利用者:村田ラジオ/sandbox2
エジプトマカリイの書簡 (大書簡)
[編集]完全にして聖にせられたる人の為に
要用 なるはたゞ自 から神 に居 らんことのみならず、神も彼に居 らんことなるは、汝 が善智の明 に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、曰 く『我に居 り、我も彼に居 る』〔イオアン十五の五〕。されば神の人は神聖なる幕屋 に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる情慾 の力 の占領するをゆるさゞる者の光栄を暁 るのみならず、其 擁 する所とならんためなり。けだし適当なる者には其 成聖 とその彼等に属する無 慾 との為に救世主は住み給ふ、これ主の自 から無 慾 なる如く主をうけたる者 等 をも無慾なる者となして如何なる風にも最早 動乱 漂漾 せられざる者となさん為なり。
しかれども或者 は自 からハリストスの機 密 に遠ざかるのみならず、『濁 れる敗壊 を以て其 親友 を誘 ひ』〔アバクム二の十五〕『神を識 るべきものゝ彼等に明 にあらはるる』にも拘 はらず、神の真理を不義の中 に隠さんとす。けだし『其 思念 は虚 しくなり』其 無智 の心は昧 みしにより〔ロマ一の十八至二十一〕。彼等は説を為 していへり、恥 づべき情慾 は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、是 れ即 敗壊 の楽 み、不正なる忿怒 、神の為に発するに非 ざる不適当なる怒 、及び凡 そ此 に類するものをいふなり。— [p.425]
《現代語訳》
[p.425]
思慮分別によって、完全で聖化された人間は、彼自身が神の内にいるだけでなく、神が彼の内にいることも必要であることを知りなさい。主はこう言われる。「彼が私の内にいれば、私も彼の内にいる」(ヨハネ15:5)。神の人間は、神の幕屋に住み、この幕屋を最も純粋な神性の聖なる山に建てなければなりません。それは、情欲の暗い力が彼を支配することを許さない方の栄光を受け入れるだけでなく、その栄光に抱かれるためです。救い主は、ふさわしい人々の中に、聖性と生来の無執着のために住まわれるからです。それは、救い主がご自身が無執着であるように、彼を受け入れた人々をも無執着にし、もはや嵐に巻き込まれず、どんな風にも吹き飛ばされない者とするためです。
また、ある人々はキリストの奥義から遠く離れているだけでなく、「わざわいなるかな、その隣り人に怒りの杯を飲ませて、これを酔わせ、 彼らの隠し所を見ようとする者よ。」(ハバクク 2:15)、神の真理を偽りの中に含み、「彼らの中には、神の知恵が明らかに示されている」と言われています。なぜなら、「思いがむなしく」なり、愚かな心によって暗くなった(ローマ 1:18–21)ため、彼らは、腐敗の快楽、不当な短気、神によらない下品な怒りなど、恥ずべき情欲は神によって私たちに生まれつき備わっているものだと言うからです。
ゆゑに彼等と
其 の言 ふ所とは真理に違 ふものとしてこれを棄 て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を承認 めん、善きことに進むも悪 きことを止 むるも我等に係 らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし自 から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を罰 せざるべし。祈る此 教 に離れ遠ざかりて、これを思 にも生 ぜしめざらんことを。けだし此 の蒙昧 にして愚 なる意見は、凡 の敬虔なる裁 智 の為に忌 み嫌 ふべきものとす。神は清くして最 美 しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に聖神 の告 げ給 ひし如し、けだしいへり、『神は其 造りたる諸 の物を見たまへるに甚 だ善 かりき』〔創世記一の三十一〕。さればイエレミヤは恥 づべき情慾のために哀 み、かつ惑 ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、禍 も福 も至 高者 の口より出 づるにあらずや』〔イエレミヤ哀歌三の三十六‐三十八〕。故に福音 経 に聡明なる天軍は主に問 ふていへり、『主よ爾 は美 種 を爾 の田 に撒 きたるに非 ずや、然 らば何に由りて此の稗 あるか』〔マトフェイ十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は自 から彼等の事をいへり、『凡 そ我が天の父の植 ざりし植物は其 根 絶 されん』と〔マトフェイ十五の十三〕。