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(一一)戦ひの教会に於ける諸聖人の通功
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予 備
〇公教会の信者とは、たゞ現世の信者ばかりですか?…天国の聖人や、煉獄の霊魂も、やはり公教会に属するのですか?…お互の間に連絡がありますか?…その連絡を何と申しますか?…何んな人が諸聖人の通功に与り得ないのですか?。
[目的指示]今日は戦ひの教会に於て、諸聖人の通功が如何な塩梅に行はれるか、と云ふこ
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とを硏究して見ます。
提 示
〇現世に於ける教会は、天主様を父とせる一の大きな家族です。お互に同じ信仰、同じ希望、同じ愛の綱をもって繫がれて居ます。所で子供と云ふものは、一家の財産を相続し、且つ之を使用する權利を有って居ますでせう。然らば信者たる私等も、公教会の大きな財産の分配に与かる權利が無いでせうか。
△屹っと有ります。
〇然うです。私等信者は一の大きな家族をなし、その霊的宝を共有にして居るのです。善業の功徳こそ人に譲ること出來ないが、その償を施すことが出来ます。人の為に祈ることが出来ます。或はその善業を献げて、人の為に恩恵を乞求めて上げることも出来ます。固より各自の行ふ善業は、僅少なものです。然しイエズス・キリスト様の限りなき功徳があります。聖母マリア、諸聖人の償の残余があります。毎日全世界に行はれるミサ聖祭、七の秘蹟もあります。随って公教会の宝と云ふものは無尽蔵(かぎりなし)です。幾ら使っても使っても減少なる様な気遣ひがありますでせうか。
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△決してありません。
〇聖パウロは公教会を一個の身体に譬へ、イエズス・キリスト様が頭首で、私等信者はその手足や、胴やである、と言って居られます。身体と云ふものは、頭首から全体に亘って同じ生気が通ひ、皆が同じ精神で以て活きる。歡喜も、悲哀も、苦も、楽も共にして行くので。さうぢゃ無いですか。
△必ず然うあらねばなりません。
〇公教会もやはり其通りです。一人が聖寵を蒙ると、夫が本人に益するのは申すまでもなく、他の人にまで多少の益を来します。一人が祈をなし、施をなし、苦行をなしますと、その功を蒙り、恩恵を戴くのは固より其人ですが、然し他の人にも亦幾分その分配を与へることが出来ます。
△すると善業を行ふ人も行はない人も、一様にその功徳を蒙るのですか。
〇否、違ひます。すべての善業は、その善なる所からは功徳を生じます。その功徳は善業を行った其人のもので、之を他に譲ることは出来ません。然しながら善業は之を行ふに当って多少苦
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しく覚える所から償を生じます。償はイエズス・キリストや、聖母マリアや、諸聖人の償と合って贖宥となります。他に譲ることも出来るのです。其上、すべての善業は祈禱と同じく、天主様の御恵を乞受ける力を有って居ますから、之に由って他の人も色々と有難い聖寵を蒙れる訳になります。
△誰でも一様に蒙れるのですか。
〇夫は天主様のお摂理に由ることで、何とも分りません。然しながら熱心な人と不熱心な人、誠意こめて天主様にお事へ申す人と、やっと信者の務を果して居る様な人とは、諸聖人の通功を蒙るに於ても、大に差別があることだけは疑ありません。天主様の為に十分身を尽して働く人は、沢山之を戴き、聖会の霊的宝を殖すが為に格別働きもしない人は、少しか分けて戴かないのは、当然ぢゃありませんか。
△すると罪人は如何なりますか。
〇成聖の聖寵を有たない罪人は、償の功徳を蒙ることが出来ない。償と云ふものは、赦されたる罪に当る有限の罸を贖ふ為のものです。罸を消して戴くには、先づ其罪を赦されねばなぬ。だから罪人は贖宥を蒙れない訳になる。然し他の人の祈禱や、善業によって、改心の恵
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らを乞受けて戴くことは出来ます。
△さすれば罪人も全く諸聖人の通功に与れない訳では無いのですね。
〇然うです、異教者や、棄教者、破門者ならば、全く聖会と縁が切れて居る。何等の通功にも与れません。然し罪人は聖会の肢の一つです。聖寵の血液が通はないで、死んだ様にはなって居るが、未だ全くは切棄てられて居ません。容易に気息を吹き返すことが出来るのです。分りましたか。
△ハイ、分りました。
〇要するに、成聖の聖寵を常に保ち、聖会の生きた肢でありますと、諸聖人の通功に全部与ることが出来ます。其方から見ても、非常に利益です。だから平素注意して、罪に遠かり、屢秘蹟を授るやら、善業を励むやらして、成聖の聖寵を増し、たんと諸聖人の通功に与れる様、務めなければなりません。
整 理
〇現世の教会は譬へば何んな様なものでせうか。△天主様を父とせる一の大きな家族見た(:いな)様なものであります。
