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ニカイア以前の教父たち/第3巻/倫理的論文/祈りについて/第五句

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第3巻

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祈りについて。

[S. テルウォール牧師による翻訳]

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第6章 第五句


しかし、神の知恵はなんと優雅に祈りの順序を整えたのでしょう。天上の事柄、つまり神の「名」、神の「意志」、神の「王国」の後に、地上の必要事項にも嘆願の余地を与えるのです。主は[1]「まず神の国を求めなさい。そうすれば、これらも加えて与えられる」[2]という勅令を出されましたが、私たちはむしろ「私たちに日ごとの糧を今日も与えてください」と霊的に理解することができます。キリストは私たちのパンなのです。なぜなら、キリストは命であり、パンは命だからです。「わたしは命のパンである」と主は言われます[3]。そして少し上で、「パンは、天から下ってこられた生ける神の言葉である」[4]とあります。また、キリストの体がパンに数えられていることもわかります。「これはわたしの体である」[5]。ですから、「日々の糧」を祈願する際に、私たちはキリストにある永続性と、キリストの体との不可分性を願います。しかし、その言葉は肉的な意味でも認められているため、宗教的な記憶と霊的規律なしには、そのように使うことはできません。なぜなら、(主は)パンを祈り求めるように命じておられるからです。パンは信者にとって必要な唯一の食物であり、「諸国の民が求める他のすべてのもの」も祈り求めるのです[6]。主は、同じような教訓を例によって教え、また、「父親は子供からパンを取り上げて、小犬に与えるだろうか」[7]、また、「父親はパンを求める子に石を与えるだろうか」[8]と言って、繰り返したとえ話で扱っておられます。このようにして 、息子たちが父親に何を期待しているかを、主は示しているのです。いや、夜中に戸をたたく人でさえ、「パン」を求めて戸をたいたのです[9]。さらに、イエスは 以前に「明日のことは、何を食べようかと、思い煩うな」と言われたので、「きょうの分をください」と正しく付け加えられました[10]。イエスはまた、将来の収穫のために納屋を大きくすることと、長期間の安全な収穫について思いを巡らせた男のたとえ話をこの主題に適用しました。しかし、その夜、彼は亡くなりました[11]


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脚注

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  1. これはテルトゥリアヌスのちょっとした間違いです。「まず求めよ」などの言葉は、祈りが見つかる章の最後まで出てこないので、彼の過去完了形は場違いです。[彼はこれに気づいていたに違いありません。彼は神の心の中に存在する考えに論理的な秩序を与えているだけです。682ページの注10を参照。]
  2. マタイ 6:33
  3. ヨハネ 6:35
  4. ヨハネ 6:33
  5. マタイ 26:26
  6. マタイ 6:32
  7. テルトゥリアヌスはマタイ伝15章26節、マルコ伝7章27節に言及しているようです。
  8. マタイ7章9節;ルカ11章11節
  9. ルカ11:5–9。
  10. マタイ6章34節とルカ12章29節が言及されているようですが、前のページの注10と同じことが当てはまります。
  11. ルカによる福音書 12章16~20節
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原文:

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翻訳文:

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