シリヤの聖イサアク全書/第八十説教

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第80説教[編集]

<< 徳行とくこう種類しゅるい説明せつめいおよび彼らは各々おのおの如何いかなる価値かち如何いかなる特質とくしつゆうするか。>>


身体的徳行しんたいてきとくこう黙想もくそうにより身体しんたい物体的ぶったいてきなるよりきよむれども、こころ徳行とくこう霊魂れいこん謙遜けんそんにし、これあら有害ゆうがいなるおもひよりきよめて、よくため占有せんゆうせらるるをまぬかれしむるのみならず、こと直覚ちょくかくもっぱらならしむるなり。直覚ちょくかく霊魂れいこんほとんさいぐにちかづかしむべくして、これ非物的ひぶってき直覚ちょくかくとはづくるなり。すなは霊的れいてき徳行とくこうにして、おもいぞくするものよりのぼせて、これを第一の霊的れいてき直覚ちょくかくちかづかしめ、そのおもいをもまたそのふべからざる光栄こうえい直覚ちょくかくをもかみまえすなはかみせいだいなることをおも想像そうぞうこうなり〉此世このよ此世このよ感触かんしょくよりはなすなり。これによりわれ許与きょよせられたるのぞみにかたちて、これぐべきを保証ほしょうせられん、使徒しといはゆる勧誘かんゆうガラティア五の八すなはち保証ほしょうにしてわれ許約きょやくせられたる希望きぼうによりこころ想像そうぞうもっかんみちびかるるなり。

かみ身的しんてき生涯しょうがいとは身体しんたいじょうこうなり、身体しんたいじょうこうづけらるるものは道徳どうとくじょう実践じっせんもっ肉体にくたいきよむるがため顕然けんぜんたる動作どうさによりておこなはれ、これもっひと肉体にくたいじょうけつよりきよめらるるなり。心的しんてき生涯しょうがいとは審判しんぱんことあるいかみかみ定制ていせいこと念々ねんねんりょするとともたわまず続行ぞっこうするこころ作用さようにして、これおなじ連綿れんめんとしえざるこころとうと、個々ここおいても一般いっぱんおいてもぜんかいうちうかがはるるかみ照管しょうかんとそのおもんばかりのことおもひ、神秘しんぴなる霊的れいてき範囲はんいよくぞくするものをいつおこらざらしめんがためひそかなるよくよりおのれ保護ほごすることこれなり。みなこころこうにしてこれをづけて心的しんてき生涯しょうがいとはいふなり。霊的れいてき実践じっせんづけらるべき生涯しょうがいこのこうによりこころ益々ますますせいになりて、天然てんねんはんするむなしき生活せいかつしたしむよりとおざかる、しかれどもそののちときとしてかんせられて肉体にくたい需要じゅよう成長せいちょうためつくられたるかんぞくするもの回想かいそうかんするをはじむべくして、そのものたすけにより体中たいちゅうげんちからあたへらるる所以ゆえん了解りょうかいせん。

霊的れいてき生涯しょうがいとはかんあずからざる実践じっせんなり。此事このことしん父等ぷらあらはせり。しょ聖人せいじんこの生涯しょうがいおのれにくるや、物体観ぶったいかん肉身にくしんだいなるとはただちに中間ちゅうかんよりうばひられて最早もはや聡明そうめいなるてき観望かんぼうはじまるべく物体観ぶったいかんとはげん天然てんねん受造じゅぞうぶつす〉ひと物体観ぶったいかんよりようたかげられて、寂然せきぜんたる生涯しょうがい認識にんしきいたたっせん。これあきらか説明せつめいするごとかみ驚嘆きょうたんするなり。らい幸福こうふくたのしむときの高上こうじょうなる性状せいじょうにして、不死ふしなる生命せいめい自由じゆう復活ふっかつのち生命いのちあたへらるるなり、なんとなれば人性じんせい受造じゅぞうぶつたいするなに念頭ねんとうをもまったゆうせず、彼処かしこつね驚嘆きょうたんしてまざればなり、けだしなにかみおなじきもののあるあらば、或時あるときかみもってそのものひきせらるべく、或時あるときはそのものみづからこれひきせん。さりながら受造じゅぞうぶつ如何いかなるもそのらい革新かくしんおいても、かみよりはとおくだるならば、如何いかんはその看望かんぼうおいかみよりとおざかるをん。しからば何物なにものなるか、こころかなしましむるものはするのまぬかれざることなるか、あるい肉体にくたいおもきか、あるい親族しんぞくおくあるい天然てんねん要求ようきゅうあるい艱難かんなんあるい障碍しょうがいあるいれざるしん高慢こうまんあるい人性じんせい完全かんぜんあるい元行げんこうにょうあるいそう面会めんかいあるい煩悶はんもんあるいひとつからす身体しんたいろうなるか。まったしからず、このすべてのものはこれあるにかかはらず、よくおおひをこころよりだっして、らいさかえ達観たっかんするときは、おもひはただちにたかのぼせられて、きょう大悦たいえつせん。かみこの生命いのちおい如此かくのごとき性状せいじょう界限かいげんいて、いくばくかこれ躊躇ちゅうちょせしむるをさざるのみならず、畢生ひっせいあいだひと此事このこと許与きょよせられしならば、ひとこのおいてもこれ看望かんぼうするよりとおざかるあたはざるべし、いはんや前文ぜんぶん計算けいさんしたるもののたえところおいてをや。けだし道徳どうとく界限かいげんゆうせずして、生涯しょうがいためこれたまはるならば、われ真実しんじつ実際じっさい王門おうもんないらん。

これによるに如何いかんして奇異きい神妙しんみょうなる直覚ちょくかくかつこれとおざかりて、ぶつため阻止そしせらるべけんや。わざわいなるかなわえ自己じこ霊魂れいこんらず、如何いかなる生涯しょうがいさるるをもらずしてかえつて薄弱はくじゃくなる生命いのちと、生存せいぞん状態じょうたいと、患難かんなんと、そのものと、悪弊あくへいと、その安楽あんらくとをなに価値かちあるもののごとおもふ。

しかれどもハリストス独一どくいつ全能ぜんのうなるものよ、『ちからなんじにあり、こころみちなんじくるひとさいわいなり』〔聖詠八十三の六〕。なんじしゅよ、われおもてそむけてなんじしたはしめたまへ。しからばわれ如何いかなるをり、かげ実体じったいごとしんずることのむにいたらん。しゅよ、さきだちて、われこころ勉励べんれいさらおこして、これあらたにしたまへ、われ出発しゅっぱつときわれ此世このよかつづるの如何いかなるをらんためなり、しからばわれ最初さいしょなんじむね生命いのちされたるこのこと遂行すいこうすべく、つい聖書せいしょやくするごとなんじあいもっだい造成ぞうせいそなたまひしだいなる幸福こうふくけんとのねがいたさるる希望きぼう感受かんじゅするにいたるべくして、われみつしんずるにより、このおくまもらん。