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公教要理教案.3/09-02

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(ニ)公教会(こうけうくわい)の創設(さうせつ)

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   予 備(よび)

〇イエズス・キリスト様の教(をしへ)は、何によって万国万代(ばんこくばんだい)まで伝はりますか……死(し)んだ聖書(せいしょ)を以て伝(つた)はりますか……生きた教会(けうくわい)を以てですか……

[目的指示(もくてきしし)]今日は公教会(こうけうくわい)の創設(さうせつ)についてお話しします。

   提 示(ていし)

〇イエズス・キリスト様が御教(みをしへ)を万国万代までも伝へるが為にお定め置きになったのは公教会ですね、すると公教会ッて如何(どん)なものですか……公教初歩(こうけうしょほ)には何と教(をし)へてありますか。

△公教会(こうけうくわい)は真(まこと)の教へを信じ、イエズス・キリスト様の定め給ひたる頭(かしら)に従う信者の団体なり。

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〇よろしい。公教会(こうけうくわい)と云ふのは先(ま)づ信者(しんじゃ)の団体(だんたい)、即(すなは)ち信者の組合(くみあひ)ですね。しかし信者の団体(だんたい)でさへあれば、何(ど)んな団体でも皆(み)な公教会(こうけうくわい)ですか。

△違(ちが)ひます。その団体(だんたい)が真(まこと)の教(をしへ)を信じなければなりません。

〇然(さ)うです。幾ら団体だけは立派(りっぱ)に組んで居ても、真(まこと)の教へを信じなければ、決して公教会ではない。夫(それ)こそ異端(いたん)の教会と云ふものです。例えばプロテスタント教会(けうくわい)と云った様なのは、イエズス・キリスト様の教へを幾分(いくぶん)かは信じて居る。然し全部を残(のこ)らず信ずる訳(わけ)ではない。そんなにイエズス・キリスト様の教へを悉(ことゞゝ)くは信じない信者の団体は、真(まこと)の教会でせうか。

△異端(いたん)の教会です。真(まこと)の教会ではありません。

〇イエズス・キリスト様の教へを信じさへすれば、ただ夫(それ)だけで真(まこと)の教会(けうくわい)になれますか。

△否(いえ)、猶(なほ)その上に、イエズス・キリスト様のお定め置きになった頭(かしら)に従(したが)はねばなりません。

〇よろしい。真(まこと)の教へを信じながらも、イエズス・キリスト様のお定め置きになった頭(かしら)に従はなければないならば、離教(りけう)と云ひ、そんな人を離教者と申します。正教会(せいけうくわい)、即ちギリシァ教会とか、ロシア教会とか申すものがありませう。あれらが離教会(りけうくわい)です……するとイエズス・キリスト様の

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お建てになった真(まこと)の教会と謂(い)はれるには、幾個(いくつ)の條件(でうけん)が必要ですか。

△二(ふたつ)の條件(でうけん)が必要です。

〇然(さ)うです。その信者団体は 一、真(まこと)の教へを信じなければならぬ。二、イエズス・キリストのお定め置きになった頭(かしら)に従はねばならぬ。この二(ふた)つがないならば、真(まこと)の教会(けうくわい)ではない。然(しか)しイエズス・キリスト様は果(はた)してそんな教会(けうくわい)をお建てになったでせうか。

△ハイ、屹(き)っとお建てになりました。聖(せい)ペトロに仰有(おっしゃ)った御言(おことば)を以ても明白(あきらか)です。

〇さう。証拠(しょうこ)は何個(いくつ)もありますね。其(そ)の重(おも)なものを申上(まをしあ)げますと、

一、イエズス・キリスト様は聖ペトロを教会の基礎(いしずゑ)と定め、『汝(なんぢ)はペトロ(磐(いはほ))である。私(わたくし)はこの磐(いはほ)の上に我教会(わがけうくわい)を建(た)てませう』(マテオ一六ノ一八)と仰有(おっしゃ)いました。既に聖ペトロを教会の基礎(いしずゑ)とお定めになったのですから、その上に教会(けうくわい)をお築(きづ)きになった事は申す迄(まで)もありますまい。

