横浜市震災誌 第三冊/第6章

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第6章 商工業[編集]

第1節 本港貿易[編集]

我が国に於ける輸出貿易の最初の港として、世界に知られた横浜港は、過去六十年間帝国唯一の輸出港としての使命を果し、年を累ぬる毎にその繁栄と真価を挙げて今日に至ったのである。中にも生糸の輸出は、当港の生命であり、帝国経済上の重要なものである。

本港に年額入荷生糸の数量は実に五十万梱以上で、一梱とは九貫目を詰めた一箱を云う。それに対する価額は年に因って多少の変化は免かれぬが、約六億円内外と見るも過言ではない。此の如く、多量の生糸を取扱う市場は、世界中僅に紐育と横浜の外になく、紐育にあっては一箇年四十万俵、一俵は百斤内外で、本港市場と、対峙して、世界に於ける重要市場の権威を示している。その他東洋では上海、広東の市場がある。本港市場と、同様供給市場ではあるが、その規模も至って小さく、比較するに足らない。又欧羅巴にも里昂(リヨン)・美蘭(ミラノ)等の需要市場があるが、是又紐育程の勢力はなく、唯歴史的にその名を認められて居るに過ぎない。斯の如く横浜港は我が国唯一の輸出港であるのみならず、世界経済界に最も重要なる任務を背負っておるのである。

さて本港は前述の如く五十万梱の生糸が入荷され、直に商取引が行われるのが、原合名会社を初め、神栄株式会社・小野商店・渋沢商店・日米生糸会社・田中商店その他二十六軒の問屋である。生糸を買収して自己の責任を以て、外国に輸出する者には、三井物産横浜支店、已下八軒の直輸入商と、甲九十番、二百五十四番以下十一軒の外国商館がある。その他輸出向けに不合格となった生糸を買収して、自己の思惑、又は単なる取次の形式で、福井・金沢・福島・京都・甲州・上州等の機業地に売捌く営業者、所謂蚕糸仲次業者(通称地遣糸又は和売)二十軒の外、吾国唯一の生糸取引所なる横浜取引所は、約五十軒の附属仲買人を有し、毎日四回の立会を行い、生糸清算算取引を行い、その樹立する公定相場は、横浜現物市場の値段を支配し、同時に各地繭相場に対する指針となって権威を持って居る。この外に農商務省生糸検査所・絹布倉庫等の主要倉庫および銀行は、何れも生糸貿易上欠くべからざる須要機関として、本市に設けられて居ったのである。本市貿易の一般須要施設の梗概は以上に述べたのであるが、本市輸出貿易沿革概要は震災と、外人の條に譲り、かの九月一日の大震火災に於けるこれらの被害と、輸出貿易に及ぼした影響等を述ベ、更に復興諸対策運動の経過を辿り、これ等当業者の苦難を記録して見よう。

(横浜税関調査資料、外務省書類、横浜開港五十年史)


第1項 生糸[編集]
1 生糸の被害[編集]

本港生糸の被害に関しては、明確なる調査は得ることが出来なかったので、取敢えず蚕糸貿易組合に焼残った一部の帳簿と、関係者の記録に拠りて、被害数量の算出に苦心した。その結果、十二年十一月二十六日現在の概数は次の如くである。

問屋保管中の数量
10,493.52
523,444.35
内為替付 419,927
無為替 1,975,171.75
倉庫会社保管中の数量
19,999
603,523.5
内為替付 529,314.25
無為替 74209.25
銀行保管中の数量
9,739.2
584,928.25
輸出商保管中の数量
10,152.25
598,282.44
引入中 360,140.75
看貫済 238,141.69
荷為替未払中に属する分
245
14,764.50
輸送中にして問屋引渡未済
14,424
8,540,950
問屋分合計
42,325.1
2,510,352.94
内外輸出商合計
取引結了積出未済に属する数量
5,416
608
総計 429,331.1
外に 5,416
3,075,532.94

右の如くであるが、年に依って価格に、多少の変化はあり、これ等の数量から推して、約参千弐百拾七万参千円内外に達したのである。更に、大正十二年度に於ける月別生糸の差引と同年月別生糸の入荷を示せば次の如し。

科目月次 繰越高 (梱) 入荷高(梱) 以上計 売込高(梱) 内地行(梱) 焼失糸(梱) 以上計
1月 47,368.0 17,722.0 65,090.0 25,657.5 2,252.5 27,910.0
2月 37,180.0 16,942.5 54,122.5 30,556.5 6,719.0 37,275.5
3月 16,747.0 34,086.5 50,933.5 25,356.5 5,784.0 31,140.5
4月 19,793.0 41,819.0 61,612.0 42,406.5 4,389.0 46,795.5
5月 14,816.5 33,116.0 47,932.5 19,623.5 4,196.0 23,819.5
6月 24,113.0 29,179.5 53,192.5 28,247.0 5,131.5 33,378.5
7月 19,914.0 68,105.0 88,019.0 48,938.5 3,081.5 52,020.0
8月 33,999.0 56,819.0 92,818.0 47,182.5 4,938.5 52,121.0
9月 40,697.0 5,938.0 46,635.0 5,364.0 32,173.0 37,537.0
10月 9,098.0 56,910.0 66,008.0 36,021.5 36,021.5
11月 29,986.0 49,723.0 79,709.5 39,113.0 827.5 39,940.5
12月 39,769.0 50,280.5 90,049.5 44,887.5 1,454.0 46,341.5
合計 43,706.0 460,641.0 393,354.5 38,773.5 464,301.0
参考
大正11年 57,695.0 478,643.5 48,030.0
大正10年 513,020.0 464,223.0 83,162.5
大正9年 365,604.0 253,101.5 666,694.5
大正8年 515,158.0 478,510.0 67,232.5
大正7年 469,330.0 400,198.0 55,775.5
大正6年 461,408.0 423,104.5 30,101.0
大正5年 395,612.5 360,158.5 26,805.5
大正4年 323,866.0 317,016.0 22,073.0
大正3年 313,153.5 286,212.0 18,564.5 304,776.5
大正2年 351,709.0 338,420.5 16,250.5 354,671.0

大正十二年度月別生糸入荷表

月次科目 器械製糸(梱) 座繰製糸(梱) 折返造(梱) 柞蚕糸(梱) 玉糸其の他(梱) 合計(梱)
1月 17,722.0 17,722.0
2月 16,829.5 89.0 24.0 16,942.5
3月 34,014.5 72.0 34,086.5
4月 41,795.0 24.0 41,819.0
5月 33,116.0 33,116.0
6月 29,179.5 29,179.5
7月 68,093.0 12.0 68,105.0
8月 56,793.0 26.0 56,819.0
9月 5,938.0 5,938.0
10月 56,522.0 388.0 56,910.0
11月 49,486.0 79.0 138.0 49,723.0
12月 50,262.5 14.0 4.0 50,280.5
合計 459,751.0 202.0 688.0 460,641.0

然しながら一面是らの調査は、数字の上に表われたものを綜合したのに過ぎない。其後に至って更に調査を重ね、五万五千六百七梱の焼失数量が明らかになって、時価五千五百万円以上に達していることが知れた。外に前記の店舗・輸出機関・取引機関・検査機関だけで、壱億円以上の損害額に昇った。この驚くべき破壊は、一時人心を喪失せしめ、内外生糸の市価に大変動を与え、その標準を失わしめたので、遠くは紐育市場に半恐慌的の状態を招来し、経済的見地より重大なる現象を来たした。かくして生糸の中枢を失い輸出も絶望の状態に陥ったのであるが、ここに不思議にも猛火の渦中にありながら、災厄を免れた倉庫は、三井物産支店・江商株式会社の二会社と、渋沢・小野の二商店と、外に川崎銀行であった。三井物産には当時1千俵の生糸が在庫し、川崎銀行の倉庫には日米生糸会社の持糸があり、それに小野商店は焼けなかったので、無傷で助かった。渋沢商店も同様一つの傷もなく、数量も小野商店に次いで、渋沢・小野商店の生糸を合せて約八千五百梱が助かったのである。これらの焼失を免かれた生糸は、絶望裡に置かれた本市貿易の復興に生気を与えたのである。

更に市内取引業者と相並んで、横浜に入荷する生糸生産業者の損害も、莫大なものであった。が生産方面から見れば、その損害割合は約一パーセント弱に当たり、予想以上に達しなかった。本港に直接関係ある災害地各府県工場の損害を述べれば左の如くである。

東京府 岩淵小口組赤羽製糸場(五三七釜)の繰糸工場四棟、仕上工場二棟が倒潰し、死傷七十二名を出し、西多摩下田工場(100釜)、能川村森田製糸所(二一〇釜)等も多少損害を被った。

山梨県 鰍沢町輝国館製糸工場(二四八釜)全部倒潰、作業中止。相興村隆基館製糸場(一○八釜)の工場が一部倒潰、甲府市矢島糾組第三工場(五六○釜)および同市丸茂製糸場(三五○釜)等も相当の被害があった。金融方面では若尾・第十有信の各銀行がシンジケートを組織し、日本銀行から生糸資金を仰ぐこととし、指定倉庫たる若尾倉庫に入れたるものに対し金融をなし、正金銀行もまた荷為替を担保として相当融通した。

千葉県 被害は殆どなし。小規模工場が多いので、交通杜絶、ならびに金融梗塞のために、出荷不能に陥り、苦痛を嘗めたが、生産上の打撃は甚大でなかった。

神奈川県 被害甚大にして、二千四百七十一釜中、繰業開始の見込あるものは、僅に一割強に過ぎぬ。全潰全焼等に依り、復旧の見込のないものは、中和田村持田工場(二一八釜)同宮崎工場(三二〇釜)、藤沢町徳増製糸工場(一三八釜)、吉田島村高木工場(五○○釜)、渋谷村持田第二工場(二五○釜)、茅ヶ崎町純水館(二四○釜)、瀬谷村川口製糸工場(一四四釜)等である。なお藤沢の若尾倉庫全潰のため、同倉庫内に保管中の繭約百八十万円方汚損したものも大損害であった。これによって見れば、生糸工場全体の損失は、約二千八百釜で、この中の過半は神奈川県下の被害であった。之れを総釜数たる二十九万釜に比較すると、僅に一パーセント弱の損失で、生産力の方面から見る時は大した損害ではなかった。

(横浜繭糸貿易復興会調査資料)
2 生糸焼失と其影響[編集]

不慮の大災は重要輸出港を破壊したのであるから、吾国に於ける経済界にもすくなからざる影響を与えたことは論を俟たない。人或は横浜の災害は単なる一地方として看過するかも知れぬが、それは余りに国家経済を弁えないからで、前述の如く本邦ばかりでなく、世界的に貿易経済に大狂いを起したのである。先ず三千の製糸家は、一時路頭に迷った。二百万の養蚕家は、繭を投売りするの悲運に陥ったのである。信州・甲府・上総・武蔵を初めとし、遠くは四国・九州・朝鮮に至るまでの範囲に及ぼした。その相場も、地震前には一貫拾円以上を唱えた繭相場も、本港全滅の報に困りて、参四円の安値でも、一人の拾い手をも一時は求める者はなかったと云ふ現状を呈したのである。当時状態は以上の如くであるが、更に遡って大正十二年度の生糸を含む我国の輸出入貿易状況をみると、出超期節に入った七月・八月の下半期に於いても、依然として入超売となり、七月には四千百七拾参万七千円、八月には二千二三拾万八円の輸入超過を示したのである。斯くの如き変態の貿易現象を来している矢先に、かかる天災を引起したのであるから、大正十二年、我国輸出入貿易のはバランスが根底から覆されてしまった。直接の打撃は取りも直さず、本港の破壊されたこと、生糸等の輸出貨物の焼失したこと、更に間接には金融疏通の不能になったことで、運輸機関・通信機関の杜絶等であった。同年下半期に於ける、変態的輸入超過の原因は、上期に於いて、範囲は小さいながらも、中間景気が付いたので、下半期に何等かの好景気あるべしと見越して、思惑輸入が試みられ、その註文品は七・八月に亘って、着荷したのと米国の景気が上半期以来やや沈静の状態にあったので、生糸の輸出も従って面白からず、可成りの減少を来たしていたのとに原因するので、多分九月より十月にかけて、輸出貿易が好況に赴くのであろうと一般に予測せられ、生糸の如きも出荷盛りの期に面して来ていたので、十月には必ず入超を来すものと信ぜられていた。この肝腎な時期に、貿易の中枢地横浜が破壊されたので、全く杜絶の状態に陥ったのであった。

今試みに災害を受けたる本港と、影響を受けざる港との前年度同期輸出入の比較を見れば左の如くである。 大正12年(単位1000円)

