<< 衰弱して怠慢なる人々より己を守りて自省すべき事、彼等と親むにより怠慢と衰弱が人に主となりて種々なる不潔の慾に充たさるゝ事、放蕩なる思念を以て心を汚されざらんが為少年と近づくより己を守るべき事。 >>
その口に人を議するを禁ずる者はその心を慾念より守らん。然して心を慾念より守る者は時々主を見ん。常に神を念ずる者は、魔鬼を遂出し、怨の種子を絶たん。その霊魂を時々監視する者の心は黙示を楽まん。その智の視覚を纏めて己の内部に集中する者は自己に於て霊的天映を見ん。その智のすべて高超を悪む者はその心の内部に於て己の主宰を見ん。もし清潔を愛し、之に由りて萬物の主宰を見るを得ば、何人をも議するなかれ、その兄弟を議する者に聴くなかれ。もし人が汝の前に於て争論するあらば、耳を塞げ、且其処より避けよ、怒る者の言を聴かざらん為なり、且汝の霊魂は生命を奪はれて死せざらん為なり。激し易き心は神の奥義を容れず、然れども温柔にして謙遜なる者は新世界の奥義の泉なり。
視よ、清潔なるを得ば、汝の内部に天ありて、天使とその光とを自己に於て見るべく、彼等と共に、彼等によりて、天使の主宰をも見ん。当然に称賛する者は害を受けざらん。さりながらもし称賛が彼の為に楽くんば、彼は報酬を要せざる行為者なり。謙遜なる者の宝はその内部にあり、是れ主なり。その舌を畢生堅く守る者は、竊み去られざらん。沈黙する口は神の奥義を解釈すれども、言に巧なる者はその造成者より遠ざかる。善良なる者の霊は太陽よりも光り、神聖なる黙示の現象を楽まん。神を愛する者に従ふ者は神の奥義を以て富まされん、然れども不義にして驕る者に従ふ者は神より遠ざかり、その友に嫌はれん。舌を黙する者は、すべての外部に謙遜なる秩序を受け、容易に慾を制せん。不断に思を神に潜むるにより慾は剿滅せられて、敗走せん。是れ慾を殺すの劒なり。有形なる海の寂然として静なる時は海豚躍りて、浮游する如く、心中の海に憤激と忿怒の情の寂然鎮静して如何なる時にも心は愉快なるときは、奥義と神聖なる黙示とはその中に躍らん。己の内部に主を見んを願ふ者は不断に神を記憶するを以て、その心を浄むるに尽力す、かくの如くなれば其智力の眼の清明なるにより、彼は時々主を見ん。水より出る魚に有る所のものは神を念ふ記憶を脱して世事の記憶に漂ふ智力にも之あらん。人々と会談するに遠ざかれば遠ざかる程人は実に智力を以て神と談話するを賜はるべく、此世の慰を己より遠ざかる程は聖神により神の喜を賜はらん。魚は水の乏しきにより亡ぶる如く、神によりて起る才智の活動も世の人々と数々交際して時を送る修道士の心に消失せん。
世と生活上の為に困む不幸の俗人は、俗人と共に時を送る不幸なる修道士より愈れり。燃ゆるが如くなる熱心を以て昼も夜も心に神を尋ね敵によりて起る攻撃の根を絶つ者は、魔鬼の為に寒心せらるべく、神とその使等に大に望まれん。霊の清き者にはその内部に思想の境ありて、彼処に照る太陽は是れ即ハリストスなり、光よりの光、父よりの光なり。かくの如き者はその心の現象を毎時楽みて、実に太陽の光よりも百倍光り輝く美麗に驚かん、これぞ我等の内部に隠るゝイエルサリムにして、且神の国なることは、主の言ひ給ひし如し〔ルカ十七の二十一〕。此境は是即神の光栄の雲にして、ただ心の清き者は之に入りて主宰の顔を見るべく、主宰の光の光線を以てその智を輝かさん。
之に反して激する者、怒る者、名を好む者、貪慾なる者、貪食する者、俗人と交る者、我意を遂げんと欲する者、怒り易くして慾に満たさるゝ者、凡てかくの如き者等は夜間に闘ふ者と同様混乱の中に居る可く、生命と光の境域の外に在りて、暗黒を辿らん。けだし此域は善良謙遜にしてその心を清めたる者の領分なり。人は外部にある如何なる美をも嫌ふて、之を醜視せざる間は、眼を挙げて直に神に向ふ能はざるべし。己を卑めて抑損する者に主は睿智を増さん。之に反して己を睿智なりと思ふ者は神の睿智より離る。舌を多言より制する程は、才智は照されて、思念を弁別せん。されど最思慮ある才智も多言の為に乱されん。
