横浜市震災誌 第三冊/第12章

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第12章 花柳界および料理飲食店宿屋その他興行物の状況[編集]

(大正十二年十一月末調)

震火後罹災した芸者屋は勿論、罹災しなかったものも、一時休んでいたが、最近になって残存家屋あるものは、これを利用し、殆んど大部開業した。焼失したもの、バラックで開業しようとする準備中であるから、復旧も近いであろう。

焼失区域内の芸妓の約半数は帰郷し、若しくは他に避難していたが、最近になっては、着々開業の準備が出来て、鶴見の如きは、既に一部就業した。横浜などもその二割は就業して居る。 貸座敷中焼失を免れた神奈川・保土ヶ谷等は既に全部開業した。 貸座敷が焼失した横浜遊廓の娼妓は、少なからざる死者を出したが、現在は約五百名いる。貸座敷が既に着々開業の準備に着手したので、落成開業の準備成ると同時に、漸次帰って来て、就業するであろう。

酌婦その他の雇女は、横浜市に災害当時百名余あったが現在は三十六名である。

市内の料理店・飲食店・待合・料理飲食店等の状況を見ると、大料理店は未だ開業の運びに至らないものが多い。小料理店および飲食店は共に七八分通りバラックまたは残存家屋で開業して居り、就中飲食店は各所相当繁昌して居る。震災前のそれに比し、約七八分通りは営業している。

湯屋は公設浴揚と現在開業して居るものは、磯子・根岸・井土ヶ谷・本牧等の残存地域だけで甚だ少いが、漸次建築中である。

宿屋の復旧は遅いようであるが、神奈川の如きは殆んど震災前に異ならざる数となり、その他復旧が遅いのは、その必要ないためであろう。

興業物の復興に就いて述べれば、先ず活動写真館のオデヲン座は、座主の死亡により、再興は不可能と云われていたが、持主前ニーロップ商会主ワンデルマン氏から、速かに再起せよとの電報が来たので、近く再興される筈との事である。角力常設館主は先年墜落の不詳事を惹起し、これに基因して興業界を引退し、閑地にあって時期の到来を待っていたが、捲土重来の勢を以て再起し、既に建築許可願を提出して、諸事準備中である。敷島館は角の瀬戸物屋の一角まで取広げ、建築に着手した。喜楽座は裏の茶屋きくやまで打通し、近く建築に取掛り、年内十二月廿日には開場すると力んでいる。朝日座は早くも観客席の椅子の注文を出し、これも喜楽座と相前後して開ける気勢を示している。横浜座は長島町の一角に転じて建築せんとしている。以上は何れも半永久的のバラックである。この外に又楽館、其他戸部の活動倶楽部、神奈川の神奈川演芸館、平沼の由村座、松影町の美奈登館等の内、戸部の活動倶楽部は目下建設完成を急ぎつつあるので、市内に於いては開館の魁をなし、神奈川演芸館も年内には開場に至るであろう。由村座・美奈登館・戸部常設館・横浜劇場等は、未知数に属するが、先ず建築の方針ではある。目下の大勢はかくの如き状態であるが、興行界は年内に回復し、来るべき初春を期し、一斉に開揚して、震災前に見るような一大観楽境を現出するに努めている。

(十一月二十七日調)

横浜市震災誌第三冊終

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