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利用者:村田ラジオ/sandbox2

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wikisource:宗教 > 埃及マカリイ全書

エジプトマカリイの書簡 (大書簡)

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[p.425]

完全にして聖にせられたる人の為に要用ようようなるはたゞみづからかみらんことのみならず、神も彼にらんことなるは、なんぢが善智のあきらかに知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、いはく『我にり、我も彼にる』〔イオアン十五の五〕。されば神の人は神聖なる幕屋まくやに居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる情慾じょうよくちからの占領するをゆるさゞる者の光栄をさとるのみならず、そのようする所とならんためなり。けだし適当なる者にはその成聖せいせいとその彼等に属するよくとの為に救世主は住み給ふ、これ主のみづからよくなる如く主をうけたるものをも無慾なる者となして如何なる風にも最早もはや動乱どうらん漂漾ひょうようせられざる者となさん為なり。


しかれども或者あるものみづからハリストスみつに遠ざかるのみならず、『にごれる敗壊はいかいを以てその親友しんゆういざなひ』〔アバクム二の十五〕『神をるべきものゝ彼等にあきらかにあらはるる』にもかかはらず、神の真理を不義のうちに隠さんとす。けだし『その思念おもひむなしくなり』その無智むちの心はくらみしにより〔ロマ一の十八至二十一〕。彼等は説をしていへり、づべき情慾じょうよくは天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、すなはち敗壊はいかいたのしみ、不正なる忿怒いきどほり、神の為に発するにあらざる不適当なるいかり、及びおよこれに類するものをいふなり。


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ゆゑに彼等とふ所とは真理にたがふものとしてこれをて、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を承認うけみとめん、善きことに進むもあしきことをむるも我等にかからんためなり。けだし真実なる審判者は、もしみづから情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等をばつせざるべし。祈るこのをしへに離れ遠ざかりて、これをおもひにもしょうぜしめざらんことを。けだし蒙昧もうまいにしておろかなる意見は、およその敬虔なるさいの為にきらふべきものとす。神は清くしていとうつくしき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に聖神せいしんたまひし如し、けだしいへり、『神はその造りたるもろもろの物を見たまへるにはなはかりき』〔創世記一の三十一〕。さればイエレミヤづべき情慾のためにかなしみ、かつまどふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、わざわいさいわい高者こうしゃの口よりづるにあらずや』〔イエレミヤ哀歌三の三十六‐三十八〕。故に福音ふくいんきょうに聡明なる天軍は主にふていへり、『主よなんぢよきたねなんぢきたるにあらずや、しからば何に由りて此のひえあるか』〔マトフェイ十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主はみづから彼等の事をいへり、『およそ我が天の父のうゑざりし植物はそのたやされん』と〔マトフェイ十五の十三〕。しかれどもすべて神のゑしものゝなることは、ハリストスこれをいひ、パウェルもこれをしょうせり、曰く『けだし神のことごとくの造物は善なり』〔テモフェイ前四の四〕。故に知るべし我等のうちにかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだしふあり、『我がひそかなるとがより我をきよたまへ、はんよりなんぢぼくとゞめよ』〔聖詠十八の十三、十四〕、またいふあり、『外人はちて我をめ、強き者は我がたましいもとむ』〔同上五十三の五〕。またいふあり、『主よ我とあらそふ者とあらそひ、我とたゝかふ者とたゝかひ給へ』〔同上三十四の一〕。それ此のひそかなるものあるいは此の争ふ者あるい戦ふ者あるいは此の故犯とはこれハリストスの徳行にさからふ凶悪なる諸神しょしんを示すにあらずして何ぞや。


