横浜市震災誌 第三冊/第8章

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第8章 港湾及び水路[編集]

第1節 横浜港[編集]

1 繋船岸壁[編集]

新港岸壁は大蔵省において、明治三十三年十一月工事に着手し、同四十四年三月完成したもので、その構造は頂点笠石より、干潮面以上約二尺までは、場所詰コンクリート壁で、それ以下水中の部分は、基礎斜面上に重量十トン半および十二トン七分の方塊を一段又または二段に一列に沈め、背部岩盤との間に水中コンクリートを施し、または幅六尺の場所詰コンクリートを岩盤前面に造って高さ四尺もしくは八尺の岩壁実態を形成したのである。岸壁前面は二十分の一の勾配を保ち、岸壁裏には割栗石を填めて、埋立地隅角を除く外延長六間毎に区画を設け、隣区と全く絶緑せしめたり。そして岸壁基礎の大部分は士丹岩盤を利用せりといえども、一部延長九十間は海底泥土深きを以て、捨石堤上に袋詰コンクリートを重ね、岸壁基礎を設けたのである。

新港岸壁の総延長約千百間の内、やや台形を存する物は、僅かに二百廿九間に過ぎない。即ち第一号岸壁(水深二十尺)五十三間、第二号岸壁水深二十四尺六十閻、第六号岸壁水深二十八尺百十六間を残すのみで、他は殆んど全部倒潰して、本船の繁留不可能となった。倒潰の状況は大略付図に示すごとく下部二段ないし三段の方塊積を残して、その上部の方塊および場所詰コンクリートは前方に倒れ、その上に裏込みの粗石および土砂等背後から崩れ落ち、深くこれを埋没した。また場所によっては方塊または場所詰の基礎のみを残して、方塊積は全部倒潰した所もある。倒潰した方塊も台積のままのものもあった。また多少離れたるものもあった。しかも残存岸壁中二号・六号は大体基礎方塊(二号は一段、六号は二段)はその位置を変ぜざるも、その上の方塊積は、一体にまたは二段に水平に前方に押し出し、その移動の程度は、岸壁の端は軽徴であったが潮次培大し、倒泊部との授の二号岸壁は四尺、六競岸壁は六尺に達し幸辛うじて倒潰を免れ。又一号痒壁には二盤増大し、倒潰部との境の二号岸壁は四尺、六号岸壁は六尺に達し、辛うじて倒潰を免れた。また一号岸壁には二号岸壁に接する部分は、同岸壁と同様、前方に押し出されたが、その他は前面に傾斜ぢ、最も甚しきはその傾斜約十度に達し、まさに倒れんとして危険の状態にあるものもある。残存岸壁のまた裏込みの沈下は約五尺前後である。そして並びに注意すべきは、残存岸壁中二号はその基礎土丹盤であるが、一号および六号の一部は海底の泥士が深いから、割栗石の基礎上に築造すること、倒潰岸壁の全部は総て岩盤上に築造すること、なお岸壁隅角の部分は多少の移動はしたが総て残存した。

2 大桟橋[編集]

大桟橋は全長二百七十二間の中、前方船舶繋留に使用する二百三間の両側拡築部を危く残して、他は全部挫折陥落し、あるいは焼け落ち、陸地との交通を遮断した。陥落した部分は、拡築以前の旧桟橋で、竣工後約二十七年を経過し、その橋脚は鋳鉄円筒柱(各鉄柱は長さ四十七呎半ないし六十三フィート、直径十二フィート、厚一フィート四分の一にして、下部に直径五フィートの螺旋沓取り付け、間隔各十五フィート毎に建込み繋鎖および緩構材を以て相互連結せり)であったので、地震の激動によって脆くも繋ぎ手より挫折した。拡築部は左右各二本宛の経六インチ半丸鋼柱、または平均径四フィート六インチ鉄筋混円柱(鋼柱三本ごとに円柱二本を配置せり。)を橋桁とし、かつ外側各幅三間半は鉄筋コンクリート床であったが、橋桁は少し前左方に傾斜し(前方は北東北、左方は北西少西)突端より六十間の所にて、両方は約三尺、突端は前方に約四尺、左方に約七尺傾斜した。緩構材の一部は破壊し、かつ鋼柱と円柱とは沈下の度が異なっていたので(鋼柱は殆ど沈下せず、円柱は五寸ないし八寸沈下した)床面は波状を呈した、辛うじて倒潰を免かれ、大船の繋留には支障はなかった。

3 防波堤[編集]

