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シリヤの聖イサアク全書/第五十六説教

第56説教

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<<神(かみ)を愛(あい)する事、世(よ)を避(さ)くる事、及び神(かみ)に於(おい)て安(やす)んずる事。>>

神(かみ)を愛(あい)する霊魂(れいこん)は己(おのれ)の為(ため)に安心(あんしん)を神(かみ)に、神独(かみひと)りに於(おい)て求(もと)むるなり。如何(いか)なる外部(がいぶ)の関係(かんけい)をも先(ま)づ自(みづ)から解(と)くべし、その時(とき)は心(こころ)を以(もっ)て神(かみ)と連合(れんごう)するを得(え)ん、何(なん)となれば物体(ぶったい)と分離(ぶんり)するは神(かみ)と親(しん)與(よ)するに先(さき)立(だ)てばなり。麺麭(パン)は嬰児(おさなご)が乳養(にゅうよう)せられし後(のち)食用(しょくよう)として與(あた)へらる、かくの如(ごと)く神聖(しんせい)なる事(こと)に大(おおい)に発達(はったつ)せんと企図(きと)する人(ひと)も先(ま)づ自(みづ)から世(よ)より遠(とお)ざからんを欲(ほっ)すること嬰児(おさなご)が母(はは)の懐(ふところ)と乳(ち)房(ぶさ)より遠(とお)ざかる如(ごと)くならん。身体(しんたい)上(じょう)の働(はたらき)の心霊(しんれい)上(じょう)の働(はたらき)に先(さき)だつは塵(じん)土(ど)のアダムに吹(ふき)入(いれ)られたる生(せい)気(き)に先(さき)だちし如(ごと)し。身体(しんたい)上(じょう)の働(はたらき)を求(もと)めざる者(もの)は心霊(しんれい)上(じょう)の働(はたらき)をも有(ゆう)する能(あた)はず、何(なん)となれば後者(こうしゃ)の前者(ぜんしゃ)より生(しょう)ずるは、麦穂(むぎのほ)の麦粒(むぎつぶ)より生(しょう)ずる如(ごと)くなればなり。然(しか)して心霊(しんれい)上(じょう)の働(はたらき)を有(ゆう)せざる者(もの)は霊神(れいしん)上(じょう)の賜(たまもの)をも奪(うば)はるるなり。

現世(げんせい)に於(おい)て真(しん)理(り)の為(ため)に忍耐(にんたい)する苦(く)痛(つう)は善(ぜん)の為(ため)に苦(くるし)む者(もの)に備(そな)へらるる楽(たのしみ)とは比較(ひかく)にもなる可(べか)らず。涙(なみだ)を以(もっ)て種(ま)く者(もの)は喜(よろこび)の禾把(いなたば)を伴(ともな)ふ如(ごと)く、神(かみ)の為(ため)に苦(くるしみ)を受(うく)るは喜(よろこび)を伴(ともな)ふ。汗(あせ)を以(もっ)て求(もと)めたる麺麭(パン)は農人(のうじん)の為(ため)に甘(あま)からん、義(ぎ)の為(ため)に為(な)ししこともハリストスの知(ち)識(しき)を受(う)けたる心(こころ)に甘(あま)し。軽(けい)侮(ぶ)と貶黜(べんちつ)とは善(ぜん)意(い)を以(もっ)て忍耐(にんたい)せよ、神(かみ)の前(まえ)に勇気(ゆうき)を有(ゆう)せん為(ため)なり。人(ひと)は如何(いか)なる無(む)慙(ざん)の言(ことば)をも知(ち)識(しき)により忍耐(にんたい)して、此(この)言(ことば)を発(はっ)せし者(もの)に自分(じぶん)は預(あらかじ)め不義(ふぎ)を為(な)さざりし時(とき)は、たとひ此際(このさい)己(おのれ)の頭上(とうじょう)に荆冠(けいかん)[1]を加(くは)へらるると雖(いへど)も福(さいわい)なり、如何(いかん)となれば自分(じぶん)は知(し)らざるも不(ふ)朽(きゅう)に栄冠(えいかん)を加(くは)へらるればなり。

知(ち)識(しき)を以(もっ)て虚栄(きょえい)を避(さ)くる者(もの)はその心(こころ)に来世(らいせい)を感(かん)ぜん。世(よ)を棄(す)てたり、と言(い)ふも、或(あ)る需要(じゅよう)の為(ため)に人々(ひとびと)と争(あらそ)ひ己(おのれ)を安(やす)んぜんが為(ため)に何(なに)等(ら)の欠(かく)る所(ところ)もあらざらんとする者(もの)は全(まった)く盲(めしい)なり、何(なん)となれば全身(ぜんしん)を自由(じゆう)に棄(す)てたれども、一(いつ)の肢(し)体(たい)の為(ため)に争(あらそ)ひ戦(たたか)へばなり。現世(げんせい)に安息(あんそく)を逃(のが)るる者(もの)の智(ち)は最(も)早(はや)来世(らいせい)を探(たん)知(ち)せり。しかれども貪(たん)利(り)に縛(しば)らるる者(もの)は慾(よく)の奴(ど)なり。金銭(きんせん)を求(もと)むる事(こと)をのみ貪(たん)利(り)と思(おも)ふなかれ、何(なに)にても汝(なんじ)の意思(いし)の繋(つな)がるものを求(もと)むるは貪(たん)利(り)なり。身体(しんたい)を以(もっ)て苦(くるし)めども官能(かんのう)に自由(じゆう)を與(あた)ふる者(もの)を賞賛(しょうさん)するなかれ、即(すなはち)聞(き)くと、開(ひらい)て制(せい)し難(がた)き口(くち)と、迷(まよ)へる目(め)是(これ)なり。霊魂(れいこん)に規則(きそく)を命(めい)じ、慈悲(じひ)を以(もっ)て救(すくい)を立(た)てんとするときは、他(た)の行(こう)為(い)により称(しょう)義(ぎ)を求(もと)めざらんことに霊魂(れいこん)を習(なら)はすべし、一(ひとつ)の手(て)を以(もっ)て為(な)して他(た)の手(て)を以(もっ)て濫(らん)費(ぴ)すと認(みと)められざらん為(ため)なり、けだし彼処(かしこ)には憐(あわれみ)の深(ふか)きを要(よう)すれども、此処(ここ)には心(こころ)の廣(ひろ)きを要(よう)すればなり。然(しか)れども知(し)るべし負(おいめ)を負(お)う者(もの)に罪(つみ)を免(ゆる)すは義(ぎ)の行(こう)為(い)に属(ぞく)するを、その時(とき)は到(いた)る処(ところ)に安静(あんせい)と清明(せいめい)とを汝(なんじ)の心(こころ)に認(みと)めん。義(ぎ)の路(みち)に入(い)る時(とき)は凡(すべ)ての行動(こうどう)に於(おい)て自由(じゆう)に就(つ)かん。

此事(このこと)につきて或(あ)る聖者(せいしゃ)は次(つぎ)の如(ごと)く言(い)へり、曰(いは)く『慈悲(じひ)者(しゃ)はもし正当(せいとう)ならざるときは盲(めしい)なり、知(し)るべし自己(じこ)の尽力(じんりょく)と労(ろう)とを以(もっ)て得(え)たるものより他(た)に與(あた)ふべくして、詐偽(さぎ)と不義(ふぎ)と狡獪(こうかい)とを以(もっ)て得(え)たるものよりすべからざることを。』彼(かれ)は又(また)他(た)の処(ところ)に於(おい)て次(つぎ)の如(ごと)くいへり、曰(いは)く『貧者(ひんしゃ)に撒(ま)かんと欲(ほっ)せば自分(じぶん)のものにより撒(ま)くべし。之(これ)に反(はん)してもし他人(たにん)のものにより撒(ま)かんと欲(ほっ)するならば、これ最苦(いとにが)き莠(はぐさ)なり』と。予(よ)は之(これ)に加(くは)へて言(い)はん、もし慈悲(じひ)者(しゃ)は己(おのれ)の義(ぎ)よりも高(たか)く立(た)たずんば彼(かれ)は無慈悲(むじひ)なり、即(すなはち)慈悲(じひ)者(しゃ)は己(おのれ)のものにより人々(ひとびと)に施(ほどこ)すのみならず、他(た)の人々(ひとびと)より受(うく)る所(ところ)の不義(ふぎ)は喜(よろこ)んで忍耐(にんたい)して彼(かれ)らを憐(あわれ)まん。施(ほどこし)を以(もっ)て義(ぎ)に勝(か)つならば、その時(とき)加(くは)へらるるものは義(ぎ)人(じん)らが受(う)くる法(ほう)下(か)の冠(かんむり)には非(あら)ずして、福音的(ふくいんてき)完全者(かんぜんしゃ)の福音的(ふくいんてき)栄冠(えいかん)なり。けだし己(おのれ)の所有(しょゆう)により貧者(ひんしゃ)に與(あた)へ裸(ら)者(しゃ)に衣(き)せ、人(ひと)を愛(あい)すること己(おのれ)の如(ごと)くし、侮(あなど)らず、罵(ののし)らざる等(とう)の事(こと)は旧(ふる)き律法(りっぽう)も之(これ)を宣言(せんげん)せり、されど福音的(ふくいんてき)摂理(せつり)の完全(かんぜん)は命(めい)ずること左(さ)の如(ごと)し、曰(いは)く『凡(およ)そ汝(なんじ)に求(もと)むる者(もの)には與(あた)へ、汝(なんじ)の物(もの)を取(と)る者(もの)には復(また)之(これ)を促(うなが)すなかれ』〔ルカ六の三十〕。ゆえに或(あ)る物品(ぶっぴん)又(また)は他(た)の外部(がいぶ)に属(ぞく)するものを不(ふ)正(せい)に奪(うば)はるるを喜(よろこ)んで忍耐(にんたい)するのみならず、生命(せいめい)をも兄弟(けいてい)の為(ため)に犠牲(ぎせい)となさんこと肝要(かんよう)なり。これ慈悲(じひ)者(しゃ)なり、されどもただに施與(せよ)を以(もっ)て兄弟(けいてい)に慈悲(じひ)をあらはす者(もの)は慈悲(じひ)者(しゃ)にあらず。之(これ)に反(はん)してその兄弟(けいてい)を哀(かなし)ましむるを見聞(けんもん)して心(こころ)の燃(も)ゆる者(もの)と兄弟(けいてい)の為(ため)に頬(ほお)を打(う)たるるや之(これ)に報(むく)ひて彼(かれ)の心(こころ)を哀(かなし)ましむる程(ほど)無耻(むち)の心(こころ)を有(も)たざる者(もの)も亦(また)慈悲(じひ)者(しゃ)なり。

