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春秋左氏傳/002 桓公/06

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↑前年 桓公六年(紀元前706年 翌年↓巻の二 桓公春秋左氏傳

訓読文

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【經】 六年春正月、(州公魯國ニ)まこときたる。夏四月、公、紀公きこう[#「公」はママ]にせいくわいす。秋八月壬午じんごおほひえつす。蔡人、陳佗ちんたを殺す。九月丁卯ていばう子同しどううまる。冬、紀侯・來朝らいてうす。

【傳】 六年(周ノ桓王十四年)春、(州公)さうより來朝す。書して『寔に來る』と曰ふは、其國にかへらざればなり。
 武王ぶわうずゐをかし、薳章ゐしやう[1]をしてたひらぎを求めしむ。[2]ぐんして以て之をつ。隨人、少師せうし[3]をして成ぎをたゞ[4]さしむ。闘伯比とうはくひ[5]楚子そしに言ひて曰く、『が、こゝろざし漢東かんとうざるは、われ則ちしかしむるなり。(今)我、吾が三軍をりて吾が甲兵かふへいかうむり、を以て之にのぞまば、かれ則ちおそれてあは[6]せ、以て我をはからん。故にかん[7]し難きなり。漢東の國(ノ中)、隨をだいす。隨[8]らば必ず小國をてん。小國はなるるは、楚のなり。少師おごれり。ふ、よわめ以て之を張らしめん。』熊率ゆうりつ且比しよひ[9]曰く、『季梁きりやう[10]り。何のえきかあらん。』闘伯比曰く、『以てのちはかりごとと爲さん。少師、其君(ノ心)を得たればなり[11]』と。王(伯比ノ謀ニ從ヒ)軍をこぼちて少師をる。少師・かへりて、楚の師を追はんと請ふ。隨侯、將に之を許さんとす。季梁、之をとゞめて曰く、『天まさに楚にさづく。楚のよわきは、其れ我をおびくなり。君何ぞきふにする。しん聞く。「せうの能くだいてきするや、小はみちありて大はいんなるときなり」と。所謂いはゆる道とは、たみちうにしてかみしんあるなり。かみ、民をせんと思ふは、忠なり。祝史しゆくしことばを正しくする[12]は、信なり。今、民ゑて、君、よくたくましくし、祝史、矯舉けうきよ[13]して以てまつる。臣、其のなることを知らざるなり。』公[14]、曰く、『吾が牲牷せいせん[15]肥腯ひとつ[16]に、粢盛しせい[17]豐備ほうびなり。何ぞ則ち信ならざらん』こたへて曰く、『夫れ民は、神のしゆなり。こゝを以て聖王せいわうは先づ民をして、しかのちちからを神にいたす。故に、せいさゝげて以て告げて、博碩はくせき[18]肥腯と曰ふは、民力みんりよくあまねそんするを謂ふなり、其のちく碩大せきだい蕃滋はんじなるを謂ふなり、其の瘯蠡ぞくれい[19]まざるを謂ふなり、その備腯びとつ[20]こと/”\るを謂ふなり。せい[21]を奉げ以て告げて、絜けつし豐盛ほうせい[22]と曰ふは、其の三[23]がいあらずして、民し年ゆたかなるを謂ふなり。酒醴しゆれいを奉げ以て告げて、嘉栗かりつ[24]旨酒ししゆと曰ふは、其上下しようかみな嘉德かとく[25]ありて、違心ゐしん無きを謂ふなり、所謂馨香けいこう[26]ありて、讒慝ざんとく無きなり。故に其三時(ノ事)をつとんめ、其五けう[27]をさめ、其九ぞく[28]したしみ、以て其禋祀いんし[29]を致す。是においてか民和して、神、之にさいはひくだす。故に動けば則ち成ることあり。今、民各〻おの/\心ありて、鬼神きしん、主にとぼ[30]。君、ひとゆたかにすといへども、其れ何のさいはひかこれ有らん。君・しばらまつりごとを脩めて、兄弟けいていの國をしたしまば、こひねがはくはなんよりまぬかれん』と。隨侯懼れて政を脩む。楚あへたず。(→桓公八年
 夏、成に會するは、紀來たりて齊のなん[31]諮謀しぼうするなり。
 北戎ほくじう、齊を伐つ。齊侯、を鄭にはしむ。鄭の大子たいしこつ、師をひきゐて齊を救ふ。六月、大に戎の師をやぶり、其二すゐ大良たいりやう少良せうりやう[32]甲首かふしゆ[33]三百をて、以て齊にけんず。是に於て諸侯の大夫、齊をまもる。齊人、之におくる。魯をして其はんさしむ。鄭をのちにす[34]鄭忽ていこつ、其のこうあるを以てやいかる。故にらうの師[35]あり。(→桓公十年)公のいまだ齊にこんせざりしとき、齊侯、文姜ぶんきやうを以て鄭の大子忽にめあはせんと欲せしに、大子忽・せり。ひと、其故を問ふ。大子曰く、『人各〻おの/\ぐう[36]あり。齊は大なり、吾が耦に非ざるなり、に云ふ「自ら多福たふくを求む[37]」と。我にるのみ。大國何をかん』と。君子曰く、『善く自らはかりごとせり』と。其の戎の師を敗るに及びてや、齊侯また之に妻はせんと請ふ。かたく辭す。人、其故を問ふ。大子曰く、『齊にこと無かりしとき、吾猶ほ敢てせざりき。今、君命を以て齊のきふはしり、しかうしてしつ[38]を受け以て歸らば、れ師を以て昏するなり。民其れ我をなにとかはん』と。遂にこれを鄭伯に辭せり。
 秋、大に閲するは.車馬しやばしらぶるなり。
 九月丁卯、子同[39]生る。大子生るるの禮を以て之をぐ。せつするに大牢たいらうを以てし[40]ぼくして之をはしめ、士のつま之をやしなひ、公と文姜ぶんきやう宗婦そうふ[41]と之になづく。公、名を申繻しんじゆ[42]に問ふ。對へて曰く、『に五あり、しんあり、あり、しやうあり、あり、るゐあり。名を以て生るゝを信と[43]、德を以て命くるを義と爲し[44]、類を以て命くるを象と爲し[45]ものに取るを假と爲し[46]ちゝに取るを類と爲す[47]。國を以て(名ト)せず、くわんを以て(名ト)せず、山川さんせんを以て(名ト)せず、隱疾いんしつ[48]を以て(名ト)せず、畜牲ちくせいを以て(名ト)せず、器幣きへいを以て(名ト)せず、周人はいみなを以て神につかへ、名はをは[49]ば將に之をまんとす。故に國を以てすれば則ち名をはいし、官を以てすれば則ちしよくを廢し、山川を以てすれば則ちしゆを廢し、畜牲を以てすれば則ちを廢し、器幣を以てすれば則ち禮を廢す。晉は僖侯きこうを以て司徒しと[50]を廢し(テ中軍トナシ)、宋は武公ぶこうを以て司空しくう[51]を廢し(テ司城トナシ)(魯ノ)先君獻武けんぶ[52]は二さん[53]を廢せり。是を以て大物たいぶつ[54]は以て命くからず』と。公曰く、『是れ其の生るゝや、吾ともの[55]おなじくせり』と。之に命けてどうふ。
 冬、紀侯來朝せしは、(桓公ニ因リテ)王命わうめいひ以てたひらぎを齊に求めんとするなり。公、『あたはず』とげき[56]