東防波堤端部約五百間、北防波堤端部約二百三十間の部分は、平均八尺陥落した。港口の両燈台は、何れも約十尺ほとんど垂直に沈下し、幸いにも傾斜の厄を免れた。その他の部分は良好なる基礎の上に築造されたので、多少破損を生じた個所もあったが、被害は大体軽徴で、震災前と同じであった。沈下した部分は水深約十五尺以上、海底泥士の上に築造せる個所で、陥落と同時に外側に傾斜せる部分も少なくなかった。また外側下部は方塊外方に押し出された個所もある。防波堤の位置は多少不規則に移動したが、大体において防波堤はそのまま沈下し、崩壊を免れるを得た。

4 護岸物揚場および艀船溜[編集]

新港および大桟橋接続埋立地の泊岸の護岸および荷揚場は倒潰し、損害を被らざるものなかった。艀船溜に繋留中の小蒸汽船および艀船の全部は猛火に襲われて、無惨にも沈没した。船溜はこれがために閉塞され、荷役は勿論水路および交通全く不可能となった。

5 建築物その他[編集]

新港内における建築物は、僅かに発電所、三階建保税倉庫一棟を残し、その他は倒潰焼失した。桟橋木造上屋の一棟は全くその影を認めず、新港左突堤端に設置してあった五十トン固定起重機は、僅かに上部―のトラベラーを振り落されたのみで、置場が崩壊しなかったので残ったが、その他の岸壁荷役用電気移動起重機は、岩壁崩壊と共に海中に転落したものあり、あるいは猛火に襲われて、一つとして完全なものはない。万国橋および新港橋は激震のため、橋台に亀裂を生じ、橋は猛火に襲われていずれも木造の歩道部を焼失し、辛うじて墜落を免かれ、僅かに車馬の通行に支障なきを得た。

臨港鉄道はその築堤の陥落甚だしく同所における二箇所の鉄道の橋台もまた大なる亀裂を生じた。

新港埋立地は全体平均約七寸も沈下し、道路鉄道にも多数の大亀裂を生じ、構内諧設備はいずれも大なる損害を受けた。

6 港内水深の変化並びに沈没船[編集]

港内水深の変化に就ついては、実測の結果ほとんど震前と大差ないことを確かめた。ただ港内沿岸において火災に遭った艀船等が強風のため吹き流され、港内処々に沈没したので、掃海の必要があった。

第2節 横浜港震害復旧工事計画概要[編集]

1 緒言[編集]

大正十二年九月一日の関東大震災が、我が横浜港に及ぼした被害の程度は、実に国の内外を通じ、未聞のことに属する。明治二十二年以来、約四百万円の工費を投じ、これが完成に三十余年を費やしたる港内諸設備は、一朝にして殆んど全部破壊され、港湾の能力一時に絶滅し、その惨憺たる情況、今なお眼前に彷彿たるものがある。しかれども横浜港は我国最も枢要なる港で、また帝都の関門である。これが興廃は実に国運の消長に関するところすこぶる大であって、その復旧は一日も疎かにすべきではない。これにおいて政府は震災後、直に応急仮設工事を施設して、水陸連絡の便を図り、同時に防波堤・岸壁・護岸・橋梁等の被害の状況を調査して、これが復旧の計査を立て、大正十二年十月二十一日をもって、復旧工事の施行を開始し、内務省横浜士木出張所をしてその任に当らしめた。

2 復旧工事の予算[編集]

当土木出張所において施行する横浜港復旧工事は、大蔵省において施行する陸上設備の復旧工事から除外したもので、その予算九百弐拾五万五千五百四拾六円である。これを年度別に示すと、十二年度は責任支出弐百五拾万円、追加責任支出参拾弐万六千七百七拾台円、合計弐百直八拾弐万六千七百七拾台円、十三年度は責任支出百九拾五万円(十三年七月までの分)、年度割予算(同八月以降)弐百七拾五万円、合計四百七拾万円、十四年度は百七拾弐万八千七百七拾五円である。もっとも十三年度以降は本港修築工事いわゆる第三期拡張工事予算と併合した。内訳は左のごとくである。

棒給及び事務費 406,771円
岸壁護岸費 4,631,930円
防波堤費 538,470円
桟橋費 660,000円
橋梁費 250,000円
掃海費 127,000円
船舶機械費 938,000円
営繕費 375,000円
雑費 428,375円
92,555,546円
3 復旧工事施行の一般計画[編集]

横浜港復旧工事施行の第一要件は工事進捗の急速なことである。急速なる進捗と、同時にその構造が強固で、可及的耐震的なものであらねばならない。これ技術者の苦心する所である。本港の震害状況を見て、本港の荒廃が吾邦の海外貿易に重大なる影響を及ぼすばかりでなく、京浜両都市の復興に著しい関係の有することを考えれば、港の復旧の一日も早からんことの必要を痛切に感ぜざるものはない。またかかる惨禍の再現せざることを望むであろう。工事を完全にし、かつ急速に進捗するには、左の諸件を必要とする。

