かったので、同所の残米全部を使い尽くし、震災前に買合せの馬鈴薯十俵をも、一般罹災者に配頒せねばならぬ様になった。かくして当所は医療に食糧に遺憾なきまでに、その任務を果したのであった。

同所に残った一つの奇談がある。それは何者かが、6名の死体を持って来て同所の庭に捨て置いたのであった。同所には人夫もないので、大に困っていたところが、収容中の一人の狂い男が勝手に死体を久保山へと運び出した。同所でも大に喜んでその後はこの男を頼んで、水を取りにやったり、その他へ使いにやったりして、大に役に立ったということである。

2 復旧状況[編集]

当所は、翌13年2月半潰建物を修築して、従来の如く患者を収容し、百八十名に達した。震災後市況不振のため、窮民は日々に増加する傾向を示しているのである。(震災救護施設概況報告同所長談話)

第5節 公営事業被害と復旧施設概況[編集]

第1項 公設市場[編集]

社会課救護班は真金町・港町・西戸部・南吉田の四市場は焼失し、本牧・青木町の公設市場は潰倒して、影を潜めたので、ここに社会課では救護班を作って、11日に配給部から白米12俵を貰い、1升30銭で巡回販売を始めたところ、たちまち売れてしまった。ここによって、公設市場を開始する事が急務の事と感じて、取敢えずバラック式小屋あるいは天幕で、根岸・本牧・蒔田宮ノ前・南太田・西戸部・弘明寺・岩亀横町・東軽井沢・浅間町・栄橋・中村町・蒔田・一本松・東神奈川の十三箇所に開設の準備をした。吏員達は自ら車を牽いて、市役所廉売の旗紙を掲げ、人々が最も欲している一樽の梅干と、一車の野菜とを売り歩いたが、一時間の中に売れ切れてしまった。こういう有様で、物資は益々不足を告げるのであった。ようやく21日になって、バラック式公設市場が出来上ったので米・塩・野菜・味噌・醤油・砂糖・梅干等を配給部から得て、各市揚に配布した。27日になって、臨時震災救護事務局から、救護米無償配給を打切ることになったので、公設市場を少くとも、十五箇所設け、米その他の物資を貯えて、一般の需要に不足のないようにした。しばらくして避難所となっている本牧・青木・磯子を加えて16箇所に市場を設けることとし、農商務省食糧局から白米を購入し、各市場へ運搬し、同省の指定値段をもって販売したが市民は豊富なる配給米を受けたので、一日わずかに2、30俵しか売れなかった。しかし味噌・醤油・砂糖等の売行きは多かった。市場では配給部、神奈川県農務課に交渉して物資の供給を仰ぎ、10月中旬、供給事務が震災救護事務局出張所に移ったので、同出張所から罹災市民のために、純良な物資を、低廉なる価格で受け、これを広く供給することができた。この間事務局の建設のもの、兵庫県から寄贈されたものが、公園・平沼・福富町・瀧ノ橋・日出町・翁町・山下町・鉄砲場等にできて、市場数は24となった。なお大正13年度には復興院および震災善後会、並にスタンダード石油会社からの寄贈のものを加えて合計27箇所の市場ができる予定となった。

大震災に因って、物資の欠乏は甚しかったが公設市場は物価を手ぎわよく調節して、よき物を安売して、罹災民の救護につくした。それがために市民の生活は安定して、業務に努めることができた。今や横浜市の復興は官民一致の協力に依り、日一日その歩を進めている。