しかれどもすべて神の植 ゑしものゝ美 なることは、ハリストスこれをいひ、パウェルもこれを証 せり、曰く『蓋 神の悉 くの造物は善なり』〔テモフェイ前四の四〕。故に知るべし我等の中 にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし言 ふあり、『我が隠 なる咎 より我を浄 め給 へ、故 犯 より爾 の僕 を止 めよ』〔聖詠十八の十三、十四〕、またいふあり、『外人は起 ちて我を攻 め、強き者は我が霊 を覓 む』〔同上五十三の五〕。またいふあり、『主よ我と争 ふ者と争 ひ、我と戦 ふ者と戦 ひ給へ』〔同上三十四の一〕。それ此の隠 なるもの或 は此の争ふ者或 は戦ふ者或 は此の故犯とはこれハリストスの徳行に逆 ふ凶悪なる諸神 を示すにあらずして何ぞや。— [p.426]
[p.426]
したがって、彼らや彼らの言葉を真理から逸脱したものとして捨て去り、私たちを創造した方が私たちに与えてくださった自由の専制を認め、最善を目指し、最悪を避けるのは私たち次第であることを認めましょう。真の審判者ご自身が創造主であるならば、情欲にとりつかれた私たちを罰するはずがありません。お願いですから、この教えは捨て去り、頭に浮かばないようにしてください。この不合理で愚かな考えは、すべての敬虔な理解力にとって不快です。神は、創造の時に聖霊が告げたように、純粋で最も美しい自然の創造主です。「見よ、すべてが非常に良い」(創世記 1:31)と神は言っています。エレミヤは、恥ずべき情欲について嘆き、困惑しながらこう言います。「主は『あなたのものは誰か』と言われたのではない。主が語られたから、そうなったのだ。主は『いと高き者の口からは悪は出ず、善は出る』と命じられたのではない。(哀歌エレミヤ3:36-38)」。それゆえ、福音書の中で、知性ある者たちは主にこう問いかけます。「主よ、あなたは畑に良い種を蒔かれたではありませんか。では、これらの「毒麦」はどこから来るのでしょうか(マタイ13:27)。別の箇所では、救い主ご自身がそれらについてこう言っています。「天の父が植えなかった庭は、みな根こそぎにされるであろう」(マタイ15:13)。そして、神の植えたものはすべて美しいと、パウロはキリストが「神の造られたものはすべて良いものである」(テモテ第一4:4)と言っているように、パウロもそのことを証言しています。ですから、私たちの中に秘められた情熱は私たち自身のものではなく、私たちとは無関係のものであることを知ってください。「私の隠れた思いから私を清め、あなたのしもべを異邦人からお守りください」(詩篇19:13-14)、「異邦人が私に襲いかかり、勇士たちが私の命を狙っています」(詩篇54:5)、「主よ、私をつまずかせる者を裁き、私に敵対する者と戦ってください」(詩篇35:1)と書いてあるからです。これは何を意味するのでしょうか。「秘密」、あるいはこれらの「不快な」や「戦い」、あるいはこれらの「見知らぬ人」は、キリストの美徳に反対する悪霊ではないにしても、何を意味するのでしょうか。
律法も内部の人の
潔浄 のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を妄 に口にあぐべからず、けだし主は己の名を妄 りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔復傳 律令 五の十一〕。ゆゑに使徒も勧めて明 かにいへり、『己 を凡 の肉 と神 との汚 より潔 くせよ』〔コリンフ後七の一〕。また他の処にもいふ『心は灑 がれて悪しき意念を去れ』〔エウレイ十の二十二〕、又いふ『汝等の神 と霊 と体 とは全 うし護 られて疵 なからん』〔ソルン前五の二十三〕、[p.428]又いふ『疵 なき神の子とならん為なり』〔フィリッピ二の十五〕。ゆゑに凡 て子たる位地 を賜 はらんことを願ふ者は疵 なき体 を有するのみならず、疵 なき霊 をも有すること、左 の如くならざるべからず『願 くは我が心爾 の律 に玷 なからん、我が羞 を得 ざらん為なり』〔聖詠百十八の八十〕。けだし律法の下 に居る者は、たゞ肉体の稱 義 を遂げて、外部の潔浄 を守れども、恩寵 の下 に居 る者は、成聖 により内部の平安を願ふて、左 の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼びファリセイ等の義に勝 らずば爾 等 天国に入るを得ず』〔マトフェイ五の二十〕、何となればファリセイ等は智を盲 まして、杯と皿の外を潔 むればなり〔マトフェイ二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新ファリセイは、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、自 から己を義とせんとす、しかれども聖神 は彼等の神 と共に彼等が神の子たるを証 すること、使徒と共に証 する如くせざるべし、言ふあり、『此の神 自 から我等の神 と共に我等が神の子たるを証 す』〔ロマ八の十六〕。