儆醒(けいせい)の業(ぎょう)を尊(たっと)ぶべし、汝(なんじ)の霊(れい)に近(ちか)く慰(い)藉(しゃ)を見(み)ん為(ため)なり。黙読(もくどく)を練習(れんしゅう)せよ、汝(なんじ)の智(ち)が常(つね)に神(かみ)の奇(き)蹟(せき)に昇(のぼ)せられん為(ため)なり。貧(まづ)しきを忍耐(にんたい)すると共(とも)に之(これ)を愛(あい)せよ、その心(こころ)を一(いつ)に集中(しゅうちゅう)して高(たか)く飛(と)ばざらしめん為(ため)なり。廣(ひろ)き生活(せいかつ)を嫌(きら)へよ、その思(おもい)を擾(みだ)さず守(まも)らん為(ため)なり。事(こと)の多(た)端(たん)を制(せい)して独(ひと)り己(おのれ)の霊魂(れいこん)を慮(おもんばか)れ、内(ない)部(ぶ)の安静(あんせい)を濫(らん)費(ぴ)するより之(これ)を救(すく)はん為(ため)なり。貞潔(ていけつ)を愛(あい)せよ、祈(き)祷(とう)の時(とき)神(かみ)の前(まえ)に耻(はぢ)ざらん為(ため)なり。その行(おこない)に浄潔(じょうけつ)を求(もと)めよ、汝(なんじ)の霊魂(れいこん)が祈(き)祷(とう)に於(おい)て照(てら)され、死(し)の記(き)憶(おく)により汝(なんじ)の心(こころ)に喜(よろこび)を点(てん)火(か)せん為(ため)なり。小(しょう)なるものを戒(いまし)めよ、大(だい)なるものに陥(おちい)らざらん為(ため)なり。汝(なんじ)の業(ぎょう)務(む)に怠慢(たいまん)なるなかれ、其友(そのとも)の間(あいだ)に立(た)つ時(とき)耻(はぢ)ざらん為(ため)なり、及(およ)び路(みち)の用(よう)意(い)を為(な)さざる者(もの)と認(みと)められ、随(したがっ)て友(とも)が汝(なんじ)を独(ひと)り途(と)中(ちゅう)に棄(す)てざらん為(ため)なり。其(その)行(こう)為(い)を知(ち)識(しき)にて導(みちび)くべし、凡(すべ)ての進行(しんこう)に非(ひ)難(なん)をうけざらん為(ため)なり。其(その)生活(せいかつ)に自(じ)由(ゆう)を求(もと)めよ、暴風(ぼうふう)雨(う)より免(のが)れん為(ため)なり。快楽(かいらく)を資(たす)くるものを以(もっ)て己(おのれ)の自(じ)由(ゆう)を縛(しば)るなかれ、僕(ぼく)の僕(ぼく)とならざらん為(ため)なり。其(その)衣(き)る所(ところ)は貧(まづ)しきを愛(あい)せよ、汝(なんじ)に生(しょう)ずる思(おもい)を貶(べん)せん為(ため)、即(すなはち)心(こころ)の高慢(こうまん)を貶(べん)せん為(ため)なり。燦爛(さんらん)を愛(あい)する者(もの)は謙遜(けんそん)なる思(おもい)を得(う)ること能(あた)はず、何(なん)となれば心(こころ)は外(がい)部(ぶ)の状態(じょうたい)の如(ごと)くに其(そ)の内(ない)部(ぶ)に印(いん)せらるればなり。

空談(くうだん)を愛(あい)して浄(じょう)智(ち)を求(もと)むるを能(よ)くせし者(もの)ありや。智(ち)が五(ご)感(かん)に誘引(ゆういん)せらるる時(とき)は彼(かれ)等(ら)と共(とも)に禽(きん)獣(じゅう)の食(しょく)を食(くら)はん。然(しか)れども五(ご)感(かん)が智(ち)に誘引(ゆういん)せらるる時(とき)は彼(かれ)と共(とも)に天(てん)使(し)の糧(かて)をうけん。

謙徳(けんとく)には節制(せっせい)とすべてに制限(せいげん)あるとを伴(ともな)ふ、然(しか)れども虚(きょ)誇(こ)は淫行(いんこう)の従者(じゅうしゃ)にして驕傲(きょうごう)の行(おこない)なり。謙徳(けんとく)は恒久(こうきゅう)の自(じ)制(せい)により直覚(ちょくかく)に達(たっ)し、心霊(しんれい)を貞潔(ていけつ)に飾(かざ)らん。然(しか)れども虚(きょ)誇(こ)は思(し)慮(りょ)の間断(かんだん)なき擾乱(じょうらん)と動揺(どうよう)とにより遇(あ)ふ所(ところ)のすべての者(もの)より不(ふ)潔(けつ)の財(たから)を集(あつ)めて心(こころ)を汚(けが)す。彼(かれ)は又(また)邪(よこしま)なる眼(め)を以(もっ)て物(もの)の自(し)然(ぜん)を観(み)て耻(は)づべき想像(そうぞう)を心(こころ)に充(み)たす、然(しか)れども謙徳(けんとく)は窃(ひそか)に直覚(ちょくかく)を以(もっ)て己(おのれ)を制限(せいげん)して之(これ)を得(え)たる者(もの)を讃栄(さんえい)に喚(かん)起(き)す。

世(よ)に休徴(きゅうちょう)と奇(き)蹟(せき)と異(い)能(のう)を行(おこな)ふ者(もの)を黙識(もくしき)心通(しんつう)する者(もの)に比(ひ)するなかれ。世(よ)に飢(うう)る者(もの)を飽(あ)かしめ、多(おお)くの民(たみ)を神(かみ)を拝(はい)するに帰(き)せしめんよりは黙想(もくそう)の無為(むい)を愛(あい)せよ。己(おのれ)を罪(つみ)の械繋(かいけい)より解(と)くは奴(ど)隷(れい)を苦(く)役(えき)より脱(だっ)せしむるに愈(まさ)れり。汝(なんじ)は三(みつ)の成分(せいぶん)の一致(いっち)により、即(すなはち)体(たい)と霊(れい)と神(しん)との一致(いっち)により汝(なんじ)の霊魂(れいこん)と相(あい)和(わ)するは、その教導(きょうどう)を以(もっ)て意(い)見(けん)の異(こと)なる者(もの)を和(わ)せしむるより愈(まさ)れり。グリゴリイ言(い)ふ『神(かみ)の為(ため)に神学(しんがく)を教(おし)ふるは善(よ)し、然(しか)れども人(ひと)の為(ため)に之(これ)より愈(まさ)るは神(かみ)の為(ため)に己(おのれ)を浄(きよ)き者(もの)と為(な)すこと是(これ)なり』。熟達(じゅくたつ)老練(ろうれん)にして訥(とつ)なるは其(その)智(ち)の頴鋒(えいほう)により教道(きょうどう)を川(かわ)の如(ごと)く流(なが)すよりも汝(なんじ)の為(ため)に愈(まさ)れり、其(その)思(おもい)を神聖(しんせい)なる事(こと)に喚(かん)起(き)して、慾(よく)の為(ため)に汝(なんじ)の霊(れい)中(ちゅう)に仆(たお)れたるものを起(おこ)すを慮(おもんばか)るは死(し)者(しゃ)を復活(ふっかつ)せしむるよりも汝(なんじ)の為(ため)に有益(ゆうえき)なり。

異(い)能(のう)を行(おこな)ひ、死(し)者(しゃ)を復活(ふっかつ)し、迷(まよ)ひし者(もの)の反正(はんせい)の為(ため)に労(ろう)して、大(だい)なる奇(き)蹟(せき)を行(おこな)ひ、その手(て)により多(おお)くの者(もの)は神(かみ)を識(し)るに導(みちび)かれしも、此(この)すべての後(のち)他(た)の人々(ひとびと)を復活(ふっかつ)せしめたる自(じ)分(ぶん)は憎(にく)らしく嫌(きら)はしき慾(よく)に陥(おちい)り、自己(じこ)を殺(ころ)して、其(その)行(おこない)の顕然(けんぜん)とあらはるや、多(おお)くの人(ひと)の為(ため)にも誘惑(ゆうわく)となる者(もの)多(おお)し、何(なん)となれば彼(かれ)等(ら)は猶(なお)心(こころ)の病(やまい)に在(あ)りて、その霊魂(れいこん)の康健(こうけん)のことを慮(おもんばか)らず、未(いま)だ自(みづ)から薄弱(はくじゃく)を免(まぬか)れざるに他(た)の人々(ひとびと)の霊魂(れいこん)を癒(いや)さんと此(この)世(よ)の海(うみ)に出発(しゅっぱつ)したればなり、ゆえに予(よ)が言(い)ひし如(ごと)く彼(かれ)等(ら)は自己(じこ)の霊魂(れいこん)の為(ため)に神(かみ)に望(のぞみ)を失(うしな)へり。五(ご)官(かん)の薄弱(はくじゃく)は慾(よく)を常(つね)に猛烈(もうれつ)ならしむる火(か)焔(えん)を迎(むか)へて之(これ)に堪(た)ふる力(ちから)あらざるなり、ゆえに五(ご)官(かん)の為(ため)に戒慎(かいしん)するは更(さら)に必要(ひつよう)なり、即(すなはち)すべて婦(ふ)人(じん)を見(み)ざること、安息(あんそく)に耽(ふけ)らざることと、金銀(きんぎん)及(およ)び其(その)他(た)の物(もの)を求(もと)めざることと、他(た)の人々(ひとびと)を指揮(しき)せざることと、彼(かれ)等(ら)に対(たい)して誇(ほこ)らざることは必要(ひつよう)なり。

反論(はんろん)する技(ぎ)倆(りょう)の汝(なんじ)に足(た)らざるが為(ため)に人々(ひとびと)汝(なんじ)を不(ふ)学者(がくしゃ)と仮(か)定(てい)するは、無耻(むち)の為(ため)に智者(ちしゃ)の一人(ひとり)とするより愈(まさ)るべし。謙遜(けんそん)の為(ため)に貧(まづ)しくなれ、無耻(むち)の為(ため)に富(と)むなかれ。汝(なんじ)と反対(はんたい)の教(おしえ)を持(ぢ)する者(もの)をば自己(じこ)の徳行(とくこう)の力(ちから)を以(もっ)て責(せ)めよ、言(ことば)の説得(せっとく)を以(もっ)てするなかれ。汝(なんじ)の口(くち)の温恭(おんきょう)と安静(あんせい)とを以(もっ)て悖逆(はいぎゃく)者(しゃ)の無耻(むち)の口(くち)を閉(と)ぢ、彼(かれ)をして黙(もく)せしむべし。汝(なんじ)の素(そ)行(こう)の貴(たっと)きを以(もっ)て放(ほう)肆(し)者(しゃ)を責(せ)めよ、然(しか)して五(ご)官(かん)の耻(はぢ)なき者(もの)をば汝(なんじ)の目(め)の節制(せっせい)を以(もっ)て責(せ)むべし。