横浜 大阪 神戸
8月 輸出 78,907 22,361 24,000
輸入 54,217 14,691 12,927
9月 輸出 7,994 26,720 28,531
輸入 5,261 12,285 54,457
10月 輸出 42,754 28,681 52,140
輸入 16,368 17,178 85,457
11月 輸出 35,761 25,651 43,883
輸入 13,452 17,853 104,404

大正11年(単位1000円)

横浜 大阪 神戸
8月 輸出 89,112 21,175 20,168
輸入 44,250 2,838 63,220
9月 輸出 90,056 24,109 23,021
輸入 52,963 10,150 64,346
10月 輸出 96,488 28,032 24,159
輸入 42,469 7,966 42,735
11月 輸出 76,587 26,038 22,264
輸入 40,157 10,204 51,968

我が経済界はかく震災の影響を受け、一般に不振の域を脱することも得ず、貿易は主として復興材料輸入のため、未曾有の入超となり、一方対外為替相場の暴落を来した。

更に震災の善後処置として解決を要する重大問題もあった。幸に二月中旬、英米市場に於いて五億五千円の外債が成立し、又困難なる火災保険問題・焼失生糸問題の如きも円満に処理されたので、財界も漸次平調に復したのであるが、一般の事業界は、整理なお大にして、益々今後の努力を俟つべきもの甚だ多いのである。

以上は貿易経済に関し、震災の影響の一端を概記したに過ぎない。(横浜蚕糸貿易復興会調査書、横浜市日報、横浜復興状況商業会議所編)

3 生糸貿易の復旧諸対策運動とその成果[編集]

横浜市を一夜にして焦士に化し、一切の施設機関は殆んど全滅し、中にも直接生存に緊切なる経済機関は悉く灰燼に帰した。市の将来も全く危まる有様であった。市街は何処を見ても、店舗を初め金融・交通・通信・運輸等の補助機関は影をも止めず、商買は市外に移り、本市唯一の生命たる生糸貿易の前途も危まれ、流言は頻々として起り、生糸貿易は神戸港に移るなどという噂もあった。その結果市内商人は相率いて活路を他方に求むるものも出で、新横浜市の建設の上にも多大なる障碍を免かれなかった。

かかる混乱に市当局および憂郷の士は、これ等の脅威を一掃することに努め、将来多少なりとも悪影善を与えるようなことがあってはならぬと考え、居所も定まらぬ市会議員に急使を派して、十一日午前十時、災害後最初の緊急市会を召集した。渡邊市長は前言冠頭に

前古未曾有の大震害の結果、我横浜は殆ど全滅した。為に或は貿易を東京に引移すべしとか、生糸貿易を神戸に移すべしとか、恰も吾横浜市が消滅せるかの如く不安の感を抱かしむる浮説すら起るのである。しかれども我が市民はかかる残骸に屈せず、旧に倍したる大横浜市の建設に覚悟と決心とを有するのである。この覚悟決心を今市会に於いて発表し、内外に宣明する事は、焦眉の急務と信ずるに依り、今日市回の召集を煩わした所以である。表し

冀隠くば、充分の審議を宣べてあることに依って、明かに当時混乱状態にある本市の貿易前途を憂慮し、如何にして復興せしめようかと云う衷心の叫びであることが伺われるのである。

而し前途は大なる暗雲に閉ざされている。それは貿易施設のために欠くべからざる主力である。金融・交通・通信・運輸等の諸機関は総て杜絶している。これらの機関は実に本市の復興を疑わしむる程に、廃滅の悲運に遭っていたから、従って前述の如くこの地に利なしと、絶望の嘆を残した絹織物輸出商の如きは、神戸に店舗を構えると云う始末であった。又一方には通信機関の杜絶によって外人の多くは本市の復興を疑い恰も死地の如くに思った。船舶の出入も、物貨の輸送も、一時は本市以外の地に転ずると云う事になった。かくの如き一時的の現象は、混乱状態であった当時には、有り得べきことである。

遡って九月七日、混乱と絶望とに封ぜられ、方策も術策も殆んど見当もつかぬ有様の際、小野哲氏・小島氏・小野俊氏・井上定氏・上甲氏・木村氏その他の諸氏は、先づ公園内社交倶楽部跡に相会し、生糸復活に必死を誓って、その日は別れ、翌八日に小野哲氏は本牧の原氏を訪問し、前日の決心を縷々陳述して、氏の奮起を促した結果、その後に於ける横浜貿易復興会は成立の端緒を得たのである。明けて十日午前六時、原・小野両氏は本牧に会して、直に出京を決し、同所から一艘の艀船に乗って水上警察署裏に留まり、同所から、三井物産会社の井上治兵衛氏も加わって、豊嶋丸で芝浦に上陸したのである。翌十一日、三氏は、重大使命を帯びて、関係各省の大臣を歴訪して、縷々熱涙を含む一大決意を披瀝して、政府の援助を懇願した。その結果、主務大臣は何れも本市回復の為には、極度の援助を吝まずとの力強き言明を得たので、三氏は衷心の勇躍を抑えつつ帰浜した。此の一條は正しく貿易都市の前途に一縷の光明を齎したと云わねばならぬ。その大要は次の如くである。

各位並に市民諸君が、此の際一大決心を振り起して、捲土重来的の施設を講善ぜんとする意気込は、実に賛すべきである。政府もまた進んで極力援助を吝まない。正金銀行が国家のため一大飛躍的に貢献さるるに至っては、寧ろ恰も絶好の機であるに依り、内外為替を引受け、横浜市復興のために至上の声援と、便宜を与える様に取計わしむるであろう。なお交通機関は陸軍をして速やかに完成せしめその建物の監視に努めしめ、倉庫は主務局長・税関長と協議の上、保税倉庫の無償利用を為さしむるべし。また海外市場との通信は数日ならずして回復せしめ、迅速に桟橋の修復をなして、船舶の出入に充分の便を与えるように取計うべし。

即ち、これ等の各主要事項が、その実現を見るならば、一通りの市場としての体裁を具備する訳あれば、従って市の前途に対しては、早くも一道の光明を認め得られたのである。因みに海外通信問題は政府としても、現下過激思想の問題から躊躇していたので、極力三氏は逓信大臣に具陳した結果、桜木駅前郵使局を急設し、局舎の村料は本市当局と交渉し、並びに海外通信も可能ならしめ、来る十七日の初生糸輸出の原動力となり、一梱に八百円の価を見たのである。一方九月八日、蚕糸業救済方法に就き、本市の営業者五十余名の協議会を開催して、先ず一応市復活善後策に関する意見を開陳し、実行委員十名を挙げて、左の如き決議に及んだ。

決議
交通および運輸、倉庫・金融の機関を整備し、地方の蚕糸家をして安心して出荷するよう通知すること。これが復活を図るためには、決死の覚悟を以て当たらねばならぬ。故に組合全員を委員として、九日更に三井物産会社に参集し、それらの具体的決議を為すことに決した。更に当業者はこれらの会合に依って、生糸貿易の回復方法に関しても、最善の協議を重

ねてきたが、何れもこの大勇猛心は、此処数日後には適当なる具体的施設を講ずる意気込みであった。一方貿易復興の先決問題たる市場設置地に於いては、過般来横浜蚕糸貿易復興会の大活動により、神鞭税関長の厚意ある斡旋で、税関内新港保税倉庫が無料提供され。周囲には五百坪の敷地があり、市役所供給の材料を以てはバラック式附属建物を速に建てるべく、十三日工事に着手したが、これらの建物は生糸取引市場を中心として、各輸出業者ならびに売込問屋の事務所・荷造場等の設備に充てもので、保税倉庫内には生糸約五万梱を容れ得る能力がある。右準備着手決定と共に、復興会では全市製糸家と、連絡を図るため、部署を定めて市役所証明書を携帯して、九月十三日、左記の諸氏外百名夫々出発したのである。

東京方面  小川・井上
相州方面  若尾・木村
甲府方面  中澤・小川
京都方面  奥村・神栄・原・小島・日米
信州方面  原・渋澤・小野・湧川・日米
福島方面  阿部・渡邊
山形方面  田中・神栄
静岡方面  小島・渡邊・小川
名古屋方面 井上、小島・湧川
四国方面  日米・中澤・岩倉・数野
中国方面  小野・原・日米・神栄・奥村・小島
九州方面  原・奥村・日米・渋澤・小野・神栄
北陸方面  岩倉・山田

然るにこれらの対策運動に遡って、震災直後二日来、既に全国各地の製糸組合業代表者は、交通全く杜絶の状態なるにも拘らず、万難を排し、続々来市し懇篤なる慰問と、熱情とを表示され、横浜生糸市場の一日も早く復興するようにとの真情をもらしたのである。更に右代表者は一週間以内に開市の見込も立てば、貴市に出荷すべしと言朋され、既に出荷準備も整えたる向も多く、現に六郷川の向うまで輸送し来たものもあったのである。

製糸業代表者の来浜に依って、本市の貿易復活の運動は、大なる刺激を受けたことは事実であった。引続き十四日には、井坂商業会議所会頭外、議員ならびに取引所重役と会合し、善後策を協議し、その後正金銀行も復興会の要求に応じ、製糸家の取引銀行に対し、信用状を発行して荷為替の取組みを円滑ならしむ旨、その後二十二日に声明した。次で市内組合銀行も二十五日一斉に開業するに至ったのである。

かくの如く寝食を忘れての画策奮闘は、災後約二旬を経過して、即ち忘れ得ぬ九月十七日震災後第一回の生糸を米国に輸送し、又同日の市況は最優等は弐千百八拾円、武州格は弐千○七拾円であった。第一回の現物即ち前記焼失を免かれたる小野・渋沢二商店の生糸を以て、商談は本町一丁目復興会事務所に出来したのである。

余震なお止まず、余燼未だ消えなかった九月十七日の超人的行動は、内外国人共々に、その必死の努力と、迅速なる行動とに驚嘆せぬものはなかった。しかもその成績は八月三十日の成行の値に比し、百斤対百五六拾円高に振合したのである。翌十八日午後1時より本市仮事務所楼上に於いて、横浜商業会議所第一回の臨時総会は開催され、井坂会頭を初め十五名の議員が出席して本議に入るや、左の決議を一斉に可決した。

決議
我横浜市は帝都と共に、振古未曾有の災厄に遇い、殊に当市惨状の激甚なるは殆んど言語に絶す。之が為に数万の生霊を失い、過去六十年間にわたり市民の不撓不屈の努力を以て建設したるもの、経済的および文化的の基礎は根底より覆されて、またその跡を止めざるに至る。その惨状を目撃するもの、誰か茫然自失せざるを得ない。吾人の見る所を以てすれば、今回の災厄に基づく損害は、全般を通じたぶん五拾億圏を下らず。当市の被る所また六億に及び、彼の国運を賭して戦いたる日清・日露の両役を以てしてもその戦費が之を通計して、今次の損害額の半に過ぎざるを思えば、如何にその災害の甚大なるに戦慄せざるをえない。而してその被害は京浜両市商工の中心に亘りて、その全部を破壊したるを以て、生産を杜絶し、貿易を停止し、到底市民の独力を以てしては之が回復を全うすることはかなわず。したがって復旧に対し、未だ何等曙光を認めること能わざる状態を考えれば、吾人は切々その災厄の深甚なるに想到せざるを得ず。
此時に際し吾人は当面の急に処するため、県市当局者を援けて、極力災害の援助と整理に尽力せざるべからざるは勿論なれども、更に大なる責任として吾人の双肩に懸るものは、当市の復興とその経済的回復とにあり。
思うに我横浜は帝都の関門たると同時に、本邦の大半に対する国際貿易の呑吐たり。京浜両市は経済的に一単位たり。横浜の復興は独り我市民の為に之を必要とするのみならず、実に帝都のため将た我国全般のために絶対に之を必要とす。横浜にして復興せざれば、帝都の復興は全からず。横浜にして其の経済的回復を見ざれば、災厄に起因せる我国の経済的破壊は直に回復せりと言うことを得ず。政府当局者および一般国民は此の理を了知するが故に、吾人は国家が帝都の復輿に関連して、当市の復興に全力を尽くすを疑わずといえども、しかも横浜の復興は横浜市民の絶大なる努力と犠牲とに待たざるべからず。吾人は断々乎として確固たる信念の下に、不撓の精神を以て、当市の復興に向って勇往邁進以てその目的を達っするの覚悟を定めざるべからず。復興の第一は港湾の復興にあり。幸にして今回の震災がその設備に加えたる損害は、外見の如くはげしからず。僅々数百万円を以て港湾の使用を全からしめ得べしという。我国貿易の大半は、勿論災害の復興に要する主要なる物衰の陸掲げは、主として我横浜港に俟ち俟たざるべからず。幸いに国家が此の見地に担い、極めて敏活にその復旧に着手せられたるは、吾人の感謝に堪えざる所なり。思うに当港の利用は今後益々大ならんとするに当り、吾人は単にその復旧を以て、満足すべきにあらず。当港の果すべき使用を全からしめる為め、適当の拡張計画に対し、その調査研究は勿諭、進んでその実現に対する努力を緩うすべきにあらず。
生糸の輸出は帝国経済の中枢にして、又当港の生命なり。此の業務は実に我市民が数十年に亘る力の結晶なるが故に、当市に於いての既に占めたる地歩を永遠に維持せんとするは、吾人の権利たると同時にまたその義務なり。我生糸業者が此の最大厄難の日に当り、全般の施設をことごく喪失したるに拘らず、毅然として起ち、災後未だ二旬を出ざるに、早く概にその取引を開始せるは、殆んど人力を超越せるの努力にして、その元気の旺盛なる誠に人意を強くする者というべし。吾人はその努力に対し、又政府および横浜正金銀行が、この計画に対する至大の援助に対し、満腔の感謝を表すると同時、吾人市民もまた終局にその目的を達せしむる為め、如何なる援助もこれを呑まざるの覚悟を有せざるべからず。当市およびその背後地帯に於ける工業は、当市の経済的勤脈なり。幸に近時ようやくその殷賑を見んとするに当り、この災厄に際会して殆んど全都の破壊を見たるは、その遣憾譬えるに物なし。吾人は国家がこの如き工業の復旧に対し、至大の援助を与えることを疑わざれども、これと同時にその実現に対し、吾人は大々的の努力を致さざる可からず。吾人は今回の災害に遇って偏に天意可長の感を禁ずるに能わず。各人速やかに内に自ら省み、相警め、相悛め、真摯質実の大義に担り奮励努力、商工の復興を計り、禍を変じて福となすの決心を定め、これを実行せざれば、恐らくは天意にもとる。吾人はこの帝国の国運を負って、当市の復輿進展を期する覚悟を表明せんとす。
右議決す。
大正十二年九月十八日 
横浜商業会議所

