横浜市震災誌 第三冊/第10章

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第10章 運輸交通[編集]

第1節 概況[編集]

災害に因りて、全市にわたる交通諸機関はことごとく原型を失い、全くその用をなさざるに至った。街路はことごとく崩壊あるいは亀裂し、加えるに至る所、倒壊家屋と飛散した瓦礫・木片のために、路面を塞ぎ、電柱の折損、電信・電話等の架空線は垂下して、あたかも蜘蛛の巣の如く散乱し、電車軌道は波の如く乱され、危険と不便とを感ぜしめすに置かなかった。更に橋梁を見れば、全市総数八十六橋の中、僅に大江橋・吉田橋・弁天橋の3橋のみを残して他は殆んど墜落あるいは焼失し、その骸型も止むるに過ぎなかった。隅々災厄を免かれたものの有るかと見れば、夫等は辺隅の地に架せられた橋のみで、要路に架したもので無かったからさしたる効果を挙げなかったのである。かくの如く道路その他交通機関の破壊に因りて、徒歩さえ困難なる状態に陥ったのであるから、いわんや車馬の通行などは全く思いも寄らぬ程であった。

さらに市内の河線を見れば護岸は至る所破壊埋没し、男女の識別も付かぬ死骸と。艀船の惨骸、水面に浮遊し、その他遭難の途路に放棄した家財家具の雑片は、浮沈して船舶の航行を不可能となした。されはこの際、一刻も早くこれ等の支障物を取除きもと通りの路を開かねはならぬ。物資の配給にせよ、避難民の輸送にせよ、一般通信連絡にせよ、最大の急務は即ちこの交通支障を取去る事であって、路線の回復に必死の努力を以て当らねばならぬ。県市は九月六日より、緊急整理に着手し、本市は更に九月八日、交通係を設けて、道路の連絡を図り、日夜寝食を忘れ、不断の努力を以て、常該係員を激励し、路線の修覆開通に努めたのである。その結果、着々復旧の歩を進め、さらに一方陸軍技術員本部工兵隊の献身的活動と相俟って、墜落・焼失等に遭いたる橋梁の修理・築造に着手した。さらに河川の障碍物を除去し、一先づつ枢要の橋梁中、二十余橋を完全にし、他の四十余橋は本市が直営工事を以て完成し、九月二十日頃になって、始めて一般交通がほぼできあがるに至ったのである。

なおこれ等の橋梁および道路の修復に対し、諸用材料は、市内二十有余の商人より徴発し、約三千三百尺〆(尺〆=約0.33立方メートル)に及んだ。次で臨時震災救護事務局神奈川支部の援助とともに電話架設の計画をなし、市内電気軌道の復旧のためには鉄道第一連隊の援助を得、鋭意線路の修整に努めた。その結果、十月二日には軌道の修復につれ、神奈川終点より馬車道まで、電車の開通をみたのである。その後、日を追って工事も進捗し十月二十六日には殆んど全線開通の域に達したのである。それと共に、自動車道も通行殆んど支障なき程度に運行し得た。ここに自動車に関して特記せねばならぬ事は、震災のために、車馬の機関交え、自動車を多数移入して使用したのであるから、震災前に比して、著しくその数激増をみるにおよんだのである。

陸上の已上のごとき状態なるも、一方海上においては、災前三千二隻(240,160トン)の艀船は、直後には千七百七十隻(141,80トン)を残した。そして鋭意艀船建造の結果、翌三月末には約二千五百隻(約20万トン)に回復するに至った。それより已後、急速に増加の趨勢となった。艀船の不足と港内設備の破壊と、なお復興材料免税期が三月三十一日までの期日であったので、俄然輸入貨物は輻輳した結果、京浜間および港内荷運賃は、著しく騰貴を来したのであるが、本港に陸揚せらるる貨物の中、一割は陸路、七割は海路にて、東京に輸送せられ、他の一割は東北地方に向い、他の一割は横浜およびその附近に消化せられていると云う傾向から、海路の交通も漸次復旧の兆を示したのである。

第2節 道路[編集]

前記の如く、全市にわたって道路は破壊され、交通全く杜絶の状態であったので、災後の急務は、交通を安全ならしむるにありとして九月八日、交通係を設置した。そして工兵隊の援助を得て、先ず墜落および焼失橋梁の修理を行わんとし、枢要橋梁の内二十余橋を完全ならしめ、外四十余橋は本市直営工事を以て完成したる結果、一般交通に便利を与えたのである。

一体震災後の道路は崩壊、亀裂、家屋の倒潰、崖崩れ、電柱折損等で、全くその路線を失ったのであるから、迅速にその開通を計ることが急務である。そこで各技術員に命じ、作業に従事せしめたところ、各自奮励努力、人夫を督励し、路線を開鑿し、漸く交通の安全を得るの程度に至ったが、水道線の検査に伴う道路掘鑿工事が伴って起ったので、これがために交通を阻害されたこともまたすこぶる困却したのであった。

河川障碍物の除却、工兵隊と共同して、これが作業に従事し、以て船航の安全を計たのである。また一方工兵隊に依頼し、市内大建築物の残骸を爆破した。橋梁および道路の材料は、市内商人三十六人から約三千三百尺ゲを徴発して、工事材料に充当し、運搬車は車馬係から供給を受け、人夫は人夫係に交渉し使役することを得た。

吏員・人夫等は何れも罹災者であるにも拘わらず、日夜寝食を忘れ、炎熱と苦闘しつつ献身的努力をなし、この難工事を促進完成せしめた功績は、永く市民の記憶に留めねばならぬことである。附けて云うが、この際人夫に、労銀の外に、昼食料として米を配給したので、何れも献身的努力を捧げて、各工事を促進せしむることを得たのである。左に道路修復工事の経過を挙げれば九月九日までに開通した道路は

自動車道としては横浜市役所(仮)前より伊勢佐木町を経、磯子郡市境界に至る路線。
横浜市役所(仮)前より東神奈川に至る路線。
徒歩道としては元町西の橋(電車専用橋)より山手墜道を経本牧に至る路線。
羽衣町より鶴ノ橋・扇橋・車橋を経、地蔵坂を上り山手に至る路線。
東神奈川より子安町郡市境界に至る路線。
横浜駅前より戸部橋・平戸橋を経、岡野町・浅間町に至る路線。
磯子郡市境界より杉田方面に至る路線。

等であるが、十一日には万国橋通および税関傍らより新港橋を経て岸壁に至る通路は、工兵隊の修理に依るもので、さらに県庁仮事務所々在地を中心とする横浜市内街路の障碍物も漸次除去され、車輌の交通も可能となった。それ等路線の大略を示せば左の如くである。

桜木町駅前を経、入船町横浜船渠会社構内に通ずる水陸連絡線。
弁天橋を渡り、本町通り県庁裏港務部前、海岸通りを経、山下橋に通ずる水陸連絡線。
大江橋・吉田橋・伊勢佐木町・鶴ノ橋・扇橋・車橋・地蔵坂を経、北方町・本牧町・根岸町・海岸を通り、八幡橋に出て、電車通八幡橋線に沿い、池下橋・駿河橋を渡り、日本橋通りより伊勢佐木町に帰来する環状通路。
地蔵坂上より根岸競馬場側を通り、瀧の下海岸に通ずる前記環状線直径道路。
横浜駅前より電車線戸部線に沿い、栄橋を経、日本橋通りに出る線路。
前号路線より平戸橋を渡り、平沼町・岡野町を貫き、神奈川浅間町に於いて、旧東海道線に通ずる路線。
西戸部町より保土ケ谷町に通ずる路線。

