埃及マカリイ全書/第一講話

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第一講話[編集]

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一、 げんしゃイエゼキリしんせいなるけんげんこうえいなるげんしょうこれつたへ、これをしるしてがたおうたせるげんしょうとなせり。かれでんかんおいヘルビムくるまよつれいぶつたり。そのれいぶつおのおのめんあり、いつめんにしてつぎようめんまたとくめんじんめんとなりき、しかしてめんにはおのおのつばさあり、ゆえぜんめんいづれにして、こうめんいづれなるをそのいつおいてもべつするをざりき。彼等の肩はあまねく目なりゆびをみちてて、たされざるところあらざりき、めんおのおのさんりんあり、りんちゅうりんあるごとくして、りんれいありき。またげんしゃひとかたちそのきゃくていせいぎょくごとくなるをたり。これくるますなはヘルビムれいぶつ〕はこれにするしゅさいみづかいただけり。しゅさいしんこうせんとほつするところいづこにもれいぶつそのめんけたり。またげんしゃヘルビムした人の手ごときものありて、かれささかつささぐるをたりき〔イエゼキリ一の五至二十八〕。

二、 げんしゃおほいおどろきてたるところのものはしんじつにしてうたがひなし、しかれどもこのげんしょうはこれとことなるものをしめし、おうみょうしんせいにしてしょぞくためじつしんなりしも、こうらいハリストスきたるによりてげんしゅつしたるおうぜんぴょうせるなり。げんしゃたましひしゅをうけてしゅこうえいほうとせらるるおうちょくかんせり。けだしせいしんよびしておのれざいとなし、およきょじゅうとなし、これにそのひかりくるをたまふてつくされざるこうえいもつてらされたるたましひまったひかりとなり、まったかほとなり、まったとならん、さればかれにはれいかいひかりもつたされざるいつぶんもあらず、すなはかれにはなんくらがりもあらずして、まったのこところなくひかりとせられ、しんとせられ、ことごとたされてなんこうほうあるひはいめんもあらずして、いづこにもかほもつてあらはるるなり、なんとなればひかりすなはハリストスこうえいはれざるは、かれくだりて、かれにたまふによる。たとへばかれたいようごとくなるべし、たいよういづこにもじこどういつにして、いつこうも、あるひかけたるぶんもなく、いちようぶんよりりて、のこらずみなひかりもつかがやきて、まったひかりならん、あるひはまたごとすなはちひかりごとくなるべし、かれまったじこどういつにして、ぜんだいしょうをおのれにゆうせざらん。かくのごとハリストスかほよりはつするこうえいはれざるもつまったてらされ、せいしんまったしんするをして、かみすまひとなり、ほうとなるをたまはりしたましひまったとなり、まったひかりとなり、まったかほとなり、まったさかえとなり、まったしんとなること、ハリストスじゅんせいせいしてれいかいもつかざりしごとくなるべくして、ハリストスていけいし、ゆうどうし、かつふちして、これをたかげん。ゆえにへり人の手ヘルビムしたにありと〔イエゼキリ一の七〕。ハリストスみづからたましひいただかれて、たましひゆうどうせん。

