コンテンツにスキップ

利用者:村田ラジオ/sandbox2

提供: Wikisource
wikisource:宗教 > 埃及マカリイ全書

エジプトマカリオスの大書簡

[編集]

完全にして聖にせられたる人の為に要用ようようなるはたゞみづからかみらんことのみならず、神も彼にらんことなるは、なんぢが善智のあきらかに知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、いはく『我にり、我も彼にる』〔イオアン十五の五〕。されば神の人は神聖なる幕屋まくやに居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる情慾じょうよくちからの占領するをゆるさゞる者の光栄をさとるのみならず、そのようする所とならんためなり。けだし適当なる者にはその成聖せいせいとその彼等に属するよくとの為に救世主は住み給ふ、これ主のみづからよくなる如く主をうけたるものをも無慾なる者となして如何なる風にも最早もはや動乱どうらん漂漾ひょうようせられざる者となさん為なり。


しかれども或者あるものみづからハリストスみつに遠ざかるのみならず、『にごれる敗壊はいかいを以てその親友しんゆういざなひ』〔アバクム二の十五〕『神をるべきものゝ彼等にあきらかにあらはるる』にもかかはらず、神の真理を不義のうちに隠さんとす。けだし『その思念おもひむなしくなり』その無智むちの心はくらみしにより〔ロマ一の十八至二十一〕。彼等は説をしていへり、づべき情慾じょうよくは天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、すなはち敗壊はいかいたのしみ、不正なる忿怒いきどほり、神の為に発するにあらざる不適当なるいかり、及びおよこれに類するものをいふなり。

[p.425]

《現代語訳》

[p.425]

完全で聖なる人となるためには、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15章5節)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。

また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク書 2章15節)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1章18–21節)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲が神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。


ゆゑに彼等とふ所とは真理にたがふものとしてこれをて、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を承認うけみとめん、善きことに進むもあしきことをむるも我等にかからんためなり。けだし真実なる審判者は、もしみづから情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等をばつせざるべし。祈るこのをしへに離れ遠ざかりて、これをおもひにもしょうぜしめざらんことを。けだし蒙昧もうまいにしておろかなる意見は、およその敬虔なるさいの為にきらふべきものとす。神は清くしていとうつくしき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に聖神せいしんたまひし如し、けだしいへり、『神はその造りたるもろもろの物を見たまへるにはなはかりき』〔創世記一の三十一〕。さればイエレミヤづべき情慾のためにかなしみ、かつまどふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、わざわいさいわい高者こうしゃの口よりづるにあらずや』〔イエレミヤ哀歌三の三十六‐三十八〕。故に福音ふくいんきょうに聡明なる天軍は主にふていへり、『主よなんぢよきたねなんぢきたるにあらずや、しからば何に由りて此のひえあるか』〔マトフェイ十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主はみづから彼等の事をいへり、『およそ我が天の父のうゑざりし植物はそのたやされん』と〔マトフェイ十五の十三〕。しかれどもすべて神のゑしものゝなることは、ハリストスこれをいひ、パウェルもこれをしょうせり、曰く『けだし神のことごとくの造物は善なり』〔テモフェイ前四の四〕。故に知るべし我等のうちにかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだしふあり、『我がひそかなるとがより我をきよたまへ、はんよりなんぢぼくとゞめよ』〔聖詠十八の十三、十四〕、またいふあり、『外人はちて我をめ、強き者は我がたましいもとむ』〔同上五十三の五〕。またいふあり、『主よ我とあらそふ者とあらそひ、我とたゝかふ者とたゝかひ給へ』〔同上三十四の一〕。それ此のひそかなるものあるいは此の争ふ者あるい戦ふ者あるいは此の故犯とはこれハリストスの徳行にさからふ凶悪なる諸神しょしんを示すにあらずして何ぞや。

[p.426]

[p.426]

したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1章31節)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主が命じられたのでなければ、 だれが命じて、その事の成ったことがあるか。主が言われたとき、それは実現したのだ。災もさいわいも、いと高き者の口から出るではないか」(エレミヤ哀歌3章36-38節)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの毒麦はどこから来たのでしょうか」(マタイ13章27節)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15章13節)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4章4節)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「わたしの隠れた罪を清め、あなたのしもべを異邦人の罪からお守りください」(詩篇19篇13-14節)、「異邦人がわたしに立ち向かい、力ある者たちがわたしの命を狙っています」(詩篇54篇5節)、「主よ、わたしを害する者を裁き、わたしと戦う者と戦ってください」(詩篇35篇1節)と書いてあるからです。では、この「隠れた」とは、あるいは「罪を犯す者」や「戦う者」、あるいは「異邦人」とは、キリストの徳に敵対する悪霊ではないとしたら、何を意味するのか。