神奈川青木町陸橋より浅間町を経、保士ヶ谷停車場に達する旧東海道線も開通を見るに至った。更に十四日までには、一号国道弁天橋脇より横浜船渠株式会社岸壁に至る道路の障碍物除去も済み、万国橋通り税関傍より新港橋を経、岸壁に至る間も復旧し、かくして市内の道路の応急補修は九月十四日までにほぼ完了した。そして更に是等の道路を車馬の並行し得る程度に取り広げ、なお一面に於いては更に比較的重要なる道路も、順次左記順序を以て障害物を除去し、十月二十日現在に於いては、殆んど交通上何等の支障なきまでに至ったのである。

子安-神奈川-桜木町-弁天橋-本町-海岸道路-山下橋
桜木町-吉田橋-伊勢佐木町-駿河町-磯子-杉田
駿河町-弘明寺
七軒町-保土ケ谷。
伊勢佐木町一鶴ノ橋-車橋-本牧
水上警察-花園橋-扇橋-千歳橋-日枝橋
横浜税関-裁判所前
万国橋-吉田橋(万国橋・裁判所前・煉瓦取り除き)
吉田橋-羽衣町-駿河町-日本橋
ガス橋-初音町-井土ヶ谷
山下町-小港-本牧-八幡橋
地蔵坂-不動坂
吉田橋-都橋-野毛町-戸部町
横浜駅-塩田-境ノ谷
第一日枝小学校-山王橋-井土ヶ谷
谷戸橋-山手本町-地蔵坂
道場橋-日本橋-栄橋-清水橋
平戸橋-平泊橋-新田間橋-第一号国道
塩田橋-沼野橋-第一号国道
三吉橋-横浜橋—末吉橋
三吉町分岐点-山吹橋-伊勢佐木町
谷戸橋-元町-亀ノ橋
山下町-本村通-加賀町
尾上町および住吉町

等である。更に本市附近に於ける道路は、横浜市・厚木町間の交通は、府県道、横浜・中野線および厚木・東京線より相模橋(落橋)まで、現に乗合自動車を運転するに至り、横浜・戸塚町間は県道伊勢佐木町・戸塚線の応急修理もようやく成った。但し逓信省主管地下線用として掘鑿した場所所在に存したからヤットのことで自動車を通ずるを得た程度であった。横浜・鎌倉間は鎌倉町・小袋および久良岐・鎌倉郡界、鍛冶ヶ谷坂に土石の大崩壊があり、工兵隊に於いてその除去に努め、その後一週間を経、車輌を通ずるに至った。藤沢・片瀬間は十四日より自動車を通じ得べく、藤沢・鎌倉間、大通橋外一橋落橋し、鎌倉大仏坂の土石が崩壊したため、工兵隊に於いて応急修理を進めたので、ようやく十五日頃より自動車を通じ得た。鎌倉・逗子・田浦間は、府県道鎌倉・三崎線および逗子・田浦線により、既に乗合自動車を運転し得た。横浜・逗子間は、久良岐郡金沢村富岡墜道二の内一は抗口土石崩壊し、一は拱項陥落したのであるから、当時は自動車の交通不能であった。是より先き東海道の内京浜国道は、改築工事施行中に属し、未だ公用の運に至らなかったが、震災のため一層交通頻繁を来したに拘わらず旧道は六郷川崎も破損して、その用をなさず、よって第一着手として、十月中旬以後人の交通に耐えるべき程度の構造に修理した。次で工兵隊の助力を得、車馬の通行する程度に仮設工事を施行した。これに因りて京浜両地の交通は円満に行われたのである。横浜以西に属する東海道は、路面の亀裂・陥落・崩壊多く、橋梁もまた破損せるもの多く、自動車の交通も不可能の状況に陥り、先ず倒竣家屋の除去に力め、次で大鋸橋・馬入橋墜落に由りて杜絶したる交通は渡船に依りて連絡を図るの外一方仮橋の架設を急ぎ、馬入川橋は新馬入川橋の材料を利用して、自動車の通行を図った。大磯以西箱根間に於いては、塩見橋・坪切橋・酒勾橋墜落し、山復の崩壊多く、交通杜絶したので、工兵隊および重砲兵隊の援助に依って、徒歩通行に適する架橋を終えたのである。(工兵隊の活動の章参照)(市日報、神奈川県交通部および横浜市交通係査調)

第3節 橋梁[編集]

道路の破壊と同様、橋梁も前記の如く殆んど二・三を残したのみで、他はことごとく焼失、或は墜落し、無残なる残骸を残したのみであるが、本市は直に応急工事に着手したのである。今その完成した橋梁について左に九月廿四日の調査を示そう。

西ノ橋
桁および楷板全部焼失し、九月十九日、市交通係にて修繕した。同橋は鉄楷(トラス)通行に支障はなかった。
ドンドン橋
墜落し、九月二十一日、市交通係にて、解体引揚げをした。同橋は民有橋である。
車橋
橋台沈下し、その他異状なく九月廿二日、市交通係にて修繕した。同橋は木橋。
道場橋
全部焼失したが、九月二十日市交通係にて架設した(木橋)。
久良岐橋
両台破損し、九月十四日、市交通係にて修理した(木橋)。
日枝橋
橋台沈下し、九月十三日、交通係にて修理した(木橋)。
共進橋
全部焼失し、市交通係では、一月三日、架設する予定である(木橋)。
南吉田橋
全部焼失し、交通係にて修理中である。(木橋)。
長島橋
全焼し、交通係にて架設中(木橋)。
葭谷谷橋
墜落焼失し、交通係にて架設中(鉄橋、Iビーム)。
都橋
橋台沈下し、橋面焼失した。九月廿五日修理した(鉄橋、Iトラス)。
長者橋
全部焼失し、九月廿三日架設した(木橋)。
旭橋
全焼し、架設中(木橋)。
黄金橋
全焼し、九月廿二日架設した(木橋)。
花園橋
橋面焼失し、九月十五日修理した(鉄橋、トラス)。
港橋
橋面大部分焼失および崩壊し、九月廿二日修理中(鉄橋、トラス)。
豊国橋
三橋の内一橋墜落し、架設中(鉄、トラス)。
柳橋
全部焼失し、架設を要す(木橋)。
緑橋
全部焼失し、架設中(木橋)。
浅間橋
同上。
高島橋
同上。
八千代橋
同上。
碧海橋
同上。
権三橋
全部焼失し架設中(木橋)。
松影橋
同上。
漣橋
全部焼失し、未だ架設せず(木橋)。
宮淵橋
同上。
寶橋
同上。
平戸橋
橋台崩壊し、九月十一日修理した(木橋)。
平沼橋
両橋台崩壊。楷脚一部破損し、九月二十六日修理した(木橋)。
平岡橋
橋台沈下し、九月十五日修理した(木橋)。
沼野橋
橋台崩壊し、九月十六日修理した(木橋)。
道慶橋
焼失し、九月十八日架設した(木橋)。
一本橋
焼失し、未だ架設せず(木橋)。
鶴ノ橋
橋沈下し、九月十日修理した(木橋)。
山吹橋
橋面一部焼失し、九月十日、交通係にて修理した(木橋)。
横浜橋
両橋台崩壊し、九月十二日修理した(木橋)。
日本橋
両橋台崩壊し、九月十三日修理した(木橋)。
千歳橋
同じく九月十二日修理した(木橋)。
根岸橋
橋台破壊し、九月二十日修理した(木橋)。
八幡橋
両橋台破損し、九月十五日修理した(木橋)。
錦橋
橋面焼失し、九月十五日修理した(鉄橋、Iトラス)。
戸部橋
橋面全部焼失し、九月十二日修理した(鉄橋Iビーム)。
栄橋
橋面六分焼失し、九月十四日修理した(鉄、Iビーム)。
駿河橋
二分の一焼失し、九月十五日修理した(鉄橋Iビーム)。
瀧ノ橋
橋面一部焼失した(鉄Iビーム)。
吉浜橋
前後取付け、九月十二日修理した(鉄橋、プレートガーター)。
月見橋
取合破損し、九月十五日修狸した(鉄、Iビーム)。
新田間橋
橋台破損し、九月十九日修理した(鉄橋、Iビーム)。
入江橋
橋台崩壊し、九月十日修理した(木橋)。
計 51橋