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  1. 楚の大夫。
  2. 隨の地。
  3. 少師は隨の官名。
  4. 董は督察する也。
  5. 楚の大夫、令尹子文の父。
  6. 協は協力一致する也。
  7. 間は離間する也。
  8. 張は自ら侈る也。
  9. 楚の大夫。
  10. 隨の賢臣。
  11. 少師、隋侯に信用せらるる故、今未だ吾が謀計に墮ちずとも、後必ず吾が術中に墮ちん。
  12. 辭を正しくするは、虚僞にて君の美を稱せざる也。
  13. 矯舉は詐りて功德を稱する也。
  14. 公は隨公。
  15. 牲は牛、羊、豕なり。牷は純白完全なり。
  16. 腯も肥ゆるなり。
  17. 黍稷の供物。
  18. 博は廣き也、碩は大なり。
  19. 瘯蠡は皮膚病。
  20. 豐備と肥腯。
  21. 盛は供物。
  22. 穀としては潔清、器に在りては豐滿なり。
  23. 三時は春夏秋。
  24. 嘉は善也、栗は冽也、酒の清冽なるをいふ。
  25. 嘉德は善德。
  26. 馨は香の遠く聞ゆる也。
  27. 父義、母慈、兄友、弟恭、子孝。
  28. 九族は。外祖父、外祖母、從母子、妻父、妻母、姑の子、姉妹の子、女の子、己の同族をいふ。
  29. 禋祀は、まつり。
  30. 民心一致せずして、和同して以て神の爲めに穡を力むる者無く、神の主と爲る者鮮し。
  31. 齊の難は、齊、紀を滅さんと欲するを云ふ。
  32. 大良少良は官名なり、或は云はく、人名なりと。
  33. 甲を被る者の首。
  34. 餼即ち芻米を饋るに、齊人、自ら其次第を立つるに便ならざるを以て、魯人をしてその次第を立てしめしが、魯人、周の爵に從ひて之を配付せしなり。
  35. 郎の師は、公の十年にあり。
  36. 耦は相應の相手。
  37. 大雅文王篇。福を求むるは己に由る、人に由るに非ず。
  38. 室は妻。
  39. 桓公の子、莊公。
  40. 大牢は牛羊豕。大牢の禮を以て太子に接見する也。
  41. 宗婦は同姓の大夫の妻。
  42. 魯の大夫。
  43. 生時に徴あり、以て名となす者を云ふ。唐叔虞、魯の公子友の如き、是れなり。
  44. 德義の文字を取りて以て之が名となす也。文王の名は昌、武王の名は發なるが如し。
  45. 身體中、或る物と類する所あるを以て其物と同一の名をつくる也。孔子の首、尼丘に似るが故に仲尼と名づくるが如きをいふ。
  46. 伯魚生るゝ時、人、魚を饋る故に鯉と名づくるが若し。
  47. 父と日を同じくする等の理由によりて名づくるを類といふ。
  48. 隱も亦疾なり。
  49. 終るは死する也。
  50. 僖侯の名は司徒。
  51. 武公の名は司空。
  52. 獻公の名は具、武公の名は敖。
  53. 二山は具山、敖山。
  54. 國家の大物とは、官職、山川、畜牲、器幣の如き、皆是なり。
  55. 物は干支なり、即ち日なり。
  56. 時に齊と鄭と方に睦じくして、齊は必ず紀を滅さんと欲す、而して鄭忽は、饋を班ちて鄭を後にせられしを以て、亦魯を怨めり。若し紀の爲めに成ぎを王に請はば、恐らくは怨を齊に取ること益々深からん。是れ紀に代りて禍を受くるなり。故に能はずと告ぐるなり。