埃及マカリイ全書/第四十七講話

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第四十七講話[編集]

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一、 モイセイかほにあらはれしこうえいしんじつなるこうえいしょうなりき。かしこにイウデヤじんモイセイかほあふるあたはざりしごとく、いまも「ハリステアニン」がこうえいたましひにうくるときは、あんこくこのこうようへずして、くらまされたるものはとうそうせん。かつイウデヤじんかつれいによりてぶんかみたみたるをしめせり。しかれどもここに神に選ばれたる民はティト二の十四そのこころないかつれいひょうをうく、なんとなればてんつるぎあまりさいかつす、すなはちつみけつなるあまりさいかつすればなり。かれにはにくしんせいにするのせんれいありたれどわれにはせいしんとをもつてするのせんれいあり。けだしイオアンはこれをつたへてへり、『かれせいしんとをもつなんぢせんさづけん』〔マトフェイ三の十一〕。

二、 かしこにはないまくがいまくとありて『だいいちまくにはさいつねりてほうおこなひ、だいまくにはひとさいちょうのみいちねんいちたづさへずんばあらずしてり、これもつせいしんさきまくなほそんするときは、せいしょみちいまだひらかれざるをしめす』〔エウレイ九の六、八〕。しかれどもここにるをたまはるところものつくところにあらざるまくる、すなはちハリストスわれのためにせんとしてりしところ』〔エウレイ六の二十〕のまくるなり。りっぽうおいてはさいふたつはとるをめいぜられ、いつほふりてせいしゃをばそのをそそぎて、ゆうばしめたり。しかれどもこのこうしんじつしょうかげとなりき。けだしハリストスほふられてわれにそそぎたまひしよくしょうぜしむればなり、なんとなればしんせいたいゆうようするせいしんよくわれにあたへたまへばなり。

三、 イウデヤじんにはせきばんにしるしたるりっぽうをあたへられたれども、われにはこころにくばんにしるさるるしんてきりっぽうをあたへられたり。けだしいふあり、『りっぽうかれこころき、そのおもひにしるさん』〔イエレミヤ三十一の三十三〕。さればかれはすべてはいせらるべきいちてきものにてありたれど、いまじつにすべてはないひとおこなはるるなり、なんとなればきょやくないにあればなり、いちげんにてこれをいへば『しょかれひて象となれりこれろくされしはわれいましめとならんためなり』〔コリンフ前十の十一〕。かみアウラアムらいげんしていへり、『なんぢそんにんくにりょじんとなりてそのひとびとつかへん、かれひゃくねんあひだこれなやまさん』〔創世記十五の十三〕。これまたかげしょうたりき。たみうつされて埃及じんどしせられ、ねんかはらとをもつくるしめられたり。ファラオンイズライリじんさくかんしゅしゃかんとをして、そのことかならさざるをざらしめたり。しかれどもイズライリしょえきうちにありて、かみまへたんそくするや、かみモイセイによりてかれあはれみたまへり、さればおほくのばつもつエギペトじんおどろかし、もはやげんとうぎてはるのあらはるるや、はなつきおいかれ埃及よりひきいだたまへり。

四、 かみモイセイきずなきこひつじり、これをほふりて、そのしきいもんとにるをめいじたまへり、埃及ちょうほろぼもののこれにれざらんためなり、けだしつかはされたるてんひょうはるかて、みづからこれをけ、ひょうのあらざるいへりて、あらゆるちょうころしたればなり。しかのみならずいづれのいへよりもはっこうするもののぞかんことをめいじ、ほふられたるこひつじこうぱんにがくさあはせくらふべきをかいめいたまへり。而してイズライリじんはこれをくらふにこしそくたいし、あしくつはき、つえゆうせざるべからざりき。かくのごとくしてしゅに「パスハ」をばんさんおいまったつつしみてしょくし、こひつじほねるべからざるをめいぜられたりき。

五、 またかれにはおのおのそのとなり埃及じんよりきんぎんぶつるをめいじて、あまきんぎんともかれひきいだせり。しかしてかれ埃及じんそのちょうほうむるとき、埃及よりでたり。いっぽうにはえきよりすくはれたるためよろこびありて、またいっぽうにはうしなひたるのこくきゅうたんそくとありき。ゆえにモイセイへり、これかみわれをすくはんことをやくたまひしなりと。しかれどものすべてはまたハリストスきたるによりてすくはれたるたましひおうなりき。けだしイズライリといふことばやくすればかみちえといふにして、かれあんこくえき埃及しょしんとよりまぬかれてゆうたればなり。

