ニカイア以前の教父たち/第3巻/倫理的論文/祈りについて/第三句
第3巻
[編集]祈りについて。
[S. テルウォール牧師による翻訳]
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第4章 第三句
このモデルに従って[1]、私たちは「みこころが天にも地にも行われますように」と付け加えます[2]。神の意志が行われるのを妨げる何らかの抵抗力があるからではなく[3]、私たちは神の意志がうまく達成されるように神に祈ります。しかし、私たちは神の意志がすべてにおいて行われるように祈ります。なぜなら、肉と 霊の比喩的な解釈により、私たちは「天」と「地」だからです。たとえそれが単純に理解されるとしても、それでも祈りの意味は同じです。つまり、私たちの中で神の意志が地上で行われますように、つまり、それが天でも行われるようにすることです。さらに、神が望んでおられるのは、私たちが神の規律に従って歩むことではないでしょうか。それで私たちは、神が私たちに神の意志の本質とそれを行う能力を与え、天と地の両方で私たちが救われるように祈ります。なぜなら、神の意志の要点は、神が受け入れた人々の救いだからです。また、主が説教し、働き、耐え忍ぶことによって成し遂げられた神の意志もあります。なぜなら、主自身が、自分は自分の意志ではなく父の意志を行っていると宣言したのであれば、主が行っていたことは疑いなく 父の意志であったからです[4]。私たちは、模範として、そのことに対して今奮い立たされています[5]。説教し、働き、死に至るまで耐え忍ぶのです。そして、これらの義務を果たすことができるように、私たちは神の意志を必要としています。また、「御心が行われますように」と言うことで、私たちは神の意志に悪が何もない限りにおいて、自分自身に幸あれと願っているのです。たとえ、各人の功績に比例して、多少他のことが[6]私たちに課せられたとしても。このように、この表現によって、私たちは自分自身に忍耐を予告しているのです。主もまた、苦しみという現実によって、自らの肉体においてさえ、肉体の弱さを私たちに示そうとされたとき、「父よ、この杯を取りのけてください」と言われ、ご自身を思い出して、「ただ、わたしの思いではなく、みこころが行われますように」と付け加えられました[7]。主ご自身が父の意志であり力であったが、当然受けるべき忍耐を示すために、主は父の意志に自らを委ねた。
脚注
[編集]- ↑ ドジソン氏は「この節の次に」と訳しているが、ここで言及されている「形式」は、テルトゥリアヌスがさらに付け加えているように、彼が上で述べた「神の幸福を願うことが私たちにふさわしいことではない」などということであるように思われる。
- ↑ この箇所や他の箇所から、比較副詞は主の祈りの古代の定型句に欠けていたことがわかります。[Routh, Opuscula I. p. 178 を参照]
- ↑ note 3 を参照。
- ↑ ヨハネ 6:38
- ↑ 「挑発する」という言葉のこの用法については、ヘブライ人への手紙 10:24、英語版を参照。
- ↑ [良いこと以外に考えられること]
- ↑ ルカによる福音書 22章42節
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