二、弟子達に訣別(わかれ)をお告げになりました時、『汝等往(なんぢらゆ)いて万民(ばんみん)に教へ、聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の御名(みな)によって洗礼(せんれい)を施せ、私が汝らに命ぜし事を守るべく教(をし)へよ、看なさい、私(わたくし)は世の終(をはり)まで日々汝等(にちゝゝなんぢら)と共に居(を)るのです』と仰有(おっしゃ)いました。


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〇『汝等往(なんぢらゆ)いて万民に教へよ』と仰ったのは、何(ど)んな権力を弟子等(でしたち)にお授けになったのでせうか。

△人に教(をし)へる権力(けんりょく)をお授(さづ)けになったのです。

〇『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の御名(みな)によって洗礼(せんれい)を施(ほどこ)せ』と仰有(おっしゃ)ったのは?

△秘蹟(ひせき)を授(さづ)ける権力(けんりょく)をお与(あた)へになったのです。

〇然(さ)うです。秘跡(ひせき)を授けたり、お祭(まつり)を行(おこな)ったり、宗教上(しうけうじゃう)の儀式(ぎしき)を定(さだ)めたりする権力(けんりょく)をお与(あた)へになったのですね。……『私(わたくし)が汝等(なんぢら)に命(めい)ぜし事を守(まも)るべく教へよ』と仰有(おっしゃ)ったのは?

△信者(しんじゃ)を統治(しはい)して行く権力(けんりょく)をお与(あた)へになったのです。

〇人に教へたり、秘蹟(ひせき)を授けたり、信者を統治(しはい)して行く権力を、弟子等(でしたち)にお授けになったとするならば、取りも直さず教会をお建てになったのぢゃありませんか。その権力を行使(つか)って行く幹部(かしら)をお定めになったのぢゃありませんか。左(さ)すればイエズス・キリスト様は教会をお建(た)てになったんですね。

△ハイ、御教(みをしへ)を万国・万代に伝(つた)へ、人に救霊(たすかり)を得させんが為に教会(けうくわい)をお建(た)てになりました。

〇実際(じっさい)さうです。して其教会(そのけうくわい)がいつになっても、世の終(をはり)までも滅びはしないことを預言(よげん)して、

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『看(み)なさい、私は世の終(をはり)まで、日々汝等(にちゝゝなんぢら)と共に居(を)るのです』と仰有ったのです。左(さ)すればイエズス・キリスト様の{{ruby|教|をしへ}}を信じ、救霊(たすかり)を得るが爲には、如何(どう)せねばなりませんか。

△必(かなら)ずそのお建(た)てになった教会(けうくわい)に入(い)らねばなりません。

〇教会(けうくわい)に入(い)るって、何(なに)をすることですか。

△真(まこと)の教(をしへ)を信じ、イエズス・キリスト様のお定めになった頭(かしら)に従ふことです。

〇公教会(こうけうくわい)とは何(なん)ぞや。

△公教会(こうけうくわい)とは真(まこと)の教(をしへ)を信(しん)じ、イエズス・キリストの定(さだ)め給(たま)ひし頭(かしら)に従(したが)ふ信者(しんじゃ)の団体(だんたい)なり。

     整 理(せいり)

〇公教会(こうけうくわい)とは何(なん)ですか△信者(しんじゃ)の団体(だんたい)です。

〇信者(しんじゃ)の団体(だんたい)でさへあれば皆な公教会ですか△否(いな)、真(まこと)の教(をしへ)を信(しん)ずる団体であらねばなりません。

〇すると真(まこと)の教(をしへ)を信(しん)じない団体(だんたい)は、公教会ではないんですね。ハイ、公教会(こうけうくわい)ではありません。異端(いたん)の教会(けうくわい)です。

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〇プロテスタント教会(けうくわい)は何(ど)んなものですか△異端(いたん)の教会(けうくわい)です。

〇だって、イエズス・キリスト様の教(をしへ)を信じているぢゃありませんか△否(いえ)、自分等(じぶんたち)に都合(つがふ)の好(よ)い所(ところ)だけを信(しん)じて、悉(ことゞゝ)くは信(しん)じないのです。

