<< 世より遠ざかる事、及び凡て智を擾すものより遠ざかる事。 >>
神は人々に二様の学習を賜ふて、大なる尊敬をあらはし、救済的認識に入らしめんが為にその閉せる門を何の処にも開き給へり。此事の真実なる證者を汝は願ふか。己れに反り求めよ、彼は亡びざるなり。されど此を外部にも確知せんと欲するならば、汝は真実の途に誤らずして引出す他の師と證者とを有するなり。
擾されし智は失念を免るるあたはず。睿智もかくの如き者の為にその門を開かざるなり。衆人一般の終は如何なる平等に導くを確たる認識を以て理会するを能くする者は、浮世の事を棄つる為に他の師に必要あらざるべし。元始に神を以て人に與へられたる天然の律法は神の造物を観察する是なり。書に記されし律法は堕落の後に加へられしなり。
慾の原因より自由に遠ざからざる者は心ならず罪に誘引せられん。罪の原因は左の如し、酒なり、女なり、富なり、肉体の強壮なり、さりながらこは其性質に於て罪なるにはあらず、天性が此等により罪なる慾に易すく傾くによる、故に人は注意して此を戒慎すること肝要なり。もし己の弱きを常に記憶するならば戒慎の境を破らざるべし。極貧は人々の醜とする所なり、然れども高慢なる霊魂と高超なる意気とは殊に神に醜とせらる。富は人々に貴ばる、然れども謙遜なる霊魂は神の尊敬する所なり。
善なる活動に始を置かんと欲する時は、先づ汝に及ぶ所の誘惑の為に自から備をなして、真理に躊躇するなかるべし。けだし人が熱心を以て善なる生涯を始むるを見るや、種々の恐るべき誘惑を以て彼を迎へ、此により畏れて善意を冷ならしめ、神に悦ばるる行為に近づくの切愛を全く有せざらしめんとするは敵の常なればなり。而して敵が此を為すはかくの如きの力を有するによるに非ず(もし之を有するならば人は如何なる善をも為すこと能はざるべし)義なるイオフ(ヨブ)に於て我等の確知する如く神が彼に許し給ふによる。ゆえに徳行に遣はさるる誘惑は勇気に之を迎ふるの備をなして、その後活動を始めよ、之に反して誘惑を迎ふるの豫備をなさずんば徳行の活動を自から禁止すべし。
神は善なる活動に於る補助者たることに疑を容るる人は、己の影を恐れ、充ちて豊なる時にも飢に疲れ、四囲の穏静なる際にも暴風に満たさるるなり。之に反し神に依頼する者は、心は堅固にして、其尊敬すべきことはすべての人に明かに顕はれ、其賞賛は其敵の面前にあり。
神の誡は世のあらゆる財宝より高く上にあり。之を獲得せし者は自己の内部に神を見ん。神の照慮に常々安んずる者は神を家宰として得ん。神の旨を行ふに渇想する者は天使等を嚮導と為さん。罪を懼るる者は恐ろしき進行を成して跌かざるべく、晦冥の時には己の前にも己の内にも光を見ん。罪を懼るる者の足を主は保護して、失脚する時には神の憐は先だたん。己の破誡を小なりと思ふ者は以前より尚甚しく陥り、七倍の罰を担はん。
謙遜を以て施を種け、さらば審判に於て憐を刈らん。汝は善を亡ぼせし程は新に之を得よ。汝は神に蜚虻を負債せり、蜚虻に代へて真珠を汝より取らざらん。例へば汝は貞潔を亡へり、もし淫行に止まらば神は汝より施を受けざらん、何となれば汝は誡を破りしにより肉体の聖なるを汝に要望すればなり。世の財産を棄てんと志して他の何物の為に戦を為すか。汝は植付けられしものを棄てて他物の為に来り戦ふか。
聖エフレム言へり、収穫の時は冬服を以て炎熱に敵せざらんと。此の如く各々種く所のものを穫るなり。すべての病は之に相当なる薬を以て癒さるるなり。汝は嫉妬に勝たれたるか、何故睡眠と闘ふに尽力するか。過は尚小にして熟せざる間に之を滅し、枝葉の蔓延して成熟するに先だつべし。瑕瑾[1]は汝に小なりと見ゆるも油断するなかれ、何となれば後来無慙[2]なる命令者を得てその前に奔走すること囚奴の如くなるべきによる。最初慾に敵する者は速に彼を主宰せん。
