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シリヤの聖イサアク全書/第五十六説教

提供:Wikisource

第56説教

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<<かみあいする事、くる事、及びかみおいやすんずる事。>>

かみあいする霊魂れいこんおのれため安心あんしんかみに、神独かみひとりにおいもとむるなり。如何いかなる外部がいぶ関係かんけいをもみづからくべし、そのときこころもっかみ連合れんごうするをん、なんとなれば物体ぶったい分離ぶんりするはかみしんするにさきてばなり。麺麭パン嬰児おさなご乳養にゅうようせられしのち食用しょくようとしてあたへらる、かくのごと神聖しんせいなることおおい発達はったつせんと企図きとするひとみづからよりとおざからんをほっすること嬰児おさなごははふところぶさよりとおざかるごとくならん。身体しんたいじょうはたらき心霊しんれいじょうはたらきさきだつはじんアダムふきいれられたるせいさきだちしごとし。身体しんたいじょうはたらきもとめざるもの心霊しんれいじょうはたらきをもゆうするあたはず、なんとなれば後者こうしゃ前者ぜんしゃよりしょうずるは、麦穂むぎのほ麦粒むぎつぶよりしょうずるごとくなればなり。しかして心霊しんれいじょうはたらきゆうせざるもの霊神れいしんじょうたまものをもうばはるるなり。

現世げんせいおいしんため忍耐にんたいするつうぜんためくるしものそなへらるるたのしみとは比較ひかくにもなるべからず。なみだもっものよろこび禾把いなたばともなごとく、かみためくるしみうくるはよろこびともなふ。あせもっもとめたる麺麭パン農人のうじんためあまからん、ためししこともハリストスしきけたるこころあまし。けいべんちつとはぜんもっ忍耐にんたいせよ、かみまえ勇気ゆうきゆうせんためなり。ひと如何いかなるざんことばをもしきにより忍耐にんたいして、このことばはっせしもの自分じぶんあらかじ不義ふぎさざりしときは、たとひ此際このさいおのれ頭上とうじょう荆冠けいかん[1]くはへらるるといへどさいわいなり、如何いかんとなれば自分じぶんらざるもきゅう栄冠えいかんくはへらるればなり。

しきもっ虚栄きょえいくるものはそのこころ来世らいせいかんぜん。てたり、とふも、需要じゅようため人々ひとびとあらそおのれやすんぜんがためなにかくところもあらざらんとするものまっためしいなり、なんとなれば全身ぜんしん自由じゆうてたれども、いつたいためあらそたたかへばなり。現世げんせい安息あんそくのがるるものはや来世らいせいたんせり。しかれどもたんしばらるるものよくなり。金銭きんせんもとむることをのみたんおもふなかれ、なににてもなんじ意思いしつながるものをもとむるはたんなり。身体しんたいもっくるしめども官能かんのう自由じゆうあたふるもの賞賛しょうさんするなかれ、すなはちくと、ひらいせいがたくちと、まよへるこれなり。霊魂れいこん規則きそくめいじ、慈悲じひもっすくいてんとするときは、こうによりしょうもとめざらんことに霊魂れいこんならはすべし、ひとつもっしてもっらんすとみとめられざらんためなり、けだし彼処かしこにはあわれみふかきをようすれども、此処ここにはこころひろきをようすればなり。しかれどもるべしおいめものつみゆるすはこうぞくするを、そのときいたところ安静あんせい清明せいめいとをなんじこころみとめん。みちときすべての行動こうどうおい自由じゆうかん。