その生涯(しょうがい)の諸日(しょじつ)汝(なんじ)は何処(いづこ)に至(いた)るとも、己(おのれ)を旅行(りょこう)者(しゃ)と認(みと)めよ、交際(こうさい)に恣(ほしいまま)なるにより生(しょう)ずる害(がい)より救(すく)はれん為(ため)なり。何(いづ)れの時(とき)にも己(おのれ)を何(なに)も知(し)らざる者(もの)と思(おも)ふべし、他(た)の意見(いけん)を自意(じい)の如(ごと)く定(さだ)めんを欲(ほっ)すとの疑(ぎ)察(さつ)非(ひ)難(なん)を避(さ)けん為(ため)なり。口(くち)を以(もっ)て常(つね)に祈(き)福(ふく)せよ、然(しか)らば汝(なんじ)を悪言(あくげん)せざらん、何(なん)となれば悪言(あくげん)は悪言(あくげん)より生(しょう)じ、祈(き)福(ふく)は祈(き)福(ふく)より生(しょう)ずるによる。如何(いか)なる事(こと)に於(おい)ても己(おのれ)を教(おし)ふるに足(た)らざる者(もの)と思(おも)ふべし、然(しか)らばそのすべての行(こう)為(い)は智(ち)者(しゃ)と認(みと)められん。自(みづ)から理(り)会(かい)せざることを人(ひと)に傳(つた)ふるなかれ、汝(なんじ)己(おのれ)を辱(はづか)しめざらん為(ため)なり、汝(なんじ)の行(こう)為(い)を参照(さんしょう)するにより、汝(なんじ)の偽(いつわり)のあらはれざらん為(ため)なり。されどもし或(あ)る有益(ゆうえき)なることを人(ひと)に告(つ)げんと欲(ほっ)するならば教(おし)へらるる者(もの)の様(よう)子(す)にて言(い)ふべし、権(けん)と無耻(むち)とを以(もっ)てせず、豫(あらかじ)め自己(じこ)を罪(つみ)して汝(なんじ)は彼(かれ)より下(ひく)きを示(しめ)すべし、聴(き)く所(ところ)の者(もの)に謙遜(けんそん)の式(しき)を示(しめ)し、彼(かれ)等(ら)をして汝(なんじ)の言(げん)を傾聴(けいちょう)して行(こう)為(い)に着手(ちゃくしゅ)せしめん為(ため)なり、さらば汝(なんじ)は彼(かれ)等(ら)の眼中(がんちゅう)に尊(たっと)ばれん。もし能(よ)くするならば此(かく)の如(ごと)き場(ば)合(あい)には涙(なみだ)を以(もっ)て言(い)ふべし、自己(じこ)にも汝(なんじ)に聴(き)く者(もの)にも益(えき)を與(あた)へん為(ため)なり、神(かみ)の恩寵(おんちょう)は汝(なんじ)と共(とも)にせん。

もし汝(なんじ)は神(かみ)の恩寵(おんちょう)を受(う)けて、天命(てんめい)と有形(ゆうけい)造物(ぞうぶつ)の命運(めいうん)を観察(かんさつ)するを楽(たのし)む、いはゆる知(ち)識(しき)の初等(しょとう)なるものを賜(たま)はりしならば、己(おのれ)を預備(よび)し、誹(ひ)謗(ぼう)の霊(れい)に対(たい)して自(みづ)から武(ぶ)装(そう)せよ。さりながら武器(ぶき)を持(も)たずして、此(この)方面(ほうめん)に立(た)つなかれ、恐(おそ)らくは汝(なんじ)は埋伏(まいふく)して汝(なんじ)を誘惑(ゆうわく)する者(もの)により速(すみやか)に死(し)せん。涙(なみだ)と不(ふ)断(だん)の禁食(きんしょく)は汝(なんじ)の武器(ぶき)となるべし。異(い)端(たん)者(しゃ)の教(おしえ)を講(こう)ずるを自(みづ)から戒慎(かいしん)せよ、何(なん)となればこは誹(ひ)謗(ぼう)の霊(れい)を起(おこ)して汝(なんじ)に敵(てき)せしむること屡々(しばしば)これ有(あ)ればなり。腹(はら)を満(み)たすときは、神聖(しんせい)なるものの或(あ)る帰(き)趣(しゅ)と旨意(しい)とを無耻(むち)に穿鑿(せんさく)するなかれ、恐(おそ)らくは汝(なんじ)は悔(く)ゆるあらん。汝(なんじ)に言(い)ふ所(ところ)のものを理(り)会(かい)せよ、飽満(ほうまん)せる腹(はら)を以(もっ)て神(かみ)の奥(おう)義(ぎ)を識(し)るは能(あた)はざるものとす。神(かみ)の照管(しょうかん)のことに関(かん)する師父等(しふら)の書(しょ)を頻(しき)りに読(よ)みて飽(あ)くを知(し)らざるべし、何(なん)となれば彼(かれ)等(ら)は智(ち)を神(かみ)の造物(ぞうぶつ)と神(かみ)の為(ため)に於(お)ける大法(たいほう)を窺(うかが)ふにみちびきて、自(みづ)から之(これ)を堅(かた)め、その精(せい)微(び)を以(もっ)て之(これ)を昭明(しょうめい)なる思(し)想(そう)を求(もと)むるに預備(よび)し、潔浄(けつじょう)を以(もっ)て神(かみ)の造物(ぞうぶつ)を了解(りょうかい)するに適(てき)せしむればなり。全(ぜん)世(せ)界(かい)に識(し)らしむる為(ため)に神(かみ)の遺(い)詔(しょう)し給(たま)へる福音(ふくいん)を読(よ)むべし、萬姓(ばんせい)諸族(しょぞく)に於(お)ける神(かみ)の照管(しょうかん)の力(ちから)により路(ろ)用(よう)[2]を己(おの)れに得(え)ん為(ため)なり、及(およ)び汝(なんじ)の智(ち)は神(かみ)の奇(き)跡(せき)に潜心(せんしん)せん為(ため)なり。此(かく)の如(ごと)きの講読(こうどく)は汝(なんじ)の目的(もくてき)と適合(てきごう)す。汝(なんじ)の講読(こうどく)は何(なん)の為(ため)にも擾(みだ)されざる安静(あんせい)を以(もっ)てすべく、肉体(にくたい)のことを多(おお)く慮(おもんばか)ると浮(うき)世(よ)の動乱(どうらん)とを免(まぬか)れて自由(じゆう)なるべし、すべての感触(かんしょく)より極(きわめ)て勝(まさ)れる最(さい)美(び)なる趣(しゅ)味(み)を美(び)なる了解(りょうかい)によりその霊底(れいてい)に感(かん)ぜん為(ため)なり、霊魂(れいこん)が自(みづ)から此(これ)に恒(つね)なるにより之(これ)を感(かん)ぜん為(ため)なり。練達(れんたつ)なる人々(ひとびと)の言(ことば)は汝(なんじ)の為(ため)に神(かみ)の言(ことば)を売買(ばいばい)する虚飾(きょしょく)者(しゃ)の言(ことば)とならざるべし、汝(なんじ)その生命(いのち)の終(おわり)に至(いた)る迄(まで)暗中(あんちゅう)に止(とど)まらずして、此(これ)等(ら)の言(ことば)より生(しょう)ずる利(り)益(えき)を奪(うば)はれざらん為(ため)、及(およ)び戦(せん)時(じ)には狼狽(ろうばい)する者(もの)の如(ごと)く動揺(どうよう)を示(しめ)さずして、看々(みすみす)善(ぜん)を尋(たづ)ねつつ坑(あな)に陥(おちい)らざらん為(ため)なり。

汝(なんじ)は如何(いか)に徹底(てってい)せんと欲(ほっ)すとも、汝(なんじ)の為(ため)に内(ない)部(ぶ)に入(い)りし證徴(しょうちょう)となるべきものは左(さ)の如(ごと)くならん。向(むか)ふ所(ところ)の目的(もくてき)を観(み)てその真実(しんじつ)を感(かん)ずる為(ため)に恩寵(おんちょう)が汝(なんじ)の目(め)を開(ひら)き始(はじ)むる時(とき)は、汝(なんじ)の目(め)は瞬間(しゅんかん)に涙(なみだ)の川(かわ)を注(そそ)ぎ始(はじ)め、汝(なんじ)の瞼(まぶた)はその多(おお)きを以(もっ)て洗(あら)はるることただ一回(いっかい)のみにあらざるべし。その時(とき)感覚(かんかく)の戦(たたかい)は鎮(しづ)まりて汝(なんじ)の内(ない)部(ぶ)に収縮(しゅうしゅく)せん。もし誰(たれ)か此(これ)に反対(はんたい)して汝(なんじ)を教(おし)ふるならば信(しん)ずるなかれ。涙(なみだ)の外(ほか)他(た)の更(さら)に顕然(けんぜん)たる證徴(しょうちょう)を身体(しんたい)に於(おい)て尋(たづ)ぬるなかれ。されど智(ち)が受造物(じゅぞうぶつ)より一層(いっそう)高(たか)まる時(とき)は、その体(たい)にも涙(なみだ)あらざるべく、何(なに)等(ら)の感動(かんどう)も感触(かんしょく)もあらざるべし。