侮を禦ぐ方法を手に有ちながら喜で之を忍耐するを得る者は、神を信ずるにより慰藉を神よりうけん、又強ひらるる冤罪を順良にして勘忍する者は、完全に達し、聖なる天使等も彼に驚かん。けだし他の如何なる徳行もかくの如く高尚にして行ひ難きはあらず。
試みられて己の不変なるを見るに至る迄は、汝は己を有力なりと信ずるなかれ。かくの如くすべてに於て己を試むべし。正しき信仰を己に獲よ汝の敵を蹂躙せん為なり。汝の才智に高ぶるなかれ汝の力に依頼するなかれ、恐らくは汝は天然の弱きに陥るを許されて、その時自己の墜堕により己の弱きを確知せん。己の知識に信任するなかれ、恐らくは敵は中間に入り狡獪を以て汝を捉へん。汝の舌を温良ならしめよ、然らば汝は必ず汚辱に遇はざらん。愉快なる口を獲よ、然らば人は皆汝の友とならん。自己の事業を決して自分の言にて誇るなかれ、恐らくは羞を啓かん。人は何を以て誇るともすべてに於て神は人に変化するを許し給ふ、人の辱められて謙遜を学ばん為なり。ゆえに汝はすべてを神の預知に托し、此の生涯に或る不変なるもののある如く信ぜざらんこと肝要なり。
かくの如く行動して不断その目を神に挙げよ、何となれば神の庇蔭と照管は悉くの人を包容すればなり、然れども此照管は己を罪より浄めて、常に神を思ひ、神独りを思ふ者の外には明に見えざるなり。然して神の為に大なる試惑に入るときは、神の照管は特に彼等に顕はるるなり。けだしその時は彼等神の照管を感知すること、恰も肉眼を以て見る如くなるべくして、その各自に及ぶ所の試惑の度と源因とに順じて此の苦行者を勇気に励ますこと、たとへばイアコフ、イイスス ナワィン[3]、三人の童子、ペトル及びその他の聖者に或る人間の状態を以て現れて、彼等を敬虔に励まし、且堅めたる如くなるべし。しかれども汝は言はん、こは摂理により神を以て聖者に與へられしものにて、彼等は独り特別に此の如き異象を賜はりしなりと、然らば聖なる致命者等を以て汝の為に勇気の標準とせよ。彼等はしばしば多数相供に或は一個一個に、多くの場所に於て且は種々なる場所に於てハリストスの為に奮闘し、彼等にあらはれたる力により、鐵にて鉋らるると人性の為に堪ふる能はざる百般の苦みとを脆き体にて忍耐せり、けだし此の如き者等に聖なる天使等の顕然と現れたるは彼等神の為にもろもろの誘惑ともろもろの患難を充分忍耐したるにより神の照管が豊かにあらはれて、彼等の剛勇を表はし、以てその敵を辱かしむる所以を彼等各人に確知せしめん為なり。けだしかくの如きの異象により諸聖人の堅く支ふる程は、諸敵もその忍耐に激成せられて益々猖狂[4]に至りぬ。
世に知られざる苦行者及び遁世者に関しては何を言はんを要するか。彼等は野を以て城市となし、天使等の里となし、又住所となせり。その行の斉整の為に天使等は常に来り臨めり、而して独一主宰の戦士として時により彼等は互に供に戦へり。彼等は終世野を愛しけるが、神を愛するにより山間、巌窟又は地の深所を住居となせり、而して彼等が地に属するものをすてて天に属するものを愛し、天使に倣ふ者となれるや、聖なる天使その者も之が為彼等にその状をあらはして隠さざることは当然にして、その悉くの願を充たし、時としては彼等にあらはれて如何に生活すべきを教ふ、而して又或時には彼等が迷ひし所以を説明し、或時には聖者等自らも質問せり、是れ当然なり、或時には天使は路に迷ひし者等を教へ、或時には誘惑に陥りし者等を救ひ、或時には図らざる災害と恐ろしき危難の際に彼等を取り去りぬ、例へば蛇より救ひ、或は岩石、或は木片、或は投石の為に危きより救ひし如し、或時にはもし敵が聖者を公然侵撃するときは、顕然と彼等にあらはれて、彼等を助けんが為に遣はされし所以を言ひ、而して彼等に勇敢、大胆及び慰藉を増加へたり、然れども他時には彼等を以て病を癒したれど、或時にはその苦みに罹れる聖者を自から癒し、或時には食はざるが為に疲れし彼等の体に手を触れ、或は言を以て超自然なる力を與へて彼等を堅めたり、然して或時には彼等に食物麺麭、又は蔬菜をも供し、或は麺麭と供に他の或る食ふべきものをも供へ、而して或者にはその死期を告げ、他者にはその有様をさへ示したりき。