律法も内部の人の潔浄けつじょうのことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名をみだりに口にあぐべからず、けだし主は己の名をみだりに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔復傳ふくでん律令りつれい五の十一〕。ゆゑに使徒も勧めてあきらかにいへり、『おのれおよそにくしんとのけがれよりきよくせよ』〔コリンフ後七の一〕。また他の処にもいふ『心はそゝがれて悪しき意念を去れ』〔エウレイ十の二十二〕、又いふ『汝等のしんれいたいとはまつとうしまもられてきずなからん』〔ソルン前五の二十三〕、[p.428]又いふ『きずなき神の子とならん為なり』〔フィリッピ二の十五〕。ゆゑにすべて子たる位地いちたまはらんことを願ふ者はきずなきからだを有するのみならず、きずなきたましいをも有すること、の如くならざるべからず『ねがはくは我が心なんぢおきてきずなからん、我がはぢざらん為なり』〔聖詠百十八の八十〕。けだし律法のもとに居る者は、たゞ肉体のしょうを遂げて、外部の潔浄けつじょうを守れども、恩寵おんちょうもとる者は、成聖せいせいにより内部の平安を願ふて、の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼びファリセイ等の義にまさらずばなんぢ天国に入るを得ず』〔マトフェイ五の二十〕、何となればファリセイ等は智をくらまして、杯と皿の外きよむればなり〔マトフェイ二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新ファリセイは、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、みづから己を義とせんとす、しかれども聖神せいしんは彼等のしんと共に彼等が神の子たるをしょうすること、使徒と共にしょうする如くせざるべし、言ふあり、『此のしんみづから我等のしんと共に我等が神の子たるをしょうす』〔ロマ八の十六〕。彼等は内部の人の聖徳せいとくに成長するを自己にあらはさんことをほつせずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『おうぢょの光栄は皆内部にある』〔聖詠四十四の十四〕を知らざるなり。我等各人はあたかも心中の無花果いちじくの如し、主のたづぬるは内部のにありて、ようかざりにあるにあらざるなり〔マトフェイ二十一の十九〕。


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故にづべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、偶然ぐうぜんに人にりしにあらずといふ者は、『かみの真実を己のいつわりふるなり』〔ロマ一の二十五〕何となれば我がさきにいひし如くてん純潔じゅんけつなる者はそのぞうおのれたるものとなしたりしが、『あくそねみにより死は世にりたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりてはらまれ、罪においうまれて、〔聖詠五十の七ふくより離れ遠ざかる者となり、たいよりまよいりて、アダムより以後ハリストスきたるに至るまで罪が王となりしにより神のこひつじあわれみれてきたり給へり、これづ強き者をばくし、其後そののちかくせられたる器物をうばかへして、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『擄者をとりこにす』と、又いふ『献物さゝげものをうく』と〔聖詠六十七の十九〕。


我等はりょたるをまぬかれ、『土に属する者のかたちたる如く、天に属する者のかたち』〔コリンフ前十五の四十九〕を『我等のたいを義のぼくとなして、成聖せいせいゆだぬること罪にゆだねし如くせんことを』おもんぱからざるべからず〔ロマ六の十九〕。我等は信ず、われらつまづかずして光のうちを行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目をひらたまへ、しかせばわれなんぢ律法りっぽうせきん』〔聖詠百十八の十九〕。


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けだし光のうちを行く者は五感につまづきをきたさゞる如く、完全なる成聖せいせいる者も心に奸計かんけいを思はず、しくおもんぱからざるなり。けだし『ひかりやみと何のまじわることのあらん、神の殿でんは偶像と何の同じきことのあらん』〔コリンフ後六の十五、十六〕、故に己を神の殿でんみとむべく、おもいの偶像を心中にえがかざらんことをつとめよ。けだし霊魂たましいうちに動作するすべての情慾じょうよくは偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とはいとく言へるなり〔ペトル後二の十九〕。もし我等は肉体の慾につとむるならば、せいにして無慾なるしんにつとめざらんことあきらかなり、何となれば人は『二人ふたりの主につかふるあたはず、かみたからとにかねつかふることあたはざればなり』〔マトフェイ六の二十四〕。かみ殿でんは聖にして『けがれあるいかくの如きもの』を有せず〔エフェス五の二十七〕、『けだし聖神せいしんてんを避け、無智むちしゃ思念おもいより遠ざかり、おしえ奸猾かんかつなる霊魂たましいらざるなり』〔知恵書一の四、五〕。

