wikisource:宗教 > 埃及マカリイ全書
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完全にして聖にせられたる人の為に要用なるはたゞ自から神に居らんことのみならず、神も彼に居らんことなるは、汝が善智の明に知る所なるべし、主のいひ給ふごとし、曰く『我に居り、我も彼に居る』〔イオアン十五の五〕。されば神の人は神聖なる幕屋に居り、此の幕屋を至浄なる神性の聖なる山に建てざるべからず、これ暗黒なる情慾の力の占領するをゆるさゞる者の光栄を暁るのみならず、其擁する所とならんためなり。けだし適当なる者には其成聖とその彼等に属する無慾との為に救世主は住み給ふ、これ主の自から無慾なる如く主をうけたる者等をも無慾なる者となして如何なる風にも最早動乱漂漾せられざる者となさん為なり。
しかれども或者は自からハリストスの機密に遠ざかるのみならず、『濁れる敗壊を以て其親友を誘ひ』〔アバクム二の十五〕『神を識るべきものゝ彼等に明にあらはるる』にも拘はらず、神の真理を不義の中に隠さんとす。けだし『其思念は虚しくなり』其無智の心は昧みしにより〔ロマ一の十八至二十一〕。彼等は説を為していへり、恥づべき情慾は天性自然にして神より我等に付与せられたるものなりと、是れ即敗壊の楽み、不正なる忿怒、神の為に発するに非ざる不適当なる怒、及び凡そ此に類するものをいふなり。
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ゆゑに彼等と其の言ふ所とは真理に違ふものとしてこれを棄て、我等を造りし者を以て我等にあたへられたる自由自主の主権を承認めん、善きことに進むも悪きことを止むるも我等に係らんためなり。けだし真実なる審判者は、もし自から情慾の造物主ならば、これに占領せらるゝ我等を罰せざるべし。祈る此教に離れ遠ざかりて、これを思にも生ぜしめざらんことを。けだし此の蒙昧にして愚なる意見は、凡の敬虔なる裁智の為に忌み嫌ふべきものとす。神は清くして最美しき天地万物の造成者なることは、世界創造の際に聖神の告げ給ひし如し、けだしいへり、『神は其造りたる諸の物を見たまへるに甚だ善かりき』〔創世記一の三十一〕。さればイエレミヤは恥づべき情慾のために哀み、かつ惑ふていへり、『主の命じ給ふにあらずば、誰か事を述べんに、その事すなはち成らんや、禍も福も至高者の口より出づるにあらずや』〔イエレミヤ哀歌三の三十六‐三十八〕。故に福音経に聡明なる天軍は主に問ふていへり、『主よ爾は美種を爾の田に撒きたるに非ずや、然らば何に由りて此の稗あるか』〔マトフェイ十三の二十七〕。[p.427]また他の所に救世主は自から彼等の事をいへり、『凡そ我が天の父の植ざりし植物は其根絶されん』と〔マトフェイ十五の十三〕。しかれどもすべて神の植ゑしものゝ美なることは、ハリストスこれをいひ、パウェルもこれを証せり、曰く『蓋神の悉くの造物は善なり』〔テモフェイ前四の四〕。故に知るべし我等の中にかくるゝ情慾は本来我等に属するに非ずして、他に属するものなるを。けだし言ふあり、『我が隠なる咎より我を浄め給へ、故犯より爾の僕を止めよ』〔聖詠十八の十三、十四〕、またいふあり、『外人は起ちて我を攻め、強き者は我が霊を覓む』〔同上五十三の五〕。またいふあり、『主よ我と争ふ者と争ひ、我と戦ふ者と戦ひ給へ』〔同上三十四の一〕。それ此の隠なるもの或は此の争ふ者或は戦ふ者或は此の故犯とはこれハリストスの徳行に逆ふ凶悪なる諸神を示すにあらずして何ぞや。
