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ニカイア以前の教父たち/第3巻/倫理的論文/祈りについて/父に祈るとき

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第3巻

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祈りについて。

[S. テルウォール牧師による翻訳]

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第11章 父に祈るとき、兄弟に対して怒ってはならない。


わたしたちが神の戒めから遠く離れているのと同じように、神の耳からも遠く離れることがないように[1]、神の戒めを覚えておくことは、わたしたちの祈りのために天への道を整えます。その 戒めのうち最も重要なものは、兄弟とわした不和や罪をつぐなう前に、神の祭壇[2]に上ってはならない、というものです[3]。平和なしに神の平和に近づくとは、いったいどのような行為でしょう[4]。あなた方の他者に対する負債の免除[5]は、あなた方がそれを保持したままですか。初めから「すべての怒り」が禁じられているのに、兄弟に対して怒っているあなたについて、どうして父をなだめることができましょうか[6]。ヨセフでさえ、父を迎えに行くために兄弟たちを解散させるとき、「途中で怒ってはならない」と言いました[7]。確かに、そのとき主は 私たちに警告されました(なぜなら、私たちの戒律は他の箇所では「道」と呼ばれているからです[8])、祈りの「道」に立ったとき、怒りをもって「父」のもとに行くべきではないと言われました。その後、主は「律法を拡張し」[9]、殺人の禁止に加えて、兄弟に対する怒りの禁止を公然としました[10]。主は悪口さえも吐き出すことを許されません[11]。たとえ 怒らなければならないとしても、使徒が警告しているように、日没を過ぎても怒りを持ち続けてはなりません[12]。しかし、兄弟につぐないをすることを拒否しながら、祈りをせずに一日を過ごすのは、どれほど無謀なことでしょうか。あるいは、怒りに固執して祈りを失うのは、どれほど無謀なことでしょうか。


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脚注

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  1. エーラーは、この 2 つの章を上記のように分けています。一般的に採用されている分け方は、この文を前の章と結合し、新しい章を「彼の教えの記憶」で始めるというもので、おそらくこれが好ましい分け方でしょう。
  2. altare. [ヘブル 13:10]
  3. マタイ 5:22, 23
  4. フィリピ4章6節、7節への言及があるのかもしれません。
  5. 上記の第7章を参照し、マタイによる福音書6章14、15節と比較してください。
  6. “Ab initio”「最初から」はおそらく、彼がこれから言及しようとしている創世記、つまり聖書の始まり、イニティウムを指しているのでしょう。しかし同様にエペソ4:31、マタイ5:21、22も参照してください。[創世記4:6、7]
  7. 創世記 45:24 (LXX) も同様です。
  8. ギリシャ語では使徒行伝9章2節、19章9節、23節を参照。
  9. マタイ 5:17 参照。
  10. マタイ 5:21, 22
  11. マタイ 5:21, 22;1ペテロ 3:9 など。
  12. エペソ 4:26
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原文:

この作品は1929年1月1日より前に発行され、かつ著作者の没後(団体著作物にあっては公表後又は創作後)100年以上経過しているため、全ての国や地域でパブリックドメインの状態にあります。

 
翻訳文:

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