シリヤの聖イサアク全書/第十四説教

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第14説教[編集]

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かつ一兄弟いちけいていあり、矜恤きょうじゅつさざるを詰責きっせきせられけるに、かれその詰責者きっせきしゃゆうにしてこたへ、あへへり、いはく『矜恤きょうじゅつおこなふことは修道しゅうどうためてて義務ぎむとせられず』としかるに詰責者きっせきしゃこればくしてしもごとへり『矜恤きょうじゅつおこなふを修道しゅうどうためてて義務ぎむとせられざることは顕然けんぜん明白めいはくなり。けだしろくしてごとめんもつハリストスげ「よやわれ一切いっさいててなんぢしたがへり」〔マトフェイ十九の二十七〕とものには、これ義務ぎむとせられざるなり、すなはちじょう何物なにものをもゆうせず、肉体にくたいぞくするものをつとめず、有形ゆうけいじょうことにはいつかんがへおよばさず、なにるをもおもんばからずして、もしたれかれ何物なにものをかあたふるあれば、ただその必要ひつようせまだけり、必要ひつようほかこれ無視むししてじつとりごと生活せいかつするもの、かくのごとものには矜恤きょうじゅつおこなふを義務ぎむとせられざるなり。けだしみづからゆうなるもの如何いかにしてあたふるをんや、これはんしてうきことかれ、自己じこもつそうして、みづからよりところものこと矜恤きょうじゅつおこなはざるべからず、もしかれ矜恤きょうじゅつことおもんばからずんば、この無慈悲むじひしゅ誡命かいめいはんす。けだしたれかみ奥密おうみつちかづかず、たましひもつかみつとむるをくせざるのみならず、おのれためべき顕然けんぜんおこなひをもおもんばからずんば、かくのごとものおのれに生命せいめいなにのぞみありや。かくのごともの無智むちなり。』

また老人ろうじんあり、へり、いはく『にん肉体にくたいじょうことやすんぜしめんがため自己じこ黙想もくそうこうみだものあやしむ』と。またへり、いはく『われ黙想もくそうこう如何いかなるおもんばかりをもこんずべからず。すべてのこう各々おのおのその位置いちおい尊敬そんけいせらるべし、われ品行ひんこうてんゆうせざらんためなり。けだしおほくのことおもんばかものおほくのことぼくなり。これはんして一切いっさいてて霊魂れいこん斉整せいせいおもんばかものかみともなり。よ、矜恤きょうじゅつし、近者きんしゃたい肉体にくたいじょう必要ひつよう満足まんぞくせしめて、あい遂行すいこうするものおほし、しかれども公道こうどうにしてかついとうるはしき黙想もくそうつとめ、おもひかみぐるをつとむるもの寥々りょうりょうとしてわづかることをべし。矜恤きょうじゅつおこなひ、あるい身体しんたいかんすることおいてはまもものうち黙想もくそうつとむるものかみよりあたへらるるたまものいつなりともたるものこれありや』とかれまたさらへり、いは

もしなんぢ俗人ぞくじんならば幸福こうふくたのしんでときおくるべし。これはんしてもしなんぢ修道しゅうどうならば、修道しゅうどう卓越たくえつなるこうもつおのれかざるべし。しかれどもなんぢかれこれとを占有せんゆうせんとほつするならば、かれこれうしなはん、修道しゅうどうこうつぎごとし、形体けいたいぞくするものよりまぬかるるゆうなり、とうおい身体しんたいろうするなり、かみだん中心ちゅうしんよりおくするなり、なんぢこれこうなくして道徳どうとく満足まんぞくするをるか、みづか判断はんだんすべし。


問 黙想もくそうおいくるし修道しゅうどうしゅようゆうするあたはざるか、すなはちかみねんすることとおもんばかりこころゆうすることこれなり。

答 おもふ、黙想もくそうときおくらんとほつするものは、一切いっさいててひとおのれ霊魂れいこんおもんばかるのみならず、おのれ世慮せいりょほかくといへども、瑕疵かしなくして黙想もくそうこうおさむることあたはず、いはんにんことをもおもんばかるにおいてをや。しゅつとめてしゅどもためりょするものしゅとどめてしゅまへつとめんとするものみづからえらたまへり。けだしかんとうきゅうしるし、つねおう面前めんぜんつてそのみつさんするものがいつとめじゅうするものより光栄こうえいなることはこのおうおいこれるのみならず、てんおうこうおいてもるをべし、すなはちとうだんつとめておう会談者かいだんしゃとなり、そのみつさんしゃとなりて天上てんじょう地下ちかとみたまははり、すべての受造物じゅぞうぶつたいしておのれけんいくばくかあらはすものおのれ所有しょゆうこの幸福こうふくとをもつかみつとめ、いとちょうようにしてかつはなはうるはしき善行ぜんこうして、かみてきするものよりも如何いかなるゆうくるか。ゆゑにわれりてかんすべきはかみぞくするこうなほ充分じゅうぶんなるをまぬかれざる後者こうしゃにあるにあらずして、ぎょうしゃせんとにあり、かれその生涯しょうがいうるはしくかんし、このぞくするものを一切いっさいてて天国てんこくじょう開拓かいたくし、ぞくするものを一次ひとたび永遠えいえんてきして、天上てんじょうもんばしたりき。