彼等は内部の人の聖徳 に成長するを自己にあらはさんことを欲 せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『王 の女 の光栄は皆内部にある』〔聖詠四十四の十四〕を知らざるなり。我等各人は恰 も心中の無花果 の如し、主の尋 ぬるは内部の果 にありて、枝 葉 の飾 にあるにあらざるなり〔マトフェイ二十一の十九〕。— [p.427-p.428]
[p.427-p.428]
律法もまた、内なる人の清さをはっきりと求めていることを、より深く考えてみましょう。「主なるあなたの神の名を、みだりに唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える心をきよめられないからである」(申命記 5:11)とあります。それゆえ、使徒パウロもまた、はっきりとこう勧めています。「肉の汚れだけでなく、霊の汚れからも、あらゆる汚れから自分をきよめましょう」(コリント人への手紙二 7:1 )。また別の箇所では、 「心に汚れた良心を清め」(ヘブライ人への手紙 10:22 )と言い、さらに「体と霊と魂を、完全に清く保ちなさい」(テサロニケ人への手紙一 5:23)と言い、「あなたがたが、責められるところのない神の子となるためです」(ピリピ人への手紙 2:15)とも言っています。したがって、養子縁組にふさわしくありたいと願う者は皆、非の打ちどころのない体だけでなく、非の打ちどころのない魂を持たなければなりません。それは、「あなたの戒めの中で、私の心が清くあって、私が恥じることのないようにしてください」(詩篇 119:80)と言われた方のようなものです。律法の下に生き、肉の義認だけを満たす人は外面的な清さを保ちますが、恵みの下に生きる人は、聖さにおける内面的な平和も望み、「あなたがたの義がパリサイ人や律法学者よりもまさっていなければ、あなたがたは決して天の御国に入れません」(マタイ 5:20)と言われた方に従います。パリサイ人は心が盲目であるため、「鏡の外側」をきよめるからです(マタイ 23:25)。現代の新しいパリサイ人たちも、彼らと同様、未熟な心で外面を飾り、自らを正当化しますが、聖霊は、彼らが神の子であるという彼らの霊に従おうとはしません。使徒パウロはこう言っています。「御霊みずからわたしたちの霊に従われます。わたしたちは神の子なのですから」(ローマ8:16)彼らは、内なる人の聖さが成長していることを自ら示そうとせず、肉の功績だけに頼っています。「王の娘の栄光はすべて内にある」(詩編45:14)ことを彼らは知りません。私たち一人ひとりは、いわば心のいちじくの木のようで、主はその葉の飾りではなく、内なる実を求めておられるのです(マタイ21:19)。
[p.429]
故に
恥 づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、偶然 に人に入 りしにあらずといふ者は、『神 の真実を己の偽 に易 ふるなり』〔ロマ一の二十五〕何となれば我が先 にいひし如く無 玷 純潔 なる者は其 像 を己 に肖 たるものとなしたりしが、『悪 鬼 の猜 みにより死は世に入 りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて孕 まれ、罪に於 て生 れて、〔聖詠五十の七〕母 腹 より離れ遠ざかる者となり、母 胎 より迷 に居 りて、アダムより以後ハリストスの来 るに至るまで罪が王となりしにより神の羔 は憐 を垂 れて来 り給へり、これ先 づ強き者を縛 し、其後 鹵 獲 せられたる器物を奪 ひ回 して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『擄者を擄 にす』と、又いふ『献物 をうく』と〔聖詠六十七の十九〕。
我等は俘 虜 たるをまぬかれ、『土に属する者の状 を衣 たる如く、天に属する者の状 』〔コリンフ前十五の四十九〕を衣 『我等の肢 体 を義の僕 となして、成聖 に委 ぬること罪に委 ねし如くせんことを』慮 らざるべからず〔ロマ六の十九〕。我等は信ず、われら躓 かずして光の中 を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を啓 き給 へ、然 せば我 爾 が律法 の奇 跡 を観 ん』〔聖詠百十八の十九〕。— [p.429]