三、 くるまはしらすよつせいぶつたましひぜんけんたるそうぞうりょくじょうたいをあらはせり。たかきんちょうおうにして、ししじゅうおうたり、うしおんじゅうなるどうぶつおうにして、ひとばんぶつおうたり、かくのごとたましひにもこれにおうたるそうぞうりょくのあるあり、すなはちゆうと、りょうしんと、さいと、あいちからこれなり。これらをもつれいしゃがぎょせられてかみはこれらにあんたまふ。しかれどもまたせつめいほうによればこれすなはちしょせいしゃてんにあるきょうかいすといふ。それかしこげんしゃせいぶつろんきゅうして、そのたかさはじょうなりといひ、かれあまねなりといひ、たれかずあるひたかさをとくするあたはずといふ、なんとなればこれがためしきをあたへられざればなり、たとへばてんにあるほしなにびときょうたんするところなれどもそのかずかくするはいちにんよくするなけん、かくのごとしょせいしゃてんにあるきょうかいり、かれおいたのしむことはおよそぎょうせんとほつするものにあたへらる。しかれどもしょせいしゃかずりてこれをとくすることは、これひとかみぞくすなり、へんもくなるせいぶつくるまに、そのほうするものあるひほうとなり、およひかりとなりたるかくたましひするものはこれにして、れいぎょし、みづかごとくこれをどうして、しんこうしっちせん。それれいぶつしんこうしたるはみづかかんとほつするところしんこうしたるにあらずして、これにしてこれをどうするものかつほつするところしんこうせり、かくのごとここおいてもしゅみづかおのれしんもつみちしめして、ぎょかつみちびかん。かくのごとくなればたましひほつするあるや、おののままにみづかてんのぼるにあらずして、かみたましひどうし、からだをすてておもひてんむかはしむべく、またかみほつするときはたましひふたたにくたいねんうちらいおうせん、しかれどもかみむねによればはてうつるべくして、かみはこれにてんけいおうしめたまはん。アアじつきょくみょうぜんどくいつしんじつしつしゃなるかな。かくのごとくもしたましひこんにちあらかじしょうようせられて、しんしんするをば、からだふくかつおいてそのくべきぶんたまはらん。

四、 しかれどもじんらのたましひてんひかりとせらるるこのことかんしては、しゅみづかしとにつげてごとくのたまへり、いはく『なんぢひかりなり』と〔マトフェイ五の十四〕。しゅみづかかれひかりとなして、かれによりてらされんことをめいじていへり、いはく『ひとともしびともしてこれをますしたかずすなはちとうだいうへく、しからばおよいへにあるものる。ごとなんぢひかりひとびとまへるべし』〔同上十五、十六〕。これすなはちわれよりうけたるたまものかくさずしておよそねがものつたへよとなり。またいへり、『ともしびなり、ゆえにもしなんぢきよからば、なんぢぜんしんあきらかならん。もしなんぢしからば、なんぢぜんしんくらからん、ゆえにもしなんぢうちひかりくらやみたらば、すなはちくらやみいかにぞや』〔マトフェイ六の二十二、二十三〕。それためひかりなり、ゆえすこやかなるときは、ぜんしんてらされん、されどものありちて、がくらまさるるときは、ぜんしんあんこくにあらん、かくのごとしとぜんかいためててとせられ、またひかりとせられたり。これによりしゅかれかいめいしていへり、『もしなんぢためひかりとなり、かたちてまよはされずば、ぜんたいてらされん。しかれどももしなんぢすなはちひかりなるものくらくなるときは、くらやみすなはちはいかにぞや』と。ゆえにしとひかりとなりて、しんぜしものためひかりもつつとめ、みづかてらされたるしんてんじょうひかりもつかれこころてらしたりき。

五、 しかれどもかれしほとなりしや、およしんずるものたましひようかいして、せいしんしほもつてこれにしほせり。けだししゅひとびとたましひづけ、しとげて『なんぢしほなり』といへり〔マトフェイ五の十三〕、なんとなればしとしんてんじょうしほもつひとびとたましひようかいして、はいせざるものとなし、おほいなるあくしゅうかんせんせざるものとなして、かれつとめたればなり。にくしほなくんばはいし、おほいなるあくしゅうにみちみたされて、ふべからざるしゅうゆえひとみなこれをけん、さればうじはいしたるにくはひきて、かしこにみづかしょくもとめ、かれくらふて、かれつくらん。しかれどももししほるならば、にくばいようせられたるうじほろぼされてき、いとふべきあくしゅうえん、けだししほうぢほろぼあくしゅうつにてきとうなればなり、かくのごとせいしんにてしほせられず、てんえんすなはちかみのうりょくをうけざるすべてのたましひはいして、あくねんおほいなるあくしゅうにみちみてらる、ゆえかみかほかくのごときたましひやみよくとのえきなるおもいおそるべきしゅうわいけん、あくなるおそるべきうぢすなはちあくしんあんこくちからとはかれうごめき、やしなはれて、をつくり、かしこふくし、かれくらふてはいかいせしむるなり。けだしいふあり、『きずくされてかつくさし』〔聖詠三十七の六〕。しかれどももしたましひかみはしき、あつしんじていのちしほたる、ぜんにしてひとあいするしんをおのれにねがるや、くだところてんえんたましひおいおそるべきうぢつくし、ゆうがいなるあくしゅうほろぼし、そののうりょくようもつたましひきよめん。さてかくのごとしんじつなるしほたましひけんぜんむしなるものとなすときは、かれふたたきょようせられて、てんしゅさいにつかふるをん。ゆえにりっぽうにもこのしめして、かみはすべてのせいしほするをめいじたまへり〔利未記二の十三〕。

