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横浜市震災誌 第三冊/第11章

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第11章 横浜在留外人の被害

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第1節 概況

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当市には山下町・山手町と云う外人居留地が有っただけに外人の数は多く、従って外人から得た利益も大きなものであった。横浜の商館数は四百三十三で、その中支那人経営のもの多く、英・印・米・仏・独・瑞西等にこれにつぎ、何れも山下町方面を根拠としていたのであった。

震災前の領事館数は、英・米・独・仏の領事館の外、各領事館は二十四で、公使館は、西班牙公使館・秘露公使館の二である。

今その震災直前に於ける居住者の数を示せば、左の如くである。(大正十二年八月末日調)

国籍 居住者 滞在者
戸数 合計
支那 1,106 3,019 1,618 4,705 90 5 95 4,800
英国 370 499 420 919 108 66 170 1,093
印度 55 101 2 103 2 2 114
伊太利亜 6 6 3 9 9
加奈陀 6 5 4 9 9
海峡植民地 1 1 1 1
南阿弗利加 1 1 1 1
米国 607 266 220 486 106 60 166 662
布畦 1 1 1 2 6 5 11 13
比律賓 2 1 1 2 2
露国 161 206 141 347 74 31 105 453
独逸 97 125 80 205 6 5 11 2,167
仏蘭西 58 74 65 139 9 3 12 151
瑞西 54 63 30 93 17 4 21 114
葡萄牙 14 43 22 65 2 2 68
和蘭 18 19 19 38 2 2 40
伊太利 15 16 14 30 2 2 33
丁抹 11 12 6 18 18
西班牙 7 9 5 14 2 2 16
アルメニア 3 9 6 15 15
瑞典 5 5 5 10 2 2 11
メキシコ 2 1 2 3 3 3 6
波蘭 7 8 5 13 4 3 7 20
チェコスロバキア 4 5 2 7 3 1 4 11
諾威 5 3 2 5 2 2 4 9
秘露 3 5 4 9 9
ユーゴースラブ 1 4 4 8 8
洪牙利 5 5 2 7 7
波斯 1 4 3 7 7
希臘 2 3 3 6 6
墺地利 4 4 1 5 5
白耳義 1 1 2 3 2 2 5
智利 1 2 1 3 1 1 4
ラトビア 2 2 1 3 3 3 6
エストニア 2 2 1 3 3
アルゼンチン 1 1 1 2 2
玖馬 1 1 1
伯剌西爾 1 1 1 5 5 6
土耳古 1 1 1 1
アフガニスタン 1 1 1 1
巴奈馬 1 1 1 1
ジョルジャ 1 1 1 1
ルクセンブルク 1 1 1 1
2,244 4,537 2,785 7,322 453 185 637 7,968

支那人はその大部分を占め、英・米・仏これに次いでいる。

次に学校を挙れば、外国人経営日本人子弟教養の中学校一、女学校六、支那人小学校二、中学校一、露国中学校一で、即ち中学関東学院・大同学校・中華学校・華僑学校・セントジョセフカレージ・サンモールスクール・香蘭女学校・菫小学校・フォーレンスクール・女子聖経学校・共立女学校・女子神学校・ジャーマンスクール・露国中学校・フェリス女学校・志成中学校等であった。更にホテルとしては、グランドホテル、オリエンタルパレースホテル等の他、十四館もあった。

その他著名なる建物は、横浜社交倶楽部・ユナイテッドクラブ・独逸および印度人各倶楽部・シーメンスクラブ・横浜基督数青年会館・同女子基督教青年会館などもあった。山手町ゲーテー座と支那劇の同志劇場、独逸倶築部・サミュルビルデング・関羽廟・スタンダード石油会社。露亜銀行・セールフレーザー会社・香港上海銀行・チァーター銀行・独亜銀行・中法実業銀行等で、その他数会は在留外人専用の教会に山手本町二三四番英国系クラィストチァーチ、同町四九番米国系横浜ユニオンチァーチがあった。なおこの他にも同町四四番にはミッション、カソリックがあった。

更に金融機関として英国系の香港上海銀行・渣打銀行、米国系のインターナショナル銀行・パークユニオン銀行・露亜銀行・独亜銀行等の他、各国保険会社支店代理店等三十余もあった。(神奈川県外事課調査)

彼様に多数の建物が今回の震災に倒壊焼失したのであるから、その惨憺たる状況も思いやられるのである。それと云うのも山下町・山手町居留地は大体地盤が軟弱であったに因るもので、大建物は殆ど皆全潰し、その下敷となって逃れ出す間もあらばこそ、直ぐに火事となって、そのまま焼死したもあり、また逃げ場を失って命を殞した人も有った次第である。今本市に於ける在留外人の被害状態を表示して見ようと思う。

横浜在留外人調
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(大正十二年十月二十五日調査)