  1. 築設物の構造を強固にし、成るべく耐震的ならしむること。
  2. なるべく工事の種類と、分最と減じ、工法は設備に長時日を要するものを避け、総て敏速を旨とすること。
  3. 必要なる船舶機械および熟練せる従業者を急速に招集すること。
  4. 工事材料および労力の供給に遺憾なからしむること。
  5. 直営工事と請負工事とを適当に按配すること。

岸壁復旧工事の大体方針は大略次のごとく決定した。すなわち倒潰を免れて傾斜し、あるいは水平に前方に滑り出て、危く残った一号・二号および六号の岸壁は、そのままこれを修理し、なるべく急速にこれを復旧すること。全く倒潰したる岸壁、九号・十号および十一号は難工事である倒壊物引揚工事の分量をなるべく減少するため、新岸壁線を在末のより八間前進せしめ、これを横桟橋となし、その橋脚に当る個所のみ倒壊物を除去すること。倒壊したる岸壁方塊はその上面を覆い士砂および士丹岩を全部取除ければ、新岸壁基礎の一部として敢えて支障のないことを確め得たので、倒壊物全部除去の必要のない四号岸壁のごときは、新岸壁線を在来より八間前に出し、倒壊岸壁の一部を補足して基礎を作り、その上に新岸壁を築造すること。新岸壁線を前に進めれば、船舶の繋船や、出入に不便を感ずる三号・五号・七号および八号岸壁は、多少工費を増加し、また竣功期限が遅れることは不利であるが、全部倒壊物を除去し、新岸壁はほぼほぼ旧岸壁の位置に築造すること。十二号岸壁は在来水深二十尺であったが、在来あまり利用されないから、むしろこれを艀船荷役場に変更するの利益なるを認め、倒壊物をそのままに放置し、各々旧岸壁線に水深九尺の斜面物揚場を築造することになった。

工事施行の組織は、これを三工場に分ち、第一工場は主として岸壁基礎工事を、第二工場はは主としてコンクリート工事を第三工場は防波堤、物揚場および桟橋等の復旧工事を担当し、これに在来の機械工場を加え、四工場にて総ての工事を分担した。職人は従来の人員に約五割を増加して、百五人となし、船員・工夫および潜水夫、定雇人は在来より百八十八人を増加して、三百七十人としたが、当時横浜市には従業者の居住すべき住宅殆んど皆無だったので仮宿舎十四棟、その坪数七百三十五坪を急造して、職人五十一人、雇人二百二十三人を。収容した。

船舶機械の準備は、工事施行上最も重要なる者の一つである。在来使用した船舶機械の主なる者は、大小運搬船三十隻、起重機船二隻、浚渫船五隻(うちブリストマン三隻)、小蒸気船七隻、コンクリート混合機二台で、幸いにも震火災の厄を免れたが、本工事施行の決定後、直に起重機船三隻、小蒸汽船一隻、プリストマン浚渫船二隻、大小運搬船三十三隻、コンクリート混合機五台を購入し、同時に他の内務省土木出張所より起重機船二隻、小蒸気船三隻、コンクリート混合機二台、プリストマン一隻を借り入れ、なお必要の場合は随時当地にて民間よりこれを借り入れた。かくして使用せる主要船舶機械は、起重機船九隻、小蒸汽船十二隻、浚渫船十一隻(内プリストマン九隻)、大小運搬船六十五隻、コンクリート混合機十三台に達した。

工事材料の主なる者は、セメント砂利木材および鉄材で、震災直後に応急施設のため一般需用一時に起って、在荷払底し、ひいて価格の暴騰を来たし、これが購入にすこぶる困難を感じたが、その後一時的の需要が減退し、復興の諸事業未だその緒につかざりをもって、これら諸材料の購入比較的容易なるを得た。ただ砂利は一箇月約二千坪の供給を得るにすこぶる苦心した。砂利産地は相模川が最も便で、かつ比較的多量にこれを採取し得るので、相模川鉄道会社にこれを請負わして、鉄道省に一日一回臨時列車の連転を依頼し、一箇月約一千坪の砂利を得た。それでもこれ僅に需用額の半に過ぎないので、当時清水港修築工事の区域内で浚渫する砂利の海路運搬を計画し、運搬請負として約千五百トンの汽船一隻で、一箇月五回ないし六回往復させ、一箇月約一千坪の供給を得た。