工兵隊施工に係るもの

谷戸橋
右岸約十尺墜落し、九月十七日鉄道第二連隊で修理した(鉄橋、トラス)。
前田橋
橋板全部焼失し、九月十五日、工兵一・二で修理した(鉄橋、ブレートガーター)。
亀ノ橋
全焼し、九月二十一日工兵一・二で張替した(木橋)。
扇橋
全焼し、十月三日工兵一・二で架設した(木橋)。
東橋
両橋台沈下し、橋脚および桁は残ったのを、九月二十九日工兵一・二で架設した(木橋)。
三吉橋
全焼し、九月二十八日、工兵一・二で架設した(木橋)。
宮川橋
全焼し、九月三十日、工兵一・四で架設した(木橋)。
紅葉橋
全焼し、九月九日、工兵五で架設した(木橋)。
花咲橋
全焼し、九月二十六日、工兵五で架設した(木橋)。
桜橋
全焼し、九月八日、工兵五で架設した(木橋)。
築地橋
墜落し、九月十四日、工兵一・二で架設した(鉄橋、Iビーム)。
末吉橋
全焼し、九月二十三日、工兵一・二で架設した(木橋)。
万治橋
全焼し、九月二十九日、工兵一・二で架設した(木橋)。
蓬莱橋
橋面焼失し、九月二十四日、工兵一・四で修理した(鉄橋、トラス)。
千秋橋
全焼し、十月十日、工兵一・四で架設した(木橋)。
武蔵橋
全焼し、十月十二日工兵一・二で架設した(木橋)。
日ノ出橋
橋台一部崩壊し、十月九日、工兵一・二で修理した(木橋)。
山下橋
全焼し、九月十九日、工兵一・四で架設した(木橋)。
計20橋

なおこの他通行に支障なき程度の橋 十五橋

(震災救設施設状況報告・市日報)

第4節 鉄道[編集]

第1項 被害概況[編集]

鉄道運輸に及ぼしたる震災の被害は、実に惨慌たるもので、殆んど運輸一切の機能を失いこれが応急の施設には約二ヶ月の長きにわたった。主なる障碍の区域は、東海道本線を初め、大小の破壊は全線にわたっているが、殊に横浜線・横須賀線・熱海線等は全滅の状態に陥ったのである。線路は云うまでもなく、震害のために至る所波状をなし、枕木は悉く焼失し、殊に本市所在の駅舎は震害に伴う火災のために、一二を残して大破した後、灰燼に帰したものである。

鉄道省において全駅を調査した結果を見るに、駅舎の焼失十八、大破の厄を被りたる駅は三十二の多きに達している。その他機関車・客車・電車および貨車の焼失または破損したるもの総数千八百九十八輌を算するに至った。これを見ても惨害程度の一端は窺知することが出来得るのである。左に遭難列車および焼失車輌を一般的に掲げ、脱線・顛覆・焼失・破損を初め、旅客職員の死傷数をもしめそう。

場所 列車番号 脱線または顚覆車輌
車種 輌数
海神奈川 貨411 貨車 5
保土ケ谷・横浜間 客112 客車 8
戸塚・大船間 客79 客車 10
大船 貨609 貨車 3
藤沢・辻堂間 貨403 機関車 1
客車 1
貨車 8
藤沢 貨600 貨車 9
茅ヶ崎 貨625 機関車 1
貨車 5
茅ヶ崎 貨410 機関車 1
貨車 23
平塚・大磯間 客74 機関車 1
客車 6
下曾我・国府津間 貨603 機関車 1
貨車 39
下蘇我・松田間 貨602 機関車 1
貨車 1
山北 貨412 貨車 1
山北・谷峨間 貨423 貨車 19
御殿場・富士岡間 貨409 貨車 9
御殿場 貨902 貨車 9
鎌倉 貨32 貨車 5
田浦・沼間間 客514 客車 2
根府川 客109 機関車 1
客車 8
根府川・真鶴間 客116 機関車 1
長津田・中山間 貨852 貨車 4
客814 機関車 1
客車 8
安房北條勝山・岩井間 貨261 貨車 8
安房北条・九重間 客211 機関車 1
柏・我孫子間 貨922 貨車 4
新宿 貨723 貨車 7
場所 旅客 職員
即死 重傷 軽傷 即死 重傷 軽傷
海神奈川
保土ケ谷・横浜間
戸塚・大船間
大船
藤沢・辻堂間 1
藤沢
茅ヶ崎
茅ヶ崎
平塚・大磯間 8 39 5 1
下曾我・国府津間
下蘇我・松田間
山北
山北・谷峨間
御殿場・富士岡間
御殿場
鎌倉
田浦・沼間間 3 1 5
根府川 105 2 7 6 4
根府川・真鶴間 3 6
長津田・中山間
1 19 36
安房北條勝山・岩井間
安房北条・九重間
柏・我孫子間
新宿