六、 けだしひとはいぎゃくによりおそるべきたましひもつして、のろひのろひく、ふあり、『なんぢのためにいばらあざみとをしょうずべし』〔創世記三の十八〕と、またふあり、たがやすべし、なんぢためそのしょうぜざらんと、ゆえにそのこころいばらあざみしょうじてせいちょうせり。てきけいもつかれさかえをうばひ、はぢもつかれにかうむらしめたり。かれひかりはうばはれてかれやみたり。かれたましひころし、かれいしさんらんめつれつし、かれたかきよりおとして、ひとすなはちイズライリまことファラオンれいとなれり、ゆえにファラオンひとためかんしゅしゃかんすなはちあくなるしょしんき、ひとをしてゆうふじゆうとにかかはらず、あくなるこうしひさしめ、どろにてかはらつくらしむるなり。ひとそうてんじょうたいよりとほざけたるものひとかんあくなる、ぶっしつてきなるでいてきなるこうひきおとし、いたづらなることばおもひおもんばかりとにひきおとせり、なんとなればたましひたかきよりらくして、ひとぞうするのくにざんにんなるきみとをむかへたれば、かれたましひをしてしひざいあくまちきづかしめんとす。

七、 しかれどももしたましひがいたんしてかみよばふならば、埃及えきよりすくはんとするれいかいモイセイかれくだたまはん。さりながらんでたんそくすべし、さらばそのときすくひはじめん。さればたましひあらたなるはなつきりょうしゅんこうこころうつくしきはなさんするわかはっせいするときあたりて、くらまされたるむちおほいなるもうまいげんとうがすでにぎたるのちすくひをうけん、すなはちづべきこうつみけっかぎたるのちすくひけん。しかのみならずそのときかみかくじんいへよりいっさいきゅうこうのぞき、はいせるふるひとおこなひあくねんけつなるかんがへとをできるだけつるをめいたまはん。

八、 こひつじほふりてまつりけんじ、そのもつしきいらんことかんようなり、なんとなればハリストスしんじつりょうぜんなるきづなきこひつじほふられて、そのもつこころしきいらるるによる、これじうじかうへにそそがれたるハリストスたましひためいのちとなり、すくひとなりて、埃及じんすなはちまきためにはかなしみとなりまたとなるをいたさんためなり。けだしきずなきこひつじかれのためにじつかなしみなれども、たましひのためにはよろこびなり、またたのしみなり、つぎにこれをりたるのちかみめいじてこしおびし、くつうがち、つえちて、こひつじこうぱんとをにがくさともばんさんしょくせしむ。けだしもしたましひひゃっぽうじんりょくしてできるだけぜんこうもつそなふるあらずんば、こひつじくらふをゆるされざるなり。しかれどもこひつじうまく、こうぱんあぢはひしといへども、くさにがくしてしぶし、なんとなればたましひそのところつみゆえかなしみ、おほくのゆうしゅうつうとをもつこひつじぜんりょうなるこうぱんとをあぢはふによる。

九、 またばんさんこひつじくらふをめいぜられて、ばんさんときひかりやみとのちゅうかんをなす。かくのごとくたましひすくひさきにはひかりやみとのちゅうかんにあり、なんとなればとうかみちからかれともにありて、あんこくをしてたましひりてかれむをゆるさざればなり。さればモイセイがこれかみやくそくなりといひしごとく、ハリストスかいどうおいまきをあたへられしとき、これをづけて、主の禧年といひ、すくひといひしことはろくするところごとし〔ルカ四の十八〕。かしこにおいほうふくここおいてはすくひなることとうぜんなり、なんとなればかしこにおいてはすべてはしんじつしょうかげとにして、おうみつしょうもつたましひすくひあらかじろくされたればなり、けだしたましひあんちゅうゆうせられ、ばくしてごくあなかくまはれ、どうもんもつとざされたれば、ハリストスによりてすくはるるなくんばまぬかるあたはざりしなり。