ゆゑに我等が律法はすべてかみゆびもつて心にしるさるゝものにて、すみを以てするにあらずかみしんもつてする〔コリンフ後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔イオアン十四の七〕とのたまひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼をおこなひ、適当なる者のさいそのじんほうをしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が律法りっぽうを彼等の心に置き、彼等のおもいにしるさん』〔イエレミヤ三十一の三十三〕。およそ選ばれたる族と、王たる祭司班と、聖なる人民と、選ばれたるペトル前二の九〕のうちらんことを苦心する者は、生活せいかつほどこしん効力こうりょく便べんおのれにうけん。


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故にハリストスおける生活のハリストスと同形なる公正にすゝむを、たとひ久しからずといへども、我等にもたまはらんことをねがかつ祈るべし。けだし如此かくのごとき霊魂たましい面の恥聖詠四十三の十六〕を脱し、最早もはや汚れたるおもいに占領せられず、悪者あくしゃ姦通かんつうせずして、うたがいなく天の新郎しんろうしんをなさん、何となればみづから彼と同形どうけいなればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる霊魂たましいは望みてたえらん〔聖詠八十三の一〕。われあえていふ、成聖せいせいうくることのきゅうなる契約けいやくにより、彼とかくの如くなる心中しんちゅうみつ体合たいごうすを望まん。如此かくのごとき霊魂たましいは実に幸福なり、彼は霊神れいしんじょうの愛に勝たれたつものとして、かみことばすること当然なり、故に彼はあえて言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我がたましいはわがかみをたのしまん、そは我にすくいころもをきせ、義の外服がいふくをまとはせて、新郎しんろうかんむりをいたゞき、しんたまこがねのかざりをつくるが如くしたまへばなり』〔イサイヤ六十一の十〕けだしおうは彼の善良を望みて〔聖詠四十四の十二〕、彼をたゞかみ殿でんと名づくるのみならず、おうむすめ及び皇后こうごうと名づくるをたまへり、かみ殿でんと名づくるは聖神せいしんため領有りょうゆうせられたるによる、おうむすめと名づくるはちゝより光の子たることをうけたるによる、また皇后こうごうと名づくるは独生どくせいしゃ光栄こうえい神性しんせい配合はいごうせしによるなり。


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けだし本性においいつたる主は、いかんして人間のすくいの摂理の為に多くの名を比喩ひゆてきおのれにうけしか。何故なにゆえ甲処こうしょにはいしコリンフ前十の四〕及び門〔イオアン十の七〕と名づけ、しょにはおのルカ十五の一〕及びぱんと名づけしか〔同六の三十五〕。いしと名づけしはその勢力せいりょくの動かすべからざると近づくべからざるとによる、もんと名づけしは彼によりて永世えいせいるによる、おのとは彼は悪習あくしゅうつによる、みちとは適当なる者を真実をるにみちびくによる、どうみきとは人心じんしんをたのしましむるさけが彼によりてさんせらるゝによる、またぱんとは有言ゆうげんなる造物ぞうぶつこゝろかたむるによるなり。しかれどもこれと同じくかみことばの為に領有せられたる非難すべからざる霊魂たましいも、もとより単純たんじゅんなるものなれど、神的しんてき道徳どうとくに多くの進歩をなすにしたがひて、たまものをうけん。我が此事このことをいふはしんの名称も勿論もちろんたゞみつのみにあらずして、さらおほかるべきによるなり。


ゆゑにかみ聖所せいしょりて、『我等が年少ねんしょうたのしましむるかみに』〔聖詠四十二の四希臘ギリシャ訳文〕かざらんあいだは、ろうは我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、しゅよくを、たまはり、成聖せいせいげんことは、救世主のよろこぶ所にして、其時そのときには、あえの如くいふをん、曰く『我等は肉に在りておこなへども、肉にしたがひてたゝかはず、我等がたゝかいうつわは肉に属せず、すなわちかみりてとりでやぶちからあり、我等これを以てもろもろはかりごとおよかみの知識にさかふ高慢とを破る』〔コリンフ後十の三至五〕。