〇するとイエズス・キリスト様の教へを悉(ことゞゝ)く信ずる団体ならば、皆な公教会ですね△然(さ)うばかりも行(ゆ)きません。

〇何(ど)うして?△その上(うへ)イエズス・キリストさまのお定め置きになった頭(かしら)に従はねばなりません。

〇真(まこと)の教(をしへ)は信じながらも、イエズス・キリスト様のお定め置きになった頭(かしら)に従はない団体がありますか△あります。正教会(せいけうくわい)、即(すなは)ちギリシァ教会(けうくわい)とか、ロシア教会(けうくわい)とか{{ruby|云|い}}ふのが夫(それ)であります。

〇そんな教会は何と呼びます△離教会(りけうくわい)と呼びます。

〇左(さ)すれば信者の団体が、公教会(こうけうくわい)と呼ばれるには何が必要(ひつえう)ですか△先づその団体が、眞の教(をしへ)を信(しん)じなければなりません。

〇其次(そのつぎ)には?△イエズス・キリスト様のお定め置きになった頭(かしら)に従はなければなりません。

〇然(しか)しイエズス・キリスト樣は実際公教会(じっさいこうけうくわい)をお建てになったのですか△然(さ)うです。証拠(しょうこ)が

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何個(いくつ)もあります。

〇その中(うち)の重(おも)なものを一(ひと)つ二(ふた)つ言(い)って下(くだ)さい△イエズス・キリスト樣は或日聖(あるひせい)ペトロに向(むか)ひ『汝(なんぢ)ペトロ(磐(いはほ))である。私(わたくし)はこの磐(いはほ)の上(うへ)に我敎会(わがけうくわい)を建(た)てませう』と仰有(おっしゃ)いました。

〇夫(それ)は何(なん)の意味(いみ)ですか△聖ペトロを敎会(けうくわい)の基礎(いしずゑ)に据置(すゑお)く、と云ふ意味(いみ)であります。

〇基礎(いしずゑ)に据置(すゑお)いたからって何(なん)ですか△必(かなら)ず其上(そのうへ)に敎会(けうくわい)をお築(きづ)きになった筈(はず)であります。

〇弟子等(でしたち)に訣別(わかれ)をお告(つ)げになりました時(とき)は、何と仰有いましたか。△『汝等往(なんぢらゆ)いて萬民(ばんみん)に敎(をし)へよ』と仰有(おっしゃ)って、人(ひと)に敎(をし)へる權力(けんりょく)をお授(さづ)けになりました。

〇夫(それ)から?△『聖父(ちち)と聖子(こ)と聖霊(せいれい)の御名(みな)によりて洗礼(せんれい)を施(ほどこ)せ』と仰有(おっしゃ)って、秘蹟(ひっせき)を授(さづ)け、お祭(まつり)を行(おこな)ひ、宗教上(しうけうじゃう)の儀式(ぎしき)を定める権力(けんりょく)をお與(あた)へになりました。

〇夫(それ)から?△『私(わたくし)が汝等(なんぢら)に命(めい)ぜし事(こと)を守(まも)るべく敎(おし)へよ』と仰有って、信者(しんじゃ)を統治(しはい)して行く権力(けんりょく)をお授(さづ)けになりました。

〇夫(そ)れきりでしたか△『看(み)なさい、私(わたくし)は世(よ)の終(をは)りまで、日々汝等(にちゝゝなんぢら)と共(とも)に居(を)るのです』と仰有(おっしゃ)って、其敎会(そのけうくわい)が何時(いつ)になっても滅(ほろ)びないことまでも預言(よげん)して置(お)かれました。

〇すると救霊(たすかり)を得(え)るのには如何(どう)せねばなりませんか△公教会(こうきょうかい)に入(い)らなくちゃなりません。

[實例(じつれい)]

 人類(じんるゐ)が色々(いろゝゝ)の罪惡(ざいあく)に溺(おぼ)れ、腐(くさ)り果(は)てゝ了(しま)ったのを天主様(てんしゅさま)は御覧(ごらん)になるや、洪水(こうずゐ)を溢(あふ)らして之(これ)を滅(ほろぼ)し尽(つく)さうと思召(おぼしめ)しなさいました。たゞノエと其家族(そのかぞく)だけは、信仰(しんかう)が熱(あつ)く、品行(ひんかう)も正(たゞ)しくありました。是(これ)までも共(とも)に滅(ほろぼ)す訳(わけ)には行(ゆ)ない。よってノエに命(めい)じて大きな方船(はこぶね)を造らせ、之に乘(の)って難(なん)を遁(のが)れさせなさいました。やがて恐ろしい洪水(こうずゐ)がやって參(まゐ)りました。人も獸(けもの)も鳥も虫(むし)けらも、生きとし生けるものは、悉(ことゞゝ)く溺死(おぼれじに)しました。たゞ無事(ぶじ)に助(たすか)ったのは、方船(ほこぶね)に乘(の)ったノエの一族(いちぞく)だけでした。この方船(はこぶね)こそ公教会(こうけうくわい)の象徴(かたどり)で、人はこの方船に乗(の)らなければ、助かり得(え)ないのであります。