国籍 死亡 負傷 所在不明
支那 1,541 2,039 695 4,276
露国 87 52 96 235
英国 44 63 104 211
印度 28 59 64 87
米国 39 63 31 166
仏国 11 22 30 64
独逸 8 23 17 61
瑞西 6 11 11 34
葡萄牙 9 5 10 25
伊国 2 6 10 18
アルメニア 1 2 10 13
和蘭 3 3 5 11
波蘭 2 3 5 10
瑞典 1 3 4
チェコスロバキア 4 4
丁抹 1 3 4
墨西哥 3 1 1 5
西班牙 4 4
諾威 3 3
洪牙利 2 2
希臘 1 2 3
白耳義 1 1
エストニア 1 1
ブラジル 1 2 3
智利 2 2
ラトビア 1 1 2 4
1,789 2,353 1,109 5,251
外国官公署
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区別 全焼 全潰 被害なし
公使館 2 1 3
総領事館 7 1 8
領事館 16 16
その他官公署 6 6
34 1 1 36
各国官公衙の被害
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名称 所在地 罹災状況
秘露公使館 山手町245 全焼
西班牙公使館 山手町248 全焼
智利公使館 本牧町350 被害なし
支那総領事館 山下町135 全焼。総領事長福死亡
英吉利総領事館 山下町172 全焼。総領事代理ダブルユーペーターおよび丸山通訳焼死
露西亜総領事館 山下町171 全焼。入江通訳焼死
墨西哥総領事 山手長216 全焼。総領事およびジャンペガ負傷
智利総領事館 山手町179 全焼
玖馬総領事館 山手町57
伯剌西爾総領事館 山下町6 全焼。総領事バラダス焼死
独逸総領事館 山下町17 全焼。書記ジューマルク死亡
仏蘭西領事館 山手町185 全焼。領事歩-ルリジャルダン死亡
瑞西領事館 山下町90 全焼
葡萄牙 山下町73
和蘭領事館 山下町75
伊太利領事館 山下町51
丁抹領事館 山下町209
西班牙領事館 山下町23
瑞典領事館 山下町12
チェコスロバキア領事館 山下町74
諾威領事館 山下町75
秘露領事館 山手町258
希臘領事館 山手町73
白耳義領事館 山手町182
アルゼンチン領事館 山手町108
パナマ領事館 山手町74
芬蘭領事館 山手町70
ベネズェラ領事館 山手町13 全焼
ボリビア領事館 山手町93
英国商務官署 山手町172 全焼。商務官エツテ・ホーン死亡
加奈陀貿易事務官省 山手町51 全焼
米国商務官署 山手町234 全焼
仏国商務官署 山下町67 全焼
米国財務官事務所 山下町70 全焼
米国船舶局 山下町73 全焼
横浜領事団員の安否とその後の移動
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(外務省発表九月十一日調)

独逸国総領事館
総領事・副領事無事。書記生メリケ圧死。
米国総領事館
領事死亡、家族無事。副領事アンドレル・ポン号に在り。
アルゼンチン国領事館
領事デル・カリール和蘭船にて、神戸に避難せり。
白耳義国領事館
領事無事。和蘭船にて神戸に避難す。館員不詳。
ポリヴィア国名誉領事館
領事帰国中。
伯剌西爾国総領事館
館員未詳。
智利国総領事館
未詳。
支那総領事館
領事および家族一名死亡。副領事孫および書記生朱無事。書記生謝負傷生存。
コロンビヤ国領事館
未詳。
ュキバ国総領事館
未詳。
丁抹国領事館
館員消息不明。
エクワドル国総領事館
領事帰国中。
西班牙国領事館
未詳。
仏国領事館
領事圧死。同夫人および子供一人・副領事無事。
フィンランド国領事館
未詳。
英国総領事館
総領事帰国中。領事代理ポーター生存。家族無事。
商務官クロー氏帰国中。商務官代理副領事セルキおよび船舶係死亡。
希臘国名誉領事館
未詳。
伊太利領事館
領事および家族無事。住宅安全なる由。
メキシコ国領事館
領事無事。
諾威国領事館
館員消息不明。
パナマ国領事館
不明。
和蘭国副領事館
館員消息不明。
ペルー国領事館
神戸に避難せりとのことなり。
葡萄牙国副領事館
未詳。
瑞典国領事館
領事、仏船アンドレールボンに在り。
瑞西国領事館
未詳。
チェックスロバキア国名誉領事館
未詳。
ヴェネズェラ国名誉領事館
館員消息不明。
露西亜領事館
領事無事。仏郵船に在り。

横浜領事団員の安否とその後の移動(外務省発表大正十二年十月調査)

独逸国総領事館
総領事無事。書記生メリク死亡。外館員無事。
米国領事館
総領事代理カージャフ夫妻死亡、二児無事。副領事ジェンス、書記ワーデル死亡。外無事。
アルゼンチン領事館
総領事デルカリル無事。神戸避難(十月中旬帰国)。
ボリビヤ名誉領事館
名誉領事帰国中。
プラジル総領事館
総領事バラダス死亡。
智利総領事館
総領事一同無事、神戸避難。
支那総領事館
総領事長福死亡(二児死亡、夫人および三児無事、神戸避難)。
コロンビヤ総領事館
総領事無事、神戸避難。
キューバ総領事館
総領事無事、神戸避難。
丁抹領事館
領事無事、神戸避難。
エクワドル総領事館
領事帰国中。
スペイン領事館
領事無事。神戸避難。名誉副領事消息不明。
仏国領事館
領事死亡(夫人および一児無事)。
英国総領事館
総領事代理無事。商務官代理ホーン死亡。副領事へーダ死亡。
希臘名誉領事館
名誉領事無事。
伊国領事館
領事無事。
メキシコ総領事館
領事無事、神戸避難。前領事ヴェガ負傷。左腕切断、神戸避難。
ノールウェー領事館
領事無事。
パナマ領事館
領事無事、神戸避難。
オランダ副領事館
副領事死亡。

横浜領事団員の安否とその後の移動(外務省発表大正十二年十一月調査)

智利公使館
代理公使以下一同無事。
西班牙公使館
公使以下一同無事。
秘露公使館
代理公使無事。
(神奈川県外事課および外務省調査査料)

第2節 外人避難と地方都市の救護情報

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(外務省調査)
大正十二年九年二十日
関西地方に於ける外人避難民救護事務に関し報告の件
関西地方に於ける避難外国人救護および連絡のため、九月十一日同地に出張を命ぜられ、十二日朝東京発、十八日帰任、調査の要旨別紙の通りおよび報告候也。

一行三名、十二日早朝芝浦発、米国駆逐艦Whippleにて横浜に赴き、正午横浜出帆の米国船プレジデントウィルソン号に便乗し、十三日午後四時神戸着、直ちに県庁に赴き、知事・警察部長等に面会、大要左の報道を得たり。