律法も内部の人の潔浄けつじょうのことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名をみだりに口にあぐべからず、けだし主は己の名をみだりに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔復傳ふくでん律令りつれい五の十一〕。ゆゑに使徒も勧めてあきらかにいへり、『おのれおよそにくしんとのけがれよりきよくせよ』〔コリンフ後七の一〕。また他の処にもいふ『心はそゝがれて悪しき意念を去れ』〔エウレイ十の二十二〕、又いふ『汝等のしんれいたいとはまつとうしまもられてきずなからん』〔ソルン前五の二十三〕、[p.428]又いふ『きずなき神の子とならん為なり』〔フィリッピ二の十五〕。ゆゑにすべて子たる位地いちたまはらんことを願ふ者はきずなきからだを有するのみならず、きずなきたましいをも有すること、の如くならざるべからず『ねがはくは我が心なんぢおきてきずなからん、我がはぢざらん為なり』〔聖詠百十八の八十〕。けだし律法のもとに居る者は、たゞ肉体のしょうを遂げて、外部の潔浄けつじょうを守れども、恩寵おんちょうもとる者は、成聖せいせいにより内部の平安を願ふて、の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼びファリセイ等の義にまさらずばなんぢ天国に入るを得ず』〔マトフェイ五の二十〕、何となればファリセイ等は智をくらまして、杯と皿の外きよむればなり〔マトフェイ二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新ファリセイは、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、みづから己を義とせんとす、しかれども聖神せいしんは彼等のしんと共に彼等が神の子たるをしょうすること、使徒と共にしょうする如くせざるべし、言ふあり、『此のしんみづから我等のしんと共に我等が神の子たるをしょうす』〔ロマ八の十六〕。彼等は内部の人の聖徳せいとくに成長するを自己にあらはさんことをほつせずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『おうぢょの光栄は皆内部にある』〔聖詠四十四の十四〕を知らざるなり。我等各人はあたかも心中の無花果いちじくの如し、主のたづぬるは内部のにありて、ようかざりにあるにあらざるなり〔マトフェイ二十一の十九〕。

[p.427-p.428]

[p.427-p.428]

律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5章11節)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7章1節 )。また別の箇所では、「心の中の汚れた良心を清めて」(ヘブライ人への手紙 10章22節 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5章23節)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2章15節)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119篇80節)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、きよさにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入れません」(マタイ 5章20節)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23章25節)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「"霊"みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8章16節)彼らは、内なる人のきよさが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩篇45篇14節)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21章19節)。

[p.429]

故にづべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、偶然ぐうぜんに人にりしにあらずといふ者は、『かみの真実を己のいつわりふるなり』〔ロマ一の二十五〕何となれば我がさきにいひし如くてん純潔じゅんけつなる者はそのぞうおのれたるものとなしたりしが、『あくそねみにより死は世にりたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりてはらまれ、罪においうまれて、〔聖詠五十の七ふくより離れ遠ざかる者となり、たいよりまよいりて、アダムより以後ハリストスきたるに至るまで罪が王となりしにより神のこひつじあわれみれてきたり給へり、これづ強き者をばくし、其後そののちかくせられたる器物をうばかへして、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『擄者をとりこにす』と、又いふ『献物さゝげものをうく』と〔聖詠六十七の十九〕。


我等はりょたるをまぬかれ、『土に属する者のかたちたる如く、天に属する者のかたち』〔コリンフ前十五の四十九〕を『我等のたいを義のぼくとなして、成聖せいせいゆだぬること罪にゆだねし如くせんことを』おもんぱからざるべからず〔ロマ六の十九〕。我等は信ず、われらつまづかずして光のうちを行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目をひらたまへ、しかせばわれなんぢ律法りっぽうせきん』〔聖詠百十八の十九〕。

[p.429]

[p.429]