われためこの生涯しょうがいみちひらきたるいにしへしょ聖人せいじんなにもつしんよろこばしたるか。たとへばしょ聖人せいじんうちフィワェイイオアンごとき、徳行とくこうたからにして、げんいづみなるものなにもつかみよろこばしたるか、隠舎いんしゃうちりて兄弟けいてい肉体にくたい要求ようきゅうやすんぜしめたるをもつてしたるかあるいとう黙想もくそうとをもつてしたるか、前者ぜんしゃもつてするもおほくのものしんよろこばしめたるに反論はんろんせざるべし。しかれどもとう一切いっさいつるとをもつてしたるものごときにはあらず。けだし黙想もくそうり、これもつしょうようせらるるものによりその兄弟けいてい明々めいめいなるたすけあればなり。すなはちきゅうぼうときにはわれことばもつたすけ、あるいわれためとうけんずるこれなり。しかれども此事このことほかにあるものは(もし或者あるものためおもんばかこのことかんするのおくまたその配慮はいりょ黙想もくそうつとむるものこころ宿やどるならば)神的しんてき智慧ちえおこなひにあらず。けだし黙想もくそうつとめずして、黙想もくそうほか生活せいかつするものにはげてへり『ケサリのものをケサリおさかみのものをかみおさめよ』と〔マトフェイ二十二の二十一すなはち各々おのおのおのれぞくするものおさめ、近者きんしゃぞくするものは近者きんしゃかみぞくするものはかみおさめよといへり。てん使くらいものすなはち霊魂れいこんことおもんばかものには、なにこのぞくするものをもつかみよろこばすべきを誡命かいめいせられず、すなはち工作こうさくことおもんばかり、あるい一者いっしゃよりりてしゃあたふることを誡命かいめいせられざるなり。ゆえ修道しゅうどうそのしん動揺どうようして、かみ面前めんぜんつよりひきぐべき如何いかなることをもおもんばかべからざるなり。

しかれどももしたれ反論はんろんして神聖しんせいなる使徒しとパウェルていしゅつし、かれ自己じこもつそう矜恤きょうじゅつしたるにあらずやといはば、其者そのものげてはん、パウェルひとばんすをくせり、しかれどもわれかれごとくすべてに堪能たんのうなるパウェルるをらず。けだしかくごとパウェルわれしめせ、しからばなんぢしんぜんと、かつかみしょうかんによりてところのものはこれ一般いっぱんこうひょうすべからず。けだし福音ふくいんつたふるのこう黙想もくそうつとめとはおのおのことなり、もしなんぢ黙想もくそうまもらんとほつするならば、このこといつおもんばからざるヘルワィムごとくなるべし。なんぢかみとをのぞくのほかじょうなんぢおもんばかるべきしゃあるをおもはざることなんぢさきだちししんおしへしごとくすべし。もしたれ自己じここころかたくなにせず、その仁心じんしんつとめてさへぎるをさずして、かみためにも生活せいかつじょうことの為にもすべぞくするものをおもんばかるよりとほざからんもさだめられたるときいつとうまもることあたはずんば、じょうらんしんとをまぬかゆうにして黙想もくそうとどまるあたはざるべし。

ゆゑに道徳どうとくもと何事なにごとにか関係かんけいせんとするおもひなんぢしょうずるあり、これもつなんぢしんちゅうにある穏静おんせいみだすあらば、おもひげてふべし『あいみちうるはし、慈悲じひおこなひかみためうるはし、しかれどもかみためこれほつせずと。いつ修道しゅうどうあり、ふ『ちちとどまりたまへ、かみためいそぎてなんぢおいかん』と、しかるにかれこたへていへり『われかみためなんぢよりげん。』ちちアルセニイ霊益れいえきことをも何事なにごとをもかみためたれともだんせず、にんかみためしゅうじつだんし、そのきたれる旅行者りょこうしゃことごとけたれども、かれこれへてげん黙想もくそうとをえらび、これかれ現生げんせいかいちゅうにありて神聖しんせいなるしんだんし、黙想もくそうふねり、おほい穏静おんせいにして此海このうみわたりしは、此事このことかみただしたるぎょうしゃあきらかれるごとし。よ、黙想もくそうほう一切いっさいためもくするにあり。しかれどももし黙想もくそうおいてもじょうらんたさるるものとなり、身体しんたいそうため霊魂れいこん或者あるものことおもんばかるがためみださるるならば、其時そのときかみよろこばしめんがためおほくのひとことおもんばかりつつ如何いかなる黙想もくそうをかおくるべきみづから判断はんだんすべし。けだし一切いっさいつるなくなんおもんばかりよりもとほざからずして黙想もくそうこうしんるをんとはふもづべきなり。われかみ光栄こうえいす。