9月1日以降各市場の売上高並に現在市場所在地は左のごとくである。 大正12年自9月至12月市場別売上表

大正12年自9月至12月市場別売上表
市場別 9月 10月 11月 12月 合計
本牧 368,980 4,187,470 3,635,435 1,832,070 10,023,955
上台 1,361,640 3,997,290 3,136,810 2,950,440 11,446,180
公園 123,200 4,208,690 4,082,290 1,777,990 10,192,800
根岸 941,530 6,529,870 6,234,780 5,398,620 19,104,800
中村 598,810 3,127,790 2,913,320 900,100 7,504,020
宮ノ前 904,520 4,744,810 4,827,580 2,930,330 13,407,240
弘明寺 982,420 4,383,260 4,286,420 2,414,100 12,066,200
西戸部 575,550 5,643,830 3,894,710 2,535,120 12,649,210
浅間町 734,070 3,481,220 3,474,855 587,250 8,277,395
青木 1,076,540 5,453,590 3,407,435 3,789,030 13,726,595
東神奈川 623,690 3,856,455 2,591,620 274,250 7,346,015
一本松 652,340 3,479,750 3,835,210 892,910 8,860,210
南太田 1,084,440 5,111,320 4,064,410 1,838,680 12,098,850
磯子 241,975 2,685,465 2,114,240 2,293,770 7,335,450
鉄砲場 267,950 4,757,080 6,405,270 6,840,340 18,270,640
東軽井沢 2,687,735 2,605,400 1,520,760 6,813,895
岩亀横町 20,790 4,581,195 4,111,675 3,302,062 12,015,722
栄橋 2,134,650 5,308,090 3,443,910 10,886,650
平沼 1,453,920 3,471,460 1,483,970 6,409,350
福富 3,438,840 2,431,900 5,870,740
滝ノ橋 37,782,220 37,782,220
日ノ出 37,503,500 37,503,500
山下町 3,030,650 3,030,650
行商 1,284,835 1,284,835
庁内 48,490 10,384,980 8,158,230 1,298,850 19,890,550
合計 11,891,770 86,890,370 85,998,080 129,052,822 313,833,042
大正12年自9月至12月市場売上品別表
市場別 9月 10月 11月 12月 合計
白米 10,499,320 30,556,315 29,267,155 19,388,720 89,711,510
玄米 4,441,140 4,441,140
丸麦 24,640 13,680 161,080 199,400
小豆 4,840,320 320,940 900,480 6,061,740
製粉 4,476,530 5,100,700 1,054,410 10,631,640
素麺 4,000 2,000 6,000
片栗 1,600,000 1,600,000
食塩 104,370 77,860 52,260 234,490
味噌 137,570 362,600 355,060 627,530 1,482,760
醤油 313,280 1,453,420 687,820 1,005,730 3,460,250
砂糖(天光) 1,018,040 3,622,895 1,462,180 6,103,115
砂糖(白) 356,030 1,950,770 393,880 3,801,520 6,502,200
沢庵 31,000 3,255,030 59,580 3,345,610
福神漬 383,750 113,480 33,120 530,350
奈良漬 192,590 226,520 27,480 446,590
梅干 15,680 76,910 767,020 96,880 956,490
ラッキョウ 9,690 700 6,870 17,260
野菜 533,760 185,475 719,235
鮭缶 1,871,550 652,030 59,800 2,583,380
ベーコン 511,000 467,800 31,000 1,009,800
コンビーフ 736,240 9,000 745,240
鰯缶 119,400 27,000 146,400
茄子缶 1,040 1,040
赤貝缶 1,200 300 1,500
パインアプル 160,250 143,700 303,950
ソース 643,840 169,800 813,640
ミルク 845,920 301,000 1,146,920
36,130 166,580 24,190 58,870 285,770
煮干 218,060 6,200 224,260
塩豚 831,850 831,850
昆布 315,000 315,000
デンブ 23,600 23,600
鶏卵 2,974,860 21,000 2,995,860
サイダー 1,711,040 15,360 1,726,400
堅パン 166,210 766,660 176,390 1,109,260
ビスケット 12,230 71,750 83,980
下駄 829,960 10,560 514,000 1,354,520
呉服(組) 270,000 147,000 417,000
木綿表地 102,450 148,650 251,100
同 裏地 86,930 92,350 179,280
同 晒 25,140 57,050 82,190
同 綿 30,200 58,550 88,750
1,196,650 4,147,100 5,343,750
茣蓙 133,950 154,400 288,350
壁紙 62,480 62,480
紙張 17,500 17,500
亜鉛板 15,356,000 1,772,150 210,900 17,339,050
洋釘 872,125 3,819,040 156,550 4,847,715
紙国旗 112,650 55,020 167,670
37,402,100 37,402,100
木炭 14,832,915 27,118,200 6,236,960 48,188,075
301,550 301,550
空箱、空袋 1,000 2,000 3,000
肉汁 282,000 44,400 326,400
干鯣 23,000 504,400 527,400
毛布 210,500 11,922,500 12,133,000
石鹸 8,750 8,750
切餅 7,729,520 7,729,520
干瓢 252,000 252,000
紅茶 179,450 179,450
塩鮭 284,520 284,520
缶詰類 4,926,410 4,926,410
外套 6,849,000 6,849,000
洋服地 3,372,000 3,372,000
ネール 1,933,600 1,933,600
荒物 221,800 221,800
鰹節 1,612,440 1,612,440
琺瑯鉄器 840,700 840,700
金物類 785,190 785,190
馬穴類 2,839,300 2,839,300
大工道具 879,860 879,860
合計 11,891,770 86,890,370 84,997,090 129,053,820 312,833,050
市場売上日別表(自大正12年9月至大正12年12月)
市場別 9月 10月 11月 12月
1日 1,294,200 3,952,165 1,797,590
2日 2,096,500 1,467,220 2,847,890
3日 1,513,180 2,025,650 1,540,800
4日 1,563,460 1,923,370 1,158,310
5日 2,213,750 2,404,245 2,241,670
6日 1,490,500 2,889,840 1,723,330
7日 1,998,350 2,173,795 4,078,040
8日 1,716,130 2,535,590 898,730
9日 2,935,110 3,707,285 2,075,470
10日 1,610,800 2,160,970 613,990
11日 2,203,460 2,514,790 1,726,650
12日 138,200 1,673,890 2,698,690 6,220,500
13日 316,230 6,535,430 1,444,650
14日 2,362,900 1,563,585 1,968,940
15日 530,630 855,620 6,458,840 720,810
16日 133,840 2,269,050 3,315,580 602,340
17日 1,710,320 2,316,910 953,260
18日 153,060 2,273,945 2,353,900 934,360
19日 81,630 1,647,630 4,688,860 980,890
20日 4,750 2,214,975 2,232,665 676,620
21日 2,052,370 4,026,300 804,850
22日 1,739,850 3,790,650 3,248,470 590,670
23日 630,930 6,242,260 4,164,200 570,610
24日 457,730 3,557,485 1,951,510 17,147,150
25日 1,875,740 7,431,800 3,542,950 19,176,910
26日 516,900 5,796,645 2,181,750 12,495,520
27日 971,240 4,833,180 5,076,340 14,406,980
28日 1,272,320 3,393,940 2,293,890 12,668,930
29日 1,567,960 4,466,320 2,644,210 6,000,080
30日 1,500,760 3,146,520 2,039,860 8,321,000
31日 3,109,930
合計 11,891,770 86,890,370 85,998,080 129,052,820