[p.430]
けだし光の
中 を行く者は五感に躓 きを来 さゞる如く、完全なる成聖 に居 る者も心に奸計 を思はず、悪 しく慮 らざるなり。けだし『光 は暗 と何の交 ることのあらん、神の殿 は偶像と何の同じきことのあらん』〔コリンフ後六の十五、十六〕、故に己を神の殿 と認 むべく、思 の偶像を心中に画 かざらんことを力 めよ。けだし霊魂 の中 に動作する凡 ての情慾 は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは最 善 く言へるなり〔ペトル後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に勤 むるならば、聖 にして無慾なる神 につとめざらんこと明 なり、何となれば人は『二人 の主に事 ふるあたはず、神 と財 とに兼 事 ふること能 はざればなり』〔マトフェイ六の二十四〕。神 の殿 は聖にして『汚 或 は此 の如きもの』を有せず〔エフェス五の二十七〕、『けだし聖神 は諂 媚 を避け、無智 者 の思念 より遠ざかり、教 は奸猾 なる霊魂 に入 らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。ゆゑに我等が律法はすべて
神 の指 を以 て心にしるさるゝものにて、墨 を以てするにあらず、神 の神 を以 てする〔コリンフ後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔イオアン十四の七〕との給 ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を行 ひ、適当なる者の裁 智 に其 仁 慈 の法 をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が律法 を彼等の心に置き、彼等の思 にしるさん』〔イエレミヤ三十一の三十三〕。凡 そ選ばれたる族と、王たる祭司班と、聖なる人民と、選ばれたる人〔ペトル前二の九〕の中 に入 らんことを苦心する者は、生活 を施 す神 の効力 を便 利 に己 れにうけん。— [p.430]
[p.431]
故にハリストスに
於 る生活のハリストスと同形なる公正に進 むを、縦 ひ久しからずと雖 も、我等にも賜 はらんことを願 ひ且 祈るべし。けだし如此 の霊魂 は面の恥〔聖詠四十三の十六〕を脱し、最早 汚れたる思 に占領せられず、悪者 と姦通 せずして、疑 なく天の新郎 と親 与 をなさん、何となれば自 から彼と同形 なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる霊魂 は望みて絶 入 らん〔聖詠八十三の一〕。我 敢 ていふ、成聖 を享 ることの不 朽 なる契約 により、彼とかくの如く美 なる心中 秘 密 の体合 を為 すを望まん。如此 の霊魂 は実に幸福なり、彼は霊神 上 の愛に勝たれたつものとして、神 言 に嫁 すること当然なり、故に彼は敢 て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が霊 はわが神 をたのしまん、そは我に救 の衣 をきせ、義の外服 をまとはせて、新郎 が冠 をいたゞき、新 婦 が玉 こがねの飾 をつくるが如くしたまへばなり』〔イサイヤ六十一の十〕けだし王 は彼の善良を望みて〔聖詠四十四の十二〕、彼をたゞ神 の殿 と名づくるのみならず、王 の女 及び皇后 と名づくるを賜 へり、神 の殿 と名づくるは聖神 の為 に領有 せられたるによる、王 の女 と名づくるは父 より光の子たることをうけたるによる、又 皇后 と名づくるは独生 者 の光栄 の神性 と配合 せしによるなり。— [p.431]
[p.432]
けだし本性に
於 て一 たる主は、いかんして人間の救 の摂理の為に多くの名を比喩 的 に己 にうけしか。何故 甲処 には石 〔コリンフ前十の四〕及び門〔イオアン十の七〕と名づけ、他 処 には斧 〔ルカ十五の一〕及び餅 と名づけしか〔同六の三十五〕。石 と名づけしは其 勢力 の動かすべからざると近づくべからざるとによる、門 と名づけしは彼によりて永世 に入 るによる、斧 とは彼は悪習 の根 を絶 つによる、路 とは適当なる者を真実を識 るにみちびくによる、葡 萄 の幹 とは人心 をたのしましむる酒 が彼によりて産 せらるゝによる、また餅 とは有言 なる造物 の心 を堅 むるによるなり。しかれどもこれと同じく神 言 の為に領有せられたる非難すべからざる霊魂 も、固 より単純 なるものなれど、神的 道徳 に多くの進歩をなすにしたがひて、賜 をうけん。我が此事 をいふは新 婦 の名称も勿論 たゞ三 のみにあらずして、更 に多 かるべきによるなり。