  1. 当地に避難し来れる外国人は、約六千名なるが、その一部分は既に帰国または他地方に去り、残存者中欧米人千名余、支那人三千名余、印度人六十名余なり。
  2. 欧米人避難民の救済は、英国総領事を会長とせる救済委員会にて引受け、オリエンタル、トーア、プレザントンの各・ホテル並びに私人宅に収容し、露国人のみは別に外人劇場に収容をせり。
  3. オリエンタルその他のホテル収容の避難民に対しては、医師の派遣以外、当方の援助を求め来らざるも、露国人の給養に関し、救済委員会の尽力充分行届かざるものの如く、兵庫県庁は右委員会の諒解を経て、これに食料品を支給したる由。なお避難露国人の処分に関しては、当地官憲および救済委員会に於いて最も苦慮しつつあり。
  4. 支那人避難民の救済は、支那領事並に日支実業協会協力してこれに当り、中華会館・華僑学校・広業公所等に収容せるが、多人数なるため、万全を期しく、従って当地官褻に於いては特に救済に尽力し毛布・衛生材料等を支給し、邦人避難民以上の待遇を与えている結果、支那測に於いても多大の満足の意を表しきたれりとのこと。
  5. 印度人避難民は、日印協会に於いてこれが救済に任し、別に地方官憲の援助を要せざる由。

要するに当地外国人避難民救済の状況は、大体に於いて遺憾なく行い居るものの如くなるが、露国民避難民の大部分は、生業に於いて能力なきものにして、その救済期間につき将来の見込立たず。さりとて永久にこれを救護する事も不可能なるのみならず、米国領事に於いて渡米を拒否し居る関係上、目下困難なる懸案となり居れり。

十四日午前県当局と同道、中華開館・福建省商業会議所を訪問し、震災以来約四千名の支那人避難民を救護し、現に千六百名の避難民を収容しつつある意見を聴取したり。支那避難民救護は、在神戸支那領事館および神戸在の支那当業家有志より成る救謹団により、極めて満足に行われつつあり。救護に要する資金は神戸在留支那人の寄附金を主とし、香港・上海・長崎等の支那人団体の寄附を受けくるので外、神戸・大阪・京都の日本人諸種の団体および郵船・住友等個人の寄附により、現在までの総額約八万円に達せり。

避難者の多くは横浜より来れるものにして、無賃にて当地に輸送せられ、さらに当地より無賃にて、郵船・商船その他外国船により、香港・上海・山東等に転航させた。当地救護には、原則として、十日内外収容し、食料を供し、必要の治療を加え、かつ衣類を提供し、小遣いは労働者に対し、一人当り金五円位を給し居る模様なり。当地救護団側に於いては、資金流通の都合上、若し東京方面より留学生その他多数当地に避難するものなきことに判明すれば、現在収容の避難民帰国に際し、今少し多額の小遣を給したき意図にて、東京方面より避難者の来否、至急承知したき旨切望し居れり。震災当時深川区大島町に約千名の支那人労働者現在せる趣のところ、その中約百五十名、十四日朝、英艦ナムサン号にて来神したるにつき、他の罹災支那人に関する事情を聴取したるも、要領を得ず。当地領事館側に於いては、しきりにこの点につき憂慮し居れり。

十四日午前、欧米人避難民救護の本拠たるオリエンタルホテルに赴き救護団長在英国総領事は、一般欧米人救護の手配は万事好都合に進捗し、ことに食糧品に関しては、米国艦隊側より多量の提供申出ありたるも、不必要に付き拒絶し居る現状にて、さらに不足を感ぜずと称し居れり。

欧米人救護団は前記英国総領事を団長とし、在神各国領事その委員となり、在留の実業家有志、副委員等となり、頻りに資金を募集し、今日までの醵金額約弐拾万円余に達せりと云う。醵金者は主として在留外人なるも、大阪・京都・神戸諸市の団体、およびぼ邦人側よりの寄附もあり、同委員会側に於いては、各種衣類の供給につき、多少の手簿を威じつつあるも、兎も角救護団の必要を講じつつありて、金銭の寄付は救護団の歓迎する所なり。

欧米人救護団の世話を受けたる欧米人総数約二千人にして、一時当地に避難したるも、さらに他地に向って転航せるもの少なからず。また在神戸地方の知人を辿り避難せるものも多数にて、現に直接、間接救護団の援助を受け居るもの約千名、内露国人百八十名は、救護団にとりてもっとも処分に手古摺り居る部分なり。露国人は一般欧米人より隔離せられ、当地外人附属劇場用バラックに収容せられつつあり。

バラックの現状を視察したるところ、衛生状態は極めて良好にして、食物の如き露国避難民にとり恐らく震災前のものより優良なるべしと認められる。なお露国避難民善後の問題に関しては左記の通り、本省へ稟申しおけり。

九月十四日
当地に在る露国避難民は現在約百八十名、一括外人劇場に収容中なるが、救済委員長英国総領事の談によれば、その給養に必要なる食糧品等には、当分何分の不足を感ぜざるも、永久に救護を継続すること能わず。その終局の処分に関しては、委員会側に於いて如何とも致し難きに付き、結局日本政府の決定を待たざる可からざるに至る可く、於いては労農政府と交捗の上、避難民帰国後、身体安全の保障を取付け、浦潮若くは其他適当の地に送還すること得策なるべしとの事なるが、兵庫県庁側に於いて帰国に関する避難民の意向を質したるに、労農政府の保障は信頼し難く、若し師国の已むなきに至るに於いては、自殺する外なしと嘆き、大部分は米国行を希望せる由なるも、米国領事に於いて峻拒したる趣なり。今朝外人劇場を訪い、避難民の現状を視察したる際、収容所主任の英人は、避難民の大部分は性質怠惰にして、救済委員の慈善的行為を濫用し、このままに棄て置かば、何時までも救護所に執著して際限なかるべく、此際厳重なる措置を執るを必要と認むと談したり。つまり露国人は何国に於いてもこれを引受けるを好まず、帝国に於いてもこれを背負込む責任なきは明白なるも、現在本邦に在住する以上、結局これが善後処置を講せざる可からざる事となるべく、当地にて得たる印象によれば、この際避難民側多少の不平を無視するも、労農政府の了解を得て、帰国せしむる方、適当なるものの如く思考せらる。本件予め御考量置き相成り度し。