したがって、恥ずべき情欲を自然なものとして、偶然に人に入り込んだものではないとして擁護する者は、「神の真理を偽りに変えた」(ローマ1章25節)のです。なぜなら、私が先に述べたように、汚れなき清らかな方がご自身の似姿に造られたからです。「しかし、悪魔のねたみによって死が世に入り込んだ」(知恵書2章24節)。したがって、人類は不義のうちに宿り、罪のうちに生まれ(詩篇51篇7節 )、母の胎内から離れ、アダムからキリストの到来まで罪が支配し始めてから、母の胎内から誤りの中にとどまりました。そして、憐れみ深い神の子羊が、ご自身の力で世の罪を取り除くために来られ、まず強い男を縛り、それから彼が戦利品として集めた器を奪い取られました。それは、「あなたは捕虜を捕らえ、また背く者を捕らえた」と言われたとおりです(詩篇68篇19節)。

私たちは、束縛から解放されるよう注意し、「地上の像を着ているように、天の像をも着るようになるのです」(コリント第一 15章49節)、「義のしもべである私たちの肢体を、罪に差し出したように、聖なる姿で差し出す」(ローマ 6章19節)必要があります。光の中をつまずくことなく歩む私たちは、「私の目を開いてください。そうすれば、あなたの律法からあなたの驚くべき御業を理解できます」(詩篇 119篇18節)と言われたように、神の驚くべき御業を見る運命にあると私たちは信じています。

[p.430]

けだし光のうちを行く者は五感につまづきをきたさゞる如く、完全なる成聖せいせいる者も心に奸計かんけいを思はず、しくおもんぱからざるなり。けだし『ひかりやみと何のまじわることのあらん、神の殿でんは偶像と何の同じきことのあらん』〔コリンフ後六の十五、十六〕、故に己を神の殿でんみとむべく、おもいの偶像を心中にえがかざらんことをつとめよ。けだし霊魂たましいうちに動作するすべての情慾じょうよくは偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とはいとく言へるなり〔ペトル後二の十九〕。もし我等は肉体の慾につとむるならば、せいにして無慾なるしんにつとめざらんことあきらかなり、何となれば人は『二人ふたりの主につかふるあたはず、かみたからとにかねつかふることあたはざればなり』〔マトフェイ六の二十四〕。かみ殿でんは聖にして『けがれあるいかくの如きもの』を有せず〔エフェス五の二十七〕、『けだし聖神せいしんてんを避け、無智むちしゃ思念おもいより遠ざかり、おしえ奸猾かんかつなる霊魂たましいらざるなり』〔知恵書一の四、五〕。

ゆゑに我等が律法はすべてかみゆびもつて心にしるさるゝものにて、すみを以てするにあらずかみしんもつてする〔コリンフ後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔イオアン十四の七〕とのたまひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼をおこなひ、適当なる者のさいそのじんほうをしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が律法りっぽうを彼等の心に置き、彼等のおもいにしるさん』〔イエレミヤ三十一の三十三〕。およそ選ばれたる族と、王たる祭司班と、聖なる人民と、選ばれたるペトル前二の九〕のうちらんことを苦心する者は、生活せいかつほどこしん効力こうりょく便べんおのれにうけん。

[p.430]

[p.430]

感覚において、光の中を歩む者はつまずかないのと同様に、精神において、完全なきよさの中に留まる者は悪を考えず、悪の理性を働かせません。なぜなら、「光と闇との交わりはなく、教会と偶像との結びつきもない」(コリント第二 6章15-16節)からです。ですから、自分自身を神の神殿であると認識し、心の中に偶像を描かないように努めなさい。魂に働くすべての情欲は偶像です。ですから、「人は何に打ち負かされるかによって、その者のしもべとなる」(ペテロ第二 2章19節)と美しく言われています。もし私たちが肉欲に囚われているなら、明らかに、私たちは聖なる、情欲のない聖霊に囚われていません。なぜなら、「だれも二人の主人に仕えることはできない。あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ 6章24節)と言われているからです。神の神殿は聖なるものであり、「汚れも、しわも、そのようなものは一切ない」(エフェソ 5章27節)のです。「聖霊は欺きから逃げ去り、理性のない考えから遠ざかり、悪しき魂に入り込むことはない」(知恵書 1章4-5節)のです。

したがって、私たちの律法全体が神の指によって、インクではなく神の霊によって心に書かれていることを確信した私たちは、 「わたしは真理である」(ヨハネ14章7節)と言われた律法授与者の真理を受け入れましょう。神は、預言者が言うように、「わたしの律法を彼らの心に与え、わたしはそれを彼らの心に書き記す」(エレミヤ31章33節)ように、ふさわしい者の心に割礼を施し、その善の律法を書き記してくださいます。「選ばれた世代」、「王なる祭司」、「聖なる国民」 、「選ばれた民」(ペテロ第一2章9節)に入ろうとする者は皆、命を与える聖霊の効力を喜んで受け入れます。