[p.433]

故になほ此処こゝおいても我等は罪なるよくを十字架にくぎすること、預言者の祈祷きとうの如くすべし、曰く『我が肉体をなんぢおそるゝのおそれにくぎす』〔聖詠百十八の百二十〕。けだし使徒しとのいはゆる『神の国をぐあたはざる』〔コリンフ前十五の五十〕肉と血とは、ゆるからだをいふにあらずして、〔彼はかみの造る所なり〕悖逆はいぎゃくの子エフェス二の二〕のうちに行為する凶悪のしんによりておこさるゝ肉体の念慮ねんりょを指す、何となればハリストスける完全なる苦行者のために『たゝかい血肉けつにくおいてするに非ず、暗昧あんまいくんおいてし、凶悪の諸神しょしんおいてすればなり』〔エフェス六の十二〕。


故にもしの行為は天性自然の行為にあらずして、反対なるちからの行為なるをみとむるならば、彼等に対してハリストスまつたぐんをおのれにうけ、『奸計はかりごとふせぐをべし』〔エフェス六の十一〕何となれば救世主は『かつ及びことごとくのてきちからむ』のけんを我等にたまふによる〔ルカ十一の十九〕。われなほ肉体にくたいるもあえの如くふをんが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるをしならば主はわれにかざらん』〔聖詠六十五の十八〕また曰く『われとがなしといへども、彼等はあつまりて武具ぶぐをそなふ』〔同上五十八の五〕と、これいふこゝろは我等はこゝろざす所に進行し、すなわちうえよりす所の褒章ほうしょう進向しんこうしつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ることやすからん。けだしもろもろの慾に遠ざかりてあえの如くふことをればなり、曰くたゞに信を守るのみならず、すべき程を尽せりテモフェイ後四の七〕。


[p.434]

たゞハリストスを信ずるのみならず、彼と共にくるしみをうくることも肝要かんようなり、ろくしていへる如し、『なんぢたまはりしはたゞ彼を信ずるのみならず、また彼の為にくるしみをうくることなり』〔フィリッピ一の二十九〕。たゞかみを信ずるのみは地上の事をおもものに相応するのみならず、不潔のしんにさへ相応するは我がことばたざるべし、いへらく『われなんぢたれなるをる、すなわち神の子なり』〔マルコ一の二十四、マトフェイ八の二十九〕。『けだし彼もこれハリストスの十字架の敵なり、彼等がおわり滅亡めつぼうなり、彼等がかみはらなり、彼等がえいとする所ははぢなり、彼等は地上の事をおもふ』〔フィリッピ三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者のちからのみにあらず、地上の事をおもふ者もまたしかるを。しかれどもハリストスと共にくるしみをうけて共にえいせらるゝことはたゞこのおいおのれを十字架にくぎして主のきずおのれからだもののみよくるなり。


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哲学を正しく攻究こうきゅうして、霊魂たましいを悪の汚穢けがれよりすくふ者は、哲学の目的を精確せいかくに知らんこと肝要かんようなり、進行のろうけいおわりとをかくして、高慢こうまん功労こうろうのことをおも意思いしとをまつたしりぞけ、聖書の誡命かいめいにしたがひ、おのれ霊魂たましい生命いのちをすてゝいつとみ注目ちゅうもくせんためなり、すなわちかみおよあまんじてぎょうみづからになはんと決心したる者を呼びて、その愛する所の者にハリストスを愛したるため報償ほうしょうとして定め給ひしものに注目せんためなり、かくの如き苦行の経過において彼等に充分じゅうぶんようきゅうするはハリストスの十字架なり、されば彼等はこれふて、たのしみとぜんなるぼうとを以て救世主ハリストスあとにしたがひ、その摂理をおのれため生命いのちほうとなし、みちとなさんこと肝要なり、使徒のみづからへる如し、曰く『なんぢ我にならふ者となれ、我がハリストスならふがごとし』〔コリンフ十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にあるはせはしりて、我等のしんかしら及び成全せいぜんしゃなるイイススあおのぞむばし、彼はそのまえよろこびへてはぢとせず、十字架を忍びてかみほうの右にせり』〔エウレイ十二の一、二〕。