世に属する物に貧しき者は、神に於て富まん。されど富者の友は神に於て貧しかるべし。貞潔謙遜にして言を恣にするを嫌ひ、忿怒を心より逐ふ者は〈余は之を保證す〉祈祷に立つや直にその霊中に聖神の光を見るべく、その光を以て照し輝く光線の中に躍るべく、此の光栄の現象とその変化とを楽み、之を以て自己と比するに至らん。神に於る現象の働の如く汚鬼の郡を黜くべきものは、他に之あらざるなり。
神父あり、余に語ること次の如し、曰く『一日我れ座したりしに、予の心意は現象の為に捕へられたり。而して己れに帰るや、余は太く嘆声を発せり。されど我と対立する魔鬼は之を聞くや電気に呑まるゝ者の如く恐れ、何物にか逐はるゝ者の如く、切迫の余り叫んで遁走せり。』
此の生涯より逝ることを忘れずして、此世の楽に恋々たるを自から抑制する者は福なり、何となれば幾回か加増せられたる尊崇を自己の逝る時に受けて、その尊崇は彼の為に減少せざればなり。彼は神によりて生れて、聖神は彼の養育者たり、彼は神の懐より生命ある食を啜り、その馨香を嗅ぎて、自から楽まん。しかれども世に属する物と、世と、その安息とに繋がれ、世と談話するを愛する者は生命を奪はるべし。予は彼のことに就ては一も言ふべき所なし、ただ慰むべからざる哀を以て涕泣号哭して、聴者の心を傷ましむるあらんのみ。
暗黒に居る者は首を挙げよ、汝等を出迎へ、その奥密の役者に汝等の鎖を解くを命ぜん、汝等その光に追随して父に進行せん為なり。哀哉我等は何を以て縛られ、何物が我等に彼の栄を見るを妨ぐるか。吁我等は鎖を切断せられ、尋ねて我等の神を見るを得ば幸なり。人間の秘密を知らんと欲し、精神を以て之を洞察する迄には到り達せずとも、もし汝は賢ならば、各人の語言と、生活の状態と、その挙措とにより之を審知せん。霊の清くして生活の状態の無玷なる者は、常に貞潔を以て神の言を発すべく、その理会の度に応じて、神聖なる事をも彼れ自己に属する事をも判断せん。しかれども慾に心を傷められたる者は舌も之に動かさるゝなり。もし彼は霊神上の事を言はんと欲するならば、不義にして勝を占めんが為に、慾の影響により判断せん。賢者はかくの如きものを其初回の時に認め、潔者は彼の悪臭を嗅がん。
霊と体とが常に空談に耽り才智の高超に任ずる者は淫者なり、彼と相和して事を共にする者は姦通者なり。而して彼と與に交る者は偶像崇拝者なり。少年と狎近づくは淫行なり、神は之を醜とす。かくの如き人を和ぐるに薬なし、之に反して同情により衆人を等く愛して、区別を立てざる者は、完全に達せん。少年少年の跡を追はば思慮ある者をして、彼等の為に泣き且哭せしめむ、然るにもし老人にして少年の跡を追はば少年の慾よりも更に臭なる慾を得ん。彼は少年と道徳の事を論ずと雖もその心は傷はる。少年はもし謙遜の徳ありて、沈黙する者ならば、もしその心は羨慾と忿怒より浄まり、すべての人に遠ざかりて己を省みる者ならば、怠慢なる老人の慾を速に悟らん。然してもし老人は老人をも少年をも一様に敬愛せずんば、力を尽してかくの如き者と親與せざらんことを勉むべく、殊に彼より遠ざかるべし。
清潔の外貌を装ふて其裡面に己の慾を養ふ怠慢者は禍なり。思念の清潔と善良なる生涯と舌の節制とを以て白髪に達したる者は、此世に於ては、認識の果の甘美を楽むべく、肉体より出去るときは、神の栄を受けん。霊魂を聖にするが為に聖神を以て修道士の心に吸収するの火を冷にするは人々に交ると多言と種々の談話とに愈るものあらず、ただ神を識るの認識を長じ、神と親近するに助くる神の奥密の子等と談話するは此限にあらず。けだしかくの如きの談話は生命の為に心を覚醒し慾の根を抜きて汚穢なる思を睡らしむること、悉くの徳行よりも力あるなり。かくの如き者等を除くの外は、友をも機密を共にする者をも己れに求むるなかれ、恐くはその霊魂に躓を置き神の途より離れん。汝を神と一致連合せしむる愛は汝の心に増々加はるべし、恐くはその原因とその終とは敗壊なる世俗の愛は汝を擒にせん。彼此の苦行者と共に居り共に交るは、神の奥義に富まん。