[p.431]

故にハリストスおける生活のハリストスと同形なる公正にすゝむを、たとひ久しからずといへども、我等にもたまはらんことをねがかつ祈るべし。けだし如此かくのごとき霊魂たましい面の恥聖詠四十三の十六〕を脱し、最早もはや汚れたるおもいに占領せられず、悪者あくしゃ姦通かんつうせずして、うたがいなく天の新郎しんろうしんをなさん、何となればみづから彼と同形どうけいなればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる霊魂たましいは望みてたえらん〔聖詠八十三の一〕。われあえていふ、成聖せいせいうくることのきゅうなる契約けいやくにより、彼とかくの如くなる心中しんちゅうみつ体合たいごうすを望まん。如此かくのごとき霊魂たましいは実に幸福なり、彼は霊神れいしんじょうの愛に勝たれたつものとして、かみことばすること当然なり、故に彼はあえて言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我がたましいはわがかみをたのしまん、そは我にすくいころもをきせ、義の外服がいふくをまとはせて、新郎しんろうかんむりをいたゞき、しんたまこがねのかざりをつくるが如くしたまへばなり』〔イサイヤ六十一の十〕けだしおうは彼の善良を望みて〔聖詠四十四の十二〕、彼をたゞかみ殿でんと名づくるのみならず、おうむすめ及び皇后こうごうと名づくるをたまへり、かみ殿でんと名づくるは聖神せいしんため領有りょうゆうせられたるによる、おうむすめと名づくるはちゝより光の子たることをうけたるによる、また皇后こうごうと名づくるは独生どくせいしゃ光栄こうえい神性しんせい配合はいごうせしによるなり。

[p.431]

[p.431]

ですから、たとえほんの短い間であっても、私たちもキリストにおける一貫した正しい生き方に近づくにふさわしい者と認められるよう、祈り求めましょう。そのような魂は、「顔の恥」(詩篇44篇16節)を捨て、もはや不純な思いにとらわれることもなく、もはや悪魔と姦淫を犯すこともなく、疑いなく天の花婿との交わりに入ります。なぜなら、その魂自体が一貫した生き方をしているからです。主への愛によって傷つき、「切望し、そして尽き果てた」(詩篇84篇1節)のです。あえて言えば、聖なる交わりの朽ちることのない絆を通して、主との美しく神秘的な結びつきを切望しているのです。そのような魂は、真に祝福され、幸福です。霊的な愛に打ち勝った魂は、神の言葉にふさわしく婚約しているのです。それゆえ、彼女は大胆に語り、こう言うであろう。「わが魂は主にあって喜びます。主はわたしに救いの衣と喜びの衣を着せ、花婿のようにわたしに冠を授け、花嫁のようにわたしを美しく飾ってくださいました」(イザヤ書61章10節)。王は彼女の美しさを望み(詩篇44篇12節)、彼女を神の神殿だけでなく、王女、王妃とも呼ぶにふさわしい者とみなした。神の神殿とは、聖霊によって養子とされた者であり、王女とは、光の父から養子とされた者であり、王妃とは、独り子の栄光の神性と結びついた者なのである。

[p.432]

けだし本性においいつたる主は、いかんして人間のすくいの摂理の為に多くの名を比喩ひゆてきおのれにうけしか。何故なにゆえ甲処こうしょにはいしコリンフ前十の四〕及び門〔イオアン十の七〕と名づけ、しょにはおのルカ十五の一〕及びぱんと名づけしか〔同六の三十五〕。いしと名づけしはその勢力せいりょくの動かすべからざると近づくべからざるとによる、もんと名づけしは彼によりて永世えいせいるによる、おのとは彼は悪習あくしゅうつによる、みちとは適当なる者を真実をるにみちびくによる、どうみきとは人心じんしんをたのしましむるさけが彼によりてさんせらるゝによる、またぱんとは有言ゆうげんなる造物ぞうぶつこゝろかたむるによるなり。しかれどもこれと同じくかみことばの為に領有せられたる非難すべからざる霊魂たましいも、もとより単純たんじゅんなるものなれど、神的しんてき道徳どうとくに多くの進歩をなすにしたがひて、たまものをうけん。我が此事このことをいふはしんの名称も勿論もちろんたゞみつのみにあらずして、さらおほかるべきによるなり。