当地に避難せる外交官は西班牙公使および亜爾然丁・智利およびペルー代理公使なるが、十四日午後応訪左の消息を得たり。

1 亜爾然丁
公使夫人・令嬢・館員一名前戸オリエンタルホテル第二十五号にあり。当分公使館を神戸に置くの件につき、本国政府に請訓中の所回答未着。何分の決定をまち、追て日本政府の了解を求むる筈。
仮事務所 神戸市江戸町百番地
神戸に公使館仮設の件決定。
代理公使・館員一名、十八日東京着く滞在の上荷物取纏め、神戸に輸送の筈。
2 智利
横浜箕輪下350番に在住せる智利公使館付外交官補Rose-Jamesの行方捜索方依あり。
代理公使および夫人・令嬢・令息神戸オリエンタルホテル第十五号にあり。新公使近々赴任につき、既に帰朝の命令を有し居る所、震災のため家財家具・所持金全部喪失、窮迫を極む。ホテルにて全家族維持の費用一日六拾円内外を要し、金銭上援助方に付依頼ありたり。
3 西班牙
公使・参事官および夫人神戸にあり。
公使の宿所 中山手通り三丁目十二番地。
事務所 下山手通り三丁目三十三番地、西班牙国領事内。公使館僕に手渡する小金庫を至急入手したし。在横浜公使館焼跡に残留せる同館僕を、小金庫と共に神戸に取寄方切望し居れり。参事官フラットは軽井沢四八六番。英国代理公使方にある令妹および令嬢を最近便にて、神戸に引取り、雲災数日前の命令通り、プラッセルに成べく赴任したき希望にて、前記軽井沢の家族引取方につき、政府の特別の考慮を希望し居れり。
4 ペルー
代理公使および夫人子供および横浜ペルー国領事と共に、神戸中山手通り一丁目四十四番地、同国領事館内にあり。代理公使は、当座預金千八百円(正金銀行に定期預金八千円、期限本年十月二十二日)を有し居る趣なるが、銀行側との特別の了解により、融通を得度き希望にて、目下本国政府に請訪訓中なり。右につき日本政府に異議なきや。成るべく正式に帝国政府の意向を承知し置きたき希望なり。在神戸同国領事Jase B .Geyburs Nliasに対して、至急認可状の下附方御計いありたしとの希望なり。

神戸に於ける外人避難民収容の状況
九月十三日まで神戸(兵庫県)に於ける日本人避難民救護の状況大要左の通。

震災直後救護のため兵庫県は公費より弐拾万円、神戸市は同しく市費より拾万円を支出すことに決し、県・市・商業会議所・神戸また新日報・神戸新聞の五団体共同、一般義捐金の募集を開始し、申込額公費支出とを加え約弐百万円、震災後以来兵庫県に於いて邦人避誰民を収容せし数二千八百七十名(九月十四日現在)現在収容人員八百八十四名にして、市内諸寺院、武徳殿等に収容しつつあり。
震災以来兵庫県に於いて、自発的に送付せる救護物資、並びに中央救護事務局より命令に基づき神戸より関東地方に送付せし物資、大要別表第二の通り(表略)。

なお緒外国救護団体より、震災救護のため寄贈し来る物品にして、一時神戸に陸上せられたるものの数、相当多量に上る所、向地輸送費および保管費用等の件に付、中央との連絡充分ならず、県当局に於いては中央より指令を希望し居れり。

九月十五日午後大阪に赴き、外国避難民の状況に関し取調べたる所左の通り。

  1. 欧米人にして大阪に避難し来れるものは僅か二十数名に過ぎず、かつ資力充分なるもののみなるを以て慰問品として知事よりエジプトタバコ一人当約三円位の割にて送りし所非常に感謝し居れり。因みに数名は既に他地方に転じ、十四日の夕に於いて、前記両ホテルに滞在。
  2. 支那人避難追雖民は約百四十名来阪せるも支那商務公所に於いて救護を引受けたり。初め公所の会薫張氏と市との間に多少感情の衝突ありしも、目下円満に解決し居れり。避難者の大部分は既に神戸に移送し、何れも帰国の、便船を待ちつつあり。なお知事より見舞金として壱千円を贈与したる所、張氏は非常に喜び、感謝受納せり。
  3. 露国避難民は大阪に一人もなく、当地に於いては外国人避難民のために、救護の措置を取るの必要全くなし。

京都に於ける外国人避難民状況
九月十六日午後、京都に向い、府知事および内務部長に就き調査したるところ左の如し。

  1. 震災以来、欧米人の避難総数十二名なるが、主として箱根方面にありたるものにして、右の内一部は既に神戸に去り、現に居住せるもの京都ホテルに四名、都ホテルに二名あり。何れも富有なるものにて、救済の要なく、府知事より見舞として一同に葡萄を寄贈したる所、深厚なる感謝の意を表し来れと。
  2. 露国避難民は皆無なり。
  3. 支那避難民もまた皆無なり。

