↑前年 桓公五年(紀元前707年) 翌年↓ < 巻の二 桓公 < 春秋左氏傳
【經】 春、正月甲戌、己丑、陳侯鮑・卒す。夏、齊侯・鄭伯、紀に如く。天王、仍叔の子をして來聘せしむ。陳の桓公を葬る。祝丘に城づく。秋、蔡人・衞人・陳人、王に從ひて鄭を伐つ。大雩す。螽あり。冬、州公、曹に如く。
【傳】 五年(周ノ桓王十三年)春正月甲戌、己丑、陳侯鮑卒すとは、再び赴げしなり[1]。是に於て陳・亂る。文公の子佗、大子免を殺して之に代る。公[2]疾病にして亂作り、國人分散せり。故に再び赴げたるなり。
夏、齊侯・鄭伯、紀に朝し、以て之を襲はんと欲す。紀人、之を知る。
王[3]、鄭伯[4]の政を奪ふ[5]。鄭伯、朝せず。秋、王、諸侯を以て鄭を伐つ。鄭伯、之を禦ぐ。王、中軍と爲り、虢公林父[6]、右軍に將たり。蔡人・衞人、焉に屬す。周公黑肩[7]、左軍に將たり。陳人、焉に屬す。鄭の子元[8]、左拒を爲し以て蔡人・衞人に當り、右拒[9]を爲し以て陳人に當たんと請ひて曰く、『陳亂れ、民、鬭心あること莫し。若し先づ之を犯せば、必ず奔らん。王の卒、之を顧みば、必ず亂れ、蔡・衞枝へず[10]、固より將に先づ奔らんとす。既にして王の卒に萃らば、以て事を集[11]す可し』と。之に從ふ。曼伯[12]、右拒と爲り、祭仲足、左拒と爲り。原繁・高渠彌、中軍を以て公を奉じ、魚麗[13]の陳を爲し、偏を先にし伍を後にし、伍承けて彌縫す[14]。繻葛[15]に戰はんとす。二拒に命じて曰く、『旝[16]動いて鼓て』と。蔡・衞・陳・皆奔る。王の卒亂る。鄭の師合して以て之を攻む。王の卒大に敗れぬ。祝聃、王を射て肩に中つ。王も亦能く軍す[17]。祝聃、之を從はんと請ふ。公曰く、『君子は多く人を上ぐを欲せず、況や敢て天子を陵がんや。苟も自ら救はんとてなり。社稷隕ること無くんば多なり』と。夜、鄭伯、祭足をして王を勞り、且つ左右を問はしむ[18]。
仍叔の子とは弱ければなり。
秋、大雩[19]するは、時ならざるを書するなり。凡そ、祀は啓蟄[20]にして郊[21]し、龍見えて雩し[22]、(陰氣)始めて殺して嘗し[23]、閉蟄[24]して烝[25]す。(其時ヲ)過ぐれば則ち書す。
冬、淳于公[26]、曹に如く、其國の危きを度りて、遂に復らず。(→桓公六年)
- ↑ 甲戌は前年十二月二十一日、己丑は本年正月六日に當る。陳亂れて再び赴げし故に斯く書せり。
- ↑ 陳の桓公。
- ↑ 周の桓王。
- ↑ 鄭伯は鄭の莊公。
- ↑ 王政に知らしめず。
- ↑ 王の卿士。
- ↑ 周の桓公。
- ↑ 子元は鄭の公子。
- ↑ 左拒は左翼、右拒は右翼。
- ↑ 支持すること能はず。
- ↑ 集は成す也。
- ↑ 檀伯。
- ↑ 魚麗は陣の名。
- ↑ 車戰に二十五乘を偏と爲し、歩卒五人を伍と爲す、車を前に居き、伍を以て之に次ぎ、偏の隙を承けしむるなり。
- ↑ 鄭の地。
- ↑ 旝は大將の執りて號令する旗。
- ↑ 軍敗れ身傷きたれども能く兵を整へて奔らず。
- ↑ 王の安否を問ふ也、斥して言はずして、左右と言ふ也。
- ↑ 大雩は旱に當りて雨を祈る祭。
- ↑ 啓蟄は、夏正の寅の月。
- ↑ 郊は天を南郊に祭る也。
- ↑ 龍見ゆるは建巳の月。角亢氐房心尾の六星を龍といふ。角亢二星始めて東方に出づれば雩祭す。雩は雨を祈る祭なれども、これは常祀にして、大雩と同じからず。
- ↑ 始めて殺するは肅殺の陰氣始て生ずる也、建申の月なり。嘗は新穀を廟に薦むる祭。
- ↑ 閉蟄は建亥の月。
- ↑ 烝は冬の祭。
- ↑ 淳于は州といふ國の都、淳于公は州公なり。