ゆゑにかみ聖所せいしょりて、『我等が年少ねんしょうたのしましむるかみに』〔聖詠四十二の四希臘ギリシャ訳文〕かざらんあいだは、ろうは我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、しゅよくを、たまはり、成聖せいせいげんことは、救世主のよろこぶ所にして、其時そのときには、あえの如くいふをん、曰く『我等は肉に在りておこなへども、肉にしたがひてたゝかはず、我等がたゝかいうつわは肉に属せず、すなわちかみりてとりでやぶちからあり、我等これを以てもろもろはかりごとおよかみの知識にさかふ高慢とを破る』〔コリンフ後十の三至五〕。

[p.432]

[p.432]

本質において唯一の主が、人類の救済という摂理のために、いかにして比喩的な意味で多くの名前を身にまとわれたことだろうか。なぜイエスは、ある箇所では岩(コリント第一 10章4節)や戸口(ヨハネ 10章7節)と呼ばれ、別の箇所では斧(ルカ 3章9節)や道(ヨハネ 14章6節)と呼ばれ、またぶどうの木やパン(ヨハネ 6章35節)とも呼ばれるのでしょうか。―岩と呼ばれるのは、イエスの力の揺るぎなさと近づきがたい性質によるものです。―戸口と呼ばれるのは、イエスを通して永遠の命に入ることができるからです。―斧と呼ばれるのは、イエスが悪の根源を断ち切るからです。―道と呼ばれるのは、イエスがふさわしい者を真理の知識へと導くからです。―ぶどうの木と呼ばれるのは、イエスが人の心を喜ばせる実り豊かなぶどう酒を実らせるからです。そして同様に、パンと呼ばれるのは、イエスが理性を持つ被造物の心を強くするからです。同様に、神の言葉に似た、それ自体は単純でありながら、多くの霊的な徳を積むことによって、罪のない魂もまた賜物を受けるに値するとみなされるのです。私がこのように述べたのは、花嫁の称号は三つだけでなく、多くの称号を持つからです。

そして、この労苦は、私たちが神の聖所に入るまで、すなわち「私たちの若さを喜ばれる神のもとへ」(詩篇43章4節)に入るまで、私たちの前に立ちはだかっていることを知っておきなさい。救い主は、私たちがまだ肉体の中にいる間に、主の無執着にふさわしく、きよさに満たされることを喜ばれるからです。そして、その時、私たちは大胆にこう言うことができます。「私たちは肉体の中にいる間は、肉に従って戦いません。私たちの戦いの武器は肉的なものではなく、神によって力強く、滅びに強く、あらゆる考えや、神の知識に逆らって高ぶるあらゆる高慢なものを打ち砕くからです」(コリント第二10章3-5節)。

[p.433]

故になほ此処こゝおいても我等は罪なるよくを十字架にくぎすること、預言者の祈祷きとうの如くすべし、曰く『我が肉体をなんぢおそるゝのおそれにくぎす』〔聖詠百十八の百二十〕。けだし使徒しとのいはゆる『神の国をぐあたはざる』〔コリンフ前十五の五十〕肉と血とは、ゆるからだをいふにあらずして、〔彼はかみの造る所なり〕悖逆はいぎゃくの子エフェス二の二〕のうちに行為する凶悪のしんによりておこさるゝ肉体の念慮ねんりょを指す、何となればハリストスける完全なる苦行者のために『たゝかい血肉けつにくおいてするに非ず、暗昧あんまいくんおいてし、凶悪の諸神しょしんおいてすればなり』〔エフェス六の十二〕。


故にもしの行為は天性自然の行為にあらずして、反対なるちからの行為なるをみとむるならば、彼等に対してハリストスまつたぐんをおのれにうけ、『奸計はかりごとふせぐをべし』〔エフェス六の十一〕何となれば救世主は『かつ及びことごとくのてきちからむ』のけんを我等にたまふによる〔ルカ十一の十九〕。われなほ肉体にくたいるもあえの如くふをんが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるをしならば主はわれにかざらん』〔聖詠六十五の十八〕また曰く『われとがなしといへども、彼等はあつまりて武具ぶぐをそなふ』〔同上五十八の五〕と、これいふこゝろは我等はこゝろざす所に進行し、すなわちうえよりす所の褒章ほうしょう進向しんこうしつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ることやすからん。けだしもろもろの慾に遠ざかりてあえの如くふことをればなり、曰くたゞに信を守るのみならず、すべき程を尽せりテモフェイ後四の七〕。