ゆゑに神 の聖所 に入 りて、『我等が年少 を楽 ましむる神 に』〔聖詠四十二の四、希臘 訳文〕就 かざらん間 は、此 の労 は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、主 の無 慾 を、たまはり、成聖 を遂 げんことは、救世主の悦 ぶ所にして、其時 には、敢 て左 の如くいふを得 ん、曰く『我等は肉に在りて行 へども、肉に循 ひて戦 はず、我等が戦 の器 は肉に属せず、乃 神 に由 りて塁 を破 る能 あり、我等此 を以て諸 の謀 と凡 そ神 の知識に逆 ふ高慢とを破る』〔コリンフ後十の三至五〕。— [p.432]
[p.433]
故に
尚 此処 に於 ても我等は罪なる慾 を十字架に釘 すること、預言者の祈祷 の如くすべし、曰く『我が肉体を爾 を畏 るゝの畏 れに釘 す』〔聖詠百十八の百二十〕。けだし使徒 のいはゆる『神の国を嗣 ぐあたはざる』〔コリンフ前十五の五十〕肉と血とは、此 の見 ゆる体 をいふにあらずして、〔彼は神 の造る所なり〕悖逆 の子〔エフェス二の二〕の中 に行為する凶悪の神 によりて起 さるゝ肉体の念慮 を指す、何となればハリストスに於 ける完全なる苦行者のために『戦 は血肉 に於 てするに非ず、此 の暗昧 の世 君 に於 てし、凶悪の諸神 に於 てすればなり』〔エフェス六の十二〕。
故にもし此 の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる力 の行為なるを認 むるならば、彼等に対してハリストスの全 き軍 備 をおのれにうけ、『其 の奸計 を禦 ぐを得 べし』〔エフェス六の十一〕何となれば救世主は『蛇 蝎 及び悉 くの敵 の力 を踏 む』の権 を我等に賜 ふによる〔ルカ十一の十九〕。我 等 尚 肉体 に居 るも敢 て左 の如く言 ふを得 んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを見 しならば主はわれに聴 かざらん』〔聖詠六十五の十八〕また曰く『我 尤 なしといへども、彼等は趨 せ集 まりて武具 をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ言 意 は我等は志 す所に進行し、即 上 より召 す所の褒章 に進向 しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること易 からん。けだし諸 の慾に遠ざかりて敢 て左 の如く言 ふことを得 ればなり、曰くたゞに信を守るのみならず、馳 すべき程を尽せり〔テモフェイ後四の七〕。— [p.433]
[p.434]
たゞハリストスを信ずるのみならず、彼と共に
苦 をうくることも肝要 なり、録 していへる如し、『汝 等 に賜 はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、亦 彼の為に苦 をうくることなり』〔フィリッピ一の二十九〕。たゞ神 を信ずるのみは地上の事を念 ふ者 に相応するのみならず、不潔の神 にさへ相応するは我が言 を俟 たざるべし、いへらく『我 爾 が誰 なるを知 る、乃 ち神の子なり』〔マルコ一の二十四、マトフェイ八の二十九〕。『けだし彼も此 もハリストスの十字架の敵なり、彼等が終 は滅亡 なり、彼等が神 は腹 なり、彼等が栄 とする所は辱 なり、彼等は地上の事を念 ふ』〔フィリッピ三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の力 のみにあらず、地上の事を念 ふ者も亦 然 るを。しかれどもハリストスと共に苦 みをうけて共に栄 せらるゝことはたゞ此 世 に於 て己 を十字架に釘 して主の疵 を己 の体 に負 ふ者 のみ能 し得 るなり。— [p.434]
[p.435]
哲学を正しく