これらの決議等は、全く当時に於ける不撓の精神を発露し、又一面には政府および正金銀行の援助と共に、前途には益々光明を見出すに至ったのである。かくして万端の施設も著々歩を進め、同日原氏を会長に、市長を商業会議所会頭になし、市会議員等は協力して、前記工事中の本町通り組合会館向側に急造バラック百五十坪を設け、同日生糸取引開始の共同市場を設けるに至ったのである。倉庫には保税倉庫第二号を充て、八十坪、二十九室ありて、優に蔵入五万梱の余地あり、そして正金銀行は一梱八百円の保証に立つ外、あらゆる金融の便を計ることとなり、中央生糸市場の体裁を具するに至った。事務所は税関倉庫より旧市場に移し、原・渡邊・井上・三井商店・芳賀生糸検査所長・市商工課、その他当業者・輸出業者・問屋売込商等多数参集し、即売方三名、委員六名を設け、直段折衝の結果、

最優等   2,150円
羽子板   2,130円
毬     2,100円
矢島    2,070円
八王子   2,050円

の相場を現出し、米国に於ける相揚五割の奔騰を見たるに、何れも僅かに百五拾円高を示せるは、商況極めて健実の将来を祝福するに至った所以である。

已上の初手合以末侮日一万六千斤余の入荷あり。何れも武州・埼玉・茨城・下総等自動車の開通運転し得る方面よりの入荷にして、最近東高島駅にも入荷を見るに至った所から、同方面よりの鉄道移入あるのみならず、二十四日は清水港で積込んだ百五十梱の入荷があった。なお同港から弘済丸・博愛丸等順次入荷搭載来港する予定にて、在荷品は漸次増加の見込みも立った。一方輸出状態を見ても、さきに三井物産より三洋丸にて輸出されたのであるが、米国に於いて十九日以来、商談成立を見たので、輸出も漸次増加の傾向を呈したのである。 来商前記の如く横浜貿易の発達上、原動力とも云ふべき正金銀行の生糸金融の援助は、多大なるを以て他方生糸業者も焦眉を開けるのみなら、生糸の先高を見込、繭値段上騰の傾向を呈した。そして以後生糸取引外人は主として神戸に避難したのであったが、神戸港に於いては到底取引不能であるのと、既に取引との関係もある所から、漸次本市に帰還する状況であった。既に甲九・ボシャート・二六四番・英一番・九二番・二四二番・一九五番等の商館員は帰浜し、ナンセン号に一箇月余の食糧を塔載し、取引に参加している向もある。そして取引高、

9月17日   33,500斤
9月19日   33,500斤
9月22日   30,000斤

右の如くである。十八日・二十日・二十四日は休業したのであるが、以上の如く入荷高の相当なると、米国に於ける商況が良好に向いつつあるのと、外人は続々帰浜するのと、復興会の絶対的奮闘と、政府筋の援助と、これらが相まって全く今後益々順調に向わしめる主因となったのである。

なお其後に於ける、本市生糸取引の景況を見るに、益々順調に好況を呈し、毎日七八百梱乃至二千梱の取引を示し、九月二十八日の概況を聞くに、参拾円高にして、弐千弐百拾円四万斤の取引を示している。

前記の如く、震災直後は偏に地方製糸家の出荷を促がした不撓の努力の結果、九月中の入荷は実に五千九百三十八梱であり、十月十五日の現在は二万二千四十梱で、合計二万七千九百八十三梱に達しているのである。

かくの如く追日の活況を示し得ることになったのであるが、一方夫れから夫へと寸毫の休息もなく、対策運動に勉め、十月十八日は更に政府生糸検査所設置を陳情した。

陳情書
さきに帝国蚕糸会社解散の当時、生糸検査所の拡張および倉庫建設資金に、更に国庫より八拾万円を支出し、大正十二年度以降三筒年の継続費を以て、生糸検査所の拡張および倉庫の建設に着手せられ候様仄聞致候。しかるに今回の震災により依り、全市焦土と化し、今や朝野死力を挙げて、之れが復旧に没頭しつつあり。申す迄もなく生糸貿易は当市の生命にして、一時も速やかに復旧を要するに付、右表右資金は一時に支出し、一箇年間に工事の全部を完成せられ候様、特別の御詮議相成度、此段申請候也。
大正十二年十月十八日
横浜復興会会長 原 富太郎
農商務大臣 田 健次郎 殿

更に二十七日には横浜生糸取引業者の代表渋沢・原氏外十数名は、農商務省に、出頭し、田農相代理長場局長に面会を得、本市復興上交通至便なる波止場より海岸通りの一帯を画して、生糸町となし、横浜港繁栄の一助とした方針なれば、本省が生糸検査所其他重要機関の建設に際しても、この点を十分に考慮せられたき旨を陳情した。之に対して局長は其意を諒として、極力之が実現に助力すべき旨を答えられ、一同は満足して退出した。

さて横浜に於ける生糸の在荷は、逐日増加し、また政府筋との交渉も順調を呈したが、ここに交通機関の欠陥と、金融に関する産地製糸家は、正金銀行が応急的施設として開始した。内地向き荷為替取組に於いては、未だ充分利用するに至らず、産地に於いては正金の右計画叢を以て、輸出生糸外の在荷品に対する金融をも引受けたものの如く思惟するものもあっが、此間種々の誤解があり、延いて横浜に対する出荷上の故障も少くないので、横浜輸出商や、生産地の製糸家中には、目下の生糸金融状態を一層改善し、当業者の利便を計り度いと云ふので、寄々銀行とも、交渉中であったが、右につき横浜に於ける正金以下六銀行は十月十二日午後尾、東京集会所に代表者の集会を催し、種々意見を交換する所あり、その結果目下の場合銀行としては出来得る限り、生糸取引者の便宜を計り、金融を疏通する外なしと決した模様である。併し正金の内地荷為替取組に於いては、それが横浜産地間の生糸取引を主としているに拘らず、一般金融の安定するに従い、種々其職分につき非議するものがある位だから、いづれ之を普通銀行の活動に俟たねはならぬだろうが、罹災後一般銀行に対する信用に於いて、製糸家中なお不安を抱く者もあるから、此際製糸家は正金の活動につき充分の理解と、信頼を以て、出発の目的を達すべきを知らしめた。

已上の如く本市生糸貿易の復興はようやくその萌芽を発することを得たのも、偏に愛郷の有志並に市当局の揮身の努力に外ならないのである。(横浜市日報、市商工課、蚕糸復興会、市内版各新聞記載記事)

4 生糸貿易と金融[編集]

横浜の経清的復興の原動はいうまでもなく、金融にある。然して横浜金融の中心は、何と云っても正金銀行である。従って正金銀行の復興に対する態度如何は、実に横浜の経済的復興の鍵である。生糸貿易復興は種々なる機関の一致の働きに因て、その運転を開始したるに相違なきも、その中心動力は正金銀行が九貰目八百円の荷為替を無限に受払うべしと声明したる一大決断に因りたることに何人も疑を挟まないのである。この声明に因て生糸貿易は焼原の焦土の内より、一週間を出でずして復活したのである。余(原富太郎)は九月十一日、児玉正金頭取を訪問し、頭取から「生糸貿易に奉仕のために、この際生糸の入荷に対し、無限の荷為替の受払をなすべく、その貸付価格についても、復興会と協議して、援助を惜まざるべし」との言明を聞き、心中一種の感動と、限りなき感謝を禁じ得なかったと同時に横浜の復興たるぺしと思った。併しその夜東京からの帰途、この如き喜ぴが往々ぬか喜びになってしまう事があるのは、かつて幾度も経験した。かかる声明が最初の非常に寛闊なる態度に似ず、実行の場合となると、平時と同様、用心や事務上の繁雑なる形式や事の緩急を弁ぜぬ事務員の取扱振によって、実用の範囲を狭められ、その実行が声明に伴なわざる事になるまいかと考えた。然るにその後事業の進行と共に、児玉頭取の態度は、巌として初めの声明の如く更に変わらず、九貫目八百円の価格も快諾した。信用状も地方の各銀行にも製糸組合にも荷受の電報を発してくれた。その他諸般の便宜を計ってくれた。総て形式や手続きを省略して実効を挙げるべく努めてくれた。総て簡潔を旨として殆んど凝硯するに暇なかった程の快速を以って事を処理してくれた。余は今後再び会すべからざる最大快事として、非常なる興味を以てこの成行を見たのである。かく正金銀行は横浜に於ける生糸貿易に於いて多年の義務を尽くすを怠らなかった。無論正金銀行は生糸貿易の増大に伴ってその其大を来した。当然の義務とは云いながらその決断と敏速とにおいて、余は貿易復興会の理事長としてここに深く敬意を表するの至当なるものがあると思う。世界未曾有の大戦を経て、各種各様の研究を経たる結果、一致と協調と生存との三点を必要とすることに帰着したるは、世上識者のともに認識する所である。殊に今回の如き咄嗟の事変に会し、復興事業を樹立するの場合に於いて、最も然りとなす。正金銀行今回の美挙もまた此の意義を実行したるに外ならぬのであると思う。併し横浜復興の問題は、将来なお甚だ沢山ある。皆主として金融の中心たる正金銀行の協調と共存共栄の態度に待たなければならぬと同時に、自余の銀行もまた皆その態度を同うし、此と協調し合奏すべきは当然の事である。復興ならずして、金融業者独り栄えるの道理なく、金融業者滅びて、復興独り成るの理なきは自明の理である。金融業は云うまでもなく株主の銀行なり、頚金者の銀行なるに相違なきも、今回の如き災厄は、誠に人類に稀有の不幸なれば、この場合に於いてその共存共栄の途に就くがために必要と認めたる行為は、株主や預金者といえども、その忍ぶべきを忍んで、満腔の同情表すべきである。若し彼等にして共存共栄の道理を忘れて、漫に自己の利益のみを主張するに於いては、これ同情なきものとして世上の擯斥を受けるは勿論、その結果人を傷けて、自らも傷くに至るものを思う。今や共存の上に於ける同情の観念、その株式会社たると、公共団体たると個人たるを問わず、皆一様であり、この観念を基礎とする奉仕の義務に於いて、何等軽重の差なきものたるは多言を要せざるべし。余は横浜復興のために、横浜に於ける金融業者は勿諭各種の事業家も、工業家も皆その共存共栄の道を講ずるに於いてやぶさかならざるを願って己まざるものである。(十二月二十四日原富太郎氏述)

第2項 絹織物[編集]
1 輸出絹織物の被害[編集]

前記の如く市の生命たる貿易及び市内商工業の大半は殆どその機能を失い、全市を挙げて塗炭の苦しみを体験したのであるが、次に本港輸出絹物貿易の被害もまた激甚を極めた。百数十人の輸出関係業者を始めとし、染色・加工其他の従属的営業者に至るまで殆んど皆全焼又は全潰の厄を被ったのである。被害程度の概数を示せば左の如くである。