われらはかみたまものを以てみづからたかぶり、道徳に進むのる進歩をおのれため高慢こうまん称賛しょうさんためえんとなして、望む所のおわりにたつせざるさきおのれこゝろざしたわまざらんがため高慢こうまんにより先になせる勤労をおのれために無益となさゞらんがため、及びしん恩寵おんちょうの我等を引誘いんゆうする成全せいぜんへざるものとならざらんがため戦々せんせん競々きょうきょうたらざるべからざるなり。


[p.436]

故に勤労におけるの尽力じんりょくを決してよわむべからず、眼前がんぜんにある所の苦行をするべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心をかぎるべからず、すなわち使徒しとの如くを忘れてに進み〔フィリッピ三の十三〕、成全せいぜんもとむる者がくを知らずしてひとかつする所の義のねがいゆうし、勤労の為におもんぱかりて心肝をくだかんこと肝要かんようなり。彼等は許約きょやくせられたる幸福をることなほ遠くして、ハリストスの完全なる愛に多くたつせざる者なるにより、謙遜けんそんなる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだしこのあい切願せつがんして、天の約束を仰望ぎょうぼうする者は、禁食きんしょくするか、儆醒けいせいするか、あるいは他のいかなる徳行とくこうに熱心するも、以前の功労を以てみづかたかぶらざるべく、かへつて神聖なるのぞみにみたさるゝ彼はおのれを呼ぶ所の者に間断かんだんなくそゝぎて、いくばく奮闘ふんとうするもそのこゝろざす所のものにくらぶればまつたく小なりとおもふべし。さればそのおこないによりおのれかみまえに尊敬すべき者とあらはさゞらんあいだは、ろうろうくはへ、徳行とくこう徳行とくこうかさぬるも、かみまえに適当なる者となれりとの意思いしを心にいだかずして、生命いのちおわりいたるまでことごとくの尽力じんりょくもちひん。けだしおこないおいおほいなる者はかみおそるゝをもつ自負じふなげうちて、心を謙遜し、生活の為におのれつみし、信じて愛するのにより許約きょやくたのしみて、みづからろうするの如何いかんもつてせざるは、これぞ哲学てつがくもつとも卓越たくえつせる功労こうろうなる。けだしたまものおほいなるにより、これに相応そうおうする勤労きんろういだすことあたはざればなり。

[p.437]

さりながらしんぼうとはおほいならざるべからずして、これをもつて報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。しかしてしん根本こんぽん心神しんしんまづしきとかみに対するりょうあいとにあり。

希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者のため充分じゅうぶんにのべたりとおもふ。いままたこれにくはふるにかくの如き者はいかにたがい交際こうさいして如何いかなるろうあいするをようするかを示すべし、てんたつするにいたまでその進行を協力してさんためなり。

このおいて尊敬すべきと認めらるゝものをだんじてたつとばず、親族しんぞくて、もろ地下ちかさかえてゝたゞ天上てんじょう尊栄そんえい着眼ちゃくがんし、かみによる兄弟けいてい心神しんしんにて結合けつごうするものは、ともおのれ霊魂たましいをもつること肝要かんようなり。霊魂たましいつとはなにおいてもおのれむねを求めずして、かへつておのれむね矯正きょうせいし、院長いんちょうを以て己の為にかみことばとなして、これを益用えきようすること、善良ぜんりょうなる舵師だしの如くし、兄弟けいてい社会しゃかいのすべてをげて、同心どうしん協力きょうりょくして、かみむねみなとむかはしむるにあり。


【以下未入力(p.438-457)】