岸壁の構造を強固にし、かつ耐震的にするには、在末の方塊積岸壁は不適当なので、倒壊した岸壁を除去して得た古方塊は、これを防波堤護岸等の復興工事に利用し、復旧岸壁には、コンクリート潜函の使用を計画した。しかし当所には未だ潜函製造の設備がないので(震災当時は本港修築新岸壁用潜函を製造するため乾渠船築造中であった)これを浅野造船所に請負わせ、その第一乾船渠(長さ六百八十尺)において長さ五十一尺の潜函を同時に十個づつ製造させた。しかしこれが竣功に約六十日を要するので、一日わずかに長九尺の岸壁の本体を築造し得るに過ぎない。到底予定の工事進捗を見ることはできないので、岸壁復旧することはできないので、岸壁復旧にはコンクリート潜函の外に、無底コンクリート函を直営製造し、潜函と合わせて一日長さ二十一尺の岸壁本体を築造する計画をたてた。それから無底函はその内部にコンクリートを填めるので、基礎との接合がやや理想的にできるが、潜函はこれを欠くおそれがあるから、その底の裏面に縦に溝を作って、据え付け後予め確執の中央にあけたてる孔からモルタルを十分填充することとした。

4 復旧工事施行の順序および竣功予定期日[編集]

震災後横浜港内の船舶荷役は全部水面荷役に依らなければならない。しかし港内を掩護すべき防波堤は、全く水中に陥没したもの約七百三十間に達し、一朝風波の際には、船舶荷役は全然中止しなければならない。また港内には安全に緊留し得る岸壁皆無なので、成るべく短時日に完成のできる岸壁の復旧を急ぐのは当然である。これをもって本工事着手の順序として、先ず防波堤の復旧および残存岸壁の修理を第一とし、極力之が速成に、勉め同時に九号・十号・十一号・岸壁の復旧に着手し、順次その他の岸壁護岸に着手することにした。しかし桟橋は震災直後に施行した応急修理に依り、不完全ながらも四隻の大船を繋留し得るので、これが復旧工事のため、本港に船舶の繋留個所を皆無ならむるの不利不便を考虚し、本工事の着手は大体岸壁の竣功後にすることにした。

本工事は大正十二年十月二十一日、すなわち大震災後五十日目に着手し、大体前記方針の下に各工事の竣功期日を左の如く予定した。

6号岸壁 13年1月末
2号岸壁 同 3月末
防波堤本体 同 4月末
防波堤当部及び補強 同 5月末
9号岸壁 13年4月末
10号岸壁 同 4月末
11号岸壁 同 4月末
1号岸壁 同 6月末
新港護岸物揚場 同 9月末
4号岸壁 同 9月末
3号岸壁 同 10月末
12号岸壁 同 12月末
13号岸壁 同 12月末
5号岸壁 同 12月末
旧港護岸物揚場 14年1月末
7号岸壁 同 2月末
8号岸壁 同 3月末
桟橋 同 10月末

すなわち防波堤は着手後約六ヶ月間、岸壁護岸は約十七ヶ月間、桟橋は約十二ヶ月間に全部竣工させる予定であった。

第3節 横浜港復旧工事施行概要[編集]

1 総説[編集]

大正十二年十月二十一日、本港復旧工事施行の決定を見るや、直に諸般の準備に従事し、また工事にして着手し得べきものは直に着手し、従業者一同犠牲的精神をもってこれに当たり、爾来着々予定以上の進捗をみた。すなわち左のごとくである。

工種 着手年月日 竣工年月日 予定より
遅れたる日数
予定より
速りし日数
6号岸壁 12.11.1 13. 2.21 21
2号岸壁 13. 1.27 13. 3.23 8
防波堤本体 12.11.19 13. 4.15 15
防波堤当部及び補強  13. 3.16 13. 5.22 22
9号岸壁 12.11. 6 13. 5.20 20
10号岸壁 12.11. 6 13. 5.30 30
11号岸壁 12.11. 6 13. 5.30 30
1号岸壁 12.11. 6 13. 6.27 3
新港護岸物揚場 13. 4.30 13. 9.30 予定通り
4号岸壁 13. 2. 1 13. 9.13 17
3号岸壁 13. 2. 1 13. 9.20 41
12号岸壁 13. 8. 7 13.12.25 6
13号岸壁 13.7. 9 13.11.15 46
5号岸壁 13. 4.22 14. 1.20 20
旧港護岸物揚場 13. 9.26 14. 1.31 予定通り
7号岸壁 13. 5.16 14. 2.20 8
8号岸壁 13. 5. 1 14. 3.20 10
桟橋 13.11. 1 14.10.31 予定

復旧岸壁に繁留した第一の客船は、十三年五月二十二日、九号岸壁に繋留したのは、日本郵船株式会社の鹿島丸で、久邇侯爵が同岸壁より御乗船御渡欧遊ばされ、久邇宮および妃殿下が御見送のため御来港、親しく同岸壁竣功の模様を言上し得たるは、実に記念すべものである。また復旧岸壁に繋留した、第二の客船は、同年九月十三日、四号岸壁に繋留した。東洋汽船株式会社の大洋丸であった。