[p.433]

[p.433]

ですから、私たちはここでもなお、預言者の祈りに従って、罪深い情欲を十字架に釘付けにしなければなりません。「あなたへの畏れをもって、私の肉体を釘付けにしてください」(詩篇119篇120節)。使徒が「彼らは神の国を受け継ぐことができない」(コリント第一 15章50節)と言っている肉と血とは、この目に見える体(それは神によって創造されたもの)のことではなく、悪霊によって起こされ、「不従順な者たちのうちに働く」(エフェソ 2章2節)肉の知恵のことである。なぜなら、キリストにおいて完成された禁欲主義者は「肉と血と戦うのではなく、この世の闇の支配者、悪霊と戦う」(エフェソ 6章12節)からである。

したがって、この行為が自然なものではなく、敵対勢力の行為であると認めるならば、キリストの完全な武具を身に着けて敵対勢力に対抗すれば、「彼らの策略に立ち向かう」ことができるでしょう(エフェソ6章11節)。なぜなら、救い主は私たちに「蛇やサソリを踏みつけ、敵対者のあらゆる力に打ち勝つ」力を与えてくださるからです(ルカ10章19節)。そのため、肉体の中にいる間も、「もし私の心に不義を見たなら、主は私の祈りを聞いてくださらないでしょう」(詩篇66篇18節)と大胆に言うことができ、「私は不義なく走り、物事を正しました」(詩篇59篇5節)と言え、つまり、肉欲に駆られることなく、天国での生活を快適に過ごし、「高き召しの賞」(フィリピ3章14節)を目指して努力することができるのです。なぜなら、私たちはあらゆる情欲から遠ざかっているので、「信仰を守り通した」だけでなく、「走るべき道のりを走り終えた」と大胆に言うことができるからです(テモテ第二 4章7節)。

[p.434]

たゞハリストスを信ずるのみならず、彼と共にくるしみをうくることも肝要かんようなり、ろくしていへる如し、『なんぢたまはりしはたゞ彼を信ずるのみならず、また彼の為にくるしみをうくることなり』〔フィリッピ一の二十九〕。たゞかみを信ずるのみは地上の事をおもものに相応するのみならず、不潔のしんにさへ相応するは我がことばたざるべし、いへらく『われなんぢたれなるをる、すなわち神の子なり』〔マルコ一の二十四、マトフェイ八の二十九〕。『けだし彼もこれハリストスの十字架の敵なり、彼等がおわり滅亡めつぼうなり、彼等がかみはらなり、彼等がえいとする所ははぢなり、彼等は地上の事をおもふ』〔フィリッピ三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者のちからのみにあらず、地上の事をおもふ者もまたしかるを。しかれどもハリストスと共にくるしみをうけて共にえいせらるゝことはたゞこのおいおのれを十字架にくぎして主のきずおのれからだもののみよくるなり。

[p.434]

[p.434]

人はキリストを信じるだけでなく、キリストと共に苦しまなければなりません。聖書にこう書いてあるとおりです。「あなたがたには、キリストを信じるだけでなく、キリストのために苦しむことも許されているのです」(フィリピ1章29節)。神だけを信じるというのは、地上のことばかり考える人、あるいは汚れた霊のような人たちの特徴です。彼らは「私たちはあなたが誰であるかを知っています。あなたは神の子です」(マルコ1章24節、マタイ8章29節)と言います。前者も後者も「キリストの十字架の敵であり、その最後は滅びです。彼らの神は腹であり、彼らの栄光は恥辱の中にあります。彼らは地上的な考え方をする者です」 (フィリピ3章18、19節)。背教者だけでなく、地上のことばかり考える人たちも十字架の敵であることがお分かりでしょうか。この世で自らを十字架につけ、主の傷を身に負う者だけが、キリストと共に苦しみ、キリストと共に栄光を受けることができるのです。

[p.435]