公設市場名称および所在地(大正12年12月現在)

横浜市設本牧小売市場     本牧電車終貼
同   上台小売市場     上台幼稚園隣
同   公園小売市場     公園グラウンド
同   根岸小売市場     根岸字堀割坂下橋際
同   中村小売市場     中村町共同住宅館隣
同   蒔田宮前小売市場   蒔田宮前停留場際
同   弘明寺小売市場    高等工業学校前
同   西戸部小売市場    西戸部願成寺境内
同   浅間小売市場     浅間町浅間橋畔
同   青木小売市場     青木七軒町鉄道側
同   東神奈川小売市場   東神奈川駅前
同   南太田小売市場    南太田新坂下
同   蒔田一本松小売市場  一本松清水橋畔
同   磯子小売市場     磯子町字浜
同   鉄砲場小売市場    大和町停留所際
同   東軽井沢小売市場   神奈川高等女学校下
横浜市設岩亀横町小売市揚   戸部四丁目掃部山下
同   栄橋小売市揚     三春町栄橋畔
同   平沼小売市場     平沼ゴム会社跡
同   福富小売市場     福富町宮川橋通
同   瀧橋小売市場     神奈川町字宮ノ町
同   日出小売市場     日出町長者橋附近
同   山下小売市場     山下町前田橋畔
同   翁小売市場      翁町共同住宅館跡
第2項 日用品バザー[編集]

臨時震災救護事務局より委託された物資販売のために、左記の通り新設、日出・瀧橋両市場に於いて、日用バザーを開催した。物資欠乏しているおり柄とて、購買者は場内に殺到した。遂に予定の5日間を変更して、12月30日まで日延べをした。この間係員は商品の配給販売の監督に全力を尽くし、総売上77118円83銭の好成績を収めて、殆んど販売品全部を売り尽くし、12月30日この此の盛拳を終った。

1.日時 自大正12年23日 至 同年12月30日(8日間)
1.場所 日出小売市場、瀧橋小売市場
1.販売品種 靴・外套・毛布・台所用具・日用食品等三百余点
第3項 精米所[編集]

9月1日の大震災直後、公設市場販売用の米は市内数箇所の精米所に委托して、精米をさせていたが、今なお送電意の如くならず、機械は不活発で、かつ各精米所へ多量の玄米を輸送運搬するのは当時甚だ困難であった。到底市民の糊口を滴足することはできないので、市場の増設と共に、益々不便のあることに鑑み、10月中旬、市営精米所の建設を企画し、平沼ゴム会社構内を卜して、直ちに工事に着手し、12月下旬、機械据付その他一切の工事を完了した。