京浜防波堤・岸壁・護岸および物揚場の復旧工費総額は、約四百六拾万円でこれに要したる主要材料および労働者の数および金額を列記すれは左の如くである。

数量 金額
木材 5,500石 115,090円
鉄材 2,830噸 424,030円
砂利 17,200坪 578,920円
1,150坪 32,290円
セメント 107,150樽 615,980円
混凝土潜函 50個 779,400円
割栗石 2,730坪 129,440円
重詰土砂 18,380坪 117,200円
傭人料人員 457,000人 1,516,060円

この外桟橋の復旧工費予算は、百九拾八万円で、これに要せし鉄材の数量は、新材五千九百トン古材千七百トン合計七千六百トンにして、その価格は新材のみで約九十五万円である。

2 防波堤[編集]

防波堤の被害の主なるものは、東防波堤端部延長約五百間、北防波堤端部延長二百三十間の中平均約八尺の陥落で、頭部は何れも殆ど垂直に約十一尺沈下したが、燈台は幸い傾倒の厄を免れた。沈下せる部分は海底泥士の上に築造せる個所で、陥落と同時に外側に傾斜した部分少からず、また外側下部方塊外方に押し出されたる個所もあった。かつ防波堤の位置多少不規則に変動したが大体において防波堤はそのまま沈下し、崩壊を免れるを得た。

復旧工事は先ず沈下した堤の上而両側に方塊を二列に並置し、その間およびその上部に場所詰コンクリートを施し、高さ干潮面上八尺、天端幅十五尺に仕上げた。方塊積には十五トン起重機船一隻、曳舟一隻および運搬船二隻を使用し、方塊の数は新に製造せるもの、および崩壊岸壁から引揚げたるもの合計千百九十三個で、この外に海側捨方塊として九百個を沈下した。場所詰コンクリート工事には船に据付けたるコンクリート混合機二台、曳船二隻、材料運搬船十二隻を使用両、なおこの外は陸上で製造したコンクリートを、容積十七才のスキップ十八個で、六個宛工業船に載せ、現場に運搬した。製造したコンクリートの総量千九百八十二坪である。時あたかも厳寒の時季でかつ大干潮は夜間に起るので、場所詰コンクリート工事は常に夜間作業をやらなければならないので、従業者は最も苦痛を感じた。

3 岸壁護岸[編集]

新港岸壁総長約千百間の内、やや旧形を存するものは、一号岸壁五十三間、二号岸壁六十間、六号岸壁百十六間、合計二百二十九間に過ぎず、他は全部倒壊した。倒壊の状況は下部二段ないし三段の方塊積を残して、その上部の方塊および大場所詰コンクリートは前方に倒れ、その上に裏込の粗石および土砂等背後から崩れ落ち、深くこれを埋没した。また場所によっては方塊または場所詰コンクリートの基礎のみを残して、岸壁全部倒壊した所もあり、倒潰せる方塊も、重積のままの物も、また分離したものもあった。そうして残存岸壁中二号・六号は、大体基礎方塊はその位置を変じなかったが、その上部の方塊は全体にまたは二段三段に水平に前方に押出され、その移動の最大なものは六号岸壁の一部で六尺余のものがあった。一号岸壁は大部分前方に傾斜し、最も甚いのは、その傾斜約十度に達し、いずれも危険の状態で残存した。そしてこれら残存岸壁の裏込は約五尺沈下した。

残存岸壁中、二号および六号の修理には、先ずその前面水底の泥士を浚渫し、地盤を露出せしめ、十八尺毎に袋詰コンクリートで幅八尺の支柱を築造し、柱と柱との間は、その前面に型枠を据付け、直径二尺の帆布管により、その内に水中コンクリートを填充し、なおその安全を期するため、四インチのガス管により奥ヘモルタルを注入した。