『汝(なんじ)は蜜(みつ)を得(う)るか、足(た)る程(ほど)に食(くら)へ、恐(おそ)らくは食(く)ひ過(すご)して之(これ)を吐(はき)出(いだ)さん』〔箴言二十五の十六〕。霊魂(れいこん)の性(せい)は動(うご)かし易(やす)くして軽快(けいかい)なり、時(とき)により霊魂(れいこん)は突出(とっしゅつ)しつつ高(たか)く昇(のぼ)りて、その性(せい)よりも極(きわめ)て高(たか)きものを確(かく)知(ち)せんを渇望(かつぼう)し、聖書(せいしょ)を読(よ)み諸物(しょぶつ)を観察(かんさつ)するに由(より)て或(あるい)は理(り)会(かい)する所(ところ)も往々(おうおう)之(これ)あらん、さりながら許(ゆる)されて己(おのれ)をその理(り)会(かい)したる所(ところ)のものと比(ひ)較(かく)するならば、霊魂(れいこん)はその観察(かんさつ)の度(ど)に於(おい)てその知識(ちしき)の到達(とうたつ)する所(ところ)のものより下(ひく)く且(かつ)小(しょう)なることあらはれん、ゆえにその思(し)念(ねん)は恐(きょう)懼(く)と戦慄(せんりつ)と畏怖(いふ)の為(ため)に襲(おそ)はるること、恰(あたか)もその高上(こうじょう)なる霊界(れいかい)の対象(たいしょう)に触(ふ)るるを敢(あえ)てせしを自(みづ)から耻(は)ぢて再(ふたた)び己(おの)が虚(むな)しきに帰(かえ)るを急(いそ)がんとするものの如(ごと)し。対象(たいしょう)を以(もっ)て暗(あん)示(し)せらるる恐(きょう)懼(く)の故(ゆえ)に何(なに)か畏(おそ)るる念慮(ねんりょ)の霊中(れいちゅう)に惹起(ひきおこ)さるるあらんに、理(り)性(せい)は霊(れい)の智(ち)覚(かく)に暗号(あんごう)し、沈黙(ちんもく)を学(まな)びて耻(はぢ)ざる者(もの)とならしめん、滅亡(めつぼう)を免(まぬか)れん為(ため)なり、超絶(ちょうぜつ)するものを尋(たづ)ねずして、霊魂(れいこん)より高上(こうじょう)なるものを穿鑿(せんさく)せざらん為(ため)なり。故(ゆえ)に汝(なんじ)は理(り)会(かい)し得(う)べきことを與(あた)へらるるときは理(り)会(かい)せよ、無耻(むち)を以(もっ)て奥(おう)義(ぎ)に触(ふ)るるなかれ、叩拝(こうはい)せよ、讃栄(さんえい)せよ、黙然(もくねん)として感謝(かんしゃ)せよ、蜜(みつ)を多(おお)く食(くら)ふことの善(よ)からざる如(ごと)く、神(かみ)の言(ことば)の穿鑿(せんさく)に耽(ふけ)るなかれ、恐(おそ)らくは懸隔(けんかく)せる対象(たいしょう)を視(み)んを願(ねが)ふや、未(いま)だ彼(かれ)に近(ちか)づかざるに、その路(みち)の不(ふ)便(べん)の為(ため)に衰弱(すいじゃく)して、汝(なんじ)の視(し)力(りょく)は傷(そこな)はれん。けだし或時(あるとき)は真実(しんじつ)に代(か)へて或(あ)る幻像(げんぞう)を見(み)ん、而(しか)して智(ち)も捜索(そうさく)の為(ため)に煩悶(はんもん)するときは其(その)目的(もくてき)を忘(わす)れん。此(これ)によりソロモンは『垣(かき)の無(な)き壊(やぶ)れたる城(しろ)の如(ごと)し』〔箴言二十五の二十九〕と美(び)妙(みょう)に言(い)へり、忍耐(にんたい)なき人(ひと)も実(じつ)に此(かく)の如(ごと)し。故(ゆえ)に人(ひと)はその霊魂(れいこん)を浄(きよ)むべく、汝(なんじ)の性(せい)の外(ほか)にあるものの為(ため)の配慮(はいりょ)を自(みづ)から抛擲(ほうてき)して、その概念(がいねん)と感動(かんどう)に貞潔(ていけつ)と謙遜(けんそん)の幕(まく)を掛(か)けよ、さらば此(これ)によりて汝(なんじ)は天性(てんせい)の内(ない)部(ぶ)にあるものを発見(はっけん)せん、何(なん)となれば奥(おう)義(ぎ)の啓(けい)示(し)は謙遜(けんそん)なる者(もの)に與(あた)へらるればなり。

もし汝(なんじ)はその霊魂(れいこん)を祈(き)祷(とう)の行(こう)為(い)に専(もっぱら)にして、智(ち)を浄(きよ)め、夜(や)間(かん)の儆醒(けいせい)を守(まも)りて、光明(こうみょう)なる智慧(ちえ)を得(え)んと欲(ほっ)せば、世(よ)の観玩(かんがん)に遠(とお)ざかり、人々(ひとびと)と面会(めんかい)するを絶(た)つべし、たとひ有益(ゆうえき)に托(たく)すとも、汝(なんじ)と同(どう)性情(せいじょう)同(どう)思想(しそう)にして、汝(なんじ)と共(とも)に奥(おう)義(ぎ)を談(だん)ずる者(もの)の外(ほか)は風習(ふうしゅう)に依(よ)り友(とも)を己(おのれ)の庵(あん)に受(うく)るなかれ、外的(がいてき)談(だん)話(わ)を断絶(だんぜつ)し、解除(かいじょ)して、之(これ)を全(まった)く廃(はい)したるが為(ため)常(つね)に心(こころ)ならずして惹起(ひきおこ)さるる心的(しんてき)談(だん)話(わ)の混合(こんごう)を恐(おそ)れよ。汝(なんじ)の祈(き)祷(とう)に施(し)済(さい)を結(むすび)付(つ)けよ、さらば汝(なんじ)の霊(れい)は真実(しんじつ)の光(ひかり)を観(み)ん。けだし心(こころ)が外物(がいぶつ)に擾(みだ)さるることの止(や)むに随(したが)ひ、智(ち)は神聖(しんせい)なる思(し)想(そう)と行(こう)為(い)とを理(り)会(かい)するにより、通暁(つうぎょう)と驚愕(きょうがく)とに達(たっ)するを得(う)るなり。けだし少(すこ)しく勉励(べんれい)するならば、人間(にんげん)の集会(しゅうかい)を神(かみ)と対談(たいだん)すると神(かみ)の言(ことば)とに換(か)へ、一(いつ)の談(だん)話(わ)を他(た)の談(だん)話(わ)に換(か)へんことは霊魂(れいこん)の為(ため)に常(つね)に速(すみやか)なるべし。ゆえに一(いつ)の対談(たいだん)を他(た)の対談(たいだん)に換(か)へんと欲(ほっ)せば、直覚(ちょくかく)の機微(きび)なる路(みち)を汝(なんじ)に啓(けい)示(し)する聖書(せいしょ)と諸(しょ)聖人(せいじん)の傳(でん)とを学(まな)ぶべし、たとひ最初(さいしょ)は近(ちか)きを暗(くら)ます物(もの)の為(ため)に愉(ゆ)快(かい)を感(かん)ぜずといへども、之(これ)を学(まな)ぶべし。

祈(き)祷(とう)に立(た)つてその規(き)則(そく)を行(おこな)ふときは、世(よ)に見聞(けんぶん)したるものを思(おも)ふに代(か)へてその通読(つうどく)したる神(かみ)の書(しょ)を思(おも)ふことを得(う)べく、此(この)思(おもい)により浮(うき)世(よ)の事(こと)に就(つき)て記(き)憶(おく)せし所(ところ)のものを忘(わす)るるに至(いた)るべし、かくの如(ごと)くして智(ち)は潔浄(じょうけつ)に達(たっ)せん。読経(どくきょう)は祈(き)祷(とう)に立(た)つとき霊魂(れいこん)に助(たす)けんと書(しる)されしも、霊魂(れいこん)は読経(どくきょう)により祈(き)祷(とう)を以(もっ)て照明(しょうめい)せられんと書(しる)されしも此(こ)の謂(いい)なり。而(しか)して読経(どくきょう)は外的(がいてき)混合(こんごう)に代(か)へて祈(き)祷(とう)の各(かく)種類(しゅるい)に糧(かて)を給(きゅう)するなり。ゆえに霊魂(れいこん)は読経(どくきょう)を以(もっ)て照明(しょうめい)せられて怠(おこた)らず擾(みだ)されずして常(つね)に祈(き)祷(とう)せん。

霊的(れいてき)対象(たいしょう)を研究(けんきゅう)するは肉体(にくたい)を愛(あい)する者(もの)と腹(はら)を喜(よろこ)ばす者(もの)との為(ため)には不(ふ)適当(てきとう)なること、恰(あたか)も貞潔(ていけつ)の事(こと)を談(だん)ずるは淫(いん)婦(ぷ)に不(ふ)適当(てきとう)なるが如(ごと)し。極(きわ)めて薄弱(はくじゃく)なる体(たい)は膏(こう)粱(りょう)[3]なる食物(しょくぶつ)を厭(いと)ひ且(かつ)は之(これ)に堪(た)へざらん。浮(うき)世(よ)のことに占領(せんりょう)せられたる智(ち)も神聖(しんせい)なる事(こと)の研究(けんきゅう)に近(ちか)づく能(あた)はず。火(ひ)は湿(しめ)りたる薪(まき)に燃(もえ)付(つ)かざらん、神聖(しんせい)なる熱愛(ねつあい)も安佚(あんいつ)を愛(あい)する者(もの)の心(こころ)に燃(もえ)付(つ)かざるなり。淫(いん)婦(ぷ)は一人(いちにん)に情(じょう)誼(ぎ)を守(まも)らず、多(おお)くの事(こと)に絆(ほだ)さるる霊魂(れいこん)も神聖(しんせい)なる教訓(きょうくん)に忠(ちゅう)なるものとなりて存(そん)せず。自己(じこ)の目(め)を以(もっ)て太陽(たいよう)を見(み)ざる人(ひと)はただ之(これ)を聞(き)くのみにて、その光(ひかり)に触(ふ)れざるにより、人(ひと)にその光(ひかり)を説明(せつめい)する能(あた)はざるべし、霊神(れいしん)上(じょう)の行(おこない)の美(び)を心(こころ)を以(もっ)て味(あぢは)へざる者(もの)も此(かく)の如(ごと)し。