1.輸出商・問屋・仲立・製品業其の他営業者435人
   内
 申告人員 162人
 焼失価額(建物機械其の他) 13,000,000円
 火災保険 8,560,000円
2.染色業者 52人
   内
 内申告人員 14人
 焼失価額(建物機械其の他) 1,250,000円
 火災保険 710,000円
3.加工業者 200人
   内
 内申告人員 32人
 焼失価額(建物機械其の他) 810,000円
 火災保険 230,000円
合計
焼失価額 15,060,000円
火災保険 9,500,000円

なお之に申告者の被害高を加算するときは、恐らく前記の二倍に達するに至るであろう。当時経演機関の歿滅によって、すなわち貿易機能を絶止せしめ、記記の如く当港輸出品の巨擘絹織物および絹製品の輸出業者は挙って神戸港に遷り、同港よりその輸出を開始するに至ったので、当港の輸出はここに一大頓挫を来し、震災前一億円以上を維持した大貿易は、全然神戸へと移り、当港の輸出額は僅にその百分の一にも足らざる悲境に陥った。したがって数百の問屋・仲立・製品業および染色加工業の営業者に至るま、陥々として神戸に赴き、残留者は震災前の十分の一にも達しなかったと云う状態で、大勢は既に神戸に移らんとする形勢を示したのである。 今大正十二年九月一月より十三年三月に至る横浜港輸出額を見るに左の如くである

月次 輸出額 前年同期
大正12年 9月 0 8,721,485
同  年10月 4,789 8,721,485
同  年11月 152,204 6,989,134
同  年12月 479,114 8,632,404
大正13年 1月 442,133 4,838,711
同  年 2月 502,823 7,264,867
同  年 3月 689,000 8,479,342

絹物貿易の不振は、かくまで絶頂に達し、さきに神戸に移った当業者も、漸次同地に馴れ自然永住の傾向を生じたのであるから、それが復帰挽回の策を講ぜざるを得なかったのである。(横浜絹業復興会調査)

2 絹業の被害と復旧[編集]

横浜港輸出絹業者ならびにこれと密接の関係ある染色・加工業者併せて八百有余の罹災者は、店舗・商品・工場・機械等、資産全部を失い、一時営業休廃の巳むなきに至った。その窮苦は実に名状することは出来ない。しかれども横浜市と、輸出絹業とは密接不離の関係あり、斯業の復活すると然らざることは、将来横浜市の財政経済上にも至大の影響あるべきを以って、この際絹業者は非常の決心と絶大の努力を以ってこれが挽回を期し、一面市の復興助成するの覚悟をもって、九月十三日、二十数名の有志は、加藤平次郎氏邸に会合し、各善後策に付き、熱心に意見を交換した。その結果、急速に組合員大会を開き、衆議に問うて、一切の措置を執ることに一決した。有志は二十数名会合して、直に檄を全市に飛ばし、同月十六日午後一時より、住吉町二丁目亀井商店焼跡に於いて、組合員大会を開催したが、会するもの百七十名、何れも熱心絹業の復興を力説して已まず、またこの際神戸港に絹業貿易の中心を奪おうとする一味の画策を難んずる等、大勢は期せすして横浜港復興の大運動の序幕となったのである。

宜言
今回の大震火災は当港貿易機関を全滅し、当港の生命たる絹業貿易に一大頓挫を来たししめたるは、まことに遼憾極まりなし。こうしてこれが復活の遅速はただに当港貿易の死活興亡に関するのみならず、実に帝国輸出貿易の休戚に関する重大事象にして、国家経済に影響する所すこぶる絶大なり。ゆえに吾人は捲土重来の勢をもって.相互協力協同一致して極力輸出機関の再開を促進し、速やかに当港絹物貿易の復活を期す。
大正十二年九月十六日
横浜絹物同業組合
組合員大会

然して横浜絹業復興会を組織すること等の、綱領定款十二条を定め、猛烈なる運動は開始された。これらの復興策たるや、固より一・二にあらずとはいえ、就中、焦眉の急なるものは、運輸・通信金融等の諸機関複旧、港湾の修理、倉庫の仮設等である。是等の間題は概ね政府の施設援助にまたねばならぬ。同業復興会の成立と共に、直にこれらの運動に着手する要あるを認め、更に十六日絹物組合大会の決議に基ずき、第一回実行委員会を開いた。これに於いて絹業貿易復興に就き協議を行い、各委員の熱烈なる演説の後復興案件の実行に関して総務部を設け、一切の事件を敏速処理する事とし、一両日中に落成する記念会館横の共同店舗で開業の件を協定し、日本輸出連合会副会長たる松井氏に宛てて決議に対する電報を発送し、各員は全力を挙げて、一日も早く復興の目的を達成するに努力する事に決し、更に絹物組合は、その貿易復旧策に就いて協議の結果、共同市場を設けて、営業を開始する事となったが、倉庫は生糸借受倉庫の一部を以てこれに宛て、金融は正金銀行が極力応援することになったので、当業者はすこぶる活気を呈し、二十一日、上甲・出口・加藤・西田・亀井・秋山・笠原の諸氏、主務省に出頭し、絹物復興につき特別の方法を講ぜらるるよう陳情に及んだ。また神戸では既報の如く、十一日全国絹物連合会を開催し、「横浜の災害には同情するも、絹物輸出は国家の貿易として一日もゆるがせにすべからざれば、横浜の復興まで神戸に於いて絹物貿易を行わん」との決議をしたが、実際輸出した絹物は、小数の例外品に止まるも、絹物の輸出は決して一日といえども、安如たるを許さないので、陳情委員は、金融・電報取扱・運輸につき特に詳細陳情に及んだ。しかし政府当局に於いて考究中に属するの言明を得たのであるが、一方外国商人の招致策は最も急務である。しかるにこれら有力なる華客は、震災後住所を失い、衣食に窮し、止むを得ず他港に避難しつつある有様であるから、この際内地罹災者と同様に援助の方法を講ずるならば、相つぎて帰来すべく、従って輸出貿易復活上至大なる効果炉あると、るる具陳し、更に当時の流言即ち貿易機関の欠如せるを機とし、絹業輸出港を神戸に移さんとする計画あるとの事をきく。しかし由来絹業と横浜との開係は数十年の歴史あることを述べ、必死の画策運動を続けたのである。

諸機関の急設を要望しているうちに、川俣の羽二重業者は誠意を以て、全力を挙げて出荷すると叫び、それにしては輸送機関復活運動を熱望し、かくして震災後に於ける羽二重取引は、十月十三日、初の手合せが行われたが、川俣から出浜した当業者は、

我々は従来横浜と密接不離の関係を打有っていた次第で、一日も早く多量出荷をしたいのであるが、何分にも輸送力の貧弱な事に一番困難を感じている。汽車便もせめて一車とまとまれば何んとか都合が付くとの事ではあるが、それも今の模様では保証されず現に今日(十三日)の取引の如きは、手荷物として辛うじて持って来たような訳で、この上は更に横浜絹業復興回の発奮により、輸送力の復活を一日も早く実現するよう、それを先決問題として希望する。

と物語っていたが、輸送力の復興に就いてはつとに絹業復興会の幹部に於いても、連合会の幹部に於いても、連合会の決議により、松井副組長から主務省への陳情あり。なお引き続き促進方に就き全力を挙げているので、復旧設備もやや整ったのである。 さらに横浜絹業復興会では十月十八日市復興会に対して左記の希望案を提出し

外人招致の方策を講ぜられたきこと。
資金の融通を豊富ならしめること。
綿布倉庫建設を助成されたきこと。
加工染色工場の復旧を計られたきこと。

と市復興会の援助を懇請した。

なおその後に於ける羽二重相場の状勢を見れば、原料生糸の反落含みから先安思濃厚となり、且つ産地の軟調入報もあるため。買人一般に日和見の姿となり、市場引続き不味沈静をたどった。

福井羽二重相場
六付 六半 七付
尺八 19,50 19,35 19,60
二四 19,40 18,90 18,95

絹紬  松印(十二匁付)8円05銭見当

北仲通六丁目庁舎跡に仮事務所建築中の県立羽二重検査所は、同工事竣成を告げたので、いよいよ十月二十七日から、同所において輸出羽二重の検査を開始し、染色捺染ならびに錫量施用等に関する屈出および申請を受付けた。因に福井・金沢の羽二重相場は鉄道の開通並びに横浜手形交換の開始等によりて、漸次活況を呈して来た。

なお当時の参考として福井県輸出羽二重検査所における羽二重検査高を述べれば、十月一日より二十二日までの羽二重検査高は、総計六万七千六百六十四疋で、前月同期に比し、一万八千二百十五疋で、前年同期に比し、三万八百疋の増加を告げている。検査の主なるものは、平地類の四万四千六百四十八疋で、絹紬一万九千六百二十三疋、縮緬二千九百六十九疋である。かく増加した主因は、這般の大震災で一時各機業が生産を手控えたが、その後神戸港から輸出されることとなりて、思惑筋の買進み等で取引殷賑を極めたので、採算有利となったため、俄かに生産を爺いだ結果であるが、最近に至って、買物一巡と共に、市価低落も生施過剰から消滅産の傾向を示している。

かくして種々なる支障を重ね一難去って一難来る、困難の裡にも動せず、施設につとめ、横浜絹布倉庫の復旧工事が進捗するにつれて、絹織物保管も充分となり、小口代用車扱いが実施されて、ようやく横浜へ向け絹物の殺到すべき筈であったのに、とにかく出渋り勝である。随って横浜絹物市場が神戸に奪われる如く考える気早連もあったが、実は福井・金沢等に於ける運送業者が、荷物の紛失盗難を恐れ、一方銀行業者も大事を取って、盗難保瞼を附した上ならでは、横浜へは送らぬと云う事になっていたので、しばらく荷動きが少なかった原因の一である。しかるに十一月初旬、福井の森田銀行倉庫運送部が横浜絹業復興会に見え、既に従来通り倉庫の荷著案内書で正金・住友・十五・興信の四銀行が取引を開始しており、更に第百銀行支店が従来の慣例を拾てて、これに飛入りして活動せんとする実況を知り、その復興の速やかなのに一驚して帰った。一方二十二日には、加藤委員長が金沢に出張して、諒解を求めることになったから、最早盗難保険の如き取扱い方はなくなると見られている。それに東北線も客車扱を再開することになったから、横浜絹業市場へ貨物の集中するのは余り遠くあるまいと思われるが絹業復興会では、これに応じるため、さきに絹布倉庫へ復旧費を貸与し、二十室の修覆を急がせて、十一月末に完成することになった。しかも一時荷受けされるまで、当業者には便宜使用を許す計画をなし、この間各銀行とも諒解が成立し、最早絹物の殺到しても少しも困らぬ様に準備が整いたれば、荷動きの方が充分になるにつれ、横浜絹業界は意外な活気を添えるものと一般に観測されて居った。