焼失および破損したる車輌

車種 焼失 破損
機関車タンク  17 9 26
   テンダ 31 51 82
48 60 108
客車ボギー車 308 55 363
  四輪車 116 7 123
424 62 486
客車電動車 21 21
  附属車 11 11
32 32
有蓋車 687 203 890
(11) (3) (14)
無蓋車 284 94 378
(27) (4) (33)
石炭車 4 4
971 301 1272
(38) (9) (47)
合計 1,475 423 1,898
(38) (9) (47)
鉄道省調査
第2項 その復旧経過[編集]
九月六日
東海道線品川・東神奈川間開通。一日五回、二往復半 運転時間不定
右列車を工事用列車と称して、乗客者は無賃。
九月七日
品川・横浜間開通。 貨車二十八輌連絡して運転往復。
九月八日
品川・大船間開通。 四往復運転。その他八日より十日まで品川・保土ケ谷間;および品川・川崎間一往復運転。
九月九日
横浜・品川間鉄道占用電話開通。 横浜一箇所、品川事務所通信を開始。
九月十日
大船・逗子開通。 十日より十二日まで大船・藤沢間開通し、七往復運転。
九月十一日
品川・大船間七往復運転。 品川・横浜間七往復運転。神奈川・品川間食糧輸送のため臨時貨物列車一往復運転。
九月十二日
東神奈川・高島駅間貨物車輌試運転す。
九月十三日
茅ヶ崎迄開通。
高島・川崎間機関車二台運転。給水のため。大船・馬入;川東岸仮駅間八往復運転。逗子・田浦間八往復運転。
九月十四日
高島・川崎間機関車二台運転。給水のため。
九月十五日
高島・川崎間機関車二台運転。給水のため。
九月十六日
田浦迄開通。高島・東神奈川間臨時貨物列車運転開始。 品川・横浜間十一往復。品川・田浦間七往復。品川・大船間一往復。大船・馬入仮駅間八往復。
九月十七日
二十一日迄大船・田浦間八往復運転。馬入川は渡船を以て連絡し、平塚・国府津間四往復す。高島・東神奈川間臨時貨物列車一往復運転。神奈川・品川間食糧品輸送のため臨時貨物列車二往復当分運転す。
九月十八日
高島・東横浜間下り線試運転す。
九月廿一日
東京・茅ヶ崎間七往復運転。東京・横浜間七往復。東京・保土ケ谷間五往復を運転す。大船・馬入川仮駅間貨車下り一回運転す。貨物車。品川・東神奈川間貨物車四往復運転。品川・茅ヶ崎間貨車一往復運転す。
九月廿一日
旅客列車を使用し。工事用列車を廃止旅客は運賃を徴収し輸送す。同日より十月二日まで大船・田浦間八往復す。
九月廿二日
東神奈川・東横浜間試運転す。
九月廿四日
高島・東横浜上り線開通。東神奈川・東横浜間客車二往復す。
九月廿五日
東横浜・港間試運転す。
九月廿六日
東横浜・港間試運転す。
九月廿七日
東神奈川・高島客車試運転す。
九月廿八日
品川・東横浜間客車二往復運転。乗客輸送のため。東神奈川・八王子間客車三;往復。汐留・東横浜間臨時貨物列車二往復。東神奈川経由。
九月廿九日
東神奈川・八王子間客車三往復。
九月三十日
東神奈川・八王子間客車三往復。馬入川渡船連絡を廃止し、徒歩連絡を開始す。徒歩区間約十二丁。
十月一日
電車東京・蒲田間開通す。大約午前五時半より午後九時半まで十二分毎に運転す。本日より十八日までの間東神奈川・八王子間貨物列車二往復運転す。工事用材料運搬のため。
十月二日
東海道線発着時刻改正し、旅客車運転。
東京   横須賀間   客車七往復
大船   横須賀間   同一往復
東京   横浜間    客車十往復
同    東横浜間   同二往復
大船   横須賀間   貨車二往復
汐留   東横浜間   同二往復
品川   東神奈川間  同四往復
東神奈川 茅ケ崎間   同一往復
十月五日
馬入川・谷峨間徒歩連絡にて沼津以西開通。
十月六日
本日より大船・茅ヶ崎間往復運転開始。東神奈川・八王子間貨車五往復。工事用材料運搬のため。鶴見・高島間下り線試運転す。
十月八日
東京   東横浜間客車三往復(鶴見駅経由)。
汐留   東横浜間   貨車二往復
高島   品川間    同四往復
同    茅ヶ崎間   同一往復
同    東神奈川問  同三往復
同    川崎間    機関車三往復(給水のため)
同    保土ヶ谷間  貨車二往復(給水のため)
十月九日
高島・保土ヶ谷間墜道土運搬列車七往復。大船・横浜間自動車信号機使用。
十月十日
高島・大船間士運搬列車三往復。
十月十三日
高島・保土ヶ谷間貨物列車九往復運転。
十月十四日
蒲田・鶴見間電車試運転。
十月十五日
高島・茅ヶ綺間貨物車二往復運転。
十月十六日
鶴見・横浜間電車試運転二往復。
十月十九日
二十六日まで入王子・高島間砂利運搬のため貨車二往復。
(震災彙報)
第3項 開通に関する震災当時の諸報[編集]

九月十一日 震災彙報神奈川版

汽車時間表
上り 下り
午前 五時五十五分 品川行 午前 五時二十二分 大船行
七時五十五分 七時十八分
午前九時五十八分 品川行 午前 九時二十分 大船行き
午後 零時十三分 十一時二十八分
二時十八分 午後 一時四十分
四時二十一分 三時四十六分
六時二十七分 五時五十二分

川崎以外は停車せず。ただし戸塚駅通過

○九月十二日 震災彙報

無賃乗船車廃止。従来各府県より震災救護事務のため関係者の上京する場合には、地方長官に於いて証明書を発行したる場合に限り便宜上無賃にて汽車汽船の輸送をなし来りたるが、十二日より救護事務関係者と否とを問わず、各府県より東京又は横浜に向う者は、賃銀を支払うこととなれり。

○九月十二日 震災彙報

十日午前十一時四十分、横須賀線大船・逗子開通、熱海線不通。

○九月十二日 震災彙報神奈川版
(線名) (列車運転区間) (不通区間)
東海道線 品川・茅ヶ崎間 茅ヶ崎・平塚間
平塚・二宮間 二宮・御殿場間
御殿場以西 横浜・桜木町間
大船・逗子間 逗子・横須賀間
国府津・真鶴間
東神奈川・八王子間

備考
徒歩連絡を図る見込なるも期日未定。二宮・国府津間十二日。国府津・山北間二十日。山北・谷峨間(徒歩連絡開通予定)二十日。谷峨・駿河間十三日。八王子・原町田間十五開通予定。その他未定。

○九月十四日 震災彙報神奈川版

鉄道と自動車道。

小田原方面

品 川・国府津間  汽車
国府津・小田原   自動車

に依るを便とす。馬入川以西には、乗合自動車あり。但し馬入川および酒匂川は未だ自動を通ずるに至らざるを以て、徒歩連絡を要する。

東京よりの自動車は東海道は戸塚まで、八王子経由なれば、藤沢まで達することを得るも、戸塚・茅ヶ崎間の開通はなお両三日を要すべし。因みに馬入川は十二日仮橋出来、軽き車を通ず。右の如く小田原方面への交通は漸次開けつつあるも、同地方は東京・横浜に劣らざる震害を被り、食糧不充分なるを以て、なるべく同地方に赴かざるを可とする。殊に箱根越えは当分困難なるを以て、沼津・静岡方面への旅客は、海路清水港へ向うを便とする。

〇九月十四日 震災彙報神奈川版

横浜・品川間の運転回数を十九往復に増加し、横浜以西東海道大船・茅ヶ綺迄開通、七往復とす。

○九月十四日 震災彙報神奈川版

電車。京浜電車は十一日既に品川・新子安間開通せるが、十三日より新に蒲田・大鳥居間(穴守線)開通せり。尤も本線は、六郷橋は当分の間徒歩連絡なり。

○九月十八日 震災彙報神奈川版

鉄道無賃輸送の制限。鉄道省線の汽車・汽船は、従来罹災者の無賃輸送をなし来れるも、来る二十一日より罹災者と誰も、市区町村長の証明書を持参せざる者、賃銀の支払を要することとなれり。

○九月十九日 震災彙報神奈川版

横須賀線田浦駅まで開通のところ、二十五日頃横須賀まで開通の見込み。
東海道線馬入川鉄橋修理中、馬入川に連絡を設け、国府津まで開通。平塚・国府津間一日三往復。国府津・御殿場間は二十日頃開通の見込み。

横浜駅乗降人員(十五日)の概数
乗客 上り  一万人  同  下り  六千人
降客 上り  六千人  同  下り  二万人
○九月十九日 震災彙報神奈川版

横浜臨港鉄道の復旧。震災に依り破壊したる臨港鉄道は、主として東京鉄道局水戸保線事務所の手に依り、九月十七日より復旧工事に着手したるが、九月廿五日までには完了の見込なり。

○九月廿一日 震災彙報神奈川版
横浜駅乗降人員概要(十八日)
乗車人員数  上り、下り  計約一万六千人
降車人員数  同      計約二万六千人
開通予定
  1. 東神奈川・原町田・八王子駅間一両日中開通の見込。
  2. 横浜・桜木町間の開通期は目下のところ不明。
  3. 横須賀線
    大船・田浦単線開通
    田浦・横須賀間廿四五日頃開通の見込。
  4. 茅ヶ崎・平塚間
    徒歩連絡開通のところ、豪雨のため仮橋流失、連絡杜絶せるも、十七日中に復旧、再び徒歩連絡開始す。
  5. 国府津・真鶴間開通期不明。
  6. 国府津・御殿場間二十日頃開通の見込。
〇十月廿二日

馬入川線路開通。来る廿一日、馬入川線路不通個所復旧に付、同日より東海道線列車は馬入川徒歩連絡を廃止し、東京・第三酒勾川間直通運転す。

第4項 当局の応急施設と諸活動[編集]