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〇一家の子供は何んな権利を有って居ますか△一家の財産を相続し、之を使用する権利を有って居ます。
〇信者たるものも、聖会の財産を使用することが出来ますか△ハイ、出来ます。
〇何んな塩梅に?…△善業の功徳こそ人に譲って戴くことは出来ませんが、然しその善業から生ずる償は譲受けることが出来ます。
〇其他?△人の為に祈って戴いたり、善業を献げてお恵を乞求めて戴いたりすることも出来ます。
〇だって私等の善業ったら僅少なものじゃありませんか△ですけれどもイエズス・キリスト様の限りなき功徳や、聖母マリア、諸聖人の償の余や、毎日全世界に行はれるミサ聖祭、七の秘蹟があります。
〇すると聖会の宝は無尽蔵ですね△ハイ、幾ら使っても減る気遣ひはありません。
〇聖パウロは聖会を何に譬へられましたか△一個の身体に譬へられました。
〇その身体は何んな風になって居るんですか△イエズス・キリスト様が頭首で、私等信者はその手足や、胴なのです。
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〇一個の身体ですと、お互の関係は如何になりますか△頭首から全体に同じ生気が通ひ、皆が同じ精神で以て活きて居るのです。
〇何事も共にして行きますか△歡喜も、悲哀も、苦も楽も共にして行きます。
〇公教会も其んなになって居ますか△ハイ、一人が聖寵を蒙り、祈をなし、善業を行ひますと先づ本人がその功徳を蒙ります。然し他の人も幾分その分配に与るのです。
〇すると自分で善業を行はなくとも、人のを分配して戴く様にすれば可い訳ですね△そんなことはありません。
〇何故?△自分で善業を行へば、その善なる所から功徳を生じます。
〇その功徳は何になるのですか△その功徳によって聖寵を増して戴きます。天国の福栄も夫だけ多くなる訳です。
〇その功徳は人に譲れますか△否、夫は本人のものです。人には譲れません。
〇善業は功徳を生ずるばかりですか△善業を行ふのは、多少苦しく覚えられます。その苦しい所から償を生じます。
〇その償は何になるんですか△イエズス・キリスト様の限りなき功徳、聖母マリア、諸聖人
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の償の余りと合って贖宥となります。他に譲ることも出来ます。
〇善業はたゞ贖宥となるばかりですか△善業は祈と同じく、天主様の御恵を乞受ける力を有って居ます。
〇信者たる者は、皆な一様に諸聖人の通功に与かれますか△夫は天主様のお摂理によることで何とも分りません。
〇全く分りませんか△熱心な人と不熱心な人、誠意から天主様にお事へ申す人と、やっと信者の務を果して居る人とは、大に差別があることだけは疑を容れません。
〇罪人は如何なりますか△償の功徳を蒙ることが出来ません。
〇何うして?△償と云ふものは赦されたる罪に当る有限の罸を贖ふ為のものです。
〇夫で何ですか△罪を赦されない先きに、罸を消して戴ける筈がありません。
〇すると罪人は何にも蒙れないのですか△否、祈禱や善業によって、改心の恵を乞受けて戴くことが出来ます。
〇して見ると罪人は、異端者や、破門者とは違ひますね△ハイ、異端者や破門者やと云ふものは、聖会と全く縁が切れて了って居るのです。
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〇罪人も然うぢゃないのですか△罪人は聖寵の血液が通はないで、死んだ様になっては居ますが全く切棄てられて了った訳ではありません。まだ聖会の肢の一つです。
〇気息を吹き返すことが出来ますか△出来ます。むつかしくはありません。
〇成聖の聖寵を保ち、聖会の生きた肢であると云ふのは利益ですか△諸聖人の通功に全部与れます。非常に利益です。
〇だから信者たるものは、平生から何んな心掛であらねばなりませんか△注意して罪に遠からねばなりません。
〇夫から?△屢秘蹟を授かるやら、善業を励むやらして、成聖の聖寵を増し、たんと諸聖人の通功に与れる様に務めねばなりません。
[実例]
- ソドマとゴモラの町人は不潔な罪を數々重ねて、一向悔い改めようとしません。天主樣も終に愛相をつかして、之を焼滅さうと思召になりました。アブラハムは其事を知って不憫の淸に堪へず、何とかして赦して戴きたいものと思ひまして、若し町中に五十人の義しい人が見付かったら、夫に免じて皆に赦して下さいませんでせうか、とお願ひ申しました。天主様はアブラ
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- ムの願をお聴容れになりました。然しソドマには五十人の義しい人が居なかったのです。アブラハムはだんゞゝ値切って五十人から、四十五人、四十人、三十人、二十人となし、終には十人まで行きました。『十人でも見付ったら、恕して遣す。滅しはせぬ』と天主様は仰有って下さいました。然し実は十人の義しい人も居なかったのです。到頭天から硫黄と火の雨が降って町も人も草木までも残らず焼滅されて了ひました。たゞアブラハムの甥に当るロトの一家だけは、正しい道を踏んで居ましたので、天主様の御憐を蒙り、その災難を遁れることが出来ました。