十、 ゆえに埃及ちょうころしてづるときおいて、たましひ埃及より、また埃及えきよりひきいださん、なんとなればしんファラオンちからあるぶんすでおとろへたればなり、しゅうりょすくはるるをかなしみたる埃及じんないたんそくせん。かみ埃及じんよりきんぎんぶつり、これをたづさへて埃及よりいづるをめいたまふ、なんとなればたましひあんこくよりきたりつつきんぎんぶつすなはちしちばいもつかれたるじこぜんりょうなるねんみづからたづさふべくして、かみはこれをそのほうもちふるをゆるして、これにやすんじたまふによる、しかれどもきにたましひとなりたりしまきかれねんさんらんし、かれせんりょうし、かれついやしたりき。あんこくよりまぬかれてゆうたるたましひさいはひなり。されどざんにんこくはくなるかんとくしゃよりすくふをくするものむかつてがいたんせずごうきゅうせざるたましひわざはひなるかな

十一、 イズライリしょは「パスハ」をおこなひて、みちしゅっぱつしたりしが、たましひせいしんいのちをうけ、こひつじくらひ、そのりて、しんじつぱんすなはちせいかつことばもつてやしなはれて、おほいはったつするなり。ひのはしらくものはしらは イズライリじんえいして、かれらにさきだちしが、せいしんたましひふちし、これをかくせしめて「ハリステアニン」をかたむるなり。ファラオン埃及じんたみとうそうし、イズライリじんこうさくをうしなひしをぶんして、ちょうころしたるのちあへかれついせきせり。ファラオンただちちにそのくるまし、しゅうみんともかれてんめつせんと、いそぎてかれちゅうかんにすでにとっしんせんとするや、くもありそのちゅうかんにかかりて、いつさへぎくらまして、てらかつまもりたりき。さてれきはんぷくしてせつながくならんことをおそる、ゆえにこれをれいかいことおうようすることはすべてみづからいだすべし。

十二、 たましひ埃及よりはしるや、かみちからきたたすけて、これをしんにみちびかん。れいかいファラオンつみなるあんこくおうたましひそむきてそのくにのがれ、そのひさしくせんりょうしたるねんすなはちそのしょゆうぶつうばるをていす、しかれどもぎゃくしゃたましひふたたかへきたらんをそうかつぼうせん。されどちょうころし、ねんうばりたるにより、たましひおのれかんかつまったのがるをすいし、もしたましひのがるるならばおのれむねこうとをおこなふものまったいちにんもあらざるべきをおそれ、いよいよごうまんにしてとっしんせん、ゆえかれゆうしゅうゆうわくえざるたたかひとをもつたましひきんちくせん、ここおいてかゆうわくせらるべく、ここおいてかこころみらるべく、ここおいてかたましひ埃及よりひきいだせしものたいするたましひあいけんぜんけいはくとならん、なんとなればかれしゅじゅこころみいざなひとにわたさるればなり。

十三、 たましひてきちからおそふておのれころさんとすれども、そのちからゆうするにはあらざるをかんす、なんとなればたましひ埃及しょしんとのあひだしゅたまへばなり。またそのおのれもくぜんゆうしゅうかんなんしつぼううみのあるをかんす。しかれどもすでそなへをなせるてきて、しりへしりぞかんこともまへすすまんこともあたはざるべし、なんとなればいくほうを、にょうするしゅじゅおそろしきかんなんとはそのもくぜんせしむればなり。ゆえたましひほうかこめるあくしゃほうゆえじこらいせざるべし。さればかみたましひおそれてらくたんするとてきかれまんとするとをみとむるや、そのときたましひくだりて、はたしてしんこうかたつか、あいゆうするかをこころみて、かれにしょうなるたすけをあたへん。けだしいのちるのみちはかくのごとく、ゆうしゅうこんぱくおほくのれんいとさんたんたるゆうわくとをもつてすることは、かみさだむるところなり。ゆえにもしたましひなほこのおいてももくぜんゆうし、かぎりなきゆうしゅううちこのりょこうすならば、はやそのときつよと、たかひぢと、せいしんしょうめいとをもつあんこくちからやぶるべく、おそるべきしょつうすべく、あんこくうみとすべてやきつくさざるところなきうみとをわたらん。