一号岸壁の修理は、岸壁上部の場所詰コンクリートおよびその下段の方塊を除却し、しかる後在来の岸壁線に倣い、残留する方塊上に新に岸壁を築造した。

九号・十号・十一号は全部倒壊した岸璧の中、第一に復旧工事を施したもので、工事の速成を期するため、新岸壁線を在来より八間前進させ、横桟橋に改築した。即ちその延長二百十八間、幅八間、その水深は干潮面下三十尺および二十六尺で、十一間の間隔に二十基の橋脚を築き、各径間に九本の鋼桁を架し、上部には鉄筋コンクリートスラプを施行した。橋脚の据付には、先ず橋脚に当たる個所の倒壊物を除去しなければならない。これはすこぶる難工事で、多くの工費と、時間を要するものである。横桟橋式を採用した理由は、この難工事を成るべく少くするためである。倒壊物を除去するには、先ず倒壊岸壁を覆う粗石・土丹および土砂を浚渫し、次に岸壁を構成する方塊および場所詰コンクリートを引揚げるのである。これらの場所詰コンクリートは断面七十二平方尺、長三十六尺で、その重量百六十余トンである。起重機の能力はこれにおよばないので、爆薬をもって二十トン前後の小塊に粉砕し、しかる後これを引揚げた。方塊の引き揚げなお容易ではない。方塊は接合のまま倒壊するもの多く、小爆破によってこれを分離せざれば、引揚用の網に掛けることが出来ないからである。方塊および場所詰コンクリートの除却が終ると、残っている土砂を完全に掃除し、コンクリートおよび割石を以て基礎を造り、浅野船渠で製造したコンクリート潜函(長二十七尺、幅十七尺、高三十三尺および二十九尺、重量三百トンおよち二百五十トン)を据え付け、その内にコンクリートを填充した。潜函据付と同時に、その後部在来の岸壁線に土留擁壁を築き、土留擁壁と潜函との問には、潜函と同じ幅に水中コンクリートを施行し、斯くして在来の岸壁線に築造せる擁壁よりも優る幅十七尺、長五十尺の橋脚二十基を突出させ。鋼桁は予め浦賀船渠会社で製造したもので、長さ五十五尺、高さ四尺、重量八トン半、一径間に九本を要し、合計百七十一本を使用した。コンクリートスラプは厚七インチ半で、面積千六百坪に達する。本工事は十二年十一月六日に着手したが、工事の困難な上に、職人が熟練していなかったのみならず、かつ工事の種類が割合に多かったので、その竣功は予定より少し遅れた。

四号岸壁復旧工事の延長は、百十四間二分で、九号・十号・十一号と同じく新岸壁線は在来より八間前に出したが、その構造は既往の経験によって、横桟橋式を止め、これを普通岸壁式に改めた。すなわち倒壊物は全部そのままに置いて、倒壊岸壁を新岸壁の基礎としたがその前端の凸凹が著しいので、新岸壁線に沿い、方塊を一列に並置し、新方塊と倒潰岸壁との間は、念入りに水中コンクリートを施し、これを甚礎として、潜函または無底函を据付け、砂利およびコンクリートをその内に填充した。その上に上部工事を施し、既定の高に達せしめた。潜函は浅野船渠会社の製造に係り、長さ五十一尺、幅十七尺、高さ二十四尺五寸、壁厚下部一尺二寸五分、上部九寸、その重量四百三十トンで無底函は直営製造に係り、起重機の関係上これを二段に重積し、下段は長さ十六尺、輻十五尺七寸五分、高さ八尺二寸五分、上段は長さ十六尺、幅十三尺、高さ九尺二寸五分、いずれも壁厚七寸五分、重量約二十七トンで、左右に一尺五寸の耳を有した。岸壁本体の進捗と同時に割石および土丹で裏込工事を施し、その後方に約四千三百八十坪を埋立てた。

三号岸壁および五号岸壁の復旧工事は、その延長前者は七十三間七分、後者は五十七間五分で、いずれも接岸船の便利を慮り、新岸壁線をほぼほぼ旧岸壁線に一致せしむるため、倒壊物全部を除去し、旧岸壁の残存基礎を露出せしめ、隣接せる残存岸壁との接続上方塊および水中コンクリートで、その前面を補足し、その上に岸壁に潜函または無底函を据付け、上部工事を行ったことは第四号岸壁と同じである。

七号および八号岸壁の復旧工事は、延長合計百六十五間七分、三号および五号と同じく新旧 岸壁は全く一致さした。これがため倒壊物を全部除去し、残存基礎上に潜函および無底函を据付けた。

十二号岸壁の復旧工事は延長五十一間三分にして、新岸壁線は旧岸壁線より十間前進せしめたので、倒壊物は全部放置し、新たに海底を浚渫し、割石およびコンクリートで基礎を作り、その上に潜函を据付けた。

物揚場および護岸、あるいは倒壊し、あるいは滑出し、一として損害を被らざるものはなかった。その後の復旧工事延長は、新港および旧港を併せ八百五間五分にして、大体これを原形に復し、なお大桟橋接続地においてはこれに多少の改良を加え、なおこの東側は小蒸汽船による水陸連絡の要地なので、新たにその海側に波除堤を築き、これを掩護した。

4 橋梁[編集]