陳情書
今次の震災に因り、過去六十年間帝国唯一の輸出港たる横浜港は、深刻痛烈なる惨害を蒙り、たちまちにして全市焦土と化し、その生命たる絹業貿易に関する諸機関を挙げて烏有に帰せるは、まことに痛嘆に堪えざるなり。しかれども我絹業者は炎々燃えるが如き愛市の熱情と、絹業の隆運をこいねがう切々たる至誠とにより、今や捲土重来決死の覚悟をもって斯業の復活を画し、臨機応急の施設に向って腐心焦慮まかりあり候。おもうに未曾有の震災に遭遇せる今日、国家として施設すべき事項もとより多々あるは勿論なりといえども、輸出貿易に対する施設に至りては最も重要なる生産的施設にして、依りてもって外資の流入を促し、国幣の欠乏を補填する所以なるがゆえに、輸出貿易機関の復活を計るは現下喫緊の急務なりと信じ候。今や横浜に於ける凡百の貿易機関ことごとく滅失し、当業者はその回復に必死の努力をなしつつありといえども、独り業者の力のみをもってはその復旧至難なるをもって、ここに爛頭焦眉の急務とし、政府に於いて至急機宜の措置を講ぜられたく懇願する次第にこれあり候。依りて絹業貿易の見地より、政府の施設を請うべき案件少なからずといえども、就中急施を要するものを左に揚げ緊急御配慮を請わんとす。
  1. 商業資金の融通に関する特別援助。
  2. 内外運輸通信機関の応急的施設。
  3. 港内繋船設備および物楊卸場の急設。
  4. 商品保管倉庫の設備に関する援助。
  5. 外国商人のために、仮店舗ならびに仮住所設置に関する援助。
  6. 火災保除金支払方に関する解決促進。
  7. 絹業試験所および国立検査所の設置。
以上の諸項中多くは政府当局に於いて已に御考究中に属するは、当業者のまことに意を強くする所なりといえども、この際外国商人招致に於いて適当なる施設をなすは、最も急務と信ず。けだし横浜在留外国商人は我絹物貿易上最も有力なる華客なりといえども、震災後は住所を失い、衣に窮し、止むを得ず、他港に避難しつつあるの状態なるをもって、この際内地罹災者と同様、彼等のために仮住宅を供与し、仮店舗をも受けしむるが如きは、あるいは一時艦舶等を提供し、これに居住させるが如き方法を請ずるにおいては、彼等は相ついで帰来し、ここに輸出貿易復活上至大なる効果あるのみならず、はたまた外交政策上極めて良好なる影響を与えるべきは火を見るよりあきらかなり。これ吾人が特に政府の御援助をもとめるもとめるゆえんにこれあり候。仄聞する所によれば、横浜における貿易機関の欠如せるを機とし、絹業輸出港を神戸に移さんとするの計画ありと。これ実に帝国絹業貿易上無謀の計画たりというべし。由来絹業と横浜との関係は過去数十年間の沿革歴史を有し、たとえ一時貿易機関を失いたりといえども、絹業の根蔕はすこぶる深く、到底横浜より他に移し得ざるものあり。すなわち数十年間にわたり豊富なる経験訓練を有せる多数の当業者は、依然としてこの地を去らず、加えて斯業に欠くペからざる補助機関たる染色工場に在りても、なお有力なる者残存し、かつ絹物加工業者の多数は、依然横浜に残留せり。そして一般貿易機関の復活すると共に、これら絹業補助機関は立ち所に再開し得べきをもって、他港に於いて新に絹業に関し、必要なる諸機関を整備するの努力に比すればこれ難易固より同一の論にあらざるなり、かくのごとく絹業は横浜港と離れられない関係にあるにかかわらず、急遽これを他に移さんとするが如きは国家貿易上不利はなはだしといわざるぺからず、いわんや絹業と密接不離の関係を有する生糸市場の依然横浜に存在するに於いてをや。
叙上の次第にこれあり有候間、政府に於いては従来一貫せる絹業政策により、横浜港を絹業貿易の中心とし、前記諸次に関し、深甚なる御配慮を賜わり、速かに絹業貿易の復活に向って、当業者の努力を御助成相成りたく、ここに絹業関係者を代表して、謹んで懇願い奉り候。
大正十二年九月二十五日
横浜輸出絹物同業組合
各大臣
知事  宛
市長宛

かくして、大正十三年五月下旬には社団法人日本絹業協会を設立し.輸出を奨励すると同時に、常に当業者の指導誘掖すべき中心機関を設け、国家の政策と相俟って益々斯業の進展を期した。そもそも帝国主要の貿易港たる本港は、さきに前代未聞の大震災を被り、その惨状すこぶる深刻を極め、ひいては貿易機関の衰退を来し、多年輸出超過港として貿易上の均衡に寄与せし当港の機能も、今や全く壊頽に帰したのであるから、貿易の運営上支障少なからざる状況にあるので、これが恢復を計り、諸般の設備並びにその機能をまっとうするの急なるを知り、絹物貿易の復興とともに、横浜港の復興を促進する主旨をもって設立し、会長原富太郎氏より全国に左記の檄を発し、ようやく横浜絹業界も常軌に復するのみか、益々進展して、今日の復興を見るに至ったのである。

謹啓盛暑之候益々御清祥奉大賀候。
却説方今我国経済上の憂患たる輸出入貿易の逆勢を転回し、国運の隆興を期さんとするは、夙夜何人も顧慮しつつある刻下の急務にしてその施設固より一二に止まらず候得共、結局輸出の増進にまつより外無之、そして我が輸出工業品中重要視すべきものの多くは、原料の供給を海外に仰げる実状なるに反し、内に豊富なる原料を有し、外に無限の需要を有する重要貿易品としては独り吾が絹織物あるのみと、称するも過言にあらず。またその需要の範囲は世界各方面にわたり、生活上の必需品として歓迎せられつつある状況に有之俟得共、本邦に於ける商工組織の不備なるため、その発達遅々として振るわず、かえって原料の供給豊富ならざる仏・伊・スイスの如きもしくは原料自給の絶無なる米国の如き諸国に比し、甚だしいき遜色あるはまことに遣撼とする所にして、さらに一段の努力研鑽を要すること勿論の儀と確信罷在候。本協会はかかる有望なる貿易品の発展を企画し、益々輸出の増進を計るため、積極的施設を遂行すべき大使命を帯びて、今回新に成立したるものに有之、当面の急務としては、咋年大震災に罹り、曠古無比の大打撃を被りたる横浜港、すなわち多年絹物貿易の発祥地として歴史的関係ある重要市場の復興に努力し、なお将来斯業各般の施設に対し、充分なる研究を重ね、一面国家の政策と相まって、所期の目的を貫徹いたしたき所存に御座候。しいては多方面の知識を網羅し、その協力援助に俟つの必要切なる次第に有之、したがって斯業に対する関係の直接たると間接たるとを問わず、可成多数会員の御加入を熱望するところに御座候間、何卒奮って御賛同被成下度、幸に斯業の発展に寄与し、しいて国家経済の上に幾分貢献することを得れば、ただに当業者の幸福のみに止まらざる儀と存候。先は御依頼のため寸楮如斯に御座候。敬具。
大正十三年八月 日
社団法人日本絹業協会
会長原富太郎

十二月二十四日の記録に依れば、生糸貿易が殆んど元通り横浜に復帰すべき事は明瞭になったが、生糸と共に横浜に取って重大な役目を勤めて来た初二重貿易の方はどうなるであろうか、試みに神戸並に横浜に於ける羽二重の直輸出商および売込問屋の現勢を見るに、震災前横浜に於ける輸出絹織物組合の組合員は、四百三十人あったが、現在に於いては横浜に止まる者、直輸出商は同志貿易会社・ナポルツ商会・西村ウィルソン商会(以上匹物)、加藤合名・松浦貿易店・大和商店・伊藤惣商店(以上加工)、なお大同貿易・三菱商事・江東貿易(以上匹物)および野沢輸出商店(匹物および加工)、売込問屋は、亀井・小野・石岡・三木・伊藤・笠羽・森(以上匹物)の各商店、森富・成田・梅原(以上加工)の各商、小売商店は後藤・山本・細目・関その他小口十商店、染色業者は秋山・美和・秋葉の各商店、加工業者は伊藤・彦坂・水野、その他裁縫・刺繍・寝巻製造業者数十名、即ち合計して横浜に止まり居る者八十余名で、神戸に走った者は直輸出商は三井物産・掘越商店・高島屋・野沢組・鈴木・岩井各商店、南洋貿易・熊沢商店、その他十二店(以上日本商店)、外国商館は、ストロング・ウィットコースキー・ローゼンソールド外十五名(以上欧米人)、アッソムル・ペソマル・ゴーマイ外十八人(以上印度人)売込問屋は西田・磯部・沢田・共益商会・波清・能井・亀井・岡島・油井、森村外六十八人(この中には横浜神戸両方で商売しつつあるもの有り、それらは両方に名前を載せた)即ち合計約百四十名で神戸に移転営業しつつあって神戸在来の絹物商夫馬商店、京都に根拠を置く沢村・高田の両商店に、大幸貿易の四商店等と共に絹物貿易に従事して居るが、大勢は勿論横浜から移住した商人が左右して居る状態だが、移住商人中で三井物産・高島屋・南洋貿易などは、近く横浜に帰ることに確定しているのと、外国商館側の全部も早晩横浜に帰るべくただ時期の問題と見るべきで、神戸には染色加工設備不充分で、同市少数の加工屋には注文が殺到するも、いっこう間に合わず、ために横浜に帰って始めてその全てを得るゆえんである。なお横浜に残った八十余名に神戸に去った百四十名、合計二百二十余名を差引いた横浜旧組合員の残り二百余名中には、印度商人の死亡者五十名、行方不明、外国商人の本国に帰った者、および日本人の休廃業者を舎むのである。目下の現勢では、十三年三・四月頃には帰浜し、十三年中に復旧の予定も立った。中にも神戸に踏み止まる者の多少は生ずべく、生糸と比較して全然復旧は不可能なるべきも、何等の悲観を要せざる状態になった。

第3項 その他諸貿易業[編集]

本市真田業も等しく災害に遭遇し、九月二十日には横浜真田商同業組合臨時大会を、同組合焼跡において開催して、滴場一致で左の議案を可決した。

  1. 横浜真田同業組合仮事務所および仮検査所当業者仮営業所を元組合事務所跡へ、バラックで建築すること。
  2. 一日も速やかに横浜における真田の製造および輸出を開始すべく、適当な手段をとること。
  3. 前記第一・第二の実行は罪挙げて委員に一任すること。

委員長・常任委員を選挙し、バラック建築は事務所・検査場・仮営業所等総坪百五十坪とすることとなって、それぞれ復興の途に就いた。

次に綿布貿易同業組合も同様九月二十四日、花咲町二の仮事務所に於いて組合員大会を開催し、復興策について協議することとなったが、同組合員は共同事業経営の目的で、建築材料供給方に関し、県市当局に陳情する所あった。(横浜絹業協会調査・横浜市日報)

参考[編集]
1 貿易業者震火災損害高(大正13年3月調)[編集]
業別 損害金額(円) 保険金額(円)
蚕糸 98,479,122.03 94,413,030.00
絹物 20,576,555.75 9,909,800.00
雑貨 3,402,661.00 2,956,379.00
綿布 8,091,657.14 5,332,347.00
真田 2,088,562.49 662,500.00
陶器および美術 3,823,711.85 234,000.00
漆器 1,537,840.00 338,000.00
食料品 124,000.00 130,000.00
海産乾物 2,037,033.04 482,000.00
織物加工 824,440.00 290,400.00
織物染色 1,228,335.00 666,200.00
青物果物 881,000.00 4,000.00
包装箱 30,000.00
砂糖 1,000,000.00
絹寝衣 300,000.00
合計 143,653,918.30 115,419,656.00
(市商工課調)
2 震災前後横浜神戸港貿易比較[編集]
横浜港 神戸港 合計
復興年 輸出 672,384 580,293 1,252,677 1,806,810
大正13年 輸入 635,844 1,170,039 1,805,883 2,451,810
1,308,228 1,750,332 3,058,560 4,258,620
震災年 輸出 668,611 357,112 1,025,723 1,447,751
大正12年 輸入 515,258 1,007,926 1,523,184 1,982,230
1,183,869 1,365,038 2,548,907 3,429,981
平常年 輸出 895,432 279,821 1,175,253 1,637,452
大正11年 輸入 652,154 856,357 1,508,511 1,890,308
1,547,586 1,136,178 2,683,764 3,527,760
(横浜税関調査)
3 輸出表[編集]
輸出 自大正11年1月至同6月 自大正12年1月至同6月 自大正13年1月至同6月
1ヶ月平均 1ヶ月平均 1ヶ月平均
品目 数量 価格 数量 価格 数量 価格
生糸 23,895 43,924,103 19,848 44,169,064 19,621 3,856,780
屑糸 5,198 841,314 5,555 1,105,302 4,633 968,406
羽二重 166,689 4,301,567 82,647 2,469,103 8,490 224,662
繻子 525,353 533,818 486,905 528,399 69,358 82,479
琥珀織 48,896 620,243 45,725 67,897 159,980 132,406
ポンジー 177,000 2,083,060 45,725 67,897 159,980 132,406
縮緬 533,336 885,734 425,245 766,723 22,034 44,896
絹手布 68,475 310,262 69,974 368,421 12,084 64,603
蟹缶詰 52,023 329,362 63,361 397,199 10,447 69,436
麻真田 802,000 267,673 1,019,000 475,240 6,600 31,522
繰綿 114,560 5,872,141 126,780 9,448,583 3,278 882,318
毛織物 546,295 2,120,679 465,630 1,751,655 185,892 675,753
羊毛 26,924 2,923,810 23,320 3,875,195 16,393 3,093,562
砂糖 156,891 1,508,939 103,475 937,860 65,996 837,201
小麦 621,349 402,749 313,130 2,078,973 826,201 4,880,269
小麦粉 29,902 297,988 26,310 226,002 6,889 59,989
鉄材 650,009 6,557,207 380,781 3,134,176 772,094 8,844,859
木材 2,708,390 2,020,852 7,540,620
(本市商工課調)

第2節 工業[編集]

第1項 市内工場の被害[編集]