それ聖なる天使の我等に愛を表すると義人等の為にすべて能ふべきの配慮を為すとを多く計算せんを要するか、彼等が吾人の為に配慮するは長兄弟の少者に於ける如し、予が此事を言ふは『主は凡て之を呼ぶ者に邇き』〔聖詠百四十四の十八(詩篇百四十五の十八)〕所以を人皆確知し、主の意を悦ばすことに己を献げ全心を以てその跡に随ふ者等に於る主の照管の如何なるを見るを得しめん為なり。
神の汝を照管するを信ずるか、何故汝は煩悶して、一時に属するものと汝の肉体に要用なるものの為に心を安んぜずして懸念するか。之に反して神の照管するを信ぜず、随て汝に要用なるものを神以外に自から慮るか、汝は人類中最も憐むべきものなり。何の為に活くるか否活きんとするか。『汝の哀みを主に負はしめよ。彼は汝を養はん』〔聖詠五十四の二十三(詩篇五十五の二十二)〕。『猝然なる恐懼を恐るるなかれ』〔箴言三の二十五〕。
一たび永遠に己を神に献げたる者は心を安んじて生命を送らん。無慾ならずんば霊魂は思慮の擾乱を免る能はざるべく五感を沈黙せしめずんば思に平安を感ぜざるなり。誘惑に入らずんば誰も心神の聡慧を得ざらん。勉強して読むなくんば思念の機微を察せざるべし。思念の安静なくんば智は神秘なる奥義に進まざるべし。信に依て望むなくんば霊魂は誘惑に対して勇敢なる能はざるべし。神の顕然たる保護を試知せずんば心は神に依頼する能はざらん。もし霊魂はハリストスの苦難を認識して之を味へずんばハリストスと親與するを得ざらん。
大なる憐憫により、欠くべからざる需要の為に己を殺す者を神の人と認むべし。けだし貧者を惠む者は神を得て己の後見と為す。而して神の為に貧しくなりしものは乏しからざる宝を獲ん。
神は何物にも必要あらず、然れども人が神の像を安んぜしめて、神の為に之を尊敬するを見る時は楽まん。人あり、汝の所有するものを汝に請ふ時は、心に左の如く言ふなかれ『我が霊魂の為に此を存置かん、此を以て自から安んぜん為なり、彼の為に要用なるものは他所より神は彼に與へん』といふなかれ。此の如き言は不義にして神を知らざる人には適せん。義にして善なる人は己の貴きを他に與へずして恩寵の時を事なくして経過するを許さざるなり。貧窮して切迫する人は神より給せられん、何となれば主は何人をも棄てざればなり、然るに汝は貧者を放逐して神より汝に與へられし尊きを離れ、神の恩寵を自から遠ざけんとす。故に與ふる時は喜んで次の如く言ふべし『神よ、光栄は爾に帰す、安んぜしむべき者に逢ふことを予に賜へばなり』と。然れども與ふべきものを汝は一も所有せざる時は、殊に喜ぶべく、神に感謝して左の如く言ふべし、『我が神よ、汝に感謝す、汝は此の恩寵と尊敬とを予に與へ、即汝の名の為に貧しくなるを予に與へ、病と貧とを以て汝の誡命の路に置かれたる患難を甞むるを予に賜ふこと、此の路を進行せし汝の諸聖者の甞めたる如くせしによる』と。
