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春秋左氏傳/002 桓公/05

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↑前年 桓公五年(紀元前707年 翌年↓巻の二 桓公春秋左氏傳

訓読文

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【經】 春、正月甲戌かうじゆつ己丑きちう、陳侯ほうしゆつす。夏、齊侯・鄭伯、く。天王てんわう仍叔じようしゆくの子をして來聘らいへいせしむ。陳の桓公くわんこうはうむる。祝丘しゆくきうづく。秋、蔡人・衞人・陳人、王にしたがひて鄭をつ。大雩たいうす。しうあり。冬、州公しうこうさうに如く。

【傳】 五年(周ノ桓王十三年)春正月甲戌、己丑、陳侯鮑卒すとは、ふたゝげしなり[1]こゝおいて陳・みだる。文公ぶんこうの子大子たいしぶんを殺して之にかはる。公[2]やまひへいにしてらんおこり、國人こくじん分散ぶんさんせり。故に再び赴げたるなり。
 夏、齊侯・鄭伯、紀にてうし、以て之をおそはんと欲す。紀人、之を知る。
 [3]、鄭伯[4]まつりごとうば[5]。鄭伯、朝せず。秋、王、諸侯を以て鄭を伐つ。鄭伯、之をふせぐ。王、中軍ちうぐんり、虢公くわくこう林父りんぽ[6]右軍いうぐんしやうたり。蔡人・衞人、これぞくす。周公しうこうこくけん[7]左軍さぐんに將たり。陳人、焉に屬す。鄭の子元しげん[8]左拒さきよを爲し以て蔡人・衞人にあたり、右拒いうきよ[9]を爲し以て陳人に當たんとひて曰く、『陳みだれ、たみ鬭心とうしんあることし。づ之ををかせば、必ずはしらん。王のそつ、之をかへりみば、必ず亂れ、蔡・衞さゝへず[10]もとよりまさに先づ奔らんとす。すでにして王の卒にあつまらば、以てこと[11]し』と。之に從ふ。曼伯まんぱく[12]、右拒と爲り、祭仲足さいちうそく、左拒と爲り。原繁げんはん高渠彌かうきよび、中軍を以て公をほうじ、魚麗ぎより[13]ぢんし、へんさきにしのちにし、伍けて彌縫びほう[14]繻葛じゆかつ[15]たゝかはんとす。二きよに命じて曰く、『くわい[16]うごいてつゞみうて』と。蔡・衞・陳・みな奔る。王のそつ亂る。鄭のがつして以て之をむ。王の卒おほいやぶれぬ。祝聃しゆくたん、王をかたつ。王もまた能くいくさ[17]。祝聃、之をはんと請ふ。公曰く、『君子は多く人をしのぐを欲せず、いはんや敢て天子をしのがんや。いやしくみづかすくはんとてなり。社稷しやしよくおつること無くんばなり』と。夜、鄭伯、祭足さいそくをして王をいたはり、左右さいうはしむ[18]
 仍叔の子とはわかければなり。
 秋、大雩[19]するは、ときならざるを書するなり。およそ、啓蟄けいちつ[20]にしてかう[21]し、りようえて雩し[22]、(陰氣)始めてさいしてしやう[23]閉蟄へいちつ[24]してじよう[25]す。(其時ヲ)ぐれば則ち書す。
 冬、淳于公じゆんうこう[26]、曹に如く、其國のあやふきをはかりて、つひかへらず。(→桓公六年

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  1. 甲戌は前年十二月二十一日、己丑は本年正月六日に當る。陳亂れて再び赴げし故に斯く書せり。
  2. 陳の桓公。
  3. 周の桓王。
  4. 鄭伯は鄭の莊公。
  5. 王政に知らしめず。
  6. 王の卿士。
  7. 周の桓公。
  8. 子元は鄭の公子。
  9. 左拒は左翼、右拒は右翼。
  10. 支持すること能はず。
  11. 集は成す也。
  12. 檀伯。
  13. 魚麗は陣の名。
  14. 車戰に二十五乘を偏と爲し、歩卒五人を伍と爲す、車を前に居き、伍を以て之に次ぎ、偏の隙を承けしむるなり。
  15. 鄭の地。
  16. 旝は大將の執りて號令する旗。
  17. 軍敗れ身傷きたれども能く兵を整へて奔らず。
  18. 王の安否を問ふ也、斥して言はずして、左右と言ふ也。
  19. 大雩は旱に當りて雨を祈る祭。
  20. 啓蟄は、夏正の寅の月。
  21. 郊は天を南郊に祭る也。
  22. 龍見ゆるは建巳の月。角亢氐房心尾の六星を龍といふ。角亢二星始めて東方に出づれば雩祭す。雩は雨を祈る祭なれども、これは常祀にして、大雩と同じからず。
  23. 始めて殺するは肅殺の陰氣始て生ずる也、建申の月なり。嘗は新穀を廟に薦むる祭。
  24. 閉蟄は建亥の月。
  25. 烝は冬の祭。
  26. 淳于は州といふ國の都、淳于公は州公なり。