右精米所は三十馬力の電力を有し、一日平均優に200俵を精米し得べく、将来市民の利益となることは確かである。

第4項 住宅組合[編集]

大正14年4月住宅組合法発布に基いて、組合の設置を申請して来た組合は23で、その他申込金額は96万円に達した。しかし本市に割り当てられた低利資金は、僅に27万円に過ぎなかった。依りて市は大正11年3月に於いて、27万円を起債し、組合中確実のものとして許可せられたる17組合に貸付ける事とした。そしてその貸付は組合事業の住宅建殷の進捗に応じて、部分的に所要額を交付するものにして、協立住宅組合中に一戸、横浜相互住宅組合中に一戸未着手あるのみで、他は全部竣工したが、不幸にして9月1日の震災のため焼失倒潰したもの多く、その被害程度は別紙調害の如くである。

右損害に対する善後策について、11月20日組合長を召集し、各組合長の意見を徴した所、何れも大同小異にて等しく、損害額の免除復旧費の借入れ利子の免除償還年限の延長等にして、結局損害の程度を市に於いて調査の上、その損害額を補給し、むこう一箇年間償還の廷期を乞い、大正14年度下半期分より、従前通り償還し得るよう嘆願することに一決し、市としてもこれに対し、組合の存続を希望するが故に、各組合から提出された陳情書の趣旨を斟酌し、目下内務省に交渉中である。

次に大正12年6月5日、第2回住宅組合資金21万6千円を政府から借入れ、のの内住宅組合法に依る住宅組合に、13万6千円、産業組合法に因る住宅組合に8万円貸付ける事と、申込書を提出せしめたが、これまた今回震火災のため、これ等書類も焼失したるを以て極力これが調査を行い、相当の方法を講じて、各組合に対し貸付をなす見込である。なお第3回借入金額については目下講究中である。

大正15年度分住宅組合被害調査
組合 組合員数 貸付金額 建築数 焼失 倒潰 半潰 小破 損害額
17 123 270,000 122 14 34 39 34 126,180
第5項 簡易食堂[編集]

一般公衆の便宜を計る目的で、大正8年4月から、開港記念横浜会館地下室を利用して、市営食堂を開始したが、本食堂は場所柄中流階級の利用するもの多く、食費は安く衛生的なので、年を逐うて食事する者の数を増やした。その後労働階級者にも簡易食堂を設ける議が起って、これを中村町・万国橋の職業紹介所に併設する事に決し、大正10年12月より開始し、食事する者が多かったが、食堂は不幸にして全部焼失した。 震災直ぐ前の前記3食堂の事業成績は、帳簿記録の灰熾したるを以て記すことはできないが、震災前に於ける経営方法および食費は左の如し。

経営方法
本市では割烹業に多年続験を有し、資力および信用ある。当業者を指定し、食事供給を請負しめ役烹食事等の諸設備および装飾その他電燈・水道料は請負人に支弁させた。しかし本町食堂は建物使用料として、毎月売上高の百分の二を納付せしめ、中村町・万国橋の両食堂は、使用料を徴集しなかった。
食費
本町 食堂 和食 18銭 洋食 30銭
中村町 食堂 朝食 10銭 昼食 13銭
万国橋 夕食

なお右3食堂の他、中村町・根岸・翁町各共同住宅館内居住者に供給する食堂があったが、これまた震火災のため、翁町の分は全焼し、根岸の分は全潰し、中村町の分のみ残って、目下修繕着手中である。次で震災後市内吉田橋際に設置した市営食堂は、兵庫県寄贈に係るものにして和洋両食を供給し、食事する者は凡そ1日500人位で益々盛大になりつつある。なお大正13年度には、本県で市内六箇所に食堂を建設する予定である。

第6項 公設浴場[編集]

震災前、本市に於ける公設浴場はただ、根岸・中村町・神奈川・久保山各住宅敷地内に附属のものだったが、今回の震災に因って前2者は破損した。しかし神奈川・久保山の浴場はこれを修理し、中村町浴場は目下復旧工事に着手した。 なお震災後兵庫県寄贈に係るはバラック式公設浴場を左記七箇所に建設し、1日千人内外の入浴者を見るようになった。この他大正13年度において大震災善後会の寄附金の一部を以て平沼町二丁目24番地に公設浴場を建設する予定なった。

  • 西戸部町願成寺下
  • 日ノ出町2丁目
  • 元町四丁目
  • 羽衣町弁天社内
  • 中村町玉泉寺隣
  • 南太田新坂下
  • 横浜公園内
第7項 市営住宅[編集]