六、 ゆえにだいいちさいにえほふりてにえすることと、そののちにえこまかきてしほづけにせらるることと、つひじょうかるることとはともかんようなり。けだしさいひつじほふりてせずんば、かれしほほどこされずして、ほうさいおいしゅさいそなへられざるべし。かくのごとわれたましひしんじつさいちょうたるハリストスき、かれによりほふられて、そのぎちためまたはそのせいかつするあくせいめいためすなはちつみためせざるべからざるなり、しかしてせいいのちつるごとく、じょうよくあくいのちてんことをようす。たましひからだよりづるときは、からだして、そのせいかつするいのちもつせいそんせず、かず、またかざらん、かくのごとてんさいちょうたるハリストスがそののうりょくおんちょうもつためいのちたましひおいさつするときは、たましひはそのせいかつするあくせいめいためして、はやかざるべく、はざるべく、つみあんこくせいかつせざるべし、なんとなればいのちともいふべきじょうよくあくおんちょうによりてたましひよりればなり。ゆえにしとんでいへり、『われためくぎせられたり、われおいてもまたしかり』〔ガラティヤ六の十四〕。けだしたましひつみあんこくせいかつして、ハリストスもつころされず、あくしゅうたましひなほおのれゆうし、すなはつみなるじょうよくあんこくはたらきおのれゆうして、これをもつやしなはるるあひだハリストスたいぞくせずひかりたいぞくせずして、やみたいなり、さればいまなほやみいっぽうらん、これにはんしてひかりたましひすなはちせいしんのうりょくおのれゆうするものひかりいっぽうるなり。

七、 さりながらひとありはん、たましひやみさんするものにあらざるになにゆえこれをやみたいづくるかと。このことにつきてはしんちょうちゅういをなして、ただしくかいすべし。たとへばなんぢもちいてこうむふくごとし、かれにんこれをそなへて、なんぢこれをん、いへもこれにおなじ、べつじんぞうえいけんちくして、なんぢこれにまん、かくのごとアダムかみかいめいおかして、あくなるへびにしたがひ、おのれりてまきしょゆうぶつとなせり、ゆえにたましひすなはちかみおのれぞうりてそなへたるなるぞうぶつあくしゃたり、ゆえにしともいへり『しゅりょうけんぺいだつせしめて』、じうもつかれてりと〔コロサイ二の十五〕。けだししゅきたりしはかれふて、おのれいへたりまたでんたるひとおのれとりもどさんがためなり。これによりてたましひつみなるあんこくかれあひだは、あくなるあんこくたいづけらる、なんとなればたましひあくなるあんこくのつづくあひだは、かしこりてやしなはるればなり、ゆえにしとつみなるたいとのことしょして、『つみなるほろぼされんためなり』といひ〔ロマ六の六〕、またたれわれたいよりすくはん』といへり〔ロマ七の二十四〕。これとあひはんしてかみあつしんじてつみよりすくはれ、あんこくなるいのちためして、せいしんひかりおのれにうけて、いのちとなし、これをもつこうせいしたるたましひは、おなじくまたはやかしこにおいてそのいのちおくらん、なんとなればしんせいひかりもつかしことどめらるればなり。けだしたましひかみほんせいよりしょうぜしにあらず、またあくなるやみほんせいによりしょうぜしにもあらず、かへつてれいをみちみてる、おほいにしてかつきいなるちえあるぞうぶつにして、かみしびなるしょうたり、またぞうたるも、はんざいけっかによりてあんこくなるじょうよくあくかれりぬ。