本市の工場は、大正八年以後、一時減少の傾あったが、爾後漸次壻加して、震災直前には大小を合して実に五千七百二十五を算するに至った。しかるに今次の震災によりて、大多数の工場は、全焼・全壊殆ど全滅の状態を呈したのである。焼失二千六百九十三工場の外に、残存したるものあるとは云え、唯名のみにして、その使用に堪えざるものである。これにおいて全く工場も一時中絶の止むなきに至った。じきに解散を宣する者、あるいは廃業・休業または転業するもの等頻出して、まことに悲惨の状況であった。従って失業者三万七百人の多きに達した(後表参)。工場被害に伴う職工等の死傷も多く、幾百人幾十人と数を並べて、豪壮なる建物の下敷となって圧死あるいは焼死した。

工場
染色工場 35
機械及器具工場 44
化学工場 47
飲食物工場 58
特別工場 2
種別 工場建物 事務所 機械 原料 製品 保険金額
染色工業 1,794,038 964,309 2,467,177 341,838 680,476 6,779,600
機械及器具工業 3,653,956 363,139 4,204,412 2,548,533 3,337,900 8,057,901
化学工業 2,733,058 98,418 3,253,623 1,436,019 1,778,626 2,380,264
飲食物工業 1,298,761 100,535 942,075 738,628 609,187 3,121,200
雑工業 1,987,137 505,945 1,951,308 3,081,603 2,727,976 9,309,209
特別工業 229,565 11,285 1,131,670 300,000 10,000 197,840
11,696,515 2,043,631 13,950,265 8,446,621 9,144,165 29,846,014

(但し機械および器具工業に於いて、横浜ドック会社は表中に加算せず)

遡って本市に於ける震災前の工場数を案ずるに

染色工業 488
機械及器具工業 339
化学工業 193
飲食物工業 1,179
雑工業 825
特別工業 2

であるが、前表によって、本市工業の総損害額は、概ね推定することができる。

事務品 2,346万円
機械 6,675万円
原料 4,779万円
製品 4,959万円

として、2億4034円の巨額に達するのである。

次に工場の焼失数と失業者数を挙げれば左のごとくである。

染色工業 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
織物染色整理精錬 31 24 265
捺染 21 18 180
西洋洗濯 82 78 395
染物洗張 8 8 40
その他染物 6 6 20
手巾肩掛 49 47 240
卓子掛 27 26 170
リンネル刺繍 23 22 125
その他加工場 4 3 20
絹綿寝衣および着物 40 39 240
襯衣 85 82 485
莫大小 33 23 280
製綿 42 27 280
紡績および加工糸 17 12 1,310
織物 17 15 110
485 430 4,160
機械工業 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
機械工業 87 68 1,055
造船 26 15 3,930
船舶修理 21 15 465
車輌 36 31 210
器具 26 20 360
釘鋲螺子 4 3 70
鑵類 13 7 295
鋳物 21 13 140
電線 4 3 1,200
鉄工場 18 14 90
鍍金 13 13 210
50 47 310
319 249 8,335
化学工業 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
陶磁器 59 57 280
硝子 7 5 115
煉瓦および瓦 3 1 20
漆器 18 17 70
製革 6 1 85
製油 11 2 265
蝋燭 5 2 200
薬品 23 13 2,460
染料塗料 3 2 100
石鹸 5 3 75
人造肥料 26 21 290
化粧品 2 2 10
骸炭 2 1 5
アスファルト製品 2 2 15
護謨製品 3 3 280
19 18 135
194 150 4,405
飲食物工場 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
和酒 4 1 20
麦酒 1 1 250
醤油味噌 13 9 150
製糠糖蜜 2 1 10
精穀 672 601 2,400
精麦粉麩 2 1 50
飲料水 20 17 160
製菓 6 5 35
菓子 80 77 375
麺麭 20 19 120
煎餅 28 22 120
9 8 110
種菓子 6 6 30
羊羹 3 3 15
西洋食料缶詰 6 4 55
漬物煮物 56 49 250
麹および蒟蒻 31 26 100
豆腐 151 132 525
製麺 27 22 100
煎豆 9 8 40
蒲鉾不意 12 10 50
生餡 6 5 25
14 14 70
1,178 1,041 5,060
雑工場 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
印刷製本 82 79 850
紙製品 55 55 285
製紙 6 6 30
家具 32 28 220
本箱樽桶類 38 32 370
製鋼 2 0 600
製帽 13 12 130
和洋服 61 60 410
靴および鞄 18 18 85
団扇扇子 6 6 50
刷毛刷子 6 5 30
玩具 8 6 75
下駄絹沓スリッパ 25 25 75
建具指物 21 20 100
竹藤製品 6 6 25
蚕糸工場 15 15 580
足袋 110 106 500
提灯 45 40 200
83 83 350
洋傘 21 21 100
2 2 80
45 45 330
700 670 5,475
特別工業 災害前の工場数 焼失工場数 使用者数
瓦斯 1 100
電気 1 70
その他公立工場 8 7 500
10 7 670
総計 2,886 2,547 29,105
第2項 被害工場会社と復旧[編集]

震災後の苦闘を続けている間に、本市復興の精神は各方面に起り、次第にその気分が横溢してきた。この復興的気分をもって市民は一斉にに本市再建の目的に向って邁進すべきは確実であろう。かくしてかくのごとき意図をもって復興しつつある各工場の事業も、その種類によりては一進一退あるのは免れずとするも、復興資料に直接関係あるものは、相当殷賑の状態を呈しきたことは争われないのである。しかし貿易関係の工業は、海外との取引が一時絶えたのであるから、勢いその影響は大なるものであると思われる。今復興工業中、年産額概算五万円以上のもの、合計九十六工場の被害とその復旧の概要を述べることにしよう。

1 南吉田町合資会社伊丹商会[編集]

震災により、事務所および乾燥室は倒潰したが、他の建物および機械は軽微なる損害に止まり、類焼をも免れたので、引き続き作業を継続するを得た。なお前記倒壊の建物は、目下復旧建築中に属し、かつ震災後は一時、総ての建築物が永久的のものを必要としなかったのであるから、昨年末まで従来の本業を休止して、バラック材料の加工を引受けていた。最近本建築の勃興につれ、楢製品は震災地域にその需用も起り、該社の復旧に伴い、他地方の従来の得意先より注文があるので、作業は現在多忙である。震災前に比すれば、なお幾分の遜色は免れない。将来の見込としては、最近の建築業界が漸次欧風もしくは欧風を加味する様式を採用するは、著名の事実に鑑み、楢製品が建築材料とし、耐久・美観・保健の特質を有す点よりみて、将来の需要は益々増大すべく、特にコンクリート床上に適好せる該社の創製品なるフローリングブロックは、鉄筋コンクリート建築物の増加に伴い需要を喚起している。

2 青木町伊東組製材所[編集]

震災により、全部烏有に帰し、爾来営々として復旧に努め、かつ創業以来の実験を基礎とし、種々設備の上に改善を加え、目下震災前に優る設備と、製材能力を持っている。即ち震災以後はバラック建築用製材のため、市内に製材業を営む者続出したのと、海外より輸入品過剰であったから、市場においても消費されない。なお一方財界の不況益々甚しいので、ついに製材業界は現在の如き苦境に陥った。近時製材業も漸次整理され、往時のごとくその数は多くなくとも、近き将来において回復する見込である。製材業者は前述の情勢に鑑み、大いに前途を慮り、新しい営業方針を立て、大に復興建築に力を注ぐ要ありと信ずるのである。

3 青木町字鶴屋町、日本ベニア製材株式会社[編集]

大震災に遭遇して、全部焼失し、目下再建計画中である。該会社として震災による打撃は甚しく、その復興に多大の苦心を要するので、未だ開業せず、わずかに木工部の一部分の運転しているだけである。しかし軍事品の需要に応ずるため、その復興は一日も疎かには出来ないが、何分大資本の固定を要するので、政府の援助を切望するのである。なお将来の見込みは、飛行機用としては、今後益々増加すべく、その他車輌・船舶ことに震災後、東都の本建築開始と共に、西洋建築の増加ならびに震災後一般的に広くその利用方法と、各種の特徴を知るようになれば、最も合理的なベニア板の益々増加するは明瞭である。

4 西戸部町862、日本加工織布株式会社横浜工場[編集]

過般の震災に遭遇して、本社および横須賀工場は焼失した。会社の主要工場たる当工場は倒潰および傾斜等相当損害あったにもかかわらず、幸い類焼を免かれたので、極力復興に努め九月下旬より作業を開始した。目下殆んど震災前に復旧した。

5 神奈川町浦島丘1460、日本カーボン株式会社[編集]

大震災により、第一・第二ならびに鶴見工場は破壊し、現在第三工場をもって主要工場としている。電気用カーボン製造工業は電気事業の必須材料に属し、年々需要増加の傾向を有し、特に本邦り如く天与の発電水力を有する国にあっては、これが開発利用と共に火力発電の増加とあいまって、益々本工業の発展を誘起するものと思われる。震災前に比し震災後は需用も増加を呈している。

6 神奈川町柳町1055、日本光機工業株式会社[編集]

震災の被害も僅少にして、工場施設機械ならびに製品の小破と建物の一部倒潰傾斜したるとに止り、製造能力に多大の変化なかったので、引続き就業し得たのである。

7 末吉町1ノ12、日本製菓株式会社[編集]

震災によりて全焼後、整理に着手し、二月二十八日より事業を開始するに至った。設備縮少の割合に、需要増加の傾向をきたし、今日に於いては日夜生産におわれている状態で目下はパン類の製造は中止しているが、遠からず設備の完成を得れば、事業に着手の方針である。

8 根岸町字大芝1580、日本キッド株式会社[編集]

昨年震災に罹り、またまた多大なる打撃を被り、経営すこぶる困難である。将来業務の発展と共に、海外輸入品を防遏し、進んで支那・満州東部・露西亜等に重要なる輸出品となすべく諸事計画中である。

9 新浦島、日清製粉株式会社横浜工場[編集]

罹災により、工場少なからす打繋を被りしも大なる変化なく目下着々事業を進捗中である。

10 守屋町2丁目3、414、東京搾油株式会社横浜工場[編集]

震災により、工場・倉庫等全潰したが、僅かに火災を免かれたるをもって、九月下旬より復旧工事に着手し、本年一月より事業を開始した。

11 神奈川町1190、東海鉛管株式会[編集]

震災の影響を被り、十二月四拾万円に減額した。

12 久保町197、東洋電機株式会社横浜工場[編集]

震災後において、工場全潰に伴う復旧工事に数ヶ月を費し、その間東京および横浜電気局の臨時電動機修理に従事したが、今日は平常に復し、事業繁忙である。

13 太田町4ノ62、合名会社大川印刷所[編集]

震火災により、諸記録は焼失または不明となった。一般実業の盛衰に伴い、斯業もこの影響を被れるは、当然のことで、今日より俄に将来を占い難いが、今後労働者の工賃増額等の要求しくしくたる一方、注文者側より価格低下の要求を受け、同業者競争を惹起し、経営困難に向うことは明らかである。

14 南吉田町2、横浜紡績株式会計[編集]

昨秋の震災までは事業は多忙であったが、震災のため工場は倒潰し多大なる損害を被ったので、災後は休業のやむなきに至った。

15 神奈川町1408、横浜製綱株式会社[編集]

震災により、財産の半数を失い、現今災前の約半数を復旧し、事業を開始している。

16 中村町421、横浜亜鉛鍍金株式会社[編集]

震災により、工場全焼に遭い、残存製品は全部掠奪され、多大の損害を被ったが、震災後は亜鉛板の需要激増せしにしに刺激され、従前の地に応急的工事を施し、事業を開始した。なお災後は一般建築に多大の需要をきたし、ことにバラック建てにおいては著しく成れり。この状態より推察するときは、将来本建築の際に臨みて益々多量の需要あるは当然と認めるのである。

17 林町1、横浜工作所[編集]

震災により甚大の打繋を被り、資本金を参拾万円減少し、もって事業の維持を図った。

18 平沼町3ノ34、横浜護謨製造株式会社[編集]

震火災によりて、その設備を失うに至るまでは、日々その進展を示し、日本に於ける需要の三分一を充すに達していた。されど災後の市場はなお安定を見るに至らぬ。

19 長住町3、横浜船渠株式会社[編集]

震災に多大の損害を被りしため、資本金五百万円に半減してこれを償い、極力復旧に努めたる結果、今日にては、災前同様の工場能力を発揮するに至った。当今海運界は一般不況を免れざるも本邦近海航路は、多少活況を呈し、小型船の需要は相当これを期待し得べく、陸上諸機具・諸建築は最近本市の復興により、建築材料・鉄橋梁等は相当これを期待している。

20 岡野町、横浜魚油株式会社[編集]

大震災に遭遇し、準備も計画もことごとく水泡に帰したのであるから、更に本年二月資本金五万円をもって社名を継承し、これを再興した。そして旧取引先よりは特別の引立を受け業務急激に発展している。

21 住吉町1ノ11、多勢薄荷工場[編集]