衰弱するときは言ふべし、『神により生命を嗣ぐべきものを以て神より試みらるるを賜はりし者は福なり』と、けだし神は霊魂の康健の為に病を遣はせばなり。聖者あり、左の如く言へり、曰く『予は認む、主の意に適して働かず、己が霊魂の救の為に熱心に闘はざる修道士は必ず誘惑に陥るを神より許さるるなり、閑散なる者とならざらんが為、及び多くの閑散により悪事に傾かざらんが為なり』と。ゆえに神が怠慢なる者と等閑[5]なる者に誘惑を被らしむるは、彼等誘惑の事を思ひて無益なることを考へざらん為なり。然して神を愛する者の為に神の常に此く為し給ふは、彼等を瞭解せしめ、智慧を増して、その旨を彼等に教へん為なり。ゆえに彼等が衰弱して、此事の起れるは等閑と怠慢との為なるを疑なく確知するに至る迄は神に祈願するも速に聞かれざるべし。けだし録して言へり、曰く『我なんぢ等が手を伸ぶる時目をおほい、汝等が多くの祈祷をなすときも聞くことをせじ』〔イサイヤ一の十五〕と、是れ他の人々に就ても言ひ得べしといへども、特に主の途を棄てたる者の為に書されしなり。
さりながら神は大仁慈なりと言ふにも拘はらず誘惑に於て常に叩き且求むるときは聴かれざるのみならず、却て我等が願を軽んずるは何故なるか。けだし預言者は此事を我等に教へて言へり、主の手は惠を垂るる為に小ならず、主は聞く為に耳を重くせず、却て我等が罪はわれを彼と分離し、我等が不法は彼の面を背けて聞かざらしむと〔イサイヤ五十九の一〕。何の時も神を記憶せよ、さらば災難に陥るときは彼も汝を記憶せん。
汝の性は慾を受け易きものとなり、現世には試惑多く、悪は汝より遠ざからずして、汝の内部にも汝の足下にも横溢す、立つ所の地位より下るなかれ。神が惠み給ふときは免るるを得ん。目と瞼の相近きが如く、試惑も人々に近し、而して神が汝を益せん為に睿智を以て之を預め設け給ひしは、汝常に彼の門を叩かん為なり、患難の恐れによりて彼を念ふ記憶を汝の心に植込まん為なり、汝祈祷に於て彼に近づき不断彼を記憶して汝の心の聖にせられん為なり。而して汝が祈願するときは汝に聴き給はん、さらば汝は汝を救ふ者の神なるを確知すべく、汝を造りて汝の為に慮り、汝を守りて、汝の為に二重の世界を造りし者を自覚せん、即一は一時の師たり教誨師たるものを造り、他は父の家たり、永遠の嗣業たるものを造れる是なり。神が汝を造りて患難の近づき難き者となさざりしは、汝も神の如くならんとの非望を起し、最初は明星たりしも後来驕傲により『サタナ』となりし者の嗣ぎしものを同く嗣がざらん為なり。然して之と同く汝を造りて変ぜざる者となさず、移らざる者となさざりしは、汝、不霊なる造物の性に似たる者とならざらん為なり、汝に於て善なるものが汝の為に無益なるものとなり、恩賞に当らざるものとなりて存すること無言者たる禽獣の天然の特質の如くならざらん為なり。けだし汝に向つて此刺を研がれしにより、利益と感謝と謙遜の幾許生ずるかは何人にも易く了解し得ん。
此に由て見れば我等は出来得る丈善に進みて悪を避くべき所以と、此より流れ出づるものは名誉も不名誉も我有とせらるる所以とは顕然たるなり。不名誉を以て辱しめらるる我等は畏る、然れども名誉を以て励まさるる者は感謝を神に捧げて、徳行に発展せん。神が此等の保育者を増し給ひしは、汝、彼等を免れて自由になり、患難の近づき難き者となり、すべての畏懼より高く立ちて、汝の主神を忘れず、彼より遠ざからずして、多神主義に陥るを免れん為なり、例へば他の多くの者が汝と同く慾を有して汝と同様の不幸に打たるるに拘はらず、此世の瑣々たる権威或は有形の美の為に瞬間にして多神主義に陥るのみならず、愚にして自己をも神と名づくるを敢てせし如くなるを免れん為なり。ゆえに神は汝に患難に居るを許し給へり。