八、 おはりにたましひまたそのねがひによりたいごういっちするところものぞくすべし。ゆえかれあるひかみひかりおのれゆうして、そのうちせいかつし、もろもろとくこうもつかざられて、あんそくひかりをうくべく、あるひつみあんこくおのれゆうして、ていざいふくせん。けだしかみともえいえんあんそくひかりとにせいかつせんをねがたましひは、ぜんぶんべたるごとく、しんじつなるさいちょうハリストスきて、ためおよあくなるあんこくぜんせいかつためほふりをうけして、しんせいなるよういくためせいかつうつらんことかんようなり。たとへばもしたれまちせば、かしこものこえだんさわぎもきかざるべくして、するやいなそのまちこわさけびもあらざるところうつされん、かくのごとたましひももしすんでとしつきおくれるゆうがいなるじょうよくまちほふりをうけてするや、はやあんこくだんこえくあらざるべく、あんこくむなしきだんろんおよじょうらんせいさけびとははやなりわたらざるべく、じんへいあんとをみちみてるまちと、しんせいなるひかりまちうつされ、かしこにせいかつして、くべく、かしこのみんとなりてだんろんせつすべく、かしこにおいかみてきとうなるしんてきおこなひさん。

九、 ゆえにわれかみちからもつあんこくあくせいためほふりをうけてせんがため、またつみしんわれこんぜつせられんがためたましひてんしんおのれにうけて、かれつみやみよりハリストスひかりうつりて、よよいのちあんそくせんがためとうせん。たとへばきょうそうじょうくるまとくするがごとし、のりしたるものけんせいして、そのぜんしんみだかつさまたげて、かちめん、かくのごとひとにもしんじつおもひつみおもひとくするあらんに、もしつみおもひさきんぜらるるあらば、かれたましひけんせいし、かみちかづきてつみかちそうするをみだかつさまたげん。しかれどもしゅみづかりてたましひぎょするところおいてはしゅたくみにかつけんくつわぎょし、れいりんをみちびきて、てんぞくするしんせいなるおもひじょうたいむかはしめつつ、つねかちそうするなり。かれつみたたかふをなさず、ぜんのうぜんけんなるものとしてつねかちけつするなり、ゆえにヘルビムするは、みづかかんとほつするところするにあらずして、かれりてかれぎょするものがみちびくところほうめんむかつてす、かれほつするところにはかれしんこうして、かれみづかかれほんせしむるなり、けだしふあり、人の手かれしたにありと。せいなるしょれいはこれをぎょするハリストスしんにみちびかれて、かれほつするかたせん。ゆえにかれほつするときは、てんじょうおもひするも、またほつするときは、からだにもせん。かれほつするところおいかれにつかへんとす。それとりよくもつあしす、かくのごとてんぞくするしんひかりたましひてきとうなるおもひよくをうけて、これをそのところにみちびきかつぎょせんとす。

十、 ゆえこのことをきかば、なんぢたましひじっさいじつにこれをとくゆうしたるやいなや、みづかおのれちゅうすべし。けだしこれたんくちにいふことばにはあらずして、まことれいちゅうにおこなはるるじつなればなり。、ゆえにもしなんぢはかくのごとれいかいこうふくけずして、なほまづしくば、だんうれかなしかついたむべし。てんこくためなほせるもの、またそこなはれたるものとして、つねしゅび、しんこうもつねがふべし、なんぢにもしんせいかつたまはらんためなり。かみこのからだつくりて、これがためせいかついんしょくくつとをそのほんせいよりらしめず、かへつからだもとよりたいにつくりて、いのちためくべからざるすべてのものをほかよりらんことをさだめたまへり、さればからだほかそんするものなくんば、すなはちしょくなく、いんなく、ふくなくんばしんたいせいかつするあたはざるべし。もししんたいほかよりなにるあらず、そのせいちゅうにあるものをもつかぎらるるならば、はいかいしてほろびん。さればかみぞうによりつくられて、かみひかりをおのれにたざるたましひもかくのごとく、〔けだしたましひをしてえいせいゆうせしめんがために、かみはかくのごとせつして、めぐみたまへり〕たましひしんせいかつすところのれいかいしょくと、れいかいいんと、てんふくとをじこほんせいよりらずして、かみせいより、かみじこしんより、かみじこひかりよりうけん。