京都に於いて、外国避難民救済の必要目下の所全然無し。

九月十七日午前神戸に至り、救護事務に関連し為したる置左の通り。

1 露国避難民問題
九月十七日、救済会々長英国総領事フォースター氏、兵庫県庁に於いて本官に面会を求め、露国避難民の処置に関し、教会側に於いては、資金に限度もあり、永久に現在の救護を継続する能わず、かつ救済事業に、当れる有志者もそれぞれ常務に復するの要あり。ついては本件につき至急日本政府側に於いて何分の決定を得度き希望なりと、しばしば陳述ありたるに付、委細事情は既に東京政府に電報しおきたるも、何等の回答に接せず。政府の意図承知しかねるも、救済協会の立場を県当局に開陳して、差しあたりこの諒解を得ること適当なる乎に思考すと答え、直に警察部長に協議したる所、兵庫県庁にては最初より露国避難民を県庁側に於いて収容する事に関し、何等異存なかりしところに、むしろ救済協会の所管事務に立入るをはばかりて、今日まで遠慮し居る次第なれば即刻露国人を県にて引受けるも差支なしとの返事答ありたるに付、その旨英国総領事に告げたるに、非常の満足の意を表し、被服食料品の供給は、今後なお協会側に於いて幾分援助し差支なしと述べ、結局県に於いて引受の準備もあるべきに付、今週末までは現状を維持するも差して困難なしと述べ、細目については直接英総領事と県当局との間に取決めることに落着せり。
2 智利公使救済資金問題
智利公使救済資金弐千円送金に関する次官発本官宛電報は本官乗船後、出帆間際に接受したるに付、差しあたり見送りに来りたる県吏に対し、右送金到着の上は、当方より何分の儀指図するまで兵庫県県庁に於いて保管し置かれ度しと依頼し置けり。本件立替金取調の上手交方、二十日東京発神戸に赴きたる森事務官に依頼済。
3 千歳丸陪乗支那避難民に関する件
千歳丸便乗支那避難民約七百名救設の件に関し、同船は神戸に寄港せざる旨の修正電報ありたるも、郵船側より十七日午後十時、同船神戸着十八日午前神戸出帆の予定なる旨入電あり。右支那人は神戸に上陸するのと仮定して、一時収容方万端手配を了せり。
4 在横浜墨西哥領事消息に関する件
在横浜墨西哥領事の安否に関し、在北京同国公使は芳沢公使を通じて、兵庫県庁に電照し来たるが、同領事は左腕に軽傷を被りたるも、他は別條なく、目下神戸西班牙領事館内に無事避難し居れり。
5 旅券事務停滞により本省員派追方に関する件
本件に関し本省より兵庫県庁に対し照会ありたる所、震災以来同県庁に於いて外国旅券を発給したる数は約三十なるが米国・加奈陀・濠州航者に対する旅券の発給に際しては、外務省よりの指令を受くることとなり居所、現在の通信交通の状態に鑑み、右は事実上甚だ困難なるに付応急の措置として、兵庫県庁限りの裁量に依り適宜発給しつつある趣なり。但しこれら旅券発給に関する定規の制限條項は、厳重に格守し居れりと。なお旅券下附申請者にして、震災地に原籍を有するものに対しては兵庫県管轄内に永年住居せるものに限り、戸籍謄本の提出を免除し居れり。

第3節 罹災外人に対する外国救援機関

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大震後外人の大半は、神戸その他の地方に避難し、残ったものは、港内碇泊の南生号に約二十二名、陸上に百三十名、合計百六十名である。右救護の方法として南生号には英国副領事ポーター氏を初め、数名の委員を設け、陸上にはメースロッス氏等、特志家および救世軍士官ピックウード氏等が努力して、市設外人救配所と合同して、なお神戸震災救護団とも連絡を執って、大々的配給および人事相談を実行することとなった。外人救護に関して左記の場所に配給その他の通知を、和英両文をもって掲示した、

  1. 市役所前
  2. 英国領事館跡。
  3. 山下町グランドホテル附近。
  4. 新山下町町埋立地救世軍屯所前。
  5. 税関桟橋。
  6. 電車トンネル桜道下入口。
  7. 地蔵坂巡査派出所際。
  8. 本牧電車終点。
  9. 大神宮山803英人メース附近。
(九月二十七日市日報)

第4節 外人復帰の状況

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遠い異境で思わざる大震災に遭遇した在留外人は、甚大なる被害を受け、哀れ廃麿残塁の姿となった我家を振り捨てた本市在留民の大部分は海から関西方面へと避難したのであるが、独り外人のみならず、焦士に立てる市民も、空しく方途に迷う有様であった。しかるに追日秩序も整う傾向も見え、市民ようやく安心の緒につき、市勢も復興の芽を萌し、愛郷の有志者は決然立って官民を糾合して、本市復興会を組織したに始まり、人心の作興に日夜を分たず、衆知衆力を聚め、大都市建設の目的に邁進し、外人招待の諸策も茲に始めて白熱化したのである。

招致の方法として、先ずホテルを設け、復帰外人の使に供し、初め関西に避雛した外人も続々と帰来し、外人同業組合のアッソセーション・オブ・フォーレン、ロー・エンド・ウェート・シルク・マーチャント・オブ・ヨコハマなどの団体は、早くも本市復興会の勧誘と援助とで、敏捷に復帰した。十七日から組合長瑞西人イー・ボッシャートを始め、ジャーデン・マヂソン商会の英国人、バブバート・ビラ商会・仏国人バレット外十四名も参加して、従前通りの取引を開始したことは、実に銘記すべきものである。(神奈川県外事課)

復帰せし横浜在留外人国別戸口表
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(大正十二年十一月末)

家屋別 国籍 家屋数 世帯数 在留者
残在西洋家屋   支那 2 11 13 1 14
英吉利 17 19 21 13 34
亜米利加 10 11 7 14 21
比律賓 1 1 1 1
独逸 18 20 20 9 29
仏蘭西 6 6 6 2 8
瑞西 2 2 2 2
伊太利 1 1 1 1
葡萄牙 1 1 1 1
希臘 2 1 1 1
諾威 1 1 1 1 2
アルメニア 1 1 1 1
63 75 75 40 115
残存日本家屋 支那 28 23 46 10 56
英吉利 14 16 12 18 30
印度 1 1 1 1
亜米利加 11 14 17 10 27
独逸 1 1 1 1
仏蘭西 1 1 2 3 5
瑞西 3 4 3 2 5
露西亜 1 1 1 1 1
葡萄牙 1 1 1 1 1
瑞典 1 1 1 1 1
智利 1 1 1 1 1
エストニア 1 1 1 1 1
和蘭 1 1 1 1 1
65 75 88 43 131
私設バラック 支那 15 15 38 18 56
加奈陀 1 1 1 1
亜米利加 3 5 9 1 10
仏蘭西 1 1 1 1
伊太利 1 1 1 1 1
露西亜 1 1 1 1
希臘 1 1 1
23 25 51 20 71
公設バラック 支那 3 35 34 41 75
印度 1 1 1 1
比律賓 1 1 1 1
5 37 35 42 77
合計 156 212 249 145 394
在留外人官公衙の復旧
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公使館はその後復帰をみないが、領事館のみは米国領事館が震災後二十日を経て、旧領事館跡にバラックを建設し、十一月には英国総領事館、十二月に仏蘭西領事館・中華民国総領事館が出来た。外国貿易が回復してからは、再び帰って来る外人が増加したのでどうしても、領事館の必要があるので、早くも次の如く出来たのである。