之に反して怠慢なる者と懶惰なる者を愛するは互に才智の高超に任し、腹を飽まで満たしめて、度なからん。かくの如き者は友無くして食するを不愉快なる如く言はん『孤独にして己の餅を味ふ者は禍なり、何となれば彼の為に旨からざればなり』と。彼等は互に宴会に招き、之を以て甲は乙に報ゆること宛ら雇人の如し。此の嫌はしき愛と此の不適当と不敬虔とに時を送るを我等より遠ざけよ。兄弟よ、かくの如きことに慣習せし者を避けよ。たとひ汝は余儀なくせらるゝとも、彼等と共に食するを肯んずるなかれ、何となれば彼等が晩餐は嫌ふべく、その側には魔鬼の侍するあればなり、新郎なるハリストスの友は之を味へざるなり。
屡々宴会を設くる者は放蕩の鬼の奴隷なり、彼は謙遜なる者の霊を汚さん。無玷なる者の晩餐に供へたる低価なる『パン』は種々の嗜好によりて食事を為す者の霊を清めん。貪食者の晩餐より発する香気は食物と炙物の富にあり。愚にして思慮なき者は之に引誘せらるゝこと犬の肉店に引誘せらるゝ如し。常に祈祷に専らなる者の晩餐は麝香より発する如何なる香気よりも香油より発する薫香よりも愉快なり、愛神者は之を願ふこと値すべからざる宝を願ふ如し。
禁食して儆醒を務め、主の為に労する者の晩餐より生命の療法を借りて己の霊魂を死者の如くなれるより喚起すべし。けだし至愛者は彼等を聖にしつつ彼等の中に席座す、ゆえに彼等を苦むるの苦味は変じて言ふ可らざる甘味となり、霊界天上の奉事者は彼等とその聖なる食物とを覆はん。或る兄弟はその目を以て明に之を目撃したるは予の知る所なり。
己を造成者より離れしむるすべての奢侈の為にその口を塞ぐ者は福なり。憐みにより、父の懐より出る生命の雨路を己の田中に見て、目を彼に挙ぐる者は福なり、けだし之を飲尽すときは其者の心は欣々として栄え、歓び且楽まん。己の食物に於て主を観る者はすべての人より隠れ、不当なる者と與にせずして、独り主を領食せん、彼等の関係者とならざらん為なり、及び主の光線に照されずして了らざらん為なり。しかれども食物に致死の毒を混ぜられたる者は、友なくしては愉快に食ふ能はざるべし。腹の為に親睦する者は死骸を貪食する狼なり。愚なる者よ、汝は何の飽かざるありて怠慢者の晩餐に腹を充さんを願ふか、彼処に汝の霊は種々の慾に満たされん。視よ是れ腹を制するを能くする者等の為に豫戒なり。
禁食者の馨香は極めて愉快にして、彼と面会するは思慮ある者の心を楽ましむるなり。しかれども貪食者は彼と交るにより突然畏を生ず、ゆえに彼は禁食者と共に食はんが為にあらゆる方法を用ふ。
節制者の生活状態は神に愛せらるゝ。之に反して彼と隣するは貪食者の為に甚だ苦し。黙想者はハリストスに大に称賛せらる、しかれども心意の浮戯高超に偏して、魔鬼の捕ふる所となりし者の為には彼の近づくは愉快ならず。謙遜にして温柔なる者を誰か愛せざらん、但驕傲なる者と悪言する者は然らず、けだし彼の為す所を忌むによる。
人あり、自己の経験により余に語れること左の如し、曰く『余は何の日にか何人となりとも談話を為さんに、その日に於ては乾麺麭三顆或は四顆宛食す、而して強て祈祷に起つや、我が心意は神に向ひて勇気を有せず、思を彼に向はしむる能はざるなり。然れども会談者と別れて黙想に入るや、初日には乾麺麭一半を強て食し、次日には一を食す、然して我が心意の黙想に確立するや、一顆の乾麺麭を強て全く食せんとするも能はず、されど我が心意は強ひずといへども、勇気にして断えず神と談話し、神性の光輝は減少せずして我を照し、我をして神聖なる光の美を見て之を楽ましむ。然れども黙想の時に当り誰か来りて、一時間たりとも我と言ふあるや、その時は食に近づかざらんことも、或る規則の或るものを廃せざらんことも、彼の光を直覚するが為に智力の弱らざらんことも予が為に能はざるなり』と。見るべし、我が兄弟よ、忍耐と独居とは如何に美はしく且有益にして苦行者に如何なる力と如何なる便利とを與ふるや、神の為に黙想を専ら務めて独り自から己のパンを食ふ者は福なり、何となれば彼は常に神と談話すればなり。彼に光栄と権柄は帰す、今も何時も世々に、「アミン」。