律法も内部の人の潔浄のことを公然と呼ぶを精密に吟味せよ。いふあり、『汝の主、神の名を妄に口にあぐべからず、けだし主は己の名を妄りに口にあぐる者の心を清めざるべし』〔復傳律令五の十一〕。ゆゑに使徒も勧めて明かにいへり、『己を凡の肉と神との汚より潔くせよ』〔コリンフ後七の一〕。また他の処にもいふ『心は灑がれて悪しき意念を去れ』〔エウレイ十の二十二〕、又いふ『汝等の神と霊と体とは全うし護られて疵なからん』〔ソルン前五の二十三〕、[p.428]又いふ『疵なき神の子とならん為なり』〔フィリッピ二の十五〕。ゆゑに凡て子たる位地を賜はらんことを願ふ者は疵なき体を有するのみならず、疵なき霊をも有すること、左の如くならざるべからず『願くは我が心爾の律に玷なからん、我が羞を得ざらん為なり』〔聖詠百十八の八十〕。けだし律法の下に居る者は、たゞ肉体の稱義を遂げて、外部の潔浄を守れども、恩寵の下に居る者は、成聖により内部の平安を願ふて、左の如くいひし者にしたがふなり、曰く、『もし汝等の義は学士お呼びファリセイ等の義に勝らずば爾等天国に入るを得ず』〔マトフェイ五の二十〕、何となればファリセイ等は智を盲まして、杯と皿の外を潔むればなり〔マトフェイ二十三の二十五〕。今も彼等に似たる新ファリセイは、未熟なる才智を以て外部の人を粉飾し、自から己を義とせんとす、しかれども聖神は彼等の神と共に彼等が神の子たるを証すること、使徒と共に証する如くせざるべし、言ふあり、『此の神自から我等の神と共に我等が神の子たるを証す』〔ロマ八の十六〕。彼等は内部の人の聖徳に成長するを自己にあらはさんことを欲せずして、たゞ肉体上の功労に信任し、『王の女の光栄は皆内部にある』〔聖詠四十四の十四〕を知らざるなり。我等各人は恰も心中の無花果の如し、主の尋ぬるは内部の果にありて、枝葉の飾にあるにあらざるなり〔マトフェイ二十一の十九〕。
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故に恥づべき情慾を弁護して、天然自然なるものとし、偶然に人に入りしにあらずといふ者は、『神の真実を己の偽に易ふるなり』〔ロマ一の二十五〕何となれば我が先にいひし如く無玷純潔なる者は其像を己に肖たるものとなしたりしが、『悪鬼の猜みにより死は世に入りたればなり』〔知恵書二の二十四〕。ゆゑに人間は不法によりて孕まれ、罪に於て生れて、〔聖詠五十の七〕母腹より離れ遠ざかる者となり、母胎より迷に居りて、アダムより以後ハリストスの来るに至るまで罪が王となりしにより神の羔は憐を垂れて来り給へり、これ先づ強き者を縛し、其後鹵獲せられたる器物を奪ひ回して、己の力を以て世の罪を取らん為なり、言ふあり『擄者を擄にす』と、又いふ『献物をうく』と〔聖詠六十七の十九〕。
我等は俘虜たるをまぬかれ、『土に属する者の状を衣たる如く、天に属する者の状』〔コリンフ前十五の四十九〕を衣『我等の肢体を義の僕となして、成聖に委ぬること罪に委ねし如くせんことを』慮らざるべからず〔ロマ六の十九〕。我等は信ず、われら躓かずして光の中を行く者は、神の奇跡を認めんを要するを。録して言ふ所の如し、曰く『我が目を啓き給へ、然せば我爾が律法の奇跡を観ん』〔聖詠百十八の十九〕。