しかれども時として汝が遠離して神を怒らしめざらん為にも、神が汝を罰に投じて汝をその顔より滅さざらん為にも、之を許すことあり。生活の安全と畏るる所なきとの故に生ずる所の不信及びその他の誹謗に関しては、是より先、予が述べしものを敢て非難する者あらずんば、言はざるべし。神は苦みと慾とを以て汝の心に神を念ふ記憶を増し、反対者を恐るるにより汝を神の仁慈の門に就かしめ、之より救ふを以て神を愛する心を汝の中に蒔付けたまへり。而して愛を汝に入れ、義子たる栄を以て神に近づかしめて、その恩寵の幾ばく豊富なるを汝にあらはせり。けだし反対なる者が一も汝と会するあらずんば此の如き神の照管と善慮とを汝は何処より探知すべきか。故に神を愛する心は此により汝の霊中に大に増殖せらるべし、即神の賜を瞭解すると其照管の大に余あるを記憶するとにより増殖せらるべし。此のすべての幸福が汝の為に悲哀によりて生ぜらるるは汝の感謝するを学ばん為なり。終りに神を記憶せよ、神も汝を常に記憶せん為なり。然して汝を記憶して汝を救ふときは彼よりすべての幸福をうけん。無益なる事に思を馳せて神を忘るるなかれ、神も汝をその戦時に忘れざらん為なり。己の富裕に於て神に従順なるべし、患難に於て神に対する熱心堅固なる祈祷を以て神の前に勇気を有せん為なり。
主を念ふ記憶を心に有して主の前に不断己を潔くせよ、久しく彼を記憶せずして、彼に就く時勇気を有せざる者とならざらん為なり。けだし神の前に於ける勇気は神と頻に対談すると多くの祈祷の結果なり。人々に交際すると之を続くるとは身体に頼る、然れども神と交通するは心中の記憶と祈祷に注意すると全燔祭とに頼る。神を念ふ記憶を久しく守るにより霊魂は時として駭異[6]と驚訝[7]とに至ることあり。『主を尋ぬる者の心は楽むべし』。譴を受る者は主を尋ぬべし、さらば望を以て確立せん、悔改を以て彼の顔を尋ぬべし、〔聖詠百四の三、四(詩篇百五の三、四)〕さらば其顔の聖なるを以て聖にせられて其罪より浄められん。凡て罪ある者は主に趨り就けよ、彼は罪を赦してその過を軽んぜん。けだし彼は預言者を以て誓つていへり、曰く『主言ふ我れ生く、罪人の死を欲せず、転じて生きんを欲す』〔イエゼキリ三十三の十一〕、又言ふ『順はずして悖れる民に終日我が手を伸して招けり』〔イサイヤ六十五の一〕、又言ふ『イズライリの全家を憐む』〔イエゼキリ三十九の二十五〕、『我に帰れ、我亦汝等にかへらん』〔マラヒヤ三の七〕、又言ふ『罪人が其途を棄てて主に帰り、法律と公義とを行ふ日には、彼の不法を記憶せず、乃ち生きて死せざらんと、主はいひ給ふ。而してもし義人は其義を棄てて、罪を犯し、不義を為さば彼の義を記憶せず、却て躓を其前に置かん、されば彼は其行に止まりて暗中に死せん』〔イエゼキリ十八の二十一 ― 二十四〕是れ何故なるか、けだし罪人は主に帰る日には其罪に跌かざるべけれど、義人はもし如此の罪に止まるならば、其義は彼を罪を行ふの日に救はざるによる。然して神はイエレミヤに左の如く告げていへり、曰く『汝巻物を取り我が汝に語りし日、即ちイウデヤの王イオシヤの日より今日に至るまでを之に録せよ、我が汝に語りし如く此民に降さんとするすべての災を聴き、恐れておのおの其悪しき途を離れ、転じて悔改せん、さらば我其罪を赦すべし』〔イエレミヤ三十六の二、三〕、又睿智者も言へり『己の罪を掩ふ者は一も益する所あらず、されど己の罪を認めて之を背棄する者は神より矜恤を蒙らん』と、〔箴言二十八の十三〕。またイサイヤも言へり曰く『主を尋ねよ、尋ねて彼を呼べよ、近づきて罪人は其途を離れ不義なる人は其思を棄て、而して我に帰れよ、然らば汝等を矜まん。けだし我が思は汝等の思の如くならず、我が途は汝等の途の如くならず』〔イサイヤ五十五の六、八〕、もし我に聴き遵はば地の美なる者を食はん〔イサイヤ一の十九〕。我に来りて我に遵ふべし、然らば汝等の霊は生きん。主の途を守りて主の旨を行ふ時は主に依頼して彼を呼ぶべし。『我呼ぶときは我ここにありといはん』〔イサイヤ五十八の九〕。