十四、 しんじつひとおこなはるるしんれいじょうおうはかくのごときものにして、ひといのちやくそくらんをじんりょくし、くによりすくはれかみよりへいをうけて、せいしんあづかるものとならん。そののちたましひてきよりのがれ、かみちからもつさんたんたるうみわたり、これよりさきつかへたるしょてきそのもくぜんおいほろぶるをて、もいはれざるよろこびをもつてよろこばん、しかしてかみしょうよういぶするところとなりて、しゅおいあんそくせん。そのときたましひおのれにうけたるしんかっこもつて、すなはちたいもつて、せんきんもつて、すなはちたましひもつて、そのゆうげんげんにより、すなはちいとせいなるねんにより、かみおんちょうめいきょうもつあらたなるうたかみうたひ、せいかつほどこハリストスさんをささげん。けだしきゅうてきかんとほこえはつするごとく、せいしんせいにしてしんつうたるひときよこころおいさんしょうしょうし、かみとうしていはん、いはく『こうえいたましひファラオンえきよりすくたまひしものし、かれをなほこのにあるあひだえいせいくににみちびきたまものす』と。

十五、 げんなるどうぶつりっぽうによりまつりささげられしかど、もしかれほふられざるときは、そのけんのうくうけられざりき。いまももしつみほふられずんば、けんのうかみによろこばれずして、しんじつなるけんのうとならざるなり。たみメルラ[1]きたりしや、かしこにありしいづみにがくして、いんてきせざるみづしょうぜり。ゆえにかみまどへるモイセイめいじて、にがみづとうぜしめたるに、そのとうずるや、みづただちあまくなり、くみをうしなひ、かみたみためいんてきするかんなるものとなりき。へびさけみ、へびにがせいをうけてつみあるものとなりたるたましひもかくのごとにがし。ゆえにかみはそのにがこころいづみいのちみづあまふ。さればたましひそのくみだつし、ハリストスしんもつようかいせられてたのしまん、かくのごとくしてしゅさいつかふるためおほいひつようなるものとなりて、ようせられん、なんとなればにくしんこうむりたるしんとなるによる。こうえいわれにがきをあまきにへんじ、しんぜんりょうへんたまひしものす。いのちれられざるものわざはひなるかなかれなんぜんりょうなるへんもおのれにくるあたはざるべし。

十六、 モイセイつえようにあらはれたり、てきのためにはころへびごとくあらはれたれど、イズライリじんためにはもたるべきつえとしてあらはれたり。かくのごとしんじつなるじうじかすなはちハリストスしょてきためまたきょうあくしょしんためなれども、われたましひのためにはつえたり、らいすべきちゅうせきたり、またいのちたり、しかしてたましひはこれにやすんずるなり。これしんじつなるじったいしょうかげとはいにしへのすべてのものにこれありき。けだしきゅうやくほうしんれいいまほうしんれいかげしょうとなればなり。さればかつれいまくも、やくひつも、「マンナ」も、しんも、こうも、せんじょうも、すべてイズライリじんモイセイりっぽうしょげんしゃとにありしところのものはみなたましひためにして、かみぞうによりつくられしも、えきやくにおちいり、さんたんたるあんこくくにとうぜられたるもののためなりき。

十七、 かみたましひしんさんをほつし、おうしんたらしめんがためみづからかれをたくし、かれをかいよりきよめ、そのめいじょくとをあらそそぎてせいめいなるものとなし、よりせいし、せついやし、そのてきめつぜつして、ぼくおこなたまふ。かれじゅぞうぶつたるもおうしんたるにそなへらるるなり。かみかれをしてじこよはひせいちょうせしめ、これをこうかつにし、これをこうしょうにして、げんりょうせいちょうたつせしめ、てんにしてかみおうずるしんとなるにいたらしめざらんあひだは、そのじこちからもつぜんぜんへんしてかれをうけんとす。かれかみたいするあいかんぜんなるりょうをうくるにいたらざらんあひだは、みづからかれみて、みづからかれせいちょうせしむ、なんとなればかれみづからかんぜんなるしんろうとして、かんぜんなるしんをもこんいんせいなるおうみつなる、およせいけつなるしんにうけんとすればなり。そのときかれしんろうともかぎりなきおうたらん。アミン。

脚注 [編集]

  1. 投稿者註:「メルラ」は口語訳旧約聖書では「メラ」。