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第八課 三位一体
48●天主は許多ありますか
▲天主は唯一の外ありませぬ。
是が本当の答であって、若し茲で天主に三位あると答へたならば反対に成る。物が二でもある時は、一は是限、今一は其限と成る筈。天主は限なき御者であるから、限なきものは如何しても二あられぬので、
天主は唯一の外ありませぬ、
国に主権者は一の外なきが如し。其で神道では、神は八百万と云って八百万もあると云へば、如何しても真の神と云はれぬ。
49●天主に幾位ありますか
▲天主には三位あります、第一は聖父、第二は聖子、第三は聖霊と申します。
位
は位と云ふ字であるけれども、茲では位と読んではならぬ、位と読む筈である。位はラテン語の Persona ペルソ
[下段]
ナ即ち知恵あって独立独行するものと云ふ意味であるが、日本語では、此御方、彼御方と叮嚀に云ふ如く、矢張御方と云って差支なさゝうである。其で天主は唯一なれども、単独のものではない、三の御方であると云はれる
第一は
聖父、
第二は
聖子、
第三は
聖霊と申します。
第一位を聖父と名けるのは、第二位の本であるから。第二位を聖子と云ふのは、第一位より生ずるから。第三位を聖霊と申して、聖父及び聖子から出るものである。然りながら最も注意すべき事は、聖父聖子と云っても、唯イエズス、キリストが人間に解り易いやうに仰しゃったばかりで、人間の父子同様には思はれぬ、天主は全く霊である事を忘れてはならぬ。寧ろ光が火より生じ、言語や思想が知恵より生ずる如くである。乃で聖子を「聖父の光輝」と云ひ、叉御告の祈祷に、「御言は肉と成り給ふた」とあるが、御言とは聖子を斥したものである。
聖書に天主が現れ給ふたとあるが、霊にて在すによって、
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人に感ぜられるやうに、假の形を現し給ふた訳である。即ち聖父は翁の形を以て預言者等に現れ、聖子はイエズス、キリストの身を以て世に現れ、聖霊は火の形等を以て現れ給ふたのは著しい事実である。
50●聖父と聖子と聖霊は各自天主でありますか
▲然り、聖父も聖子も聖霊も天主であります。
……………
(註)日本の八百万の神が真の神と云はれぬのは、神性、即ち永遠、全知、全能等の、天主の本性を持たぬからである。
…………
[下段]
…………………
52●三位の中には孰が勝れて居ますか
▲三位は同じく天主でありますから、前後上下の差別はありませぬ。
孰が勝れて居ますか、
とは孰が一番尊い、一番
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大い、位が高いかと云ふ事である。答は
三位は同じく天主でありますから、
大い、小い、高い、低い天主とは云はれず、
前
の天主、
後
の天主、
上
の天主、
下
の天主と云ふ事は出来ぬ。位は相同じ事で
差別はありませぬ
と云ふのである。
…………………
[下段]
…………即ち聖父は本で、其より聖子が生で給ひ、父及び子より聖霊が出で給ふ訳に由る計である。
……………
他の事柄に至っては、即ち、天主が御自分の外に為し給ふ働、………其で或は聖父は万物を作り給ひ、聖子は人を贖ひ給ひ、聖霊は賜を施して霊魂を聖ならしめ給ふと、常々云って極った話方に成って居るけれども、実際は三位諸共に万物を造り、且保ち、且人を救ひ、且聖ならしめ給ふのである。
但聖子が人と成り給ふたのは、少し計訳が違ふ。即ち世に生れ、三十三年の間さなざまに働き、叉苦しみを受け、
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且死し、且復活し、且御昇天なさったのは、皆霊にて在す天主としてではなく、寧ろ五尺の御体を有って居る人としての事である。其御体は、御父叉は聖霊の体でなく、天主聖子即ち第二位の固有の体に成った計であって………以て人間の救はれたのは、三位諸共に為し給ふた所であると合点すべきものである。
………………
53●三位の義理は曉り得るか
▲三位の義理は此世では曉り得ませぬ、天主の啓示に由って信ずるのであります。
三位の義理
は何かと云ふに、一の天主に三の御方があって、三の御方各自天主でありながら、三の天主に成らず、唯御一体、唯一の天主に成る等の事である。
……………
[下段]
……………即ち
天主の啓示、
…………
に由って信ずるのであります。
…………叉洗礼を授けるに聖父と聖子と聖霊との三位の唯一の御名に因ってする事を命じ給ふたが、弟子等は之を説明して、聖会で之を伝へたのである。併し全くは此世で曉られぬ、曉りたいと思ふよりは恭しく諦めるが宜い。
54●自ら曉り得ずして信ずべき事を何と云ふか
▲自ら曉り得ずして信ずべき事を玄義、叉は妙理と云ひます。
玄義
とは奥深き義、
妙理
とは秀たる理との意味である。
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…………………
学問でも解らぬ事は沢山ある。曉り得ぬ事は世界にも多くあれば、天主に就いては猶更ある筈である。我々
[下段]
は世の事を学者が云ふから解らぬながら信じねばならぬと思へば、天主の事はイエズス、キリストが之を知らせ、叉奇跡を以て証拠立て給ふたから、正直に信ずるのは信仰であって当然である。
55●天主の一体にして三位なる事を何と申しますか
▲三位一体の玄義と申します。
三位一体
とは、前から云ふ通り、三位即ち三の御方あるに、唯御一体で、一の天主であると云ふ不可思議な道理である。
玄義は理に合はぬ事ではないかと云へば、決して理に合はぬ事ではない、我々の浅知恵に超過する計りである。例へば若し天主は唯一あれども叉三あるとか、三位あれども唯一位であるとか云ふ話ならば、是こそ理に合ふまい、同じ物に就いて一と三とは合はぬからである。併し一なるは天主、三なるは天主の位とあれば、浅知恵で悟られぬ計りで
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理に合はぬ事ではない。
(註)三位一体の外に叉幾許も此教に
玄義
あるが、主なるものを云へば、御托身の玄義、即ち天主の第二位が人と成り給ふた事。叉救贖の玄義、即ちイエズス、キリストが人類の罪を贖ひ給ふた事。叉聖体の玄義、即ちイエズス、キリストが聖体の中に籠り在す事等である。
- 第二条及び第三条、叉その御独子我等の主イエズス、キリスト、即ち、聖霊によりて宿り、童貞マリアより生れ、