災後直に、鉄道当局はその被害程度ただならざるに鑑み、線路その他の安全を確知するに非らざれば、列車運輸の停止を命じたのである。かくて一時震災地域の運転は、事実停止の状態に陥った。しかれども応急施設の急なるを知り、ことに東京鉄道局所管区域に係る鉄道の被害は激甚なりしため、同局管下の従事員が応急処置に関し、不眠不休の努力を致した。分秒を争う応急工事に対して、到底平時の従事員のみにては困難であるので、他より応援を受けることとし、名古屋・神戸・門司・仙台・札幌の五鉄道局、東京第一および第二改良事務所・熱海線建設事務所等より従業員の応援を求め、応急工事に当らしめた。これらの応援隊は当時は同じく交通機関も絶えておるのであるから、水陸を問わず万難をを排して、所要の材料をば携帯して、急速指定の部署に着いたのであるが、その結果応急工事も進捗したので、貢献実に大なるものであった。

また鉄道部内に止まらず、外部の応援も甚大なものであったが、中にも鉄道第一連隊および第二連隊、横須賀重砲兵隊、海軍機関学校および新潟青年団の活動は、実に永く銘記すべき功績である。(陸軍工兵救援の条参照。)

各応援隊の活動を示せば

(分担区域) (特別応援隊)
東京・田町間     東京第一改良事務所
川崎・横浜間     鉄道第二連隊
横浜・大船間     鉄道第一連隊
鶴見・高島・程ケ谷間|
東神奈川・高島間  |
東神奈川・海神奈川間|水戸保線事務所
高島・横浜港間   |
東神奈川・原町田間  工兵第十五大隊

開通 かくして線路の応急工事も一段落を告げ、かくのごとく全力を挙げて進捗せしめたる結果、次表に示すごとく漸次開通を見るに至った。ただ熱海線早川・真鶴間は破損ことに甚しく応急工事に多大の日子を要するを以て、当分の間これ之を閉鎖するのやむなきに至った。

汽車運転開始の区間および月日
東海道
東京
9月18日
品川
4日
六郷
5日
鶴見
6日
東神奈川
7日
横浜
8日
大船
11日
藤沢
9月1日
茅ヶ崎
10月21日
平塚   9月13日より開通まで徒歩連絡
9月9日
大磯
9月11日
二ノ宮
9月13日
国府津
9月21日
山北
10月28日
谷峨   9月21日より開通まで徒歩連絡
9月21日
御殿場
汐留
9月15日
品川
10月7日
鶴見
9月12日
高島
9月26日
東横浜
9月26日
横浜
東神奈川
9月12日
高島
10月3日
保土ケ谷
川崎
11月17日
浜川崎
横須賀線
大船
9月9日
鎌倉
9月10日
逗子
9月13日
田浦
10月1日
横須賀
横浜線
東神奈川
9月28日
原町田
9月20日
八王子
熱海線
国府津
10月15日
小田原
11月5日
早川
未定
真鶴


蒸汽列車運転開始
(線名区間) 里程 開始月日 記事
東海道本線
東京・品川間 4.3 9.18
品川・六郷東岸間 6.7 9. 4
六郷東岸・鶴見間 2.5 9.5
鶴見・東神奈川間 3.3 9.6
東神奈川・横浜間 1.4 9.6
横浜・大船間 10.6 9.8
大船・藤沢間 2.8 9.11
藤沢・茅ヶ崎間 4.7 9.12
平塚・大磯間 3.3 10.21 9月13日より10月20日まで徒歩連絡
大磯・二ノ宮間 3.4 9.9
二ノ宮・国府津間 3.9 9.13
国府津・山北間 9.9 9.21
山北・谷峨間 2.7 10.28 9月21日より開通まで徒歩連絡
谷峨・御殿場 9.5 9.21
横浜線
東神奈川・原町田間 14 9.28
原町田・八王子間 12.4 9.2
東海道本線
東京・鎌田間 9 10.1 電車停車場に対しては蒸気列車が停止せしむ
蒲田・横浜間 9.2 10.21
横浜・桜木町間 1 12.3

かくの如く十二月三十日横浜・桜木町間は電車の旧復を見るに至った。(鉄道省調査)

参考1[編集]
(イ)運輸機関の破壊に伴う諸問題[編集]

十月十五日横浜市日報に所載のごとく、大阪方面から来る貨物の延着と市中商品売値の高いと云う二主題のなぞで横浜市経済復興のためにはゆゆしき大敵とし、その根本理由は、東海道線の現状はかくの通りの輸送機関の復興難が基因している。すなわち大阪方面の工業品を横浜市に輸送するために要するその時間と運賃とが震災前のそれに比して著しい相違である。例へば運賃のごときは従前の横浜港から英国ロンドンまでの費額に匹敵し、時間の転に於いても優に一週間以上を要するも、交通運輸機関の復旧と秩序恢復の現状に徴し、かかる現象は如何にも不可能なる謎として商工業者間に取沙汰され、一面横浜市への出荷躊躇となり、同時に一般商品の市価を高からしむるので、市民の消費負担を多からしめ、惹いて市の経済復興に多大の障害をおよぼそうとしている。現在に於ける輸送機関に依る貨物の延着とそして市内商品の小売値段が何故に騰貴するのであるか、この謎の主題を解くため、先ず即今の運輸交通状態を語らねばならぬ。さきに鉄道情報に基いて予報した東海道線の汽車全通期日は、その竣工後しばしばの暴風雨に妨げられて甚だしく予定を遅れさせている。難工事馬入の鉄橋は工兵隊の努力で、今やその竣工期に達してはいるが、茅ヶ崎・平塚間、山北・谷峨間の徒歩連絡に依るに非ざれば、依然として静岡以西ヘの汽車旅行は出来ぬ。しかしてこの行程を取る旅客にありては、上記二箇所の徒歩区間は、その携帯品処理のため、前所は一個二拾錢見当の人夫賃を支払うか、もしくは自身携行の努力を要し、後所は全然所有者携帯の事となっているので、未だ対底平日の安易と便宜を夢み得べくも無い有様なので、多くは横浜駅にて連絡乗船券を求めて(諸求交附)清水港に上陸、そこから有料自動車の便を借りて、江尻駅に出で、更らに汽車に乗り込むのである。また該連絡船は、横浜・清水両港共、毎日午後五時の同刻を限り、横浜より清水へ、翌朝六時着、清水より横浜へ同上時到着で、二船慶福丸・高麗丸交互に乗客とおよび辛うじて僅少なる手荷物輸送に従事している次第なので、殆んど単身簡単なる旅行にありても、勢い余分に時間を空費せねばならぬ状態で、小荷物および大貨物の輸送に至りては、未だ全く受付けておらぬ不便さを免かれ得ないのである。

(ロ)東海道線で取扱わぬ大小貨物の迂回振り運賃率は同じだが距離の差額が商品の負担を増す[編集]

東海道線汽車旅行の不便さが、丸裸のそれであってなお、なおかつ上記の程度であり、大小荷物輸送が全然行われていないので(勿論大井町・東神奈川間、保土ヶ谷・山北間、横浜線各停車場、駿河・御殿場間、逗子・田浦・横須賀間にありては、平素通り運転営業を開始している)、大阪より横浜への貨物輸送は航路以外の陸路方法としては、名古屋より中央線に依るのが最も便利とされるのであるが、これには言う迄もなく、貨車の連結換えを行う手数と、貨物の輻輳停滞や、距離の相違が生じて来る。従って一哩当り同一の運賃率によるも、自然多額の運賃を貨物に負担させる事となるので、此所に時間の遅着と市価の高率理由を発見する訳で、差しあたりここから複雑不便なる輸送続路の改造復旧されざる限り、当業者の苦痛と消費者の負担軽減とは、得て期し難き破目にあるので、一に鉄道当局に対し、この際一番の精励努力を希望せざるを得ない。更に貨物輸送距離の遠きに従い逓減制による一種の割引を受け得るには相違なきも、同一貨物の同一距離の輸送費が、実際計算の上で災害前よりは所詮倍額たるをやむを得ない状態に対し、市内の有力運送業者は、『労力欠乏に由る人夫・車力賃の騰貴、その他の事情から必須的に免かれ難い現象だ。』と決め込んでるが、これが直ちに肯定さるべき果して必然的な理由視すべきや否や、その所には相当省察の必要あるは見逃し得ない点であろう。

