<< 黙想の種々なる卓越の事、智の権の事、及び祈祷の各種類に対して智は其活動を起すに幾何権あるか、祈祷には如何なる界限を天然に與へらるるか、汝は如何なる界限迄祈祷を以て願ふの権あるか、其界限を越ゆれば汝が行ふ所は祈祷と名づけらるると雖最早祈祷には非ざる事。 >>
光栄はその賜を豊に人々に注ぎ給ひし者に帰す。彼は有形なる者をして無形なる者の天然の秩序により彼に事ふるを得しめ、塵に属する者の天性にかくの如き奥義を語るを許し給へり。殊に彼は我らと同様罪ある人々が此の如く語るを聴くだに堪へざる時はその恩寵を以て我らが心の盲を開き、聖書の研究と大なる神父らの教により之を了解せしめ給へり。けだし予は自己の手を以てあらはせるものの千分の一をも自己の苦行に因り、実験的に確知するに堪へざるなり、况や汝ら及び凡て読者の心を喚起し、且之を照明せんが為に述る所の此文に於てをや、望むらくは人々奮起して之を渇望し、実行に着手せんことを。
祈祷的悦楽と祈祷的直覚とは各同じからず。後者の前者より一層上なることは完全なる人の不完全なる童子より上なるが如し。或時は詩の句の口に甘くして、祈祷に於て一句を誦することが数ふべからざる程続き、他句に移るをゆるざずして、祈祷する者の飽くを知らざることあり。然れども或時は祈祷により或る直覚を生じて、口頭の祈祷を断ち、直覚によりて祈祷する者の身体麻痺して駭異[1]することあり。かくの如きの情況を我らは名づけて祈祷的直覚と曰ふ、然れども之を名づけて形状又は式様とはいはず、或は又愚者の言ふ如く空想的幻像ともいはざるなり。而して又此の祈祷的直覚にも程度とその賜の等差とありて猶是れ祈祷なり、何となれば智力が最早祈祷の有らざる処に侵入して祈祷より上なる情況に在るにあらざればなり。けだし祈祷に於て舌と心の動くは関鍵なり、されど是より後にあるものは最早密室に入るなり。ここには何らの口も何らの舌も黙すべし、心即此の思念の指揮者も、智力即此の感覚の統御者も、意思即此の疾く翔りて耻を知らざる鳥も黙すべく、その悉くの機謀は廃すべし。ここには尋ぬる者も止まるべし、何となれば家宰が来りたるによる。
- ↑ 投稿者注:驚くこと。突然のできごとに対して激しく動揺すること。