     參 考(さんかう)

 公敎會に入(い)らなければ、救霊(たすかり)が出來ない。それは分(わか)って居(ゐ)るが、然(しか)し公教会(こうけうくわい)に入るとは、果(はた)して何を意味するのでせうか。神学者等(しんがくしゃたち)は公敎会を体(からだ)と魂(たましひ)とに区別(くべつ)します。体(からだ)とは目に見える教会(けうくわい)で魂(たましひ)は成聖(せいせい)の聖寵(せいちょう)を指(さ)すのです。さて救霊(たすかり)に必要(ひつえう)なのは成聖(せいせい)の聖寵(せいちょう)で、成聖の聖寵を得るには、天主様(てんしゅさま)を信じ、御約束(おんやくそく)を希望(きぼう)し、其天主様(そのてんしゅさま)を万事(ばんじ)に超(こ)えて愛(あい)すれば可(よ)い訳です。随(したが)って公敎会の魂にさへ属(ぞく)して居(を)れば、たとへ其体(そのからだ)に属して居ないでも、救霊(たすかり)は得られさうに

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思はれます。然しながら、天主様が公教会をお建てになりましたのは、是(これ)によって又是(またこれ)が内(うち)に於(おい)て、人に成聖(せいせい)の聖寵を蒙(かうむ)らせる思召(おぼしめし)からでした。実際魂(じっさいたましひ)と云ふものは、体(からだ)と共にあるべき筈(はず)のもので、公敎会(こうけうくわい)の魂(たましひ)に属(ぞく)する以上(いじゃう)は、また是非(ぜひ)とも其体(そのからだ)にも属せねばならぬ。全く公敎会の存在(そんざい)を知らないか、或(あるひ)は公敎会(こうけうくわい)に入(い)るのが救霊(たすかり)に必要なることを分(わか)らないか、と云ふ人でも、せめては望(のぞみ)を以(もっ)て之が体(からだ)に属せねばならぬのであります。
 公教会(こうけうくわい)の存在(そんざい)すら知らない位(くらゐ)なのに、何(ど)うして之に属(ぞく)する望(のぞみ)を起(おこ)すこと出来るか、と怪(あやし)む方(かた)があるかも知れぬ。成(な)るほど直接(ちょくせつ)にそんな望(のぞみ)を起(おこ)すことは出來ない。然(しか)しながら天主様(てんしゅさま)のお望(のぞ)みになる事を望み、其(そ)のお命(めい)じになる事(こと)を行ふと云(い)ふ心(こころ)さへあれば、公教会の体(からだ)に属したい望(のぞみ)も、其中(そのうち)にチャンと含(ふく)まってあります。随(したが)って公教会(こうけうくわい)の存在(そんざい)は夢(ゆめ)にも知(し)らないながら、やはり望(のぞみ)を以ては其公教会(そのこうけうくわい)の信者(しんじゃ)となり、救霊(たすかり)を得(え)ることが出来(でき)る訳(わけ)になります。
 但(たゞ)し幼児(をさなご)とか、成年者(せいねんしゃ)にしても、天主様(てんしゅさま)を信(しん)ぜず、之(これ)を希望(きぼう)し、愛(あい)することも知(し)らない人(ひと)は、公教会(こうけうくわい)に属したい望(のぞみ)を起(おこ)すことも出来ない。是非(ぜひ)とも洗礼(せんれい)を受(う)けて、事実上(じじつじゃう)、公教会(こうけうくわい)に属するより外(ほか)はない。左(さ)も無(な)いと、たとへ他(た)に罪(つみ)が無い、処罰(しょばつ)される訳は無いにもせよ、せめて天主様(てんしゅさま)を面(まのあた)りに仰視(あふぎみ)て楽(たのし)むことが出来なくなります。(第二巻(だいにくわん)、第(だい)一〇〇頁(ぺーじ)を參照(さんせう)しなさい)