誘惑が不義者を襲ふや、彼は神を呼んで其救を待つの希望を有せず、何となれば其の安寧の日に神の旨より遠ざかりしによる。戦を始むる先に助を己れに尋ねよ、疾病の先に醫を捜せよ、患難が汝に来る先に神に祈れ、さらば不幸の時神を尋ねて神は汝に聴き給はん。失脚する先に呼んで願ふべし、祈祷せんとして立つ先に誓約を用意せよ、即此処より旅立することの用意せよ。ノイ(ノア)の方舟は平安の時に預備せられて其木は百年の前に仕上げられたり。されば怒の時不義者は亡びたれど義人の為に舟は庇護となりぬ。
不義なる口は祈祷の為に塞がらん、何となれば良心の責めは人を勇気を有せざるものと為せばなり。善良なる心は祈祷に於て喜んで涙を流す。世が死する所の者は喜んで侮を忍耐すれども、世が生くる所の者は侮を忍耐する能はず、却て虚誇の為に動かされて、怒を発し、無智なる激動により擾乱し、或は悲哀に囲まれん。此の如き徳行に進歩するは如何に難くして、神より如何なる栄を受くるや。此の徳行に進歩する者、即侮を忍耐し大量ならんを欲する者は、親族に遠ざかりて旅行者とならんこと要用なり、何となれば本国に於ては此徳行に進歩する能はざればなり。親族の中に在りて苦難を忍耐するは一の大なる有力者に適すべく、此世が死する所の者のみ此を能くせん、何となれば彼はすべて現在の慰めに望を絶てばなり。
恩寵は謙遜に遠からざる如く、病の発作は驕傲に近し。主の眼は謙遜なる者に向ふ、彼等を楽ましめん為なり。されど主の面は驕傲なる者に反す、彼等を謙遜ならしめん為なり。謙遜は神より常に憐みを受く。之に反して不仁と小信とは恐しき出来事と相会す。すべてに於て衆人の前に己を卑うせよ、さらば此世の王の前に高められん。敬礼と叩拝を以てすべての人に先んぜよ、さらばオフィル[8]の金を進献する者よりも尊ばれん。
己を卑うせよ、然らば己に神の栄を認めん。けだし謙遜の芽を出す処に神の栄は流るるなり。もし汝はすべての人が汝を公然卑めんことを切に願ふならば、神は汝を頌揚せらるるものとなさん。もしその心に謙遜を有するならば、神はその栄を汝の心に示さん。汝の大なるに於て侮り易き者となれ、されど汝の小なるに於て大なる者となるなかれ。軽侮に居るを力めよ、さらば神の名誉に満たされん。内部に疵を満たして、尊敬に居るを求むるなかれ。名誉を斥けよ、尊崇せられん為なり。名誉を愛するなかれ名声の汚れざらん為なり。名誉に汲々たる者より名誉は前面に逃れん。されど名誉を避くる者に名誉は後より追求して、衆人の為にその謙遜の告示者とならん。
もし汝は尊崇せらるるを免れん為に自から己を軽んぜば、神は汝を宣示せん。もし実に己を非難せば、神は悉くの造物に汝を頌讃するを命じ、汝の造成者の光栄の門は汝の前に開けて、汝を頌讃せん、何となれば汝には実に神の像と肖とあればなり。道徳は光り輝けども人々には微々たる者としてあらはれ、生活は淡白に知識は賢明にして、心神の謙遜なる者を誰か見たるか、すべてに於て己を謙る者は福なり、何となれば高められんとすればなり。けだし神の為にすべてに於て謙りて己を抑損する者は神を以て称讃せられん。神の為に飢え渇く者に神はその幸福を満たしめん。神の為に裸体を忍ぶ者は神を以て不朽と光栄を衣せらるるなり。神の為に極貧となる者は神の真実なる富を以て慰められん。神の為に己を賤めよ、さらば汝の栄の幾許増加するを識らざらん。畢生己を罪人と為せ、さらば生涯の間汝は義とせらるる者とならん。己の賢明に於て無知となれ、無知にして賢明と見ゆるなかれ。謙遜は凡庸無学の人をも高うするならば、大にして貴ぶべき者には如何なる尊敬を與ふるか思ふべきなり。