哲学を正しく攻究こうきゅうして、霊魂たましいを悪の汚穢けがれよりすくふ者は、哲学の目的を精確せいかくに知らんこと肝要かんようなり、進行のろうけいおわりとをかくして、高慢こうまん功労こうろうのことをおも意思いしとをまつたしりぞけ、聖書の誡命かいめいにしたがひ、おのれ霊魂たましい生命いのちをすてゝいつとみ注目ちゅうもくせんためなり、すなわちかみおよあまんじてぎょうみづからになはんと決心したる者を呼びて、その愛する所の者にハリストスを愛したるため報償ほうしょうとして定め給ひしものに注目せんためなり、かくの如き苦行の経過において彼等に充分じゅうぶんようきゅうするはハリストスの十字架なり、されば彼等はこれふて、たのしみとぜんなるぼうとを以て救世主ハリストスあとにしたがひ、その摂理をおのれため生命いのちほうとなし、みちとなさんこと肝要なり、使徒のみづからへる如し、曰く『なんぢ我にならふ者となれ、我がハリストスならふがごとし』〔コリンフ十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にあるはせはしりて、我等のしんかしら及び成全せいぜんしゃなるイイススあおのぞむばし、彼はそのまえよろこびへてはぢとせず、十字架を忍びてかみほうの右にせり』〔エウレイ十二の一、二〕。

われらはかみたまものを以てみづからたかぶり、道徳に進むのる進歩をおのれため高慢こうまん称賛しょうさんためえんとなして、望む所のおわりにたつせざるさきおのれこゝろざしたわまざらんがため高慢こうまんにより先になせる勤労をおのれために無益となさゞらんがため、及びしん恩寵おんちょうの我等を引誘いんゆうする成全せいぜんへざるものとならざらんがため戦々せんせん競々きょうきょうたらざるべからざるなり。

[p.435]

[p.435]

哲学を正しく愛することを学び、悪徳の汚れから魂を解放した人々は、哲学を愛することの目的を正確に知っていなければなりません。旅の苦労と道のりの終わりを学んだ後、彼らはすべての傲慢と功績の考えを捨て、聖書の戒めに従って、魂と命を捨て、キリストを愛する者たちへの報いとして神が定めた一つの富を心に留め、喜んで闘いに挑むことを決めたすべての人をそれに招き入れます。そして、そのような闘いの通過のために、キリストの十字架は十分な別れの贈り物です。彼らはそれを背負い、救い主である神の足跡に従い、使徒自身が言ったように、「わたしがキリストに倣っているように、あなたがたもわたしに倣いなさい」 (コリント第一 11章節1)というように、神の摂理を自分たちの律法と生き方としなければなりません。また、「信仰の創始者であり完成者であるイエスを見つめながら、私たちの前に置かれている戦いに向かって忍耐をもって走り続けましょう。イエスは、ご自身の前に置かれた喜びのために、恥辱を気にせず十字架を耐え忍び、 神の御座の右に座られました」 (ヘブライ12章1-2節)。

私たちは、聖霊の賜物によって高められ、徳における進歩を傲慢と自慢の言い訳にしてしまい、望む終着点に到達する前に努力を怠り、それまでの努力を無益なものにしてしまい、聖霊の恵みによって導かれた完全さにふさわしくない者となってしまうことのないよう、注意しなければなりません。

[p.436]

故に勤労におけるの尽力じんりょくを決してよわむべからず、眼前がんぜんにある所の苦行をするべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心をかぎるべからず、すなわち使徒しとの如くを忘れてに進み〔フィリッピ三の十三〕、成全せいぜんもとむる者がくを知らずしてひとかつする所の義のねがいゆうし、勤労の為におもんぱかりて心肝をくだかんこと肝要かんようなり。彼等は許約きょやくせられたる幸福をることなほ遠くして、ハリストスの完全なる愛に多くたつせざる者なるにより、謙遜けんそんなる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだしこのあい切願せつがんして、天の約束を仰望ぎょうぼうする者は、禁食きんしょくするか、儆醒けいせいするか、あるいは他のいかなる徳行とくこうに熱心するも、以前の功労を以てみづかたかぶらざるべく、かへつて神聖なるのぞみにみたさるゝ彼はおのれを呼ぶ所の者に間断かんだんなくそゝぎて、いくばく奮闘ふんとうするもそのこゝろざす所のものにくらぶればまつたく小なりとおもふべし。さればそのおこないによりおのれかみまえに尊敬すべき者とあらはさゞらんあいだは、ろうろうくはへ、徳行とくこう徳行とくこうかさぬるも、かみまえに適当なる者となれりとの意思いしを心にいだかずして、生命いのちおわりいたるまでことごとくの尽力じんりょくもちひん。けだしおこないおいおほいなる者はかみおそるゝをもつ自負じふなげうちて、心を謙遜し、生活の為におのれつみし、信じて愛するのにより許約きょやくたのしみて、みづからろうするの如何いかんもつてせざるは、これぞ哲学てつがくもつとも卓越たくえつせる功労こうろうなる。けだしたまものおほいなるにより、これに相応そうおうする勤労きんろういだすことあたはざればなり。