攻究 して、霊魂 を悪の汚穢 より救 ふ者は、哲学の目的を精確 に知らんこと肝要 なり、進行の労 と経 過 の終 とを確 知 して、高慢 と功労 のことを思 ふ意思 とを全 く斥 け、聖書の誡命 にしたがひ、己 の霊魂 と生命 をすてゝ一 の富 に注目 せん為 なり、即 神 が凡 そ甘 んじて苦 行 を自 から任 はんと決心したる者を呼びて、其 愛する所の者にハリストスを愛したる為 の報償 として定め給ひしものに注目せん為 なり、此 の如き苦行の経過に於 て彼等に充分 の路 用 を給 するはハリストスの十字架なり、されば彼等は此 を負 ふて、楽 みと善 なる希 望 とを以て救世主ハリストスの跡 にしたがひ、其 摂理を己 の為 に生命 の法 となし、路 となさんこと肝要なり、使徒の自 から言 へる如し、曰く『爾 等 我に效 ふ者となれ、我がハリストスに效 ふが如 し』〔コリンフ十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある馳 場 を趨 りて、我等の信 の首 及び成全 者 なるイイススを仰 ぎ望 むばし、彼は其 前 に在 る喜 に易 へて辱 を意 とせず、十字架を忍びて神 の宝 座 の右に坐 せり』〔エウレイ十二の一、二〕。われらは
神 の賜 を以て自 から高 ぶり、道徳に進むの或 る進歩を己 の為 に高慢 と称賛 の為 の縁 由 となして、望む所の終 りに達 せざる先 に己 の志 の撓 まざらんが為 、高慢 により先になせる勤労を己 の為 に無益となさゞらんが為 、及び神 の恩寵 の我等を引誘 する成全 に堪 へざるものとならざらんが為 に戦々 競々 たらざるべからざるなり。— [p.435]
[p.436]
故に勤労に
於 るの尽力 を決して弱 むべからず、眼前 にある所の苦行を辞 するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を劃 るべからず、乃 使徒 の如く後を忘れて前に進み〔フィリッピ三の十三〕、成全 を求 むる者が飽 くを知らずして独 り飢 渇 する所の義の願 を有 し、勤労の為に慮 りて心肝を摧 かんこと肝要 なり。彼等は許約 せられたる幸福を距 ること猶 遠くして、ハリストスの完全なる愛に多く達 せざる者なるにより、謙遜 なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし此 愛 を切願 して、天の約束を仰望 する者は、禁食 するか、儆醒 するか、或 は他のいかなる徳行 に熱心するも、以前の功労を以て自 ら高 ぶらざるべく、却 て神聖なる望 にみたさるゝ彼は己 を呼ぶ所の者に間断 なく眼 を注 ぎて、いくばく奮闘 するも其 志 す所のものに比 ぶれば全 く小なりと思 ふべし。されば其 行 により己 を神 の前 に尊敬すべき者とあらはさゞらん間 は、労 に労 を加 へ、徳行 に徳行 を重 ぬるも、神 の前 に適当なる者となれりとの意思 を心に懐 かずして、此 の生命 の終 に至 るまで悉 くの尽力 を用 ひん。けだし行 に於 て大 なる者は神 を畏 るゝを以 て自負 を地 に擲 ちて、心を謙遜し、生活の為に己 を罪 し、信じて愛するの度 により許約 を楽 みて、自 から労 するの如何 を以 てせざるは、これぞ哲学 の最 卓越 せる功労 なる。けだし賜 は大 なるにより、これに相応 する勤労 を見 出 すことあたはざればなり。— [p.436]
[p.437]
さりながら
信 と望 とは大 ならざるべからずして、これを以 て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。然 して信 の根本 は心神 の貧 しきと神 に対する無 量 の愛 とにあり。希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の
為 に余 は充分 にのべたりと思 ふ。今 又 これに加 ふるにかくの如き者はいかに互 に交際 して如何 なる労 を愛 するを要 するかを示すべし、天 都 に達 するに至 る迄 其 進行を協力して成 さん為 なり。
此 世 に於 て尊敬すべきと認めらるゝものを断 じて尊 ばず、親族 を棄 て、もろ〳〵地下 の栄 を棄 てゝたゞ天上 の尊栄 に着眼 し、神 による兄弟 と心神 にて結合 する者 は、世 と共 に己 の霊魂 をも棄 つること肝要 なり。霊魂 を棄 つとは何 に於 ても己 の旨 を求めずして、反 つて己 の旨 を矯正 し、院長 を以て己の為に神 の言 となして、これを益用 すること、善良 なる舵師 の如くし、兄弟 社会 のすべてを挙 げて、同心 協力 して、神 の旨 の湊 に向 はしむるにあり。— [p.437]
【以下未入力(p.438-457)】
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| 原文: |
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| 翻訳文: |
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