日中(にっちゅう)の需要(じゅよう)の為(ため)に余(あまり)有(あ)る時(とき)は、之(これ)を以(もっ)て貧者(ひんしゃ)に頒(わか)ち與(あた)へよ、而(しか)して行(ゆい)て勇(ゆう)気(き)にして祈(き)祷(とう)を献(ささ)げよ、即(すなはち)神(かみ)と談(だん)話(わ)すること子(こ)の父(ちち)と談(だん)話(わ)する如(ごと)くせよ、施(し)済(さい)の如(ごと)く心(こころ)を神(かみ)に近(ちか)づくるものはある能(あた)はざるべく、又(また)任(にん)意(い)なる貧(ひん)の如(ごと)く安静(あんせい)を心(こころ)に生(しょう)ずるものもあらざらん。質朴(しつぼく)の為(ため)に衆人(しゅうじん)が汝(なんじ)を無智(むち)と名(な)づくるは、名声(めいせい)の為(ため)に賢明(けんめい)と名(な)づけ才能(さいのう)の完全(かんぜん)なる者(もの)と名(な)づくるより愈(まさ)れり。もし誰(たれ)か馬(うま)に座(ざ)し施(ほどこし)をうけんとして汝(なんじ)に手(て)を伸(のば)さば否(いな)むなかれ、何(なん)となれば此時(このとき)彼(かれ)は貧(まづ)しくして乞人(こじき)の一(ひとり)なることは疑(うたがい)なければなり。然(しか)して與(あた)ふる時(とき)は大量(たいりょう)と慇懃(いんぎん)なる顔色(がんしょく)とを以(もっ)て與(あた)へ、請(こ)ふ所(ところ)よりも多(おお)く給(きゅう)せよ。けだし言(い)ふあり、汝(なんじ)の砕片(さいへん)を貧者(ひんしゃ)の面前(めんぜん)に投(とう)ぜよ、然(しか)らば多時(たじ)ならずして報(むくい)を得(え)ん〔傳道之書十一の一〕。富者(ふうしゃ)を貧者(ひんしゃ)より区(く)別(べつ)するなかれ、適当(てきとう)なる者(おの)を不(ふ)適当(てきとう)なる者(もの)より弁別(べんべつ)するなかれ、尽(ことごと)くの人(ひと)は汝(なんじ)の為(ため)に善(ぜん)なる行(おこない)に因(よ)りて一様(いちよう)なるべし。けだし此(この)方法(ほうほう)により不(ふ)適当(てきとう)なる者(もの)をも善(ぜん)に誘引(ゆういん)するを得(う)べし、何(なん)となれば霊魂(れいこん)は有形(ゆうけい)上(じょう)のものにより敬神(けいしん)に誘引(ゆういん)せらるればなり。主(しゅ)が税(ぜい)吏(り)又(また)は淫(いん)婦(ぷ)と食(しょく)を共(とも)にして不(ふ)適当(てきとう)なる者(もの)を斥(しりぞ)けざりしも、此(この)方法(ほうほう)を以(もっ)て不(ふ)適当(てきとう)なる者(もの)を敬神(けいしん)に誘引(ゆういん)せん為(ため)なり。又(また)有形(ゆうけい)上(じょう)に頼(よ)り無(む)形(けい)霊神(れいしん)上(じょう)に近(ちか)づかしめん為(ため)なり。ゆえに作善(さくぜん)と尊敬(そんけい)とを以(もっ)て悉(ことごと)くの人(ひと)を平等(びょうどう)視(し)し、或(あるい)はイウデヤ人(じん)たり、或(あるい)は不(ふ)信者(しんしゃ)たり、或(あるい)は殺人(さつじん)者(しゃ)たるを問(と)ふなかれ、矧(いは)んや彼(かれ)も汝(なんじ)の為(ため)に兄弟(けいてい)たり、汝(なんじ)と同性(どうせい)にして識(し)りつつ真(しん)理(り)を錯(あやま)りしには非(あらざ)るをや。

人(ひと)に善(ぜん)を為(な)すときは彼(かれ)より報酬(ほうしゅう)を待(ま)つなかれ、さらば彼(かれ)の為(ため)にも此(これ)の為(ため)にも神(かみ)は汝(なんじ)を賞(しょう)賜(し)せん。然(しか)して汝(なんじ)の為(ため)に能(よ)くするときは善(ぜん)を為(な)すべく、未来(みらい)の報酬(ほうしゅう)の為(ため)に為(な)すなかれ。もし極貧(ごくひん)の規則(きそく)をその心(こころ)に課(か)して、神(かみ)の恩寵(おんちょう)により憂慮(ゆうりょ)を免(まぬか)れ、極貧(ごくひん)を以(もっ)て世(よ)より高(たか)く立(た)つならば、慎(つつし)めよ、貧者(ひんしゃ)を愛(あい)して施(ほどこし)を為(な)さん為(ため)に獲(う)るを嗜(たし)むなかれ、一者(いつしゃ)より取(と)りて他者(たしゃ)に與(あた)へんが為(ため)にその心(こころ)を擾乱(じょうらん)に投(とう)ずるなかれ、人々(ひとびと)に従属(じゅうぞく)して己(おのれ)の尊敬(そんけい)を貶(おと)すなかれ、彼(かれ)等(ら)に請願(せいがん)して浮(うき)世(よ)の事(こと)を慮(おもんばか)るが為(ため)にその智(ち)の自由(じゆう)と尊(そん)貴(き)とを失(うしな)ふなかれ、何(なん)となれば汝(なんじ)の階段(かいだん)は慈(じ)恵者(けいしゃ)の階段(かいだん)より高(たか)ければなり、汝(なんじ)に願(ねが)ふ如何(いかに)しても従属(じゅうぞく)せざらんことを。慈(じ)恵(けい)は子(こ)を育(そだ)つるに似(に)たり。されど黙想(もくそう)は完全(かんぜん)の最巓(さいてん)[4]なり。もし汝(なんじ)に財産(ざいさん)あらば一(いち)時(じ)に之(これ)を散(さん)ぜよ。されど何物(なにもの)をも有(ゆう)せずんば、有(ゆう)せんことを願(ねが)ふなかれ。己(おのれ)の庵(いおり)を浄潔(じょうけつ)にして、奢(しゃ)侈(し)と贅物(ぜいぶつ)とを去(さ)れ、何(なん)となれば汝(なんじ)の欲(ほっ)せざるに拘(かか)はらず、こは汝(なんじ)を節制(せっせい)にみちびくを余儀(よぎ)なくせしむればなり。すべてのものに欠乏(けつぼう)するは人(ひと)に節制(せっせい)を教(おし)へん、然(しか)れども我(われ)等(ら)自(みづ)から許(ゆる)して彼(かれ)と此(これ)とを有(ゆう)するときは己(おのれ)を節制(せっせい)する能(あた)はざるべし。

外(がい)部(ぶ)の戦(たたかい)に勝(しょう)利(り)を得(え)たる者(もの)は内(ない)部(ぶ)の戦(たたかい)を畏(おそ)れざる勇(ゆう)気(き)を有(ゆう)せん、されば彼(かれ)等(ら)を危懼(きく)せしむるものは一(いつ)としてあるなく、前(ぜん)後(ご)より来(きた)らんとする戦(たたかい)に彼(かれ)等(ら)は動揺(どうよう)せざらん、知(し)るべし戦(たたかい)とは感覚(かんかく)により及(およ)び不(ふ)注意(ちゅうい)により心中(しんちゅう)に起(おこ)る所(ところ)の戦(たたかい)にして、例(たと)へば耳(みみ)又(また)舌(した)により或(あるい)は與(あた)へ或(あるい)は取(と)るときに起(おこ)る所(ところ)のものをいふ。是(こ)れ皆(みな)心中(しんちゅう)にて混迷(こんめい)を生(しょう)ぜん。ゆえに外(がい)部(ぶ)の擾乱(じょうらん)の至(いた)るに際(さい)し霊魂(れいこん)は心中(しんちゅう)に起(おこ)る所(ところ)の秘密(ひみつ)なる戦(たたかい)に自(みづ)から注意(ちゅうい)して、内(ない)部(ぶ)に蜂(ほう)起(き)するものに安静(あんせい)を以(もっ)て克(か)つ能(あた)はざるべし。然(しか)れども人(ひと)はその城門(じょうもん)を閉(と)づるとき、即(すなはち)感覚(かんかく)を閉(と)づるときは、内(ない)部(ぶ)に戦(たたか)ふべく、城外(じょうがい)に悪(あく)を謀(はか)る者(もの)等(ら)を恐(おそ)れざらん。

此(これ)を知(し)りて黙想(もくそう)を務(つと)め、事(こと)の多(た)端(たん)を以(もっ)て己(おのれ)を煩(わづらは)さずして、すべて身体(しんたい)の精力(せいりょく)を祈(き)祷(とう)の労(ろう)に向(む)け、神(かみ)の為(ため)に労(ろう)して、日(にち)夜(や)神(かみ)のことに配慮(はいりょ)する間(あいだ)は極(きわ)めて緊要(きんよう)なるものにも乏(とぼ)しきを有(ゆう)せざるべしと確信(かくしん)する者(もの)は福(さいわい)なり、何(なん)となれば神(かみ)の為(ため)に放心(ほうしん)より又(また)労(ろう)よりも遠(とお)ざかればなり。しかれどももし誰(たれ)か手工(しゅこう)せずしては黙想(もくそう)を務(つと)むる能(あた)はざるときは、手工(しゅこう)を補助(ほじょ)とし用(もち)ひて働(はたら)くべし、利益(りえき)の為(ため)に慾心(よくしん)よりするなかれ。手工(しゅこう)は弱者(じゃくしゃ)の為(ため)に課(か)せらる、然(しか)れども最(いと)完全(かんぜん)なる者(もの)の為(ため)には彼(かれ)は擾乱(じょうらん)の因(いん)とならん。けだし貧者(ひんしゃ)と怠慢(たいまん)者(しゃ)の為(ため)に神(しん)父(ぷ)等(ら)は手工(しゅこう)に従(じゅう)事(じ)すべきを定(さだ)めたれども、緊要(きんよう)なる行(おこない)としたるには非(あら)ず。