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けだし光の中を行く者は五感に躓きを来さゞる如く、完全なる成聖に居る者も心に奸計を思はず、悪しく慮らざるなり。けだし『光は暗と何の交ることのあらん、神の殿は偶像と何の同じきことのあらん』〔コリンフ後六の十五、十六〕、故に己を神の殿と認むべく、思の偶像を心中に画かざらんことを力めよ。けだし霊魂の中に動作する凡ての情慾は偶像なり、故に『勝たるゝ者は勝つ者の奴隷たり』とは最善く言へるなり〔ペトル後二の十九〕。もし我等は肉体の慾に勤むるならば、聖にして無慾なる神につとめざらんこと明なり、何となれば人は『二人の主に事ふるあたはず、神と財とに兼事ふること能はざればなり』〔マトフェイ六の二十四〕。神の殿は聖にして『汚或は此の如きもの』を有せず〔エフェス五の二十七〕、『けだし聖神は諂媚を避け、無智者の思念より遠ざかり、教は奸猾なる霊魂に入らざるなり』〔知恵書一の四、五〕。
ゆゑに我等が律法はすべて神の指を以て心にしるさるゝものにて、墨を以てするにあらず、神の神を以てする〔コリンフ後三の三〕ものなるを確信して、『我は真実なり』〔イオアン十四の七〕との給ひし立法者の真実をうけん、彼は心の割礼を行ひ、適当なる者の裁智に其仁慈の法をしるすこと、預言者のいへる如し、曰く『われ我が律法を彼等の心に置き、彼等の思にしるさん』〔イエレミヤ三十一の三十三〕。凡そ選ばれたる族と、王たる祭司班と、聖なる人民と、選ばれたる人〔ペトル前二の九〕の中に入らんことを苦心する者は、生活を施す神の効力を便利に己れにうけん。
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故にハリストスに於る生活のハリストスと同形なる公正に進むを、縦ひ久しからずと雖も、我等にも賜はらんことを願ひ且祈るべし。けだし如此の霊魂は面の恥〔聖詠四十三の十六〕を脱し、最早汚れたる思に占領せられず、悪者と姦通せずして、疑なく天の新郎と親与をなさん、何となれば自から彼と同形なればなり。彼に対するの愛を以て刺激せられたる霊魂は望みて絶入らん〔聖詠八十三の一〕。我敢ていふ、成聖を享ることの不朽なる契約により、彼とかくの如く美なる心中秘密の体合を為すを望まん。如此の霊魂は実に幸福なり、彼は霊神上の愛に勝たれたつものとして、神言に嫁すること当然なり、故に彼は敢て言ふべし、左の如く言ふべし、曰く『我が霊はわが神をたのしまん、そは我に救の衣をきせ、義の外服をまとはせて、新郎が冠をいたゞき、新婦が玉こがねの飾をつくるが如くしたまへばなり』〔イサイヤ六十一の十〕けだし王は彼の善良を望みて〔聖詠四十四の十二〕、彼をたゞ神の殿と名づくるのみならず、王の女及び皇后と名づくるを賜へり、神の殿と名づくるは聖神の為に領有せられたるによる、王の女と名づくるは父より光の子たることをうけたるによる、又皇后と名づくるは独生者の光栄の神性と配合せしによるなり。
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けだし本性に於て一たる主は、いかんして人間の救の摂理の為に多くの名を比喩的に己にうけしか。何故甲処には石〔コリンフ前十の四〕及び門〔イオアン十の七〕と名づけ、他処には斧〔ルカ十五の一〕及び餅と名づけしか〔同六の三十五〕。石と名づけしは其勢力の動かすべからざると近づくべからざるとによる、門と名づけしは彼によりて永世に入るによる、斧とは彼は悪習の根を絶つによる、路とは適当なる者を真実を識るにみちびくによる、葡萄の幹とは人心をたのしましむる酒が彼によりて産せらるゝによる、また餅とは有言なる造物の心を堅むるによるなり。しかれどもこれと同じく神言の為に領有せられたる非難すべからざる霊魂も、固より単純なるものなれど、神的道徳に多くの進歩をなすにしたがひて、賜をうけん。我が此事をいふは新婦の名称も勿論たゞ三のみにあらずして、更に多かるべきによるなり。