此事このことにつきて聖者せいしゃつぎごとへり、いはく『慈悲じひしゃはもし正当せいとうならざるときはめしいなり、るべし自己じこ尽力じんりょくろうとをもったるものよりあたふべくして、詐偽さぎ不義ふぎ狡獪こうかいとをもったるものよりすべからざることを。』かれまたところおいつぎごとくいへり、いはく『貧者ひんしゃかんとほっせば自分じぶんのものによりくべし。これはんしてもし他人たにんのものによりかんとほっするならば、これ最苦いとにがはぐさなり』と。これくはへてはん、もし慈悲じひしゃおのれよりもたかたずんばかれ無慈悲むじひなり、すなはち慈悲じひしゃおのれのものにより人々ひとびとほどこすのみならず、人々ひとびとよりうくところ不義ふぎよろこんで忍耐にんたいしてかれらをあわれまん。ほどこしもっつならば、そのときくはへらるるものはじんらがくるほうかんむりにはあらずして、福音的ふくいんてき完全者かんぜんしゃ福音的ふくいんてき栄冠えいかんなり。けだしおのれ所有しょゆうにより貧者ひんしゃあたしゃせ、ひとあいすることおのれごとくし、あなどらず、ののしらざるとうことふる律法りっぽうこれ宣言せんげんせり、されど福音的ふくいんてき摂理せつり完全かんぜんめいずることごとし、いはく『およなんじもとむるものにはあたへ、なんじものものにはまたこれうながすなかれ』〔ルカ六の三十〕。ゆえに物品ぶっぴんまた外部がいぶぞくするものをせいうばはるるをよろこんで忍耐にんたいするのみならず、生命せいめいをも兄弟けいていため犠牲ぎせいとなさんこと肝要かんようなり。これ慈悲じひしゃなり、されどもただに施與せよもっ兄弟けいてい慈悲じひをあらはすもの慈悲じひしゃにあらず。これはんしてその兄弟けいていかなしましむるを見聞けんもんしてこころゆるもの兄弟けいていためほおたるるやこれむくひてかれこころかなしましむるほど無耻むちこころたざるものまた慈悲じひしゃなり。

儆醒けいせいぎょうたっとぶべし、なんじれいちかしゃためなり。黙読もくどく練習れんしゅうせよ、なんじつねかみせきのぼせられんためなり。まづしきを忍耐にんたいするとともこれあいせよ、そのこころいつ集中しゅうちゅうしてたかばざらしめんためなり。ひろ生活せいかつきらへよ、そのおもいみださずまもらんためなり。ことたんせいしてひとおのれ霊魂れいこんおもんばかれ、ない安静あんせいらんするよりこれすくはんためなり。貞潔ていけつあいせよ、とうときかみまえはぢざらんためなり。そのおこない浄潔じょうけつもとめよ、なんじ霊魂れいこんとうおいてらされ、おくによりなんじこころよろこびてんせんためなり。しょうなるものをいましめよ、だいなるものにおちいらざらんためなり。なんじぎょう怠慢たいまんなるなかれ、其友そのともあいだときはぢざらんためなり、およみちようさざるものみとめられ、したがっともなんじひとちゅうてざらんためなり。そのこうしきにてみちびくべし、すべての進行しんこうなんをうけざらんためなり。その生活せいかつゆうもとめよ、暴風ぼうふうよりのがれんためなり。快楽かいらくたすくるものをもっおのれゆうしばるなかれ、ぼくぼくとならざらんためなり。そのところまづしきをあいせよ、なんじしょうずるおもいべんせんためすなはちこころ高慢こうまんべんせんためなり。燦爛さんらんあいするもの謙遜けんそんなるおもいることあたはず、なんとなればこころがい状態じょうたいごとくにないいんせらるればなり。

空談くうだんあいしてじょうもとむるをくせしものありや。かん誘引ゆういんせらるるときかれともきんじゅうしょくくらはん。しかれどもかん誘引ゆういんせらるるときかれともてん使かてをうけん。

謙徳けんとくには節制せっせいとすべてに制限せいげんあるとをともなふ、しかれどもきょ淫行いんこう従者じゅうしゃにして驕傲きょうごうおこないなり。謙徳けんとく恒久こうきゅうせいにより直覚ちょくかくたっし、心霊しんれい貞潔ていけつかざらん。しかれどもきょりょ間断かんだんなき擾乱じょうらん動揺どうようとによりところのすべてのものよりけつたからあつめてこころけがす。かれまたよこしまなるもっものぜんづべき想像そうぞうこころたす、しかれども謙徳けんとくひそか直覚ちょくかくもっおのれ制限せいげんしてこれたるもの讃栄さんえいかんす。

休徴きゅうちょうせきのうおこなもの黙識もくしき心通しんつうするものするなかれ。ううものかしめ、おおくのたみかみはいするにせしめんよりは黙想もくそう無為むいあいせよ。おのれつみ械繋かいけいよりくはれいえきよりだっせしむるにまされり。なんじみつ成分せいぶん一致いっちにより、すなはちたいれいしんとの一致いっちによりなんじ霊魂れいこんあいするは、その教導きょうどうもっけんことなるものせしむるよりまされり。グリゴリイふ『かみため神学しんがくおしふるはし、しかれどもひとためこれよりまさるはかみためおのれきよものすことこれなり』。熟達じゅくたつ老練ろうれんにしてとつなるはその頴鋒えいほうにより教道きょうどうかわごとながすよりもなんじためまされり、そのおもい神聖しんせいなることかんして、よくためなんじれいちゅうたおれたるものをおこすをおもんばかるはしゃ復活ふっかつせしむるよりもなんじため有益ゆうえきなり。