虚誇を逃れよ、然らば称讃せられん。驕傲を畏れよ、さらば高められん。虚誇は人の子に與へられず、尊大は婦の生む者に與へられず。もし汝はすべて浮世に属するものを自由に棄つるならば、之を追ふ者を避けよ。貪慾なる者を避くること、貪慾そのものを避くる如くせよ。奢侈なる者に遠ざかること、奢侈そのものに遠ざかる如くせよ。放蕩なる者を避くること、放蕩そのものを避くる如くせよ。けだし此等の事は記憶するのみにても心を擾すならば、矧んやかくの如き者等を看望し、彼等と時を送るに於てをや。義者と親近せよ、彼等により神に近づかん。謙遜を有する者と交際して彼等の品性に習へ。けだしかくの如き者等を看望するは益あるならば、矧んや彼等が口授の教に於てをや。
貧者を愛せよ、彼等により汝も憐を捉へん為なり。好争者と近接するなかれ、恐らくは汝も安静の外に立つを余儀なくせられん、病ある者特に極貧なる者より発する悪臭は嫌はず耐忍せよ、汝も肉体に包まるればなり。心に哀む者を責むるなかれ、恐らくは彼等の杖は汝を打ち、汝は撫恤者を求むれども得ざらん。不具者を賤むなかれ、人皆同尊にして、地獄に赴けばなり。罪人を愛すれども其行を憎め、罪ある者をその瑕瑾の為に軽んずるなかれ、彼等の誘はれたるものを以て自分も同く誘はれざらん為なり。汝も地の性を禀けし者なるを記憶して、衆人に善を作すべし。汝の祈祷を要求する者を斥くるなかれ、彼等を和ぐる慰藉の言を奪ふなかれ、恐らくは彼等は亡びて彼等の霊を汝より求められん。之に反して醫は焮衝[9]の病を癒すに清涼剤を以てすれども、之と反対なるものをは温暖なるものを以てするを記憶せよ。
人と面会する時は彼にその度を越て尊敬を表するに己を強ひよ。彼の手と足とを接吻し、大なる敬意を表して頻りに彼を抱き、彼を己の眼の上に挙げて、彼が有せざるものの為にさへ彼を称揚せよ。然して彼と別るる時は彼の為にすべて善なることを言ひ、何にても尊敬すべきことを言ふべし。此等の挙動を以て彼を善にみちびき、彼をして汝の待遇の厚き敬礼に自から耻るあらしめ、彼に徳行の種子を種けばなり。汝が得たる此の如きの習慣により善なる象様は汝に印せらるべく、自から高き謙遜を得て大なるものに易すく進歩せん。然のみならず汝の尊敬する者は何か欠点を有するあらば、汝のあらはせる尊敬により自から耻ぢて、汝より療方を易すく受けん。此習慣即衆人に対して慇懃謹厚なる習慣を汝は常に有すべし。信仰の為にも悪行の為にも誰をも激するなかれ誰をも憎むなかれ。誰を何に於てか非難し或は規責するを戒慎せよ、何となれば我等には公平無私なる審判者の天に在すあればなり、されどもし誰をか真理に向はしめんと欲するならば、彼の為に哀むべし。涙と愛とを以て彼に一二言言ふべし、然れども彼に怒を発するなかれ、さらば仇怨の徴候を汝の中に認めざらん、けだし愛は人を怒り或は激し、或は騒急に人を責むる能はざるなり。我等が主ハリストス、イイススの為に善なる良心により生ぜらるる謙遜は愛と知識の表示とならん。彼に光栄と権柄は父及び聖神と共に今も何時も世々に帰す。「アミン」。
- ↑ 投稿者注:きず。あやまち、欠点、短所。
- ↑ 投稿者注:無慙、無慚は悪い事をして心に恥じないこと。いたいたしく正視に堪えないようすを意味する無惨、無残とは異なる。
- ↑ 投稿者注:ヨシュア。
- ↑ 投稿者注:猛り狂うさま。
- ↑ 投稿者注:ものごとをいい加減にすること。真剣さがないこと。深く心に留めないこと。
- ↑ 投稿者注:驚くこと。突然のできごとに対して激しく動揺すること。
- ↑ 投稿者注:驚いて当惑すること。
- ↑ 投稿者注:オフィルはソロモン王の時代の金の産地。
- ↑ 投稿者注:からだの一部分が赤くはれ、熱をもって痛むこと。炎症。