横浜港内における橋梁は、新港を連絡する万国橋および新港橋の二橋でいずれも激震後の猛火に襲われ、歩道等の木部は総て焼失したが、結構それ自身は幸い無事で、墜落を免れた。しかれども橋台の移動に伴い、結構受台の位置に変動をきたし、これが復旧に頗る困難を感じた。橋台の震害は頗る大なるものであって、いずれも新港埋立地側のもので、甚しい被害の状況は、主に滑出および縦亀裂で、鉄材およびコンクリートを以て、これを接続補強し、結構の受台はジャッキで結構の一端を持上げ、これを修理し。新港橋は七月より、万国橋は八月より、約一箇月間通行を禁止し、この間に大部分復旧した。

5 掃海[編集]

震災に続いて起った大火災は、陸上の可燃物を全部焼失烏有に帰したに止まらず、なお船溜内に碇泊せる小蒸汽船・艀船等の殆ど全部を焼払った。水面はこれら空舟の残骸によって閉塞され、不燃性貨物を積載した艀船等の残骸は、水底に沈没し、船留内の航行全然不可能なるに至った。これが掃海工事は緊急を要するので、震災後間もなくこれに着手し、船溜内最も必要な個所は十三年二月にこれを終え、その後引続きこれを施行し、同年五月で船溜内全部の掃海を了った。左に引揚げたる小蒸汽船その他の数量を揚げよう。

小蒸気船 6隻
発動機船 9隻
艀船 348隻
所有者にて引揚げたるもの 60余隻
錨その他金物 36噸

(備考)艀船の隻数その残骸より勘定したもので、適確なる数でない。実際の隻数はこの幾倍に達するのである。

また船溜まり以外に流れ出し港内に沈没した艀船当、数多く存在する見込なの、掃海もまた急を要したから、十三年五月から七月に至るまで、二ヶ月間、港内百二十万坪の掃海工事を施行し、その結果左記のものを発見これを引揚げた

発動機船 2隻
空艀船 12隻
貨物積載船 2隻
洋紙 8個
日本錨 16挺
西洋錨 6挺
錨鎖 2連
鉄管 5個 海底上7尺乃至8尺突出せるものあり
ワイアロープ    1
マニラロープ 1
タンク 1個
電気機械 16個
軌条 10本 海底より6尺突出せるものあり
鉄材 50本 海底より7尺乃至4尺突出せるものあり
木材 35本 海底より7尺突出せるものあり

(備考)港内において引き揚げた物品中には、震災の際沈没したものでなくて、平常荷役の際過ちて墜落し、そのまま放棄したものも多かったらしい。

6 桟橋[編集]

大桟橋の震害は、全長二百七十二間の内、前方船舶繋留に使用した二百二間の両側拡築部を危く残して、他は全部挫折陥落した。陥落した部分は拡築以前の旧桟橋の本体で、竣工後約二十七年を経過し、その橋脚は鋳鉄製円筒柱なので、地震の激動によって、脆くも挫折した。拡築部は径六インチ半の九鋼柱および径四フィート半の鉄筋コンクリート柱を橋脚とし、その上部は鉄筋コンクリート床であったが、被害割合に少く、大船繋留に支障なきを得た。震災直後において桟橋残存部は大船の繋留に支障のないことを確め得たので、直に両側残存部の接続床張、連絡木橋の架設(震災直後においては一時船橋を設けた)防衝材の修理等、応急工事を施し、避難民の輸送船および一般外航客船の接岸繋留に供することを得た。

この如く桟橋は本港唯一の接岸繋留場だったので、既に述べた如く、その復旧工事の着手は大体新港岸壁竣功の後に譲り、本年一月末、船舶の桟橋繋留を禁止せられた迄は、専らその残骸の取片付および工事の準備に従事した。同年二月よりいよいよ本工事に着手した。新桟橋の構造は種々研究の結果、大体在来通りに復旧するので、橋脚は総て下部に径六尺半の螺旋沓を固定せる径七インチの丸鋼を使用した。しかし将来上屋を築造すべき個所には橋脚を増加して、その荷重に堪えるようにした。なお鋳物は総て鋼鋳物を使用し、繋銲の直径は在来一インチ半であったが、二インチに増し、床は総て鉄筋コンクリートにしたので、在来のものに較べれば耐震耐火の堅牢物となるのである。

7 復旧工事によりて得たる復旧以上の利益[編集]

当土木出張所に於いて施行する横浜港復旧工事予算は、前記のごとく九百弐拾五万余円で、その目的は単に被害設備の復旧に止まり、すこしも港の能率増進のためではなかったが、工事施行の方針を決定するに当たり、四号および九号・十号・十一当の両岸壁新法線を在来より、八間前進せしめたので、新港両突堤の幅員は在来六十間であったものが、六十八間に増加し、新たに二千六百三十二坪の埋立地を造った。これがために在来の上屋はその幅員十四間に過ぎなかったが、これを幅員十八間ないし二十二間に改築するので、上屋の収容力は従って増進することが出来る。新岸壁線の前進はただ上屋の収容力増進に止まらず、またその水深すなわち四号岸壁の水深は従来三十二尺であったが、これを三十四尺に、九号・十号・十一号の水深は従来二十四尺、二十八尺であったが、これを二十六尺および三十尺に増加することを得た。これ大なる利益で、従来桟橋以外に繁留することができなかった大船も、これら岸壁で始めて繋留することができるのである。