のうおこなひ、しゃ復活ふっかつし、まよひしもの反正はんせいためろうして、だいなるせきおこなひ、そのによりおおくのものかみるにみちびかれしも、このすべてののち人々ひとびと復活ふっかつせしめたるぶんにくらしくきらはしきよくおちいり、自己じこころして、そのおこない顕然けんぜんとあらはるや、おおくのひとためにも誘惑ゆうわくとなるものおおし、なんとなればかれなおこころやまいりて、その霊魂れいこん康健こうけんのことをおもんばからず、いまみづから薄弱はくじゃくまぬかれざるに人々ひとびと霊魂れいこんいやさんとこのうみ出発しゅっぱつしたればなり、ゆえにひしごとかれ自己じこ霊魂れいこんためかみのぞみうしなへり。かん薄弱はくじゃくよくつね猛烈もうれつならしむるえんむかへてこれふるちからあらざるなり、ゆえにかんため戒慎かいしんするはさら必要ひつようなり、すなはちすべてじんざること、安息あんそくふけらざることと、金銀きんぎんおよそのものもとめざることと、人々ひとびと指揮しきせざることと、かれたいしてほこらざることは必要ひつようなり。

反論はんろんするりょうなんじらざるがため人々ひとびとなんじ学者がくしゃていするは、無耻むちため智者ちしゃ一人ひとりとするよりまさるべし。謙遜けんそんためまづしくなれ、無耻むちためむなかれ。なんじ反対はんたいおしえするものをば自己じこ徳行とくこうちからもっめよ、ことば説得せっとくもってするなかれ。なんじくち温恭おんきょう安静あんせいとをもっ悖逆はいぎゃくしゃ無耻むちくちぢ、かれをしてもくせしむべし。なんじこうたっときをもっほうしゃめよ、しかしてかんはぢなきものをばなんじ節制せっせいもっむべし。

その生涯しょうがい諸日しょじつなんじ何処いづこいたるとも、おのれ旅行りょこうしゃみとめよ、交際こうさいほしいままなるによりしょうずるがいよりすくはれんためなり。いづれのときにもおのれなにらざるものおもふべし、意見いけん自意じいごとさだめんをほっすとのさつなんけんためなり。くちもっつねふくせよ、しからばなんじ悪言あくげんせざらん、なんとなれば悪言あくげん悪言あくげんよりしょうじ、ふくふくよりしょうずるによる。如何いかなることおいてもおのれおしふるにらざるものおもふべし、しからばそのすべてのこうしゃみとめられん。みづからかいせざることをひとつたふるなかれ、なんじおのれはづかしめざらんためなり、なんじこう参照さんしょうするにより、なんじいつわりのあらはれざらんためなり。されどもし有益ゆうえきなることをひとげんとほっするならばおしへらるるものようにてふべし、けん無耻むちとをもってせず、あらかじ自己じこつみしてなんじかれよりひくきをしめすべし、ところもの謙遜けんそんしきしめし、かれをしてなんじげん傾聴けいちょうしてこう着手ちゃくしゅせしめんためなり、さらばなんじかれ眼中がんちゅうたっとばれん。もしくするならばかくごとあいにはなみだもっふべし、自己じこにもなんじものにもえきあたへんためなり、かみ恩寵おんちょうなんじともにせん。