十一、 それしんたいせいかつしんたいそのものよりうけずして、しんたいほかにあるものよりうく、すなはちよりうくべくして、しんたいほかそんするものなくんば、せいぞんするあたはざらんことは、ぜんぶんにいひしごとし、かくのごとくもしたましひこんにちなほいのちあるものこうせいせず、かしこしんてきにやしなはれず、しゅまへおほいしんしんてきせいちょうせずして、しんせいまたこれにてんれいいひつくされざるふくすることあらずんば、たましひしょくもつなしにみづかせいそんしてたのしかつやすんずるあたはざるなり。けだしかみせいいのちぱんをもゆうす、いはゆる『われいのちぱんなり』〔イオアン六の三十五〕といふものこれなり、またけるみづ』〔イオアン四の十〕と、『ひとこころたのしましむるさけ』〔聖詠百三の十七〕と『よろこびあぶら』〔聖詠四十四の八〕と、てんしんしゅじゅさまざまなるしょくもつと、ひかりはつするてんふくかみもつたまはるものとをゆうするなり。たましひてんせいかつはこれにそんす。しんたいおのれてんせいそしせらるるならば、わざはひなり、なんとなればはいかいしてすればなり。たましひしんせいなるしんしんするあらずして、ただおのれてんせいそしせられ、ただおのれおこなひらいするならば、わざはひなり、なんとなればしんせいなるえいえんいのちをうけずして、すればなり。それびょうしゃからだはやしょくをうくるあたはざるときは、すべかれしたしきほうゆうしんせきおよびょうしゃためあいせらるるものは、かれのぞみちて、かれためていきゅうせん、かくのごとかみせいなるてんしらしんてんしょくめずしてきゅうせいかつせざるべきたましひみとめて、ていきゅうあたひするものとすなり。われふたたはん、これたんくちにいふことばにあらずして、しんてきせいかつじつなり、てきとうしんせいなるたましひうちにおこなはるるしんじつなり。

十二、 さればもしなんぢかみほうとなりて、てんぎょしゃなんぢり、なんぢたましひまったしんてきとなり、まったひかりとならば、もしなんぢしんてきしょくもつかしめられ、かっすいませらるるならば、もしもいはれざるひかりふくるならば、もしなんぢないひとのすべてをじっけんじょううたがひなくこころみるならば、なんぢじつえいえんいのちもつきて、なんぢたましひいましゅともあんそくせん、なんぢしんじついのちもつきんがために、じつにこれをもとめて、しゅよりけたるなり。しかれどももしかくのごときをいつおのれにんしきせずんば、くべく、うれふべく、たんそくすべし、なんとなればいまいたるまでなんぢえいえんなるれいかいとみいまもとず、いまいたまでしんじついのちいまけざればなり。このゆえにちしゅいのりて、おのれごくひんためいたかなしむべし、なんとなればおそるべきつみごくひんればなり。さればもしたれおのれごくひんためうれふるこのゆうしゅういへどるあらば、さいはひなりもしわれほうしょくせるものごとく、たいまんときおくらずんば、さいはひなり。うれひてたづね、しりぞかずしてしゅねがものは、すくひてんとみとをすみやかけんこと、ふぎなるさいばんかんかふとのたとひむすびてしゅのいひたまひしごとくなるべし、いはかみは『にちかれものたすたまはん、われなんぢぐ、すみやかかれたすけん』〔ルカ十八の七、八かれこうえいけんぺいよよに。アミン。