震災のため、横浜市内の薄荷は、全部焼失のため現品の大欠乏をきたし、これに海外需要旺盛のため漸次価格の謄貴を誘致し震災前に比して約倍額となり、したがって昨秋の産品は今年五月までに、殆んど全部輸出されしごとき状況にして、需要年々増加の傾向があり、将来益々有望を期している。

22 新浦島町1ノ1、大日本人造肥料株式会社横浜工揚[編集]

大震災の際、火災に罹り工場の大半は焼失した。震災前においては相当の製造能力を有し、業績良好であったが、震災後は小量の完全肥料を製造しおるのみにて、震災前に比しては雲泥の差がある。

23 青木町北幸町3897 中山亜鉛鍍金合名会社[編集]

震災のため、工場倒壊の厄に遇い、災後更に再建築に着手し、十三年末に漸く工場機械の据付を完了し、十四年一月より開業の運に至った。震災後はバラック建築用として、亜鉛板の需要激増し本品の将来極めて有望である。従って注文も一時に殺対し、会計設備の全力を注いでこれに応じたが、目下やや鎮静の気味で、震災前の状態と殆んど大差なきに至った。

24 大野町2 浦賀船渠株式会社横浜工揚[編集]

震災後十四年一月に入り、復興材料その他の入津輻湊し、各入港船は、諸材料品を満載し、入港船激増したため、貨物艀船の不足を生じた。これよりさき震災によりて艀船は焼失減少の結果、一層の不足を感じ、各回漕業者の需要を喚起し、艀運送賃は未曾有の暴騰をきした。ために艀船建造を企る者ようやく多く各造船所はこれが注文を引受け、一時的活気を呈し、震災前に比して幾分の多忙を極めた。

25 守屋町1ノ334・4 倉田組鉄工所[編集]

震災後は、工場整備につとめ、昨十三年中旬より営業を開始した。震災復旧のため、一時横浜港入港船舶激増し、船舶修繕工事は繁忙を極め、輸入関税復旧後、入港船激減し、船舶修繕工事は一般に閑散に向った。艀船の建造も一段落し、なお陸上工事も必要なる最小限度の施設の外はこれを差控える状態にある。一般物貨の安くないのは、斯業に対する需要を抑制するからであろう。財界の不況が持続する間はここ数年斯業の最も困難な時であろう。

26 北方町泉358 葛谷製紐合名会社[編集]

震災により工場焼失したので、建物を新築して十四年一月末より事業を開始した。製品は大部分支那に輸出すべきもで、製品の需給関係はおもに支那経済界の消長に支配させられるのは言をまたない。目下支那は国内動乱の結果、本社の輸出にも至大の影響ありといえども、従末の歴史から考察するときは、その時期永からざると確信し、目下依然事業を継続している。

27 浅間町503 株式会社弥富商会[編集]

大震火災により工場建物・倉庫設備・貯蔵品等は全然灰燼に帰した。そしてその後は専心努力の結果、十三年十一月中に製造品の産出販売をなすに至った。

28 南太田町1631 真葛合名会社[編集]

震災により工場を破壊されたが、その後これが復旧に努力の結果、本年五月設備を完成し、事業の復興を見るに至った。なお今後の発展を期し、目下登り窯なる理想的設備を起工中である。震災前は産額の二割位だけが内地の需要であったが復旧後、日なお浅いために、海外輸出は目下の所、殆んど休止している。これに反し内地の需要は、目下注文増加をきたし、これが供給に多忙である。本品のごとき特種美術的工芸品は、工場復旧の宜伝されると共に、回復の見込であるから、工場完成に専心努力している。

29 青木町北幸町3479 京浜製鋲株式会社[編集]

本社は元日本鉄鋲会社であったが、震災によりて焼失し、残存機械その他の設備を使用し、その名称を改め、現在に至ったのである。

30 西平沼町144 古川電気工業株式会社横浜電線製造所[編集]

大震災により、工場の殆んど全部は烏有に帰した。その迅速これが復旧に努力した結果、今や大半復旧し、一部の工事も着々進捗しつつあれば、竣成の暁は震災前に勝る大工場となるであろう。

31 岡野町29 藤井製油所[編集]

震災により、工場破壊休業の止むなきに至ったが、同十月よりさらに同所に現在の工場を建築し、魚油の精製業を開始した。震災後諸設備の未完成と運輸機関の欠乏等により、輸出の大部分を神戸に占有せられ、著しく取扱高を減少した。しかしながら最近一般の興と本社設備の漸次完成におもむくので、各方面よりの注文は非常に多くなった。

32 本町6ノ76 風月堂[編集]

震災により工場焼失し、これが復旧に着手し、大正十三年十二月廿五日、事業を開始するを得た。当工場は市内の需要に応ずるを主としているので市内の復興に従い生産また増加の傾向ありといえども、これを震災前の本工業生産高に比較する時は、僅にその半額に過ぎない。

33 南太田町2048 秋山染色工場[編集]

震災に罹り、工場の焼失は免れたが大破損を来した。これが復旧工事着手に努力の結果十二年十一月完成を見るに至った。災前の華客たる外人等は神戸方面に移住しているの結果、同方面の工業家等に事業を脱取られた状態で、復旧の宣伝に努め、今日においては災前の約六割までは回復したが、なお四割は霞災前に比較し産額を減じている。

34 南吉田町21 榊原製綿紡績工場[編集]

震災に遭遇し、工場全部烏有に帰した。大正十二年末から本業の復興に努め、営業継続を企画し組織を合名会計に改め、その資本金を五万円とし、作業上最も必要な工場および、倉庫・事務所・営業所等を新設し、諸機械数台を新に据付け、本業を開始するを得て今日に至った。

35 伊勢佐木町2-17 合名会社亀楽商店[編集]

昨秋の震災に影響を受けて、工場の全焼により、目下仮建築にて事業を開始したが、震災前の売行を見るまでには、なお相当の努力を要する。

36 山手町123 麒麟麦酒株式会社横浜工場[編集]

震災によって横浜工場は罹災したので、その後地を変えて復興に努めつつある。

37 山下町16 ジャパン冷蔵製氷株式会社[編集]

大震災によって工場は全焼したが、更に再典に努、大正十三年四月二十日、ようやく一部工場を落成し、事業の恢復をなし、なお残余の工事にも着手中である。

38 弘明寺町95 株式会社成和商会帽子リボン工場[編集]

娯災の被害は多少あったが、その後復旧工事を督励して同年十一月より業務を開始し、震災以前に勝る繰業に従事した。

(大正十三年市商工課調査)
工業別震災被害一覧[編集]

(大正十三年三月市商工課)

種別 調査工場数 被害高 保険額
工場 事務所 機械 原料 製品
1 染織工場
輸出織物染色整理精錬 6 344,319 178,218 661,896 93,823 182,012 1,360,268 367,933
捺染 2 32,350 8,580 10,500 4,500 11,000 66,930 93,500
リンネルバテン
整理西洋洗濯
1 3,000 3,500 5,000 11,500 5,000
染色及び洗張
手拭染 1 13,500 3,600 20,000 6,000 12,000 55,100 50,000
その他染物
手巾及肩掛
卓子掛ドロスウォーク
リンネル加工
1 78,720 160,718 411,197 56,977 113,413 821,021 1,129,933
刺繍 1 4,500 5,300 11,300 4,500 4,750 30,350 41,000
その他加工
絹綿寝衣着物 1 24,000 12,000 20,000 56,000 3,000
襯衣及び胴衣 1 8,400 4,500 12,900
莫大小 4 374,659 482,525 1,537,789 228,619 439,839 3,063,431 3,971,801
製綿 3 49,980 11,660 65,300 89,000 46,500 262,440 3,600
紡績及び加工品 4 859,285 127,017 1,855,577 50,070 264,502 3,156,651 3,184,000
織物 1 22,547 4,596 193,041 352 200 220,736 22,120
1 78,719 160,718 411,196 56,973 113,412 821,018 1,129,923
27 1,893,979 1,142,932 5,197,796 590,814 1,212,628 9,938,345 10,034,210
2 機械及器具工業
機械 22 1,478,385 120,107 2,029,774 1,430,567 1,781,201 6,840,034 2,699,335
船舶 9 1,265,895 363,630 1,643,439 908,200 2,655,476 6,836,640 885,952
車輌
器具 2 194,948 8,126 78,911 118,130 62,061 462,176 52,700
釘鋲螺子鉄鎖 3 93,510 13,932 149,472 21,357 24,579 302,850 282,000
罐類 3 391,500 22,300 175,000 117,000 471,000 1,176,800 13,000
鋳物 2 17,865 3,450 31,200 28,100 21,800 112,415 65,000
電線 4 1,659,021 141,493 1,731,695 868,106 709,241 5,109,557 6,965,296
木管及び鉛管 2 11,000 16,000 144,980 47,905 6,110 225,995 125,000
貴金属製品及び装身具
建築金物
鍍金 1 33,000 11,500 201,600 150,000 300,000 696,100 364,760
2 388,000 23,000 275,000 688,000 1,530,000 2,804,000 1,300,000
50 5,533,124 723,538 646,071 4,377,365 7,561,468 24,566,567 12,753,043
3 化学工業
陶磁器 1 12,000 500 10,000 65,000 87,500 80,000
硝子 2 2,600 260 4,100 500 650 8,110 42,000
煉瓦及び瓦 1 1,840 1,125 3,200 1,900 950 9,015
漆器
製革 2 10,500 345 11,200 7,621 46,941 76,607 61,000
製油 4 324,060 20,820 667,300 499,390 555,400 2,066,970 2,117,000
蝋燭 2 40,000 1,800 25,500 45,000 200,000 312,300
薬品 9 256,267 17,222 403,300 154,529 404,389 1,235,707 2,801,000
染料及び塗料 2 64,860 3,000 5,000 30,000 83,476 186,336 153,000
石鹸 3 66,436 4,247 82,536 82,887 164,811 400,917 895,253
人造肥料 2 206,745 7,245 230,000 292,000 10,700 746,490 1,180,906
化粧品
骸炭 2 297,825 12,500 330,700 3,516 3,162 647,703 690,525
アスファルト製品
護謨製品 3 851,500 45,300 1,203,000 1,001,800 501,200 3,602,800 300,000
2 201,885 20,000 428,371 73,226 68,423 791,905 420,000
35 2,336,518 134,164 3,404,207 2,192,369 2,105,102 10,172,260 870,684
4 飲食物工業
和酒
麦酒 1 685,000 30,000 277,000 506,000 66,000 1,564,000 1,560,000
醤油及び味噌 6 158,834 9,090 10,680 21,667 371,460 571,731 295,000
糖密
精穀
製麦粉及び麬 1 232,800 3,900 150,000 210,000 155,000 752,700 1,000,000
清涼飲料水 5 14,900 11,750 17,700 13,950 41,950 91,250 49,500
製氷 3 213,134 26,000 504,060 7,000 14,980 765,174 570,000
菓子 1 12,950 960 1,900 650 9,710 22,000
麺麭 1 22,103 2,200 20,800 27,121 16,153 88,377 37,500
煎餅 1 18,000 15,000 4,500 300 37,000 30,000
2 98,600 14,500 230,500 4,500 1,600 389,700 353,000
種菓子
羊羹
西洋食料及び缶詰 1 32,500 3,275 66,475 113,830 95,114 311,194 117,000
漬物及び煮物
1 40,000 5,200 500 24,610 4,600 74,910 55,000
麬及び蒟蒻
製麺
煮豆
蒲鉾類
生餡
3 13,400 4,200 2,350 21,900 7,400 49,250 42,200
26 1,542,221 111,075 1,296,965 955,728 784,267 4,678,086 4,109,200
5 雑工業
印刷及び製本 10 160,110 115,750 345,700 271,700 165,300 1,058,560 543,000
紙製品 1 6,300 100 300 2,000 200 8,900 6,800
製紙
製材及び加工板 6 155,234 26,685 163,336 285,336 141,380 771,951 791,384
木箱及び樽桶 3 9,650 16,650 3,300 13,800 8,500 51,900 12,500
家具 3 11,800 1,300 16,950 9,000 3,300 43,350 10,000
麻綿糸真田靴紐 2 20,300 970 47,090 5,000 1,110 74,470 38,000
製綱 1 77,558 6,510 318,840 37,224 21,860 481,992 400,000
制帽 1 59,650 2,350 59,573 44,746 1,494 167,812 189,000
和洋服 3 15,978 4,820 3,000 278,900 530,000 832,698 1,208,000
団扇及び扇子
玩具
下駄及び草履
絹沓及びスリッパー
建具及び指物
竹及び籐製品
蚕糸屑物選別 10 1,398,115 288,880 823,812 2,283,517 2,233,332 7,027,699 5,961,025
足袋
提燈
畳加工
洋傘
1 25,000 8,000 120,000 30,000 125,000 308,000 210,000
4 57,780 35,250 51,407 94,200 25,500 364,137 132,500
45 1,997,475 507,265 1,953,308 3,355,403 3,256,976 1,117,147 9,602,209
6 特別工業
電気 1 7,000 1,500 145,000 153,500
瓦斯 1 222,565 9,785 986,670 210,000 10,000 1,439,020 197,840
2 229,565 11,285 1,131,670 210,000 10,000 1,592,520 197,840
186 13,327,852 2,627,749 19,445,277 11,697,925 14,922,382 62,021,185 47,454,196