名称 所在地
白耳義領事館 山手町93
智利総領事館 本町1丁目8
支那総領事館 山下町141
仏蘭西領事館 山手町185
英吉利総領事館 山下町171
希臘領事館 山手町73
和蘭領事館 山下町25
諾威領事館 山下町225
葡萄牙 山手町220
西班牙公使館 山手町43
瑞典領事館 山下町34
亜米利加領事館 山下町234
亜爾然丁名誉領事館 横浜税関港内大阪商船株式会社横浜支店内
秘露公使館 山下町43

(神奈川県外事課調査)

参考
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1 各国仮領事館の状況
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震災後各国領事館中で、官舎の再建築を急いだのは、イギリスと、フランスとアメリカであった。国民性は各々の庁舎の建築に現われ、震災以前より民族が明瞭に見られるのも面白い。建国の日新らしいアメリカは、二十ばかりのカーキ色小型テントを元領事館跡に張って、蝿除け網を張った料理室から、食堂まで設けて、飽くまで野外の気持ちの中に事務を執っている。イギリスの領事館は、屋根はさび色に嵌め下は渋色で、窓柵は純白に塗ってある。総てがアングロサクソン人種特有の質素な気持ちが現われているようだ。プリンス・オプウェールズ御来朝当時、その正門扉に張りつけた大きなイギリス皇室章を移している。フランス領事館は、谷戸坂の旧敷地内に南面した凹形の白木の建物である。建物の裾にある震災当時圧死した前領時の墳墓が寂しさを添えている。建物はラテン族の好みを十分に現わして居る。その他ドイツ・ロシア・スペイン・ポルトガル等は、元敷地跡に国旗のみが勢いよく翻っている。(十一月十四日報知新聞)

2 仏国領事館
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山下町谷戸橋畔の横浜仏国館事館開館の式は、二十三日日曜の午後三時半から挙行された。このの建物は震災のために宿無しになった在留仏人のために、宿所を提供しようと云う目的で仏領印度支那総督並びに上海居留地仏人の好意に依る寄附金壱万弐千円を以て建てられたのである。総面積五十坪の木造平屋建の瀟洒な造りである。出席者は仏国大使クローデル氏を始め、仏国政府から派遣されたベレー海軍少将、チュープレー少佐、その他代理領事シュバリー氏・レー大僧正を始め、京浜並びに神戸から集まった名流紳士淑女二百余名に、日本側からは安河内知事代理・青木市助役を初め、横浜の貿易商も多数出席、先づ仏領印度支那代表ローランス氏立って、このささやかな建物を、我が在留同胞のために贈る旨の挨拶があった。

在浜外人商業会議所、並びに仏人商業会議所会長ピカール氏これに対し感謝の辞を述べ。次でクローデル大使は今まで宿なしであった同胞のために宿を提供すために、今はその建物の開館式をあげる事は何たる喜びであろうと冒頭して、震災の打撃は非常なもので、東京より横浜の方がその打撃が大きかったので、中には横浜の前途を疑い、もう対底回復の見込がないかの様に、悲観するものが有ったが、自分は始めから横浜の復興を固く信じていたとこるが思っていた通りになったのを見るのは誠に愉快に耐えない。印度支那政府、並びに市民の同惰に依って、この建物の開館式をあげるに至った事も、復興の一助として意義ある事で、この領事館を中心にして、仏人が元の通り復帰して貿易を営む時は、近き将来に在るものと信ずる。希わくば復興の任に当り居らるる知事並びに市長閣下、および市民のご健康を祝したいと祝した。来賓安河内知事は、この好機に一言所感を述べたいとて、開館を祝福したる後、横浜市に港有る以上は、必ず元通りに復興する事は疑いもない事で、自分の信念と大使閣下の御信念とが一致した事を喜ぶと述べ、最後は横浜港は欧米人の忠告に依って開港したもので、港の設計も外国人の忠告に依って立てられているのみならず、諸君の御努力に依って、漁村から今日にまで進展し来たのであって、今回の復興に当っても、是非とも外国人の力に俟つものが多く有るを信ずると結んで式は正四時に閉じられ、ついで祝賀会に入った。(十二月二十四日読売新聞)

3 社交並びに運動
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今春来横浜カントリー・アンド・アスレテイック倶楽部、横浜レディスローンテニス倶楽部、日本レース倶楽部等、残っている敷地を整理して、事業の回復をした。二月中、在留独逸人倶楽部、山手町五番地、旧独逸人学校校舎を利用して、図書室・談話室・宿泊室の設備をした。四月二十日、横浜ユナイテッド倶楽部は山下町七十二番地に再設せられたが、間もなく失火焼失した。更に同町二十一番地に借家移転し、目下酒場・図書室の設備あるのみだが、六月十九日、総会の結果、山下町四番地に既住、会費積立金のうちから金三万円を支出し、宿泊室・浴室・玉突・図書室・ホール・食堂等を含む木造平屋を建設する予定で、目下工事中である。

また市内常盤町一丁目一番地横浜基督教青年会館は、鉄筋コンクリート建架で、災厄にも大なる破損もなく、復旧も容易であった。震災前山下町四番地所在外国船員慰安の目的で設立したシーメンス倶楽部は災後暫く、前記基督教青年会館で執務したが、その後米国紐育所在本部から補助を受けて、経費参万五千円を投じ、山下町一九四番地に、総坪数三五三坪余の会館を建設し、万国海員基督教青年会館と改称して八月下旬開始した。(外務省調査)

4 外人教育機関
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教育機関として在留外人の子弟教養のために設けられた幾多の学校は震災でなくなったが、震災後間もなく復活した。在留支那人子女のために、大正十三年三月中、新山下町のバラックに設置された広東小学校は最初のものである。前大同学校教師の呉肇揚揚氏は、災害当時一時本国へ逃げ帰ったが同年十二月再び帰浜した。生徒達は漸く増加したにも拘はらず、未だ教育機関はそのままであった。同氏は痛く慨して、一方有志を説き、また横浜市の後援によって初めて、このバラック学校を建てたのである。その他も私塾的に教養に着手し乍ら、追々開校の運に至った。秩序が回復するにつれ、帰浜する児童も増加するに随い、校舎を山下町百四十番地中華会館内に移して授業をした。なお同番地元大同学校敷地跡に、建坪三百坪に、小学校程度のものを建設しようとの議もあり、日本外務省対支那文化事務費に経費の補助を仰がんとした。横浜市役所からは板材の寄贈を受けたので該補助費は思わしくないから、計画をを中止している。