神(かみ)が汝(なんじ)の心(こころ)を深(ふか)く内(ない)部(ぶ)に於(おい)て感動(かんどう)せしむる時(とき)は拝(はい)と跪(き)とを断(た)えず行(おこな)ふべし。もし魔鬼(まき)が汝(なんじ)を勧(すす)めて他(た)の行(こう)為(い)に従(じゅう)事(じ)せしめんとするも、その心(こころ)に何(なに)を慮(おもんばか)るをも許(ゆる)すなかれ、而(しか)してその時(とき)此(これ)により汝(なんじ)に生(しょう)ずるものの如何(いか)なるを見(み)て驚嘆(きょうたん)せよ。もし誰(たれ)か日(にち)夜(や)祈(き)祷(とう)してハリストスの十字(じゅうじ)架(か)の前(まえ)に己(おのれ)を捧(ささ)ぐること面縛(めんばく)せられし者(もの)の如(ごと)くならば、苦行(くぎょう)者(しゃ)の戦(たたかい)に於(おい)てかくの如(ごと)く重要(じゅうよう)にして且(かつ)難(かた)きものは他(た)に一(いつ)もあらざるべく、又(また)かくの如(ごと)く魔鬼(まき)の猜(さい)疑(ぎ)を起(おこ)すものもあらざるべし。その熱愛(ねつあい)の冷(ひややか)ならずして涙(なみだ)の乏(とぼ)しからざらんを欲(ほっ)するか、此(これ)を練習(れんしゅう)せよ、人(ひと)よ、予(よ)が汝(なんじ)に告(つ)ぐるものの為(ため)に日(にち)夜(や)慮(おもんばか)りて他(た)の何事(なにごと)をも願(ねが)はずんば、汝(なんじ)は福(さいわい)なり。その時(とき)光(ひかり)は汝(なんじ)の内(ない)部(ぶ)に輝(かがや)き、汝(なんじ)の義(ぎ)は速(すみやか)に照(てら)し始(はじ)めて、爛漫(らんまん)なる花園(はなぞの)の如(ごと)くなるべく、水(みづ)に乏(とぼ)しからざる泉(いづみ)の如(ごと)くなるべし。視(み)よ、苦行(くぎょう)により人(ひと)に如何(いか)なる幸福(こうふく)の生(しょう)ずるかを。人(ひと)は祈(き)祷(とう)に膝(ひざ)を屈(かが)め、手(て)を天(てん)に挙(あ)げ、面(おもて)はハリストスの十字(じゅうじ)架(か)に向(むか)ひ、その悉(ことごと)くの思(おもい)を一(ひとつ)に纏(まと)めて神(かみ)に祈(いの)るに集中(しゅうちゅう)すること屡々(しばしば)之(これ)あらん、而(しか)して人(ひと)が涙(なみだ)と感動(かんどう)とを以(もっ)て祈(き)祷(とう)するやその間(あいだ)に之(これ)と同(どう)時(じ)に忽焉(こつえん)としてその心(こころ)に楽(たのし)みを注(そそ)ぐ泉(いづみ)の沸騰(ふっとう)するありて、その肢(し)体(たい)は弱(よわ)り、目(め)は閉(と)ぢ、面(おもて)は地(ち)に俯(ふ)して、その所思(しょし)は変(へん)化(か)す、よりて人(ひと)はその全身(ぜんしん)に惹起(ひきおこ)さるる歓(かん)喜(き)の為(ため)に叩拝(こうはい)を為(な)す能(あた)はざることあらん。人(ひと)よ読(よ)む所(ところ)のものに注意(ちゅうい)せよ。けだし奮闘(ふんとう)せずんば獲(う)る所(ところ)あらざるべく、熱心(ねっしん)に門(もん)を叩(たた)き、その側(かたわら)に不(ふ)断(だん)儆醒(けいせい)して止(とど)まらずんば聴(き)かれざるべし。

黙想(もくそう)を守(まも)るに堪(た)へざる者(もの)の外(ほか)誰(たれ)か此(これ)を聞(き)きて外(がい)部(ぶ)の義(ぎ)を欲(ほっ)する者(もの)ありや。されどもし誰(たれ)か黙想(もくそう)を練習(れんしゅう)する能(あた)はずんば〔けだし門(もん)の内(ない)部(ぶ)にあることは神(かみ)の恩寵(おんちょう)を以(もっ)て人(ひと)に與(あた)へらるればなり〕他(た)の路(みち)を棄(す)つるなかれ、然(しか)らずんば生命(いのち)の二(ふたつ)の路(みち)に於(おい)てその一(いつ)を失(うしな)はん。外(がい)部(ぶ)の人(ひと)がすべて世(よ)に属(ぞく)するものの為(ため)に死(し)せずただ罪(つみ)の為(ため)のみならず、すべて肉身的(にくしんてき)行(こう)為(い)の為(ため)にも死(し)せずして、之(これ)と同(おなじ)く内(ない)部(ぶ)の人(ひと)も邪(よこしま)なる思(おもい)の為(ため)に死(し)せず、肉体(にくたい)の自(し)然(ぜん)の感動(かんどう)が弱(よわ)りて、罪(つみ)の甘(かん)美(び)が心中(しんちゅう)に起(おこ)らざるに至(いた)る迄(まで)は、神(かみ)の神(しん)の甘(かん)美(び)も人(ひと)に起(おこ)らざるべく、その肢(し)体(たい)は此(この)生命(いのち)に於(おい)て潔浄(けつじょう)を受(う)けざるべく、神聖(しんせい)なる思(おもい)はその霊中(れいちゅう)に入(い)らずして感(かん)じ得(え)ざるものとなるべく、知(しり)得(え)ざるものとなりて存(そん)せん。且(かつ)人(ひと)は天性(てんせい)の免(まぬか)る可(べか)らざる要求(ようきゅう)の外(ほか)は生活(せいかつ)の為(ため)の慮(おもんばか)りをその心中(しんちゅう)に働(はたら)かしめずして、之(これ)が為(ため)の配慮(はいりょ)を神(かみ)に托(たく)するに至(いた)らざる間(あいだ)は霊的(れいてき)酩酊(めいてい)は人(ひと)に起(おこ)らずして、使徒(しと)が自(みづ)から慰(なぐさ)めたる〔ガラティヤ二の二十〕慰(い)安(あん)を知(し)らざるべし。されど予(よ)が此事(このこと)を言(い)ひしは失望(しつぼう)せしには非(あら)ず、もし誰(たれ)か完全(かんぜん)の最巓(さいてん)に達(たっ)せずんば神(かみ)の恩寵(おんちょう)を賜(たま)はらずして神(かみ)の慰(い)安(あん)を迎(むか)へざらんといふには非(あら)ず。けだし人(ひと)は不(ふ)適(てき)宜(ぎ)なるものを軽(かろ)んじ、之(これ)より全(まった)く遠(とお)ざかりて善(ぜん)に帰(かえ)るならば、実(じつ)に速(すみやか)に助(たすけ)を感(かん)ぜん。もし少(すこ)しく尽力(じんりょく)を用(もち)ふるならば、その霊魂(れいこん)の為(ため)に慰(い)安(あん)を見(み)るべく、罪(つみ)の赦(ゆる)しを捉(とら)ふべく、恩寵(おんちょう)を賜(たま)はりて多(おお)くの幸福(こうふく)をうけん。さりながら彼(かれ)は世(よ)を離(はな)れたる者(もの)の完全(かんぜん)に比(ひ)すれば、彼処(かしこ)に福楽(ふくらく)の奥(おう)義(ぎ)をその霊中(れいちゅう)に発見(はっけん)してハリストスの来(きた)りし所以(ゆえん)を理(り)会(かい)すること更(さら)に鮮少(せんしょう)なり。彼(かれ)に光栄(こうえい)は父(ちち)及(およ)び聖神(せいしん)と共(とも)に今(いま)も何時(いつ)も世々(よよ)に帰(き)す。「アミン」。

脚注

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  1. ↑ 投稿者注:いばらの冠。
  2. ↑ 投稿者注:路用の本来の意味は旅費。
  3. ↑ 投稿者注:脂ののった肉と上等な穀物。贅沢な食事のこと。
  4. ↑ 投稿者注:頂上。一番高い所。

現代語訳

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<< 神への愛、世俗からの離脱、そして神への安息について >>

神を愛する魂は、神の中に、そして神の中にのみ安らぎを見出す。まず、あらゆる外的な結びつきを捨てなさい。そうすれば、心の中で神と結びつくことができる。なぜなら、神との結びつきは物質の放棄によって先行されるからである。乳で養われた後に、パンが乳児に与えられるように、神において進歩を望む者は、まず、乳児が母親の抱擁と乳房から離れるように、世俗から離れなければならない。肉体的な活動は霊的な活動に先行する。ちょうど塵がアダムに吹き込まれた魂に先行したように。肉体的な活動を得ていない者は、霊的な活動を得ることはできない。なぜなら、後者は前者から生まれるからである。麦の穂が麦の粒から生まれるように。そして、霊的な活動を欠く者は、霊的な賜物も奪われるのである。

この世で真理のために耐え忍ぶ苦しみは、善のために苦しむ人々のために用意された喜びに比べれば何でもない。涙を流して種を蒔く者には喜びの収穫が待っているように(詩篇126篇5、6節参照)、神のために苦しむ者にも喜びが待っている。汗水流して得たパンは農夫にとって甘いものである。キリストを知る心を持つ者にとって、義のために働くこともまた甘いものである。善意をもって、屈辱と謙遜に耐えなさい。そうすれば、神の前で大胆さを見いだすであろう。自分がその言葉を語った者に対して不正を行っていないのに、あらゆる厳しい言葉を承知の上で耐え忍ぶ人は、それによって茨の冠を頭にかぶることになるが、幸いである。なぜなら、彼は知らないうちに朽ちない冠を授けられるからである。

知識をもって虚栄から逃れる者は、来るべき時代を魂で感じ取っている。世俗を捨てたと主張しながら、心の平安を得るために何か不足するものがないかと、人々と争う者は、全く盲目である。なぜなら、自ら全身を捨てたにもかかわらず、その一部について争い、争うからである。この世の平安から逃れる者は、すでに来るべき時代を垣間見ている。しかし、貪欲に縛られている者は情欲の奴隷である。金銀の獲得だけを貪欲と考えてはならない。むしろ、あなたの意志が縛られているすべてのものを貪欲と考えるべきである。五感を自由に働かせた者、すなわち聴覚、口を開けて制御不能な唇、そして散漫な目を褒めてはならない。あなたが自分の魂に限界を設けて慈悲をもって自分を律するなら、他の事柄で正当化を求めないように魂を訓練しなさい。そうすれば、片手で行いながらもう一方の手で浪費するようなことにはならないでしょう。なぜなら、そこには慈悲と心の広さが必要だからです。

債務者の罪を赦すことは正義の問題であると知りなさい。そうすれば、あなたの心にはあらゆる場所に平和と明晰さが満ち溢れるでしょう。正義の道を超越したとき、あなたはあらゆる事柄において自由を掴むことができるでしょう。