[公教要理教案.2-99-101頁(ページ)。
〇然(さ)う、超自然(てうしぜん)のお惠(めぐみ)さへ辱(かたじけな)うされぬ身(み)となった位(くらゐ)だから、况(ま)して自然外(しぜんぐわい)のお惠(めぐみ)を戴(いたゞ)ける筈(はず)がありませんね………然(しか)し人の身に必(かなら)ず備(そなは)ってあるべき自然(しぜん)の賜(たまもの)は如何(どう)なりましたか。
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△夫(それ)は失(うしな)ったんぢゃ無(な)いでせう。
〇然(さ)うです。夫(それ)は失(うしな)ひません。其(その)まゝ殘(のこ)りました。だから人(ひと)が病身(びゃうしん)に生(うま)れ付(つ)くとか智慧(ちゑ)が十人並(じふにんなみ)に無いとか、惡(わる)い癖(くせ)を有(も)って居るとか云ふのは、決(けっ)して人祖(じんそ)の罪(つみ)に因(よ)るのぢゃありません。幾十百台(いくじふひゃくだい)と祖先(そせん)から重(かさ)ね來(きた)った惡い癖(くせ)や、自分の惡い周圍(しゅうゐ)、惡(わる)い新聞、雑誌(ざっし)、小説、殊(こと)に各自(めいゝゝ)が酒や色やに溺(おぼ)れた結果(けっくわ)に外(ほか)ならぬのであります。人祖(じんそ)を怨(うら)んで可(よ)いでせうか。
△無暗(むやみ)に怨(うら)んでは可(い)けません。
〇右は現世(このよ)に於ける不幸(ふかう)ですが、後世(のちのよ)には如何(いか)なる結果(けっくわ)を生じましたでせうか。
△成聖(せいせい)の聖寵(せいちょう)を失って生まれますから、其(その)まゝでは天国へ行(ゆ)けません。
〇誰(たれ)でもですか。幼兒(をさなご)や、生まれながらの狂者(きちがひ)の如く、自分で何の罪も犯(をか)さぬ者までもですか。
△ハイ、其(そ)んな人(ひと)でも其(その)まゝでは駄目(だめ)です。
〇然(さ)う。成聖(せいせい)の聖寵(せいちょう)を持ちませんから、天主樣(てんしゅさま)の愛子(あいし)ではない。天主樣を面(まのあた)りに視(み)て、終(をはり)なく樂(たのし)むと云ふことは出來ません。然(しか)らば地獄(ぢごく)に罰(ばつ)せられるんでせうか。
△然(さ)うです。
〇違(ちが)ひます。彼等は少しの惡(わる)いこともして居(ゐ)ません。罰(ばっ)される訳は無いぢゃありませんか。
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△然(しか)し天主樣(てんしゅさま)を見ることが出來ないのが、地獄ぢゃないんですか。
〇天主樣を知って居(ゐ)るか、或(あるひ)は知るべき筈(はず)であったかならば、然(さ)う思はねばなりません。然(しか)し、彼等は天主樣(てんしゅさま)を知りません。知(し)ることも出來ないのでした。随(したが)って見(み)たいとも思ひません。見ないからッて、一寸(ちょっと)も苦(くる)しう覺(おぼ)えぬのであります………すると彼等は何處(どこ)に居(ゐ)るのでせうか。
△古聖所(こせいしょ)に居(ゐ)るのでせう。
〇地獄(ぢごく)に罰(ばっ)されることは無いが、無論(むろん)、天國(てんごく)にも居(ゐ)ませんね。舊約時代(きうやくじだい)の聖人(せいじん)が止(とゞま)って居(ゐ)られた古聖所見(こせいしょみ)た樣(やう)な所(ところ)に居(ゐ)るのだらう、と云ふことであります。
〇人祖(じんそ)の罪(つみ)は人祖(じんそ)のみに止(とゞま)りたるか。
△人祖(じんそ)の罪(つみ)は其子孫(そのしそん)に傳(つた)はりしにより、人(ひと)は生(う)まれながら、此罪(このつみ)とその罰(ばつ)とを負(お)ひ居(を)るものなり。