欧米人の教育機関中、震災前の山手町八十五番地所在セント・ジョセフ・カレーヂは、災後兵庫県県武庫郡御影に移転、目下同所に於いて授業中である。それもあらゆる事情で、経営上横浜に帰還するのは便宜であるとして、京浜阪神各方面で寄附金を募集中であるが、既に約四拾万円の醵集を見たので、これ又横浜市当局に於いても能ぶ限りの後援を致す意向である。されど種々考慮中の所、学校経営者間の言に依れば、十四年春勿々工事掛かり、同年九月頃から授業を開始する旨伝えられ、敷地設計等は未定である。

以上の外、外国人経営中復興した日本人中等学校を挙げれば、

山手町78 米国系 フェリス女学校
同 212 同上 共立女学校
同 209 同上 共立女子神学校
同 85 仏国系 紅蘭女学校
蒔田町215 米国系 英和高等女学校
青木町3.131 同上 捜真女学校
南太田町兵隊山  同上 中学関東学院

(市日報震災彙報)

5 教会
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大正十三年十月五日、クライストチャーチは、バラック建の仮会堂を設立し、十月十二日日曜日を期し、同教会牧師の司会で第一回の集会を開いた。それ以来毎日曜集会を催して居った。十月二日十三日在浜英国総領事は本宗宜布教会維持の方法に関して在留有力者と会合協議した。

ユニオン・チャーチも最近ようやく会堂新設の議決をした。仮会堂を山手二〇九番地の共立女子神学校校舎内に移して、十月四日に宜教師司祭の下に第一回集会をした。

ミッション・カソリックは横浜在留仏国人の経営に係り、焼失後東京市麹町区双葉高等女学狡内に仮礼拝堂を設けたが、八月初旬になって旧地に仮会堂を移した。同月十四日僧正司祭に開堂式を行い、以後毎日曜日に集会をやっている。

以上は専ら外国人のため設けられた教会であったが、此の外日本人の教徒のために建てられたものは次の如きものであると。

指路教会 横浜市住吉町六ノ七六
日本パプテスト教会 神奈川町字二本榎二、八四四
第一美普教会 本牧町台二五二ノ五六
ローマンカソリック教会 山手町四四
クライスト・チャーチ教会 同二三四
天主公教会 若葉町一ノ九
福音修道館 南太田町一ノ三五二
キリスト教日ノ出教会 日ノ出町三ノ八三
ホリネス教会 長島町三ノ二五
日本聖公会横浜アンデレ教会   花咲町三ノ四八
日本メソヂスト中央会館 本牧町矢二、六二四
日本メソヂスト横浜教会 蓬莱町一ノ五
救世軍横浜小隊 松影町四六
(外務省調査)
6 ホテル
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外人を招くには何より早くホテルを建てなければならない。災後一年を経た今日、何か復興事業でもやって見ようかと来る外人達があった。或いは観察のため或いは復帰のため来浜するものも少なくない。しかし訪客のための旅館設備は、悲しいかな不完全なのである。それ故に外人達は長期の滞在は出来ないことになるのである。これがため、県市と横浜市復興会で、ホテルの復活を急務なることとし、外人の如何を問わず、ホテル営業希望者に対しては、能う限りの便宜を供することにした。災後始めて十一月下旬、英国汽船タイウェーヘン号をホテルに代用するというのでこれを許し、横浜港第十三号岸壁に繋留した。早くも帰港して復興事業に従事する外人のためのホテルになった。船内ホテルは五月七日限を以て停止された。八月三十日停止されたホテルの経営者の仏蘭西人は続いてホテルの建築を始めたが、十一月初旬になって客室二十二室の木造洋館が出来上った。その他新山下町一丁目一番地に新築中のはパシフィリック・ホテルは希臘人マヴロマティ氏が発起して奔走の結果、東京駿河台回春堂病院長の後援に依って新築に掛った。総建坪四百二十八坪、客室は五十、その他食堂喫茶室酒場浴室を設け、殊に食堂は一時に百六十人が食事し得る設計で十三年中に竣工の予定である。目下営業中のものは左の如くである。

扇町二二番地の横浜ホテルは株式会社で、資本金は四拾万円である。客窒は二十二ある木造二階建の洋館で、大正十三年一月開業した。

山手町二番地のブラック・ホテルは震災前信用あるホテルで相当客があった。震災後は三階建の残存家屋とバラックとで営業している。

山下町六六番地のクラップ・ホテルは個人経営で、横浜市および横浜復興会等の援助に依りて建てた木造二階建、旅客は十五人収容することが出来る。

石川仲町一ノ三のテボリ・ホテルはロシヤ人の経営、食堂と酒湯の他に客室が四個あるバラック建である。二月初めから開業し、平常は飲食店を兼ねた安宿である。

山手本町一八四番地のヒルサイド・ホテルは、邦人の経営で貸間を主として、客間は十二室、四月中旬に開業した。

7 外人ホテルの現状と市復興会の提案
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地震のほとぽりもさめて、生糸を始めその他の貿易が復活して来ると共に、一時は立ち退いた外人もボツボツ戻って来るが、これ等外人を泊めるべきホテル業、絶無なので、ホテルに宛てた港内碇泊の汽船は大入であった。震災当時から横浜に止まって、今は山下橋附近のバラックにいるポルトガル人技師のアテネオ・マヴロマッチ氏は、ホテルの建設を計画し県当局の賛成を得て、木村の提供を受くる事になった。近く着工し、遅くもクリスマスまでには開業の運びに至りたいと意気ごんでいるが、当人の談に依ると敷地は新山下町産立地四百坪を充て、夫婦者が不自由なく起居できるな部屋を四十三程設け、その他庭園などにも相当の意匠を凝して慰安娯楽の設備は出来るだけ完備しようと云うのである。経営方法は内外人五六名の合名組織で、建築費用は大体四万円位の予算である。(横浜市復興会誌)