さらに阪神地方に於ける海運業者は京浜方面への小船輸送を避けた傾向がある山なるも、これ等は当初救済品到着当時、京浜沿岸にありし大小船舶は殆んど陸上の火災で類焼の厄に遭い、全滅の有様となり、陸揚げ荷役等に一大支障を来たし、若干近県の漁船その他を徴発せし為、今日に於いても動もすれば当局の眼に触れたが最後、直ちに同様徴発の運命に会うべきを懸念せる結果と推せられてるが、今日当局がさる徴発を必要とせざるは勿論、絶対にかような不安なきに拘わらず、今なおかかる誤解から、阪神よりの海上輸送が円満を欠くが如き事ありては、横浜市の経済復興上ゆゆしき大事たるを以て市では復興会と打合せの上、徹底的に右真相開明に努むべく焦慮した。(市日報)

参考2[編集]

震災直後片々録

(イ)避難民および旅客の輸送[編集]

震災後、避難民の帰行するものおよび罹災者救護等のために震災地往復する者は激増したので取敢えず震災地に着く小荷物の発送を停止した。一方列車運転の可能なる線路に於ける旅客列車に対しては客車連絡車数を増加して、焼損のため客車不足の状態であるから、品川・横浜間および品川・田端間開通の際の如きは貨車に依り旅客を輸送したのである。その他の区間に在っても貨物列車に客車を結び、軍隊または通学通勤者等の輸送に充てたのである。

(ロ)震災地域内入込者の制限[編集]

震災地より帰行する避難民に対しては、無賃運送の途を開き、震災地退去の便を与えたが、異常の変災のために、親族知友等の見舞、慰安その他救護の名の下に、震災地域内に入り込む者、一日一日と激増したために食糧逼迫の所あるのみならず、秩序恢復等にも多大の支障を生じた。しかも徒らに輸送を混乱せしむるに過ぎず。故に戒巌の条件に赴く必要ある者の外は絶対に震災地域内に入るを得ざることとし、各駅に於いて軍隊および警察官憲と協力して、之が拒否に努めたのである。震災地入込客退去の色もなかったので、震災地域に対苦する列車をある程度まで減縮して、輸送力に制限を加えるの外方策なきを認め、九月九日より上野駅着上り列車にして、二鉄道局以上にわたる長距離運転列車の中、約半数は全然旅客の取扱をなさず、空車回送列車として運転したのである。

(ハ)不通区間に於ける徒歩および船連絡の状況[編集]

幹線として東海道本線茅ヶ崎・平塚間、山北・駿河間、および中央与瀬・上野原間を始め、北條線、岩井・富浦間、九重・千倉間の激甚の被害のため、不通久しきにわたり、以て極力之が復旧に努むるの外、応急設備を施し、相互列車を線路支障地点まで進行せしめ、徒歩又は渡船の方法に依り、連絡の途を開き、旅客・手荷物輸送上の利便を計った。その間天候の影響により、徒歩渡船の連絡設備も破壊せられ、之も又々不通となる場合もあって、輸送上の困難筆紙に尽くすことは出来ない。旅客輸送上に於いて当分はかかる多大の効果を収めたのである。

(ニ)徒歩連絡の区間と開廃月日[編集]
(普通区間) (徒歩謳間距離) (取扱種別) (開始月日) (廃止月日)
茅ヶ崎 開始当時約一里後十二町に縮 旅客・新聞・閉嚢郵便物 9.13 10.20
平塚
山北 約十七町 9.21 10.20
駿河 10.2
与瀬 約十五町 旅客 9.9 10.24
手荷物 9.27
上野原 新聞・閉嚢郵便物 10.4
その他の小荷物 10.12
岩井 約三十町 旅客・手荷物新聞
富浦 雑誌・新聞原稿 10.14 11.07
九重 約六町 旅客・手荷物・手荷物
附属小荷物
9.27 10.15
千倉

その後東京・横浜間線路開通し、一方横浜港桟橋の上級設備なりたるを以て、横浜税関長と協議の上、九月二十八日より芝浦との連絡を止め、運行区間を品川・清水港間(百十八浬)に変更し、同時に本航路経由、東京・品川・横浜より江尻以西各駅および静岡・江尻より、横浜・品川・東京着、旅客手荷物の取扱をなすこととし、各駅および静.岡、江尻より横浜晶川・東京署旅客手荷物の取扱をなすこととし、なお震災各駅と御殿湯以西各駅との間に発着する小荷物の輸送をなすこととせしが、十月二日よりは連絡線による旅客のために特に東京・横浜間に臨時汽船連絡列車を運転し、連絡旅客に対し、一層の利便を加えた。超えて十月十二日に至り、東京・品川・横浜より江尻以西各駅着、および江尻以西各駅より横浜・東京間各駅着、旅客および手荷物の取扱をなすこととした。そして同船に由る旅客運貨は連絡船のみの乗客に対しては横浜・江尻駅間鉄道賃、船車連絡旅客に対しては、当該乗車券面区間に対する鉄道運貨に依り汽船内二等寝台料金を一箇壱円とし、なお食費は自弁とするも、船内には簡便なる食事を実費にて供する設備をなした。

(ホ)手荷物[編集]

震災後罹災地に向け、関西方面より輸送される物資の数量は著しく増加したる結果、貨物輸送力の欠乏に自ら発送制限の已むなきに至った。これらの物資は一部小荷物に転嫁するに至り、並に小荷物輸送上の困難を惹起したのである。十月二十八日東海道線の開通と共に、更に一層の入荷あるべき形勢であったので、むしろ滞貨を一掃して陣容を一新せしむるの得策なることを認め、開通と同時に取扱を停止した。逐次運輸状態の平順に復するを待ち十月十五日より全部これを解除した

(へ)震災地行貨物の輸送[編集]

震災地罹災者救護に必要なる応急物資に於いては、無賃輸送の方法を講じ、やや秩序の恢復を見るに至りては無賃輸送の品種を一部に限定し、代うるに運賃半減を以て運送することとしたのは既に述べた通りである。

(卜)生糸輸送に対する臨機の処置[編集]

横浜市の被害激甚にして帝都の関門港としての復興容易ならざるものありしに拘らず、貿易の大宗たる生糸に対しては早くも九月十七日より横浜生糸市場の取引を開始し、同日忽ち三万五千五百斤の手合を了したるの実況にして、農商務省および開係業者より中央・信越線、横浜宛生糸を鉄道便を以て江尻に送り、清水港・横浜港間を当時臨時運航中の省連絡船により、輸送方申込あり、之に応ずるも旅客輸送上別段の支障を与えざるものと認め、九月廿八日よりは、一は鉄道便直通により、中央線(与瀬伊東)東北線、奥羽線、磐越線、陸羽線、総武線、各駅発東横浜または横浜港駅着、他は上記以外の各駅発清水港まで鉄道便清水港・横浜港間は臨時運航汽船に由らしめ、貸切扱にして所定の條件を承諾したるものに限り、之が取扱をなすこととし、超えて十月二十日より、小口扱に対しても同様の取扱をなし得ることとし、十月二十四日限り之を廃止した

(チ)無賃輸送[編集]