ある聖人がこれについてこう言いました。「慈悲深い人は、正義を持たなければ盲目である。私は、慈悲深い人は、自分の努力と労働によって得たものから他人に施しを与えるべきであり、嘘や不正、策略によって得たものから与えるべきではないと理解している。」また別の箇所ではこう言いました。「貧しい人々の間に種を蒔きたいと願うなら、自分のものから蒔くべきである。しかし、他人のものから蒔こうとするなら、知っておきなさい。これは最も苦い毒麦である。」そして私は付け加えます。慈悲深い人が自分の正義を超越していなければ、慈悲深い人ではない。つまり、慈悲深い人は、自分のものから人々に施しを与えるだけでなく、他人の不正を喜んで耐え忍び、彼らに慈悲を示すのである。そして、施しによって正義が克服されるとき、彼は義人の法的冠ではなく、完全な者の福音的冠を授けられるのである。自分の持ち物から貧しい人に施し、裸の人に服を着せ、隣人を自分自身のように愛し、不正を働かず、嘘をつかないこと――これらは旧約聖書の律法によっても説かれていました。しかし、福音の教えの完全性はこう命じています。「あなたの持ち物を奪う者から強奪してはならない。求める者には誰にでも与えなさい」(ルカ6章30節)。人は、不当に何かを没収されることやその他の外的なものだけでなく、兄弟のために自分の命さえも喜んで耐え忍ぶべきです。これこそが慈悲深い行いであり、ただ与えることによって兄弟に慈悲を示す者ではありません。兄弟を悲しませるようなことを聞いたり見たりして、その心に同情する者もまた慈悲深い者であり、兄弟に平手打ちされても、厚かましくも言い返して兄弟の心を傷つけない者もまた慈悲深いのです。

徹夜の習慣を尊びなさい。そうすれば、魂のそばに慰めを見いだせるでしょう。静かに読書に励みなさい。そうすれば、あなたの心は常に神の驚異へと高められるでしょう。忍耐をもって貧しさを愛しなさい。そうすれば、あなたの心がさまようことから立ち返ることができるでしょう。空虚な生活を嫌いなさい。そうすれば、あなたの思考は乱されることなく保たれるでしょう。多くのことを控え、ただ自分の魂だけを大切にしなさい。そうすれば、あなたの魂は内なる平和の浪費から救われるでしょう。貞潔を愛しなさい。そうすれば、あなたは神の前で祈るときに恥じることはないでしょう。あなたの行いに清らかさを身につけなさい。そうすれば、あなたの魂は祈りの中で照らされ、死の記憶はあなたの心に喜びを燃え立たせるでしょう。小さなことに注意しなさい。さもないと、大きなことに陥ってしまうでしょう。仕事に怠惰であってはなりません。さもないと、友人たちの中に立っていて、旅の食料がなく、道に一人取り残されたときに恥をかくことになるでしょう。知識をもって物事を扱いなさい。さもないと、物事があなたの全進路からあなたを逸らしてしまうでしょう。人生において自由を手に入れ、嵐から身を解き放ちなさい。快楽のために自由を束縛してはならない。さもなければ、あなたは奴隷の奴隷となってしまうだろう。服装においては、質素な衣服を愛用しなさい。そうすることで、心に湧き上がる思い、すなわち心の傲慢さを抑えることができる。

輝きを愛する者は謙虚な考えを得ることができない。なぜなら、心は外的なイメージに似せて内的に刻印されているからである。

無駄話を愛する者が、清らかな心を得たことがあるだろうか。人間の栄光を追い求める者が、謙虚な思いを得たことがあるだろうか。あるいは、肉体的に放蕩で不摂生な者が、清らかな心と謙虚な精神を身につけることができるだろうか。心が感覚に支配されるとき、心もまた感覚と共に獣の食物を食する。しかし、感覚が心に支配されるとき、感覚もまた心と共に天使の食物を食する。

謙遜は自制と自己抑制を伴うが、虚栄は淫行のしもべであり、傲慢の産物である。謙遜は絶え間ない自己抑制を通して観想に到達し、魂を純潔で飾る。しかし虚栄は、絶え間ない不安と混乱した思考によって、出会うものすべてから汚れた宝を集め、心を汚す。また、物事の本質を不適切な視線で見つめ、恥ずべき空想で心を占領する。一方、謙遜は霊的に観想に留まり、それを身につけた者を称賛へと駆り立てる。

世で奇跡や不思議な業を行う者と、沈黙と知識を実践する者とを比べてはならない。世界の飢えた人々に食べ物を与え、多くの国々を神への礼拝へと改宗させることよりも、沈黙の無為を愛せ。奴隷を奴隷の身分から解放するよりも、罪の束縛から自らを解放する方があなたにとって良い。あなたの教えによって異なる考えを持つ人々をなだめるよりも、あなたの三つの構成要素、すなわち肉体、魂、霊の一体性において、あなたの魂と平和である方があなたにとって良い。神学者グレゴリウスはこう言っている。「神のために神学を論じることは良いことだが、人が神のために自らを清めることはもっと良いことだ」。知識と経験に恵まれたあなたにとって、鋭い知性から川のように教えを流すよりも、口ごもる方が良い。死者を蘇らせるよりも、神へと向かう思考の動きを通して、情欲から魂の死を蘇らせようと努力する方があなたにとってより有益である。

多くの人々は偉大な業を行い、死者をよみがえらせ、迷える者の回心のために働き、偉大な奇跡を行った。彼らの手によって多くの人々が神の知識に導かれたが、これらすべての後、他人に命を与えた彼ら自身は、卑劣で忌まわしい情欲に陥り、自らを殺し、彼らの行いが明らかになったとき、多くの人々のつまずきの石となった。なぜなら、彼らはまだ霊的な病にかかっており、魂の健康を気にかけず、自分自身がまだ弱く、神に対する魂の希望を失っているにもかかわらず、他人の魂を癒すためにこの世の海に漕ぎ出したからである。彼らの感覚の弱さは、通常情欲の激しさを引き起こすものの炎に立ち向かい、耐えることができなかった。彼らにも保護が必要であった。すなわち、女性を全く見ないこと、平和にふけらないこと、銀やその他の物を手に入れないこと、他人を支配しないこと、誰よりも優位に立たないことである。

反論する能力がないために無学だと見なされる方が、恥知らずなために賢いと見なされるよりもましだ。謙遜のために貧しくあれ、恥知らずのために金持ちになってはならない。言葉の説得力ではなく、徳の力によって、自分と異なる教義を持つ者を非難せよ。柔和さと穏やかな唇で、不従順な者の恥知らずな言動を黙らせ、沈黙させよ。節度を欠く者を、高潔な生き方で非難し、恥知らずな感情を持つ者を、抑制された目で非難せよ。

生涯を通じて、どこへ行っても、自分を異邦人として認めなさい。そうすれば、自由な振る舞いから生じる害を避けることができるでしょう。常に自分を無知だと考えなさい。そうすれば、自分のやり方で他人の意見を確立しようとして批判されることを避けることができるでしょう。常に口で祝福しなさい。そうすれば、非難されることはありません。非難は非難を生み、祝福は祝福を生むからです。あらゆることにおいて、自分は教えるには貧しすぎると考えなさい。そうすれば、生涯を通じて、あなたは賢いと示されるでしょう。自分が達成していないことを他人に教えてはいけません。そうすれば、あなたは恥じることになり、人生を振り返ったときに、あなたの偽りが明らかになるでしょう。誰かに役立つことを話し始めるときは、権威や厚かましさではなく、生徒のように話しなさい。まず自分自身を吟味し、自分が彼らより劣っていることを示しなさい。そうすれば、聞き手に謙虚さを示し、彼らがあなたの話に耳を傾け、実践し始めるように促すことができ、彼らの目にあなたは尊敬されるでしょう。もし可能であれば、そのような時は涙ながらに語りなさい。そうすれば、あなた自身とあなたの言葉を聞く人々の双方にとって益となり、神の恵みがあなたと共にあります。

もしあなたが神の恵みを受け、神の裁きと目に見える創造の光景を垣間見る特権を与えられたなら、それは知識の第一段階を構成するものである。それならば、冒涜の霊に備え、武装しなさい。しかし、この地で無防備に立ってはならない。さもないと、待ち伏せしてあなたを欺く者たちによって、あなたはすぐに死を迎えることになるだろう。あなたの武器は涙と絶え間ない断食であるべきだ。異端の教えを読むことには注意しなさい。なぜなら、それはしばしば冒涜の霊をあなたに向けさせるからである。そして、腹を満たした時、恥じることなく神聖な主題や概念を探求しなさい。さもないと、あなたは後悔することになるだろう。私があなたに言うことを理解しなさい。満腹の腹には、神の神秘についての知識はないのだ。神の摂理について教師たちが書いた書物を、飽きることなく頻繁に読みなさい。なぜなら、それらの書物は、神の被造物と御業の秩序を見分けるように心を導き、それらを力強くし、その巧妙さで光り輝く思考を得る準備をさせ、神の被造物の理解へと純粋に進むようにしてくれるからである。神が全宇宙の知識のために遺した福音書を読みなさい。そうすれば、あらゆるものに対する神の摂理の力からの導きを得ることができ、あなたの心は神の驚異に浸ることができる。そのような読書はあなたの意図を助ける。読書は邪魔されない静寂の中で行い、肉体への過度の心配や世俗的な不安から解放されなさい。そうすれば、あなたの魂は、あらゆる感情を超越する甘美な理解の最も甘美な味を味わい、あなたの魂は、そこに留まることによってこれを感じることができる。善良な人々の言葉を、偽善者や神の言葉を商売にする者たちの言葉として受け止めてはならない。そうすれば、あなたがたは残りの人生を闇の中にとどまらず、これらの言葉の益を失うこともなく、戦いの最中に悩める者のように混乱することもなく、善意のふりをして落とし穴に落ちることもない。

あなたが何を探求しようとも、次のことがあなたの内なる世界への入り口のしるしとなるでしょう。恵みがあなたの目を開き、物事をありのままに見る感覚に目覚めると、あなたの目はたちまち涙を流し始め、頬は幾度となくその無数の涙で洗い流されるでしょう。そして、感覚の葛藤は静まり、あなたの内側に隠れていきます。もし誰かがこれとは異なることを教えるなら、信じてはいけません。涙以外に、身体にこれ以上の明らかな兆候を求めてはいけません。心が被造物を超越すると、涙も、身体のあらゆる動揺や感覚も止まるのです。

「蜜を見つけたら、それをほどほどに食べなさい。食べ過ぎて吐き出してしまうことのないように。」(箴言25章16節)。魂の性質は容易に動揺し、軽やかです。時には、恍惚として、高みへと昇り、自分の性質を超えたものを発見したいと願います。聖書を読んだり、物事を観察したりすることで、魂はしばしば何かを理解します。しかし、許されて、自分が理解したものと自分を比較してみると、自分の理解の尺度において、自分の知識が到達した水準よりも低く、劣っていることに気づきます。そのため、魂は、自分の最も高次の霊的な対象に触れたことを恥じているかのように、恐れと震えと畏怖に覆われ、再び無へと急いで戻ります。対象物に対する畏怖の念から、ある種の恐れが心にのしかかり、分別は魂の心を沈黙へと導き、恥知らずにならず、滅びることのないように、また、より高次のものを求めたり、自分より上のものを探求したりしないように促します。ですから、理解する力が与えられたら、それを理解してください。そして、恥知らずに神秘に触れてはならず、静かに崇拝し、賛美し、感謝してください。蜂蜜を食べ過ぎては良くないように、神の言葉の研究に没頭しすぎると、遠い対象物を覗き見たいと思ったときに、道の不便さを経ずに近づく前に、視力が衰えてしまう恐れがあるのです。