8 市復興会貿易部の提議
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上申書
横浜在住外人は這般の震災に依り、一時他地方に避難したが帰浜して営業に従事するもの多きに拘わらず、この間外人を収容すべきホテル、並びに事務所なきため、困難しつつある状態なり。そしてかかる現象は横浜貿易の恢復に大なる支障を来すを以て、さきに横浜市復興会貿易部会は、外人ホテル急設せられたき事を提案せるも、敷地その他の点に於いて行き悩み、莅苒今なお実現を見ざるは甚だ遺憾なり。しかるに仄聞するとこるによれば、県庁焼跡は県庁に於いて別段使用する計画の無き由なればこれを基礎として修繕をなし、その二階は外人の貸事務所とし、一階・三階は外人ホテルに充てる事とせば、その位置なり、その広さなり誠に誂向きにして、なおなお警察部焼跡の如きは、余興所・娯楽室とするときは、は外人ホテルとして、やや完璧に近きものなるべし。そしてこれが経営は市営とするを最も適当なりと信ずれども、若し市財政その他に於いて不可なりとせば、民間より選定して経営せしむるも可なり。いずれにしてもこの際右取急ぎ実現せしめられんことを希望す。
大正十二年十月二十五日
貿易部会
会長宛
9 金融機関の復旧状況
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震災後復旧した銀行会社は、香港上海銀行・渣打銀行・インターナショナル銀行・露亜銀行・ユニオンランド保険会社、二三保険代理業・ユニオン土地信托会社等であるが、銀行保険業者は一様に、営業の中心を神戸もしくは東京に移して、横浜出張所とし、小規模の営業事務を開始するに過ぎなかった。銀行事務は貸出を手控え、専ら為替振替のみに限られた。かかる現状であるから、円価低落と輸入関税の高率と相俟って輸入を牽制する事は軽微でない。それがために荷為替振替すら一々生糸輸出によって、存在の意義を保ちつつある状態である。一般預金取引の如きも、現在の経営上から望見すると、萎徴として振るわない。今日外国銀行に於ける金融流動の状は震前の三分の一程度で、英米両国系銀行は、他地方に在る本支店の基礎が強大であるから、差し当たり営業継続に支障を感じないとしても、露亜銀行の如きは露国革命以来、多数株主を有する仏蘭西との関係当時、意の如くならなかったのと、最近東支鉄道に於ける反共産勢力が、赤露系の手に移って以来、多大の悪影響を被ったのであるから、現下は非常なる窮境に陥ったのである。
要するに震災後一箇年余を経過したる今日の状態から見れば、一般金融の復興は確立したものでない。追日市区整理の完成と本市の復興とともに相俟って、在留外人の帰復をも見らるることであろう。(外務省調査)

10 復興途上の外人
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方策と援助とにあらゆる力を注いで、外人の復帰を熱望して屈る横浜市民と、市の当局は、市復興会その他各部復興団体と協力して、更に外人の営業用建物の築造に、住宅に、ホテルの新設に、手段到らざるなく、その他外人に対しての便の案出に腐心して居るが、一方外人側の復興遅れたる感がある。それには如何なる事情が絡まって居るかを見ると、日本政府の永代借地買収説、居留外人側に山下町地区改正の意あることと、資金薄き等のために、居留地焼跡整理の進捗しないこと、また防火建築に関する規則は厳であるから、復興に際して多大の負担を感ずること、更にホテル設備のないこと、教育機関の復旧しないこと、飲料水の供給不設備のこと等である。その外居留地の樹木が全部焼けてしまって風光を失ったこと、日用品の高価と、買入の不便とが主なる原因となった。爾来交通機関の恢復につれ、外国商館の開業するものは殖えてきた。

11 山下町の商館
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震災前山下町方面には、店舗と、住所とを兼ねて印度人と支那人の大部分が、居住していた。その他一般欧米人の店舗は山下町に在って、住所は横浜市外に在った。主として山手居留地と、山手の隣接地に住居を構えて居た。山下町は震災直後、生糸第一回取引を開始した。横浜生糸絹物商組合が帰浜したので関係者取引を開始した。十一月末日これ等の輸出業事務所十三戸建設したのを初めとして、遂次各種営業に互って事務所を増加した。十二月中旬頃には三十六戸も出来たのである。復興事業も着々進捗し、関西方面のみならず、遠く海外へ一度避難した外人も帰来した。そして外国商館は益々増加した。

山下町76番ノ1 ケー・ハッサラム
山下町76番ノ2 ジェー・キマトライ
山下町76番ノ3 テー・パールスラム
山下町76番ノ4 テー・ケー・デジュユマル
山下町76番ノ6 キシンチャン・トチララム
山下町76番ノ7 ブレムジンクムララム
山下町76番ノ8 エム・モハンダム
山下町76番ノ9 ゲヒマル・テーライブザース
山下町76番ノ10   エー・チャバルダス
山下町100番 ジー・バルスラム
山下町108番 エム・デ・アールダス
山下町126番 ムキヒラナンダス
山下町127番 ディ・カムダス
山下町201番 ペlソマル・ムルチャンド
山下町32番 ダンナマルチララム
山下町201番 ホーマル・ブラザース

商館は汽船業・汽船代理回漕業・汽船用品売込商・海上保険業等を営んでいる。その他商品貿易関係では生糸・屑糸・絹物業者で、雑貨業者は比較的少数である。しかれども生糸貿易関係は、古い沿革と、深い根底とが有るのであるから、必然将来は繁盛になのであろう。また船舶運輸関係・貨物蔵置倉庫関係業・海上保険業者等も近く開店さるべきである。京浜間交通機関の発達した今日、一般貿易商で、この両地間で開店しようとするものは、寧ろ物貨の集散には利便も多いと云う見地から、東京を選択するの傾向があったが、後日本市に立戻ると云う実際を見るに至った。 (神奈川県外事課調)

関連項目

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