罹災者の無賃又は割引運送 罹災者救済の目的を以て、九月四日より震災各駅発、罹災民および一般避難民に対しては、別に何等の証明なくして、無賃輸送の途を開き、次で一般秩序恢復の緒に就き、東海道不通区間に徒歩連絡の取扱を開始するに至りたるを以て、一般避難民の無賃輸送は九月二十日限りこれを廃止し、九月二十一日より東京市は、区長その他の罹災地に在りては関係市町村長の発行する罹災民たる証明を所持するものに対し、九月末日までの間、無賃運送の取扱をなした。また一旦避難する罹災者に対して、避難地より故郷または親戚知人を頼りて旅行する者に対しては、九月二十二日より十月十日までの期間中、市町村長の発行する一定の証明書を提出せしめ、運賃五割減を以て運送する事とした。

救護従事者の無賃および割引運送 震災救護事務のため往復する者にして、官庁または公共団体の発行したる証明書を所持するものに対しては、九月三日より同十三日まで、無賃扱に依り来援したる地方青年団および在郷軍人にして九月三十日までに帰還する者に対しては、救護事務局の証明により、いずれも無賃運送の取扱をなさしめた。この外在郷軍人団にして在郷軍人団本部よ救護に従事するため召集を受けたるものに対しては、九月十四日より同末日まで、連隊司令部の証明により、運賃五割引を以て運送の途を開いた。

罹災鮮人保護鮮人および支那人の無賃運送 罹災鮮人に対しては九月二十八日より十月三十一日まで、朝鮮総督府発行の証明書を提示せしめ、釜山まで無賃返還し、又各地に保護集団せしめたる鮮人および支那人の集団移動に対しては、保護官庁の申出により、無賃輸送の取扱をなした。

軍人および軍需品の無賃輸送 九月十日より、戒厳地域内に於いて輸送する軍人および軍需品にして軍用輸送券を提出すること能わざるものに対しては、輸送指揮官または宰領者の発行する文書を収受して、無賃運送をなすこととせしが、更に九月二十日より一定の条件を具備する証明文書を提出せしめ、個人乗車たると部隊旅行たるとを問わず、その携行する軍需品共、無賃輸送の取扱をなした。

新聞用紙および新聞紙原稿の無賃輸送 震災地域内新聞用紙は救護事務局の輸送承認書あるものにして、荷受人を当該新聞社とし、着駅に於いてこれを配給司令部に引渡す事を条件と、九月十一日より同二十日まで無賃輸送をなし、また清水・芝浦間連絡航路を経由する大阪発東京着新聞紙原稿の無賃輸送の途を開き、以て新聞紙発行上の利便を供した。

食糧・救護品・復旧材料・救恤品の無賃運送 震災地に対到着る食糧および救護品に対しては、九月三日より、復旧材料に対しは同五日より九月二十日まで、行政官庁または公共団体宛のものに限り、無賃輸送をなし、また一般救恤品にして、行政庁または公共団体に発着するものに対しては九月二十一日より十月十日まで、寄贈救恤品にして官公庁発着のものに対しては、十月末日まで引続き無賃扱とした。また食糧品・飼料・家畜・衣類・寝具および附属品ならびにその材料・諸建築材料・運搬用具・燃料・薬品および衛生材料・小間物・荒物類・紙類・畳建具およびその材料・炊事用具・食器類・諸工具・履物および雨具類に対しては、九月二十一日より運賃五割減を以て運送の途を開き、超えて十一月十一日に至り、その品種を追加し、十一月末日まで之が取扱を継続して、自己関係罹災者救護の目的を有する食糧品および救護品の輸送に対しては、救護事務局の証明に依り九月六日より九月二十日まで無賃輸送をなした。

荷受人不朋小荷物ならびに返還救護材料の無賃送 震災地域行救恤品を、震災地域概在る慈善機関に取り纏めんがために輸送する場合には、発地に於ける市町村長の証明あるものに限り、九月十八日より同末日まで、無賃を以て運送し、さらにこれを震災地内に輸送する場合は、荷送人・荷受人共、行政庁または公共団体のものに限り、無賃の取扱をなした。

以上災罹民救護従事者・軍人・軍需品・新聞紙および新聞紙原稿・食糧品・復旧材料・救恤品その他に対しては、或いは無賃を以て、或は運賃五割減を以て運送するの便を開き、罹災民および罹災地域内に於ける物資供給上の利便を図るに努めたが、これ等取扱は独り鉄道省線内に限らず、旅客関係に在りては、鮮人および支那人に関するものを除きたるの外全部貨物関係に在りては無貨扱に属するものと省線連帯鉄道を通じ適用することとした。(鉄道省運輸課調査)

第5節 通信機関[編集]

市内郵便電話の被害状況は別項に述べたれば、ここでは省略するが東京逓信局が取りたる処置を左に述べよう。

電信は震災と同時に、全部不通となりたるのみならず、電話局の多くは煉瓦またはコンクリートの建築なるを以て災害は他よ一層大なるものありと察し、直ちに左記方面に亘りて、実査隊を編成し、電話各分局の調査に赴かしめた。

横浜方面の災害に付いては、災後直ちに同地方より逃れたる避難者の談に依り、被害甚大なるを知り、二日朝、第一実査隊をオートバイに同乗せしめて急派した。

その後に於ける情報に依れば、同地方食糧欠乏せる趣なるを以て、翌朝更に応援隊を出発せしめ、越えて四日、応援隊を組織し、海路水雷艇に便乗し、救済材料およびテント等を携帯して急行せしめた。横須賀・鎌倉方面には、横浜の応援隊より別働隊を特派し、実状調査せしむることとした。

また一方工務課に於いては、電信・電話の開通を急ぎ、中央電信局焼失後直に、官吏練習所に於いて直ちにこれを開始せんと、電池その他の手配を為せしも、これまた同所も焼失したるを以て市内適当なる場所に於いて通話を開始するに如かずとし、技手を川口・赤羽・北千住・目白・目黒・中野・横浜に派遣し、その結果最も便利なる北千住を選み、ここにて通信を開始することとした。

三日に至り、電信・電話は中央たる丸の内に於いて開始すべきこととなりたるを以て市内線路の取片付、およびマンホールの試験工事を始め、その準備に着手せる等、着々通信開始に努力した。

災害に於ける措置としては、被害の取調、従事員の食糧および復旧材料の調達等皆急を要せざるものなく、また一方事業は速やかに開始すべき必要あるを以て、災害の息むと共に、先づ二日焼け残りたる局に於いて貯金非常払いを開始し、罹災者の便利を計り、また電信・電話は全部不通となりたるを以て、同日無線電信協会および安中無線電信を利用し、横浜港碇泊中のコレア丸を仲介として、通信の途を開きたるも、両電信所共電力弱くして、受信は可能なるも、送信の力なくて、充分の効果を顕わすこと能わず、幸い又同日に至り千住局より東北に達す電信・電話の数回線恢復せしを以て宇都宮・高崎局等を中継として、全国に対し、通信の途を開いた。翌日同局より宇都宮・足利等へ電話回線の恢復を見、又四日に至り、大阪・名古屋・新潟・甲府・長野等へ電信回線を開いた。

かくの如く通信朋始に努力すると共に、罹災者に炊出するため、局員を八方に派し、食糧品および蠍燭等日用品の調達に力め、災後直ちに各避難所に対し、その配給をなした。これと同時に東京以外の鎌倉・横浜等の災害地にも米および副食物の配給をした。

また庁舎の夜警に就いては、各局と共に等しく苦心する所なるも、特に逓信局は本省焼失せしを以て通信関係の中心をなす上、事業用物品・食糧品の貯蔵多きを以て、二日より警戒を厳にし、毎夜五六十名の局員は徹宵警戒をなした。

なお電気・海事・保険事務に於いては災後直ちに主管課に於いて関係事務災害の調査等各事務に従事した。

(東京逓信局調)

第6節 電燈[編集]

