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第六課 原 罪
42●人祖は天主の特恩を保ったか
▲否。人祖は悪魔の誘惑に随ひ、天主の誡に背き、其特恩を失ひました。
特恩
とは、聖寵及び之に特別に加へられた天主の御恩を
[下段]
云ふ。
悪魔の誘惑に随ひ
とは、人間は固より何事も天主に従ふ筈なれば、其徴として「何の果でも食べて宜いが一だけ食べるなら死ぬぞ」と、天主より厳しく誡められた。乃で悪魔は蛇(或は蛇)に………「何に食べても決して死ぬるものではない、却て天主様のやうに成って、善悪を知るであらう」と云って、エワを騙したれば、アダムも
天主の誡に背いて
食べた、其で折角与へられた
特恩を失
ったのである。
43●人祖の罪は人祖ばかりに止ったか
▲人祖の罪は其子孫に伝ったに依って、人は生れながら、此罪と其結果とを受けて居るものであります。
アダムの罪
は、一寸思ふやうに、食べるなと云はれた物を食べた計りでない。(一)帰服の徴として、(二)厳しく禁ぜられたのに、(三)従ふことは最も易かった、其に(四)傲慢を起して帰服せず、(五)天主に嚇された罰を疑ひ、
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(六)天主の仰よりも悪魔の云ふ事を聴容れ(七)剰へ死なぬ所でなく天主のやうに成る事を望んで、(八)御誡を軽んじた事なれば、大罪に成るに相違ない。
人祖ばかりに止ったか。
一寸考へれば、其罪は人祖に止りさうなものと思はるれど、人祖は一切の人間の親として、人類を代表し、一切の人間に善悪を譲るべきものに成って居ったから、其罪は、一身に止らず、子孫にも当る筈に成った。
人祖の罪は子孫に伝った
とは、其罪の業ではない、其結果である。其過失や責任ではない、罪人の身分である。即ち罪人たる者の子孫にして親と共に天主より勘当を受ける者と成ったのである。
生れながら
即ちアダムの子孫に生れるを以て、何にも知らぬ中に其罪に汚される。恰ど監獄で生れる子が思はず知らず親の罪に抱込まれるが如し。
其罪を負うて居る
とは、人祖に取っては自罪であったから、地獄を以て罰せられる筈なれども、子孫には然
[下段]
うでない。人祖の罪の汚に染ったけれども、其為に地獄に遣られるではない、叉痛悔なしに潔められる。例へば立派な官宅に住って居る役人なら、其家族も共に住って居るけれども、若親が法律に背いて刑務所にでも入れらるれば、家族は官宅から出されるが、刑務所には入れられぬのと同じ道理である。
其罪の結果を受けて居る、
即ちアダムが子孫に譲る筈の聖寵も特恩も没収されたによって、我々も序に之を失った訳である。若し素より今の侭に天主より造られるものなら無理とは決して云はれぬ、唯折角親が戴いた恵を我々も奪はれた丈でも損に成って堕落と云はれる。素から貧乏な家に生まれた人は当然なれど、金持の家に生れて親の過の為に貧乏に成ったと同じ道理である。平民に生れても固より不足なけれど、華族に生れる筈の者が親の失策の為に平民に生れた時とは大した違である。
(註)原罪の結果を言過さぬやうに注意せねばならぬ。ルーテルの如く、原罪を以て人類は堕落して了った、心が
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悪く成って善は為れぬやうに成った、と云ふやうな事は甚しい間違である。叉アダムの罪が無かったならば、今のやうな禍等は無い筈である、と云ふのも怪しからぬ言過しである、アダムの子孫でも罪を犯されぬ事はなかったから。叉大抵の禍は自罪、即ち面々承諾して犯す種々の罪の結果である。殊に邪欲烈しく、人の浅ましい事等を独りアダムに蒙せるよりは、面々の過に蒙せるが本当である。天使が罪を犯したれど、本性の持前を失はず、人も矢張其通り。人性を傷けるのは、原罪と云ふより寧ろ自罪である。即ち面々承諾して罪を犯す度毎に気が弱く成り、悪心弥増す計りでなく、遺伝して、子孫までに恐しい傷を及し、何より邪欲を焚付ける故、是に余程用心せねばならぬ。
44●人祖から伝った罪を何と云ふか
▲人祖から伝った罪を原罪と云ひます。
原罪
とは、原の罪、