もしなんじかみ恩寵おんちょうけて、天命てんめい有形ゆうけい造物ぞうぶつ命運めいうん観察かんさつするをたのしむ、いはゆるしき初等しょとうなるものをたまはりしならば、おのれ預備よびし、ぼうれいたいしてみづからそうせよ。さりながら武器ぶきたずして、この方面ほうめんつなかれ、おそらくはなんじ埋伏まいふくしてなんじ誘惑ゆうわくするものによりすみやかせん。なみだだん禁食きんしょくなんじ武器ぶきとなるべし。たんしゃおしえこうずるをみづから戒慎かいしんせよ、なんとなればこはぼうれいおこしてなんじてきせしむること屡々しばしばこれればなり。はらたすときは、神聖しんせいなるもののしゅ旨意しいとを無耻むち穿鑿せんさくするなかれ、おそらくはなんじゆるあらん。なんじところのものをかいせよ、飽満ほうまんせるはらもっかみおうるはあたはざるものとす。かみ照管しょうかんのことにかんする師父等しふらしょしきりにみてくをらざるべし、なんとなればかれかみ造物ぞうぶつかみためける大法たいほううかがふにみちびきて、みづからこれかため、そのせいもっこれ昭明しょうめいなるそうもとむるに預備よびし、潔浄けつじょうもっかみ造物ぞうぶつ了解りょうかいするにてきせしむればなり。ぜんかいらしむるためかみしょうたまへる福音ふくいんむべし、萬姓ばんせい諸族しょぞくけるかみ照管しょうかんちからによりよう[2]おのれにためなり、およなんじかみせき潜心せんしんせんためなり。かくごときの講読こうどくなんじ目的もくてき適合てきごうす。なんじ講読こうどくなんためにもみだされざる安静あんせいもってすべく、肉体にくたいのことをおおおもんばかるとうき動乱どうらんとをまぬかれて自由じゆうなるべし、すべての感触かんしょくよりきわめまされるさいなるしゅなる了解りょうかいによりその霊底れいていかんぜんためなり、霊魂れいこんみづからこれつねなるによりこれかんぜんためなり。練達れんたつなる人々ひとびとことばなんじためかみことば売買ばいばいする虚飾きょしょくしゃことばとならざるべし、なんじその生命いのちおわりいたまで暗中あんちゅうとどまらずして、これことばよりしょうずるえきうばはれざらんためおよせんには狼狽ろうばいするものごと動揺どうようしめさずして、看々みすみすぜんたづねつつあなおちいらざらんためなり。

なんじ如何いか徹底てっていせんとほっすとも、なんじためないりし證徴しょうちょうとなるべきものはごとくならん。むかところ目的もくてきてその真実しんじつかんずるため恩寵おんちょうなんじひらはじむるときは、なんじ瞬間しゅんかんなみだかわそそはじめ、なんじまぶたはそのおおきをもっあらはるることただ一回いっかいのみにあらざるべし。そのとき感覚かんかくたたかいしづまりてなんじない収縮しゅうしゅくせん。もしたれこれ反対はんたいしてなんじおしふるならばしんずるなかれ。なみだほかさら顕然けんぜんたる證徴しょうちょう身体しんたいおいたづぬるなかれ。されど受造物じゅぞうぶつより一層いっそうたかまるときは、そのたいにもなみだあらざるべく、なに感動かんどう感触かんしょくもあらざるべし。

なんじみつるか、ほどくらへ、おそらくはすごしてこれはきいださん』〔箴言二十五の十六〕。霊魂れいこんせいうごかしやすくして軽快けいかいなり、ときにより霊魂れいこん突出とっしゅつしつつたかのぼりて、そのせいよりもきわめたかきものをかくせんを渇望かつぼうし、聖書せいしょ諸物しょぶつ観察かんさつするによりあるいかいするところ往々おうおうこれあらん、さりながらゆるされておのれをそのかいしたるところのものとかくするならば、霊魂れいこんはその観察かんさつおいてその知識ちしき到達とうたつするところのものよりひくかつしょうなることあらはれん、ゆえにそのねんきょう戦慄せんりつ畏怖いふためおそはるること、あたかもその高上こうじょうなる霊界れいかい対象たいしょうるるをあえてせしをみづからぢてふたたおのむなしきにかえるをいそがんとするもののごとし。対象たいしょうもっあんせらるるきょうゆえなにおそるる念慮ねんりょ霊中れいちゅう惹起ひきおこさるるあらんに、せいれいかく暗号あんごうし、沈黙ちんもくまなびてはぢざるものとならしめん、滅亡めつぼうまぬかれんためなり、超絶ちょうぜつするものをたづねずして、霊魂れいこんより高上こうじょうなるものを穿鑿せんさくせざらんためなり。ゆえなんじかいべきことをあたへらるるときはかいせよ、無耻むちもっおうるるなかれ、叩拝こうはいせよ、讃栄さんえいせよ、黙然もくねんとして感謝かんしゃせよ、みつおおくらふことのからざるごとく、かみことば穿鑿せんさくふけるなかれ、おそらくは懸隔けんかくせる対象たいしょうんをねがふや、いまかれちかづかざるに、そのみち便べんため衰弱すいじゃくして、なんじりょくそこなはれん。けだし或時あるとき真実しんじつへて幻像げんぞうん、しかして捜索そうさくため煩悶はんもんするときはその目的もくてきわすれん。これによりソロモンは『かきやぶれたるしろごとし』〔箴言二