本市の大正8年4月28日の大火は、3千余戸の大小家屋を焼失し、極めて惨状を呈した。この時に当って罹災者救助のため集められたる有志の寄附金は単に一時的救済のみに使用する事なく、その一部を割きて、住宅難の緩和に資するため、住宅建設を計画し、始めて久保山に市営住宅を建設した。しかるに本市一般住宅払底を緩和救済せんがためには更に大規模の住宅を建設する必要を認め、大正9年度から、これが計画実行に着手する事となった。これに要する経費は政府より低利資金105万7千500円を偕入れ、中村町・神奈川・根岸の3住宅を建設した。なお本市に独身者および下級俸給者等に、簡易にしてかつ清楚なる居室を提供するの目的でさきに中村町住宅敷地内に鉄筋ブロック2階建共同住宅館1棟を建設したが、希望者多数に上って、対底これが要求に応ずることできなかったので、同敷地内に木造2階建、柏葉住宅敷地内に木造三階建、共同住宅館各一棟を建設し、大正11年10月初旬、これを貸し与えた。次で翁町に鉄筋コンクリート造3階建共同住宅館を設置して大正12年7月1日から開始し、益々主旨を徹底せしめんとせしが、不幸にして震火災のため是等住室および共同館は、或は全焼し、或は全潰半潰した。今震災前に於けるこれ等住宅の情況および震災後に於ける損害情況を示せば左の如し。

なお右破損に対しては修理に着手し、中村町・根岸・久保山の全潰の分は、バラック式に建設着手した。なお修繕の終ったものには大正13年1月から家賃を微集する事とした。

因に震災前8月末日までの家賃収入を記すれば左の如し。

久保山住宅 中村町住宅
及共同館
斉藤分住宅 柏葉住宅
及共同館
古井戸住宅 翁町共同館
4,868円 18,353円 16,711円 11,238円 2,000円 2,138円
1月より8月 1月より8月 1月より8月 1月より8月 5月より8月 7月より8月
普通住宅
名称 位置 貸与開始月日 敷地坪数
(坪)
建坪数
(坪)
建坪総経費
(円)
世帯数
久保山住宅 南太田庚耕地及
西戸部富士塚
大正9年3月1 2,837 621 100,739 74
中村町住宅 中村町池の下 大正10年5月15日 5,400 1,532 326,334 156
斉藤分住宅 神奈町斉藤分 大正10年6月6日 5,544 1,387 395,879 188
柏葉住宅 根岸柏葉 大正11年4月11日 2,879 708 200,457 51
古井戸住宅 西戸部古井戸 大正12年5月1日 435 42,950 101
共同住宅
名称 位置 開始年月日 建物様式 建坪数
(坪)
総経費
(円)
世帯数
中村町第一共同館 中村町住宅敷地内 大正9年5月10日 鉄筋ブロック2階建 203 45,000 32
中村町第二共同館 同 上 大正11年9月20日 石綿盤瓦葺木造二階建 117 26,000 42
柏葉共同館 柏葉住宅敷地内 大正11年10月16日 石綿盤瓦葺木造二階建 591 97,000 55
翁町共同館 翁町五丁目 大正12年7月1日 木造鉄網コンクリート
造三階建
822 113,985 88
震災後に於ける住宅及共同住宅館
名称 全潰 半潰 小破 摘要
久保山市営住宅 51戸 6戸 16戸 上記半潰中には浴場1戸を含む
中村町市営住宅 73戸 48戸 35戸 上記全潰中には浴場1戸を含む
斉藤分市営住宅 35戸 153戸
柏葉市営住宅 55戸
古井戸市営住宅 101戸 前記小破1戸中には住宅事務所を含む
179戸 89戸 305戸
中村町第一共同住宅館    小破
中村町第二共同住宅館    全潰
柏葉共同住宅館       全潰
翁町共同住宅館       全潰
第8項 市立託児所[編集]
  • 富士見町託児所 富士見町一丁目3番地
  • 中村町託児所  中村町市営住宅敷地内

震災に因って前者は全焼し、後者は倒壊したが、善後会の指定寄附により、右両者を復旧建設し、前者は13年3月より、後者は9月より開始した。

第9項 市立児童相談所[編集]
  • 南吉田町十全医院内

富士見町に設けられて在ったのが、大震災に全焼したので、一時事業を中止していた。14年9月1日から、十全医院内に再び設け、開所して、口腔相談部をも加えて、事業を拡張した。

関連項目[編集]