今般各工業別に依りて区分したる被害高を調査するに当り、当時職工二十人以上を使用する工場につき調査した。本市大正十一年十二月末日現在に於ける当時職工十人以上を使用する工場三三一工場に於ける被害額を推定するに、工場建物弐千六百六拾五万五千円、事務所五百弐拾五万五千円、機械参千八百八拾九万円、原料弐千参百参拾九万九千円、製品弐千八百八拾四万四千円、計壱億弐千参百四万参千円の見込である。

なお、工場復興事業繁閑に依りてこれを区別すれば、左の如くである。

1 比較的事業繁忙のものは

製綿・船舶・車輌・電線・建築・金物・印刷および製本・製材および加工家具・建具および指物畳加工である。

2 比較的事業閑散のものは

輸出織物・染色整理精練・捺染・布帛製品・刺繍・絹綿寝衣および著物・槻衣およびパジャマ・メリヤス・織物・漆器・紙製品・麻綿糸・真田・靴紐・蚕糸・糸屑物選別・輸出包装・木箱・スリッパ・鍍金・竹および籐製品等である。

輸出入国別価額[編集]

 (大正十二年)

国名 輸出額 輸入額
亜細亜州
支那 10,315,561 46,789,003
広東州 4,185,791 38,602,398
香港 2,741,180 92,438
英領印度 9,146,007 21,901,194
英領海峡植民地 1,271,050 3,754,080
蘭領印度 2,069,731 10,976,048
仏領印度 299,642 1,064,538
露領亜細亜 52,036 1,059,530
比律浜群島 861,116 6,377,404
暹羅 213,026 1,252,365
その他諸国 30,191 21,856
31,185,331 131,890,854
欧羅巴州
英吉利 13,459,674 61,819,501
仏蘭西 15,781,928 6,469,688
独逸 521,018 29,385,891
白耳義 240,153 3,667,078
伊太利 1,089,687 1,045,856
瑞西 43,979 4,509,403
墺太利 527 289,602
チェッコスラヴァキァ 1,181 11,780
和蘭 123,867 1,258,266
瑞典 124,563 3,286,633
諾威 2,638 943,438
露西亜 66 151,387
波蘭 1,937
西班牙 134,832 268,786
丁抹 34,269 62,574
土耳其 11,106 176,607
葡萄牙 404 1,092
その他諸国 9,665 20,849
31,579,857 23,370,368
北亜米利加洲
北米合衆国 189,618,911 159,943,205
英領亜米利加 6,903,164 7,389,201
墨西哥 195,193 160,255
玖馬 203,351 31,109
その他諸国 1,022,753 15,741
506,943,372 167,539,511
南亜米利加洲
秘露 418,352 142,236
智利 335,688 2,222,882
亜爾然丁 3,661,966 502,515
伯剌西爾 158,310 59,603
その他諸国 640,612 17,793
5,212,928 2,945,029
阿弗利加洲
埃及 1,591,467 8,864,694
喜望峰植民地及びナタル 1,489,785 183,944
その他諸国 110,591 139,302
3,191,845 9,187,940
その他諸洲
濠太剌利 9,149,672 30,007,336
新西蘭 1,378,821 27,628
布哇 955,917 51,930
その他諸国 60,993 2,099,314
11,545,403 32,186,208
仮置場 438,623
小計 X 78,952,,293 X 57,721,308
総計 X 668,611,027 X 515,279,841

備考 八月分は累 に舎まぬ。但シX印は累計に八月分を舎めてある。

第3節 商業[編集]

1 概況[編集]

大正十二年九月の大震は、遽然として我が港市凡百の機関を壊滅し、万品百貨悉く烏有に帰し、まことに損失数量の夥多なる、今之が算出をなすに苦しむ次第である。されど震前の商況より推想して算出すれは、その概数は左の如くである。(別表添付)。 災後市民は広漠たる焦土の上に立って暫くは、その方向に迷って居たのであるが、民心ようやく安定するに従い、漸次復興の精神を喚起し、著々家業の再興に着手し、ために交通の要衝に当たれる街頭には、飲食店の開業夥しく、やがて伊勢佐木町通りを初め、神奈川・戸部町・本町・元町・本牧方面等、漸次同業者の奮闘活躍めざましく、なお復帰者の増加と共に、バラック建築激増し、ために日要品販売業者相次いで開業するに至った。

災後物資の窮乏は、官民を挙げて復興に全力を傾注し、勤倹力行、一意物質復興の大目的に向って突進し、あくまで堅実の態度に出でしを以て、所謂贅沢品に属する貴金属販売業者の如きは、一時は全くその営業を廃止するの巳むなき苦境に陥った。その後ようやく頽勢の挽回を見しも、なおその復興の困難なりし事、実に想像の外にある。

爾来一般商売の中には、一二活動力徴弱で、その復興上なお救援を要するものなきにあらざれども今や斯業に対する当路者の施措対策、機宜に適い金融・倉庫・運輸業、諸機関の整備と相俟って、商売の復興著々進捗し、既に本市各方面の街衛,やや盛観を有するに至った。

震災に依る本市商業店舗の被害表[編集]

表略

2 横浜商業会議所[編集]
イ 概況

明治二十八年十二月、横浜商業会議所創立以来.同所は本市貿易市場の重鎮となり、震災前は事務所を横浜開港記念会館の階下南室に構え、書記長外数名の事務員・小使等、夫々執務に繁忙を極めていた。九月一日は平日の如くに午前の執務を終え、一同昼飯につかんとする刹那、大音響と共に激動し、市内建物中豪荘の誇りであった同館も、今や倒潰を気遣われるまでになったので、所員は一時街路に逃れ、周囲の情勢を傍観したが、刻々に迫る身辺の危険に、これを免れるのに如何なる術もなく、保管品の一点だも搬出すること不可能となり、午後二三時頃、尾上町方面より襲来した猛火、同所の周囲を燃焼し、これに於いて所員は解散するの已むなきに至ったのであった。当時財産明記目録等を焼失したため、その損害数も不明であるが、主なるものとしては、過去幾十年間同所の貴重備品として保管してきた数千部の蔵書を灰燼に帰せしめた事で、この事は今後も永く忘れることの出来ない憾事である。次に当日所員中書記長および雇員一名は、避難の途次災禍の犠牲となりしものか、その後死体も発見し得られぬのである。

ロ 災後の応急事務

災後十五日より同記念会館前の荒土に不完備なる仮小屋を建立し、同所の所在を知らしめ、残員を派出せしめたのであった。その後十七日仮市庁舎楼上に於いて、災後第一回の総会を開始し、会議員人士を網羅して、悲愴裡に今後の熟烈なる諸運動を表示決定し、更に事務所は市復興会事務所の一隅に移し、活動を開始したのである。今それらの協議の内容を概記すれば、左の如しである。

ハ 商業会議所決議

十七日午後一時、市役所仮事務所楼上に於いて商業会議所総会を開会し、震災後に於ける市内商工業の復興策に関し、種々討議の結果、横浜市復興会と提携して、商工業者の各種機関と連絡を保ち、極力善後策を講ずることとし、左記の議案を可決した。

我横浜市は帝都とともに振古未曽有の未曾有の災厄に遇い、殊に当市の惨状の激甚なる殆んど言語に絶す。これがために数万の生霊を失い、過去六十年間にわたり、市民が不撓不屈の努力を以て建設したる経済的および文化的の基礎は、底根より覆されて、またその跡を止めざるに至れり。その惨状を目撃するもの、誰か茫然自失せざるを得んや。吾人の見る所をもってすれば、今回の災厄に基づく損害は全般を通じて、けだし五十億円を下らず。当市の被る所また六億に及ばん。彼の国運を賭して戦いたる日清・日露の両役をもってしても、その戦費が通計して、遙かに今次の損害額におよばざるを思えば、如何にこの災害の甚大なるに戦慄せざる能はず。そしてその被害は京浜両市商工の中心にわたりて、その全部を破壊したるをもって、生産を途絶し、貿易を停止し、到底市民の能力を持ってこれが回復に全うすること能はず。したがって復旧に対し、いまだ何等の燭光を認めることは能わずの状況を考えれば、吾人は切にその災厄の深甚なるに相到ざるを得ず。この時に際し、吾人は当面の急に処するため、県市当局者を授けて、極力整備に尽力せざるべからざるは勿論なれども、更に大なる責任として、吾人の隻肩に懸かるものは、投資の復興とその経済的回復とにあり。
おもうに我横浜は帝都の関門たると同時に、本邦の大半に対する国際貿易の呑吐口たり。京浜両市は経済的に一単位たり。横浜の復旧は独り我が市民のためにこれを必要とするのみならず、実に帝都のためまた我が国全般のために、絶対にこれを必要とする。横浜にして復興すれば、帝都の復興は全からず。横浜にしてその経済的回復を見れば、災厄に起因せる我が国の経済的破壊は真に恢復せりと言うことを得ず。政府当局者および一般国民は此理を了知するがゆえに、吾人は国家が帝都の復興に連して、当市の復興に全力を尽くすを疑わずといえども、しかも横浜の復興は横浜市民の絶大なると力と犠牲とにまたざるべからず。吾人は駈々乎として確固たる信念の下に、不撓の精神をもって、当市の復興に向って勇往邁進、よってその目的を達するの覚悟を定めざるべからず。復興の第一は港湾の復旧にあり。幸いにして今回の震災がその設備に加えたる損害は、外見のごとく甚だしからず、僅々数百万円を以て港湾の使用を全からしめ得べしという。我が国貿易の大半は勿論、災害の復興に要する主要なる物蓑の陸揚げは、主として我が横浜港にまたざるべからず。幸に国家がこの見地に拠り、極めて敏活にその復旧にう着手せられるは、吾人の惑謝に堪へざる所なり。思うに当港の利用は、今後益々大ならんとするに当たり、吾人は単にその復旧を以て満足すべきにあらず。当港の果すべき使命を全からしむため、適当の拡張計画に対し、その調査研究は勿諭、進んでその実現に対する努力を緩やかにすべきにあらず。
生糸の輸出は帝国経済の脊髄にして、また当港の生命なり。この業務は実に我が市民が数十年にわたる努力の結晶なるが故、当市に於いてその既に占めたる地歩を永遠に維持せんとするは、吾人の権利たると同時にまたその業務なり。我が生糸業者がこの最大厄難の日に当り、全般の施設をことごとく喪失したるに不拘、毅然として起ち、災後未だ二旬を出でざるに、早く既にその取引を開始せるは、殆んど人力を超越せるの努力にして、その元気旺盛なる誠に人意を強くする者というべし。吾人はその努力に対し、また政府および横浜正金銀行がこの計画に対する至大の援助に対し、万腔の感謝を表すると同時に、吾人市民もまた終局するその目的を達するため、いかなる援助もこれをおしまざるの覚悟を有せざるべからず。当市およびその背後地帯に於ける工業は、当市の経済的動脈なり。幸に近時ようやくその激振を見んとするに当たり、この災厄に際会して、殆んど全部の破損を見たるは、その遺憾たとえるに物なし。吾人は国家がこのような工業の復旧に対し、至大の援助与えることを疑わざれども、これと同時にその実現に対し、吾人は大々的の努力を致さざるべからず。吾人は今回の災害に遇って、ひとえに天意可長の感を禁ずるに能わず。各人速かに内に自ら省み、相いましめ、相あらため、真摯質実の本義に拠り、奮闘努力、商工の復興を計り、禍を変じて福となすの覚悟を有し、帝国国運を負うて、当市の復興進展を期するの覚悟を表明せんとす。(大正一二年九月一九日、横浜市日報記載)
3 横浜取引所[編集]

十月十六日、帝国ホテルで、横浜取引所大株主会を開き、取引再興について協議した。出席者二十五名で、井坂理事長の情理ある挨拶で、何等の異議なく、満場一致報告を承認し、なおこれが実現を期するため、井坂理事長指名で、左記七氏炉市場再興促進委員に挙げら、十 八日午後二時から取引所仮事務所で市場再興促進委員会を開いて協議した。

渡邊 文七
小島 周
布沢 純(指田氏代理)
小出 範次郎(根津氏代理)
片倉 兼太郎
有松 尚龍(米穀取引所委員)
飯沼 民作(名古屋取引所員)
(横浜市日報)

関連項目[編集]