電燈は他の諸機関と同様に破壊せられ、東京燈電株式会社横浜支店は全部倒潰・焼失し、従業員は約六十名死亡し、同方面に配電する発電所・変電所の如きも大なる損害を被り、ために一時全く供給不能の状況に陥ったのであるが、八日夜応急工事を施し、東京方面と連絡し、その受電力により取敢えず横浜警察署外夜警所に点燈し、十二日より神奈川方面の大部分に送電点燈することを得たのである。

更に復旧の経路を述べれば、九月八九日頃、逓信省および東京電燈株式会社と打合せ、その結果、左記の決議に基いて点燈の見込も立った。それの区域の順序として先ず官公署・避難所・救護所・上陸地点・交通頻繁地区の街燈を先きにし、漸次一般住宅におよぼす方針で、復旧工事に着手したのであるが、以後間もなく神奈川警察署附近は八日より、二百燈の点燈を見た。次で反町・齋藤分・柳町全部は十一日より点燈し、漸次に程ヶ谷変電所・桜木町変電所間の工事を完了し、なお電車のポールを利用して、道路上にも点燈の予定をなし、十三日より県庁および市役所に点燈するを得たのである。その後間もなく全市に普及した。

この外陸軍照明隊は、発電装置自動車二台を以て十四日より野毛山・伊勢山に於いて点燈照射し、警戒に当たったのであるが、十月上旬末から廃止された。左に打合事項を述べれば左の通りである。

遮信省および東京電燈株式会社打合事項
  1. 内外線の安全程度に付統一決議
    1. 倒壊せる家屋に於いては、引込線を切断すること。
    2. 傾斜せる家屋に於いては、内線工事は危険なりと認め、引込線を切断すること。
    3. 殆んど完全なる家屋に於いては、内線も安全と認め送電すること。但し陸上変圧器を検してたる上、送電すること。
    4. 第三号の場合には、屋内点燈数を成るべく節約する様口達すること。
  2. 点燈方針
    1. 東京電燈横浜支店は神奈川県および横浜市役所と協議し点燈の見込立ちたる区域に於いて先ず官公署・避難所・救護所・上陸地点・交通頻繁地点の外燈を先にし、漸次一般住宅におよぼすべき方針である。
  3. 点燈区域
    1. 東京電燈株式会社横浜支店に於いては、復旧工事に関し、逓信省その他の開係庁と打合せを遂げ、工事を取急ぎたる結果、左記の通り点燈できる見込である。
横浜市内
  1. 子安変電所に於いては、六郷変電所より電力の供給を受け、八日の夜に於いては、神奈川警察署附近に二百燈を点燈、そして之に引続き直にニッ谷・桐畑・反町・台町・浅間町・軽井沢方面に点燈の筈。
  2. 子安変電所・程ケ谷変電所間の一部電線未落成なりし所ありしも工事取急ぎるため二十三日中に完成する見込に付、これと同時に保土ケ谷方面、久保山方面、南太田方面は全部点鐙できる見込み。
  3. 桜木町方面は程ケ谷変電所に送電すると同時に地中線を利用して県庁・市役所(仮)・横浜駅・水上警察署に点燈し得られる見込なり。また弘明寺方面は、程ケ谷変電所より地中線を利用し、南吉田変電所より送電し、二三日中に点燈させるべく、本牧方面は、磯子・間門一部送電線未だ落成していないが、間もなく完成する筈に付、これも二三日中に点燈し得る見込み。
電燈工事工程
九月十二日点燈区域
  1. 神奈川町残部(ただし幸ケ谷は未定)。
  2. 浅間町・程ヶ谷町の一部。
  3. 久保町・久保山・境ノ谷・西戸部・県立一中附近。
  4. 県庁・市役所
  5. 横浜駅前より大江橋に至る街燈。
九月十三日点燈区域
  1. 堀ノ内・刑務所附近。
  2. 南太田より弘明寺方。
  3. 都岡方面および程ヶ谷残部。
  4. 軽井沢残部・幸ヶ谷。
  5. 久保山方面残部および水道局工作前。
  6. 横浜公園外燈。
九月十四日点燈区域
  1. 社会館・神奈川を中心とする未点燈の部分。
  2. 戸塚方面、弘明寺方面の残部。
  3. 磯子・根岸・本牧方面
九月十五日点燈区域
  1. 保土ケ谷ビール会社附近。
  2. 南太田商業学校附近より井土ケ谷・弘明寺および大岡川村の一部。
  3. 西寺尾より馬場寺尾・獅子ケ谷方面、仲木戸の一部。
  4. 中村石油倉庫裏・根岸・芝生・および間門・競馬場附近・若尾別邸附近・山元町・桜道隧道迄。
  5. 公園外燈増設、農工銀行・神奈川脳病院。
九月十六日 点燈区域
  1. 神奈川方面小部分の未点燈区域(および動力調査)。
  2. 井土ケ谷方面、南永田・井土ヶ谷・日下村の一部。
  3. 山手方面、北方一部、焼場道方面、三本杭・柏葉。
  4. その他主なるもの、西戸部一中増燈、平沼邸新潟県救護班、群馬県警察出張所。
九月十七日点燈区域
  1. 神奈川方面未点燈区域、点燈修理、神奈川・子安・浅間町方面動力送電調査。
  2. 戸塚・西谷・大岡川方面未点燈部分点燈、ならびに日下村残部、西谷カーリット会社附近点燈。
  3. 本牧残部、箕輪下。
九月十八日点燈区域
  1. 神奈川方面未点燈個所および動力線改修工事。
  2. 戸塚方面浅部、および動力線の改修。
  3. 杉田方面。
  4. 本牧・北方方面残部。

点燈工事はかくの如く進捗し、九月八日始めて一部の点燈を開始して以末、漸次各地に供給も復旧し、十月半はになって此方面の点燈数合計約十五万と推算するに至った。

本市に於ける動力供給の状況を観るに、現在供給の電力は、本市およびその以西(三浦半島なども含む)に於いて、一千キロワット、本市以東に於いて三百キロワットにして、これらは主として精米・製材の用に供せらるものであった。かくして水道の給水と共に、市民の渇望していた電燈点火の普及も、東京電燈会社横浜支店の復旧努力で、多大な効果を拳げたのである。しかし材料が整わないので工事意の如くならず、ようやく新線で点燈し得る様になったのは、神奈川から程ヶ谷迄の東海道の一線と岡野町・平沼町・桜木町通り・伊勢町・野毛町・日ノ出町・千歳町・伊勢佐木町通り・亀ノ橋通り・港町通り・本町通り・海岸通り等であって、この配電し得た場所でも仮小屋は自然後廻しの止むなきに至った。(震災彙報東京電鐙株式会社横浜支店調査)

第7節 京浜電気鉄道[編集]

大震火災のため、同株式会社は全線にわたって少なからず被害を受け、一時営業を停止するに至った。その損害の主なるものを挙げれば、軌道では、路線の亀裂、築堤の決壊、沈下等が各所に起って、橋梁は六郷鉄橋の橋脚を折損し、入江川・蝦取川の両鉄橋もまた損害を被った。建物は本社事務所および車庫、その他の倒壊があった。車輌は車庫の倒壊に依り、五輌を大破し数輌を小破した。この外発電所・変電所等それぞれ被害を受け、附属の器械を多く損した。これを要するに、今次の天災に基づく当社の損失は多大ではあったが、幸いにも一人の震死者をも出さなかった事と、火災の害を被らなかった事とは僥倖と云うべきである。震後は一時惨憺たる状況を呈したが、極力応急の修理に努めた結果、十月十一日から一部の運動を開始することができ、それより順次復旧して、十五日から稲荷橋・穴守間を除く全部を開通した。(同会社第十二回営業及決算報告書)

関連項目[編集]