時として、現実の代わりに幻影を見ることがあります。そして、心が真実を求めることに落胆すると、その目的を忘れてしまいます。そのため、ソロモンは「城壁のない町のように、せっかちな人は愚かである」(箴言25章28節)と美しく述べています。ですから、魂を清め、自分の本質以外の事柄への関心を捨て、清らかさと謙遜のベールを思考と行動にまとわせなさい。そうすれば、自分の本質の中にあるものを見出すことができるでしょう。なぜなら、奥義は謙遜な心にこそ明らかにされるからです。

もしあなたが、心を清める祈りの業に魂を捧げ、明晰な心を得るために夜も眠らずに過ごすつもりなら、世俗の目から身を隠し、人との会話をやめ、たとえ利益を口実にしたとしても、いつものように友人を独房に招き入れることを望まないでください。ただし、同じ精神を持ち、志を同じくする者、そして告解仲間は例外です。外的な会話を断ち切り、放棄し、完全に止めた後、通常は無意識のうちに生じる霊的な会話の中断を恐れてください。施しを祈りと組み合わせれば、あなたの魂は真理の光を見るでしょう。心が外的な事物によって乱されなくなる程度に、心は思考の理解を通して、神の御業を理解し、驚嘆することができるからです。私たちが少しでも熱心に取り組もうとすると、魂はすぐに一つの会話を別の会話に置き換えてしまう傾向があるからです。そして、一つの会話を別の会話に置き換えるために、聖書を読むことに専念しなさい。聖書は、繊細な瞑想への道を開き、聖人たちの生涯にも目を向けなさい。最初は、物事の近さゆえに、甘美さを感じられないかもしれないが。そして、祈りを始め、戒律を実践し始めると、世の中で見聞きしたことを思い巡らす代わりに、読んだ神聖な聖書について思い巡らすようになるだろう。この思い巡らしを通して、世俗的な事柄の記憶は忘れ去られ、心は清らかさを得る。こう書かれている。魂は祈りを始めるとき、読書から助けを受け、また読書を通して祈りによって啓発される。そして、読書は、外的な混乱の代わりに、様々な種類の祈りの糧を与え、それゆえ、読書を通して魂は啓発され、怠惰や混乱なく常に祈ることができるようになる。

肉欲と貪欲にふける者が霊的な事柄に踏み込むのは、娼婦が貞潔について語るのが不適切であるのと同様に不適切である。極度に病弱な体は脂っこい食べ物を嫌い、耐えられない。世俗的なことに心を奪われている者は、神の教えを学ぶことができない。湿った木には火がつかないように、平和を愛する心には神への熱情は燃え上がらない。娼婦は一つのことへの愛に留まることができず、多くのことに執着する魂は神の教えに留まることができない。自分の目で太陽を見たことのない者が、その光を聞いても、その光を感じても、人に説明できないように、魂で霊的な行いの甘美さを味わったことのない者もまた、同じように霊的な行いの甘美さを理解できないのである。

日々の必要以上のものがあれば、それを貧しい人々に分け与え、大胆に祈りを捧げに行きなさい。つまり、息子が父と語り合うように神と語り合いなさい。施しほど心を神に近づけるものはなく、自発的な貧しさほど心の平安をもたらすものはありません。あなたの素朴さゆえに多くの人から無知だと言われる方が、あなたの栄光ゆえに賢く、心の完全な人と呼ばれるよりも良いのです。もし誰かが馬に乗って施しを受けようと手を差し伸べてきたら、それを拒んではいけません。その時、彼は間違いなく物乞いの一人と同じくらい貧しいからです。

施しをするときは、惜しみなく、優しい顔で、求められたもの以上に与えなさい。なぜなら、「貧しい者の顔に一口の食べ物を与えれば、すぐに報いを受けるであろう」(伝道の書 11章1節)とあるからです。富める者と貧しい者を分け隔ててはならず、ふさわしい者とふさわしくない者を区別しようとしてはなりません。善のために、すべての人をあなたの目に平等にしなさい。こうして、ふさわしくない者さえも善に引きつけることができるからです。魂は肉体を通してすぐに神への畏れに引き寄せられるからです。主は徴税人や遊女たちと食事を共にし、ふさわしくない者を自分から排除しませんでした。こうして、すべての人が神への畏れに引き寄せられ、肉体を通して霊的なものに近づくためです。ですから、ユダヤ人であろうと、異教徒であろうと、殺人者であろうと、すべての人を慈しみと尊敬において平等にしなさい。特に、彼はあなたと同じ性質を持つ兄弟であり、知らず知らずのうちに真理から逸れたのではないからです。

誰かに善行を施したとき、その人から報酬を期待してはならない。神はあなたに両方に対して報いてくださる。もしあなたにそれができるならば、善行をしなさい。将来の報酬のためではなく。もしあなたが自分の魂に貧困の限界を課し、神の恵みによって心配事から解放され、貧困の中で世俗を超越するならば、施しをするために貧困を愛するあまり、財産を愛さないように注意しなさい。一方から受け取って他方に与えることで、自分の魂を混乱に陥れてはならない。人々に頼り、物乞いをすることで、自分の名誉を損なってはならない。世俗の事柄を気にして、心の自由と高貴さを失ってはならない。あなたの地位は慈悲深い者の地位よりも高いのだから。いいえ、お願いですから、依存してはいけません。

施しは子育てのようなもので、沈黙は至高の境地である。財産があれば、すぐに使い果たせ。何も持っていなければ、何も欲しがるな。贅沢と過剰を心の中から一掃すれば、たとえ望まなくても、自然と禁欲へと導かれるだろう。物が少ないと禁欲を身につけるが、物に耽溺してしまうと、自制心を保つことができなくなる。

外的な戦いに勝利した者は、内なる恐怖からも解放され、何ものにも苦しめられることはなく、前後から迫り来る戦いにも悩まされることはない。ここで言う戦いとは、聴覚や舌、あるいは与えたり受け取ったりする時など、感覚や無関心によって魂に仕掛けられる戦いのことである。これらすべてが魂に入り込むと、盲目が生じる。そして、外的な混乱が始まると、魂は自分に対して仕掛けられる秘密の戦いに気を配ることができず、沈黙によって内なる反乱を克服することもできない。そして、都市の門、すなわち感覚を閉ざすと、人は内側で戦い、都市の外で待ち伏せしている者たちを恐れることはない。

このことを知っていて、静かに暮らし、多くの仕事で自分を煩わせず、すべての肉体的な活動を祈りの労働に置き換え、神と共に働き、昼夜を問わず自分の世話を神に委ねている限り、必要なものに事欠くことはないと信じている人は幸いです。なぜなら、神のために、彼は気を散らすものや労働から遠ざかっているからです。もし誰かが手仕事なしでは静かに暮らせないなら、手仕事を補助として用い、利益や自己利益のために用いてはいけません。手仕事は弱い者のためのものですが、より進んだ者にとっては混乱の原因となります。父祖たちは貧しい者や気弱な者が働くように定めましたが、それは必要不可欠な仕事としてではありません。

神があなたの心を内なる悔恨へと導いている間は、絶えずひざまずき、頭を下げなさい。悪魔が他のことに心を奪われるよう促し始めたら、心を何にも奪われてはなりません。そして、その結果どうなるかを見守り、驚嘆しなさい。禁欲的な修行において、キリストの十字架の前にひれ伏し、両手を後ろ手に縛って昼夜祈りを捧げることほど重要で困難なことはなく、悪魔の羨望をこれほど掻き立てるものもありません。もしあなたが熱意を失い、涙に暮れて貧しくなりたくないなら、このことに専念しなさい。そして、あなたが昼夜を問わず、あなたに告げられたことに心を留め、他の何物も求めないならば、あなたは幸いである。そうすれば、あなたの内に光が輝き、あなたの義が速やかに輝き出し、あなたは繁栄する庭園、尽きることのない水の泉のようになるでしょう。

禁欲から生じる祝福について考えてみてください。人はしばしば、ひざまずいて祈り、両手を天に掲げ、顔をキリストの十字架に向け、すべての思いを神への祈りに注ぎ込みます。そして、涙と優しさをもって神に祈っているまさにその時、突然、喜びの泉が心の中に湧き上がってきます。手足は弱り、目は閉じ、顔は地面に伏し、思いは変容し、心に湧き上がる喜びのために頭を下げることさえできなくなります。おお、人よ、あなたが読んでいるものに注意を払いなさい。努力しなければ見いだすことはなく、熱心に戸を叩き、絶えず目を覚ましていなければ、あなたの声は届かないでしょう。

これを聞いて、沈黙を守ることができない者以外に、外的な義を望む者がいるだろうか。しかし、もし誰かが沈黙を実践できないならば(神の恵みによって人は門の中にいるように与えられているのだから)、人生の二つの道の両方を奪われないように、もう一方の道を捨ててはならない。外なる人が世俗的なものすべて、罪だけでなくあらゆる肉体的な活動に対して死に、内なる人が悪しき思いに対して死に、肉体の自然な動きが弱まり、罪深い甘美さが心に呼び起こされなくなるまで、それまでは、神の霊の甘美さは人の中に呼び起こされず、その人の体はこの世で清められず、神の思いは彼の魂に入り込まず、知覚できず目に見えないままとなる。そして、人が心の中で世俗的な事柄への関心を捨て、自然の必要不可欠な事柄を除いて、その世話を神に委ねるまでは、その人の中に霊的な歓喜は目覚めず、使徒が慰められた慰めを経験することもないでしょう(ガラテヤ2章20節)。

人が完全性の頂点に達しない限り、神の恵みを受けるに値しない、あるいは神の慰めを受けることができないと言うつもりはありません。希望を否定するつもりもありません。実際、人が不適切なものを軽蔑し、そこから完全に距離を置き、善に目を向けるとき、すぐに助けを感じるでしょう。そして、少し努力すれば、魂の慰めを見出し、罪の赦しを受け、恵みを受けるに値すると見なされ、数多くの祝福を受けるでしょう。しかし、彼は世俗から離れ、魂の中に至福の神秘を発見し、キリストが来られた目的を達成した人の完全性には及ばないのです。父と聖霊と共に、今も、そして永遠に、世々限りなく、彼に栄光がありますように。アーメン。

関連項目

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原文:

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翻訳文:

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