[p.436]

[p.436]

ですから、私たちは決して努力を怠ってはならず、これから待ち受ける苦闘を放棄してはならず、既に達成したことにのみ熱意を限定してはなりません。しかし、使徒によれば、「過去のことは忘れ」、「未来のことに向かって身を伸ばし」(フィリピ3章13節)、努力に対する思いを胸に抱き、完全さを目指す者だけが切望し渇望すべき義への飽くなき渇望を持ち続けなければなりません。彼らは、約束された祝福からまだ遠く離れており、キリストの完全な愛には程遠いので、謙遜になり、畏れを抱かなければなりません。なぜなら、この愛を望み、天の約束を見つめる者は、断食をしたり、徹夜したり、他の徳を積んだりしても、過去の功績によって自分を高めることはなく、神への切なる願いに満たされ、自分を召してくださる方に絶えず目を向け、どんなに努力しても、自分が目指すものに比べれば、すべてを小さなものと考えるからです。彼は生涯の終わりまで、あらゆる努力を尽くし、労苦に労苦を重ね、徳に徳を重ね、自分の行いによって神の前に立派な者として現れるまで努力しますが、自分が神の前にふさわしい者になったとは決して考えません。知恵を愛する者の最も優れた功績は、行いに優れた者が心を低くし、自らの生き方を悔い改め、神への畏れをもって傲慢さを打ち砕き、信じて愛した度合いに応じて約束を享受し、働いた度合いに応じて享受しないことである。賜物は大きいので、それに見合う働きを見出すことは不可能である。

[p.437]

さりながらしんぼうとはおほいならざるべからずして、これをもつて報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。しかしてしん根本こんぽん心神しんしんまづしきとかみに対するりょうあいとにあり。

希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者のため充分じゅうぶんにのべたりとおもふ。いままたこれにくはふるにかくの如き者はいかにたがい交際こうさいして如何いかなるろうあいするをようするかを示すべし、てんたつするにいたまでその進行を協力してさんためなり。

このおいて尊敬すべきと認めらるゝものをだんじてたつとばず、親族しんぞくて、もろ地下ちかさかえてゝたゞ天上てんじょう尊栄そんえい着眼ちゃくがんし、かみによる兄弟けいてい心神しんしんにて結合けつごうするものは、ともおのれ霊魂たましいをもつること肝要かんようなり。霊魂たましいつとはなにおいてもおのれむねを求めずして、かへつておのれむね矯正きょうせいし、院長いんちょうを以て己の為にかみことばとなして、これを益用えきようすること、善良ぜんりょうなる舵師だしの如くし、兄弟けいてい社会しゃかいのすべてをげて、同心どうしん協力きょうりょくして、かみむねみなとむかはしむるにあり。

[p.437]

[p.437]

しかし、信仰と希望は大きくなければならない。それによって報いが測られ、働きによって測られるのではない。信仰の土台は、霊的な貧しさと神への計り知れない愛である。

希望の目標に従って、知恵に満ちた人生を送ろうと決意した人々については、すでに十分なことが述べられたと思います。今、私たちは、そのような人々が互いにどのように接し、どのような働きを愛すべきか、そして共に歩みを進めて天の都に到達できるようにすべきことについて、付け加えなければなりません。

この世で尊ばれるとされるものを断固として軽んじ、家族を捨て、地上の栄光を全て捨て去る者であっても、天上の栄誉を心に抱き、神において兄弟たちと霊的に結びついている者は、この世と共に自らの魂をも捨て去らなければならない。魂の放棄とは、何事においても自らの意志を求めず、むしろ自らの意志を正し、神の言葉を自らの長とし、それを良き舵取り役として、兄弟たち全体を神の意志という港へと一斉に導くことにある。


【以下未入力(p.438-457)】


この文書は翻訳文であり、原文から独立した著作物としての地位を有します。翻訳文のためのライセンスは、この版のみに適用されます。
原文:

この作品は1931年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

原文の著作権・ライセンスは別添タグの通りですが、訳文はクリエイティブ・コモンズ 表示-継承ライセンスのもとで利用できます。追加の条件が適用される場合があります。詳細については利用規約を参照してください。