また十二号新岸壁は、在来より、十間前に出したので、新たに五百十坪の上屋敷地を増加し得たるのみならず、その水深二十尺であったのを、二十四尺に壻加したため繋留船は震災前に倍加するに至るはずである。

8 終結[編集]

本港震災復旧工事中、防波堤は震災後九箇月目に、岸壁護岸は十九箇月目に全部竣功した。桟橋もまた近く完成する。しかし此等工事は単に復旧に止まらず、新港に新に三千百四十二坪の重要なる埋立地を得た外、岸壁延長三百八十三間にわたり、その水深を二尺ないし四尺増加したるのみならず、その構造の如き、震災前のものに比し、一層強固ならしむることを得た。しかも此間従業者一同の労苦はまた実に甚大なるものある。例えば東防波堤の工事の如き、一昨年十一月に着手、昨年三に竣功せるものであるが、その間の総日数百十八日の内天候のため休工した日、十日を差引いて。繰業日数は百八日、その操業時間千七百九十一時間でこれを操業日数に割当てれば一日平均十六時間六分である。またこれを昨年四月より十一月に至るコンクリート作業において見るに、その総日数二百四十四日、休工四日、操業二百四十日、操業時間の総計四千百七十五時間で、一日平均作業時間は十七時間二十四分である。

このごとく従業者一同奉公的精神をもって、昼夜の別なくこれに当たり、風雨をいとわず、寒暑を問わず、始終一貫本工事のために努力された、労苦には深く同情するところで、精励な働きは賞めるべきである。本工事に関して内務本省当局の懇篤な指導、その他各方面から深厚な援助を与えた。また従業者一同の労を慰めるため、横浜市は昨年五月二十五日特に園遊会を鶴八公園に開き、また港湾協会は同年九月二十七日、横浜第一中学校講堂において特に活動写真の映画を催されたには、同所一同が深く感謝したのである。

(内務省土木局横浜出張所調)

第4節 水路整理[編集]

道路橋梁水路 附河川掃除・流水整理等
港務部主管水路の整理に就いて

大震災後、港界内港界外附近、海面および接続河川内には、浮流木材・難破物艀船・その他水底障害物多数散在して、船舶の通航に甚だ危険なので、震災直後、浮流障害物は港務部において、海軍の多大なる援助の下に、取除けに尽力し、沈没物件は東京サルベージ会社・帝国海事工業会社等に命じてこれを行い、大正十二年十月八日作業に着手し、大正十三年二月廿日までの間に引揚げした物件は、左の通りである。

大正十二年十月八日より十二年十二月三十日迄

1 貨物
鉄板 約3548噸
鋼材 約377噸
機械類 約215噸
穀類 約800噸
石材 約143噸
電気機関車台 約90噸
金属塊 約513噸
その他のもの 約481噸
重量合計 約5167噸
此救助価格 約金67万円也
2 小蒸気船 6隻
3 発動機船 3隻
1 終業人員延数 12287名
1 使用艀船発動機船延隻数 879隻

大正十三年二月十五日現在掃海除去したる物。

1 汽艇汽船汽罐 6隻分
1 艀船 213隻分
1 鉄物 800点
1 雑貨 37点
1 セメント積艀 3隻
1 黄色土塊積艀 1隻
1 硝子積船 2隻
1 小豆積艀 1隻
1 蜀黍積艀 1隻

その後第二回の掃海作業を東京サルベージ会社に命じ、大正十三年四月十九日作業着手から、大正十三年七月二十一日作業終了までの間に引揚げたる物左の如し。

1 艀積沈没セメント 2隻分 約60噸
1 沈没艀船骸 105隻
1 沈没空艀 16隻
1 鉄力板積艀 1隻
1 錨鎖 1本
1 パルプ 12個
1 パイプ 3本
1 アングル 11本
1 木材 24本
1 錨日本型 6挺
1 錨西洋型 3挺
1 レール 7本
1 橋梁破壊材 1個
1 鉄棒 8個
1 棕櫚綱 1本
1 マニラロープ 1本
1 鉄材 5枚
1 変圧器 1個
1 箱物 2個

以上の物件中、所有者判朋せる分は、相当費用を徴収して、所有者に引渡し、所有者不明の分は漂流物取扱規則によって市に引渡した。(神奈川県港務部調)

関連項目[編集]