ゆゑに神の聖所に入りて、『我等が年少を楽ましむる神に』〔聖詠四十二の四、希臘訳文〕就かざらん間は、此の労は我等の面前にあるを知るべし、けだし我等なほ肉体にあるも、主の無慾を、たまはり、成聖を遂げんことは、救世主の悦ぶ所にして、其時には、敢て左の如くいふを得ん、曰く『我等は肉に在りて行へども、肉に循ひて戦はず、我等が戦の器は肉に属せず、乃神に由りて塁を破る能あり、我等此を以て諸の謀と凡そ神の知識に逆ふ高慢とを破る』〔コリンフ後十の三至五〕。
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故に尚此処に於ても我等は罪なる慾を十字架に釘すること、預言者の祈祷の如くすべし、曰く『我が肉体を爾を畏るゝの畏れに釘す』〔聖詠百十八の百二十〕。けだし使徒のいはゆる『神の国を嗣ぐあたはざる』〔コリンフ前十五の五十〕肉と血とは、此の見ゆる体をいふにあらずして、〔彼は神の造る所なり〕悖逆の子〔エフェス二の二〕の中に行為する凶悪の神によりて起さるゝ肉体の念慮を指す、何となればハリストスに於ける完全なる苦行者のために『戦は血肉に於てするに非ず、此の暗昧の世君に於てし、凶悪の諸神に於てすればなり』〔エフェス六の十二〕。
故にもし此の行為は天性自然の行為にあらずして、反対なる力の行為なるを認むるならば、彼等に対してハリストスの全き軍備をおのれにうけ、『其の奸計を禦ぐを得べし』〔エフェス六の十一〕何となれば救世主は『蛇蝎及び悉くの敵の力を踏む』の権を我等に賜ふによる〔ルカ十一の十九〕。我等尚肉体に居るも敢て左の如く言ふを得んが為なり、曰く『もしわが心に不法のあるを見しならば主はわれに聴かざらん』〔聖詠六十五の十八〕また曰く『我尤なしといへども、彼等は趨せ集まりて武具をそなふ』〔同上五十八の五〕と、これ言意は我等は志す所に進行し、即上より召す所の褒章に進向しつゝ、如何なる肉体の慾もあるなうして、天に生涯を送ること易からん。けだし諸の慾に遠ざかりて敢て左の如く言ふことを得ればなり、曰くたゞに信を守るのみならず、馳すべき程を尽せり〔テモフェイ後四の七〕。
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たゞハリストスを信ずるのみならず、彼と共に苦をうくることも肝要なり、録していへる如し、『汝等に賜はりしはたゞ彼を信ずるのみならず、亦彼の為に苦をうくることなり』〔フィリッピ一の二十九〕。たゞ神を信ずるのみは地上の事を念ふ者に相応するのみならず、不潔の神にさへ相応するは我が言を俟たざるべし、いへらく『我爾が誰なるを知る、乃ち神の子なり』〔マルコ一の二十四、マトフェイ八の二十九〕。『けだし彼も此もハリストスの十字架の敵なり、彼等が終は滅亡なり、彼等が神は腹なり、彼等が栄とする所は辱なり、彼等は地上の事を念ふ』〔フィリッピ三の十八、十九〕と見るか十字架の敵はたゞ背教者の力のみにあらず、地上の事を念ふ者も亦然るを。しかれどもハリストスと共に苦みをうけて共に栄せらるゝことはたゞ此世に於て己を十字架に釘して主の疵を己の体に負ふ者のみ能し得るなり。
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哲学を正しく攻究して、霊魂を悪の汚穢より救ふ者は、哲学の目的を精確に知らんこと肝要なり、進行の労と経過の終とを確知して、高慢と功労のことを思ふ意思とを全く斥け、聖書の誡命にしたがひ、己の霊魂と生命をすてゝ一の富に注目せん為なり、即神が凡そ甘んじて苦行を自から任はんと決心したる者を呼びて、其愛する所の者にハリストスを愛したる為の報償として定め給ひしものに注目せん為なり、此の如き苦行の経過に於て彼等に充分の路用を給するはハリストスの十字架なり、されば彼等は此を負ふて、楽みと善なる希望とを以て救世主ハリストスの跡にしたがひ、其摂理を己の為に生命の法となし、路となさんこと肝要なり、使徒の自から言へる如し、曰く『爾等我に效ふ者となれ、我がハリストスに效ふが如し』〔コリンフ十一の一〕又いふ『忍耐を以て我等の前にある馳場を趨りて、我等の信の首及び成全者なるイイススを仰ぎ望むばし、彼は其前に在る喜に易へて辱を意とせず、十字架を忍びて神の宝座の右に坐せり』〔エウレイ十二の一、二〕。
われらは神の賜を以て自から高ぶり、道徳に進むの或る進歩を己の為に高慢と称賛の為の縁由となして、望む所の終りに達せざる先に己の志の撓まざらんが為、高慢により先になせる勤労を己の為に無益となさゞらんが為、及び神の恩寵の我等を引誘する成全に堪へざるものとならざらんが為に戦々競々たらざるべからざるなり。
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故に勤労に於るの尽力を決して弱むべからず、眼前にある所の苦行を辞するべからず、もし先に何か遂げし所あらんには、それを以て熱心を劃るべからず、乃使徒の如く後を忘れて前に進み〔フィリッピ三の十三〕、成全を求むる者が飽くを知らずして独り飢渇する所の義の願を有し、勤労の為に慮りて心肝を摧かんこと肝要なり。彼等は許約せられたる幸福を距ること猶遠くして、ハリストスの完全なる愛に多く達せざる者なるにより、謙遜なる者となり、恐れに満てる者とならざるべからず。けだし此愛を切願して、天の約束を仰望する者は、禁食するか、儆醒するか、或は他のいかなる徳行に熱心するも、以前の功労を以て自ら高ぶらざるべく、却て神聖なる望にみたさるゝ彼は己を呼ぶ所の者に間断なく眼を注ぎて、いくばく奮闘するも其志す所のものに比ぶれば全く小なりと思ふべし。されば其行により己を神の前に尊敬すべき者とあらはさゞらん間は、労に労を加へ、徳行に徳行を重ぬるも、神の前に適当なる者となれりとの意思を心に懐かずして、此の生命の終に至るまで悉くの尽力を用ひん。けだし行に於て大なる者は神を畏るゝを以て自負を地に擲ちて、心を謙遜し、生活の為に己を罪し、信じて愛するの度により許約を楽みて、自から労するの如何を以てせざるは、これぞ哲学の最卓越せる功労なる。けだし賜は大なるにより、これに相応する勤労を見出すことあたはざればなり。
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さりながら信と望とは大ならざるべからずして、これを以て報酬を測るべく、勤労を以てすべからざるなり。然して信の根本は心神の貧しきと神に対する無量の愛とにあり。
希望の目的に応じ、哲学によりて、生活せんと決心したる者の為に余は充分にのべたりと思ふ。今又これに加ふるにかくの如き者はいかに互に交際して如何なる労を愛するを要するかを示すべし、天都に達するに至る迄其進行を協力して成さん為なり。
此世に於て尊敬すべきと認めらるゝものを断じて尊ばず、親族を棄て、もろ〳〵地下の栄を棄てゝたゞ天上の尊栄に着眼し、神による兄弟と心神にて結合する者は、世と共に己の霊魂をも棄つること肝要なり。霊魂を棄つとは何に於ても己の旨を求めずして、反つて己の旨を矯正し、院長を以て己の為に神の言となして、これを益用すること、善良なる舵師の如くし、兄弟社会のすべてを挙げて、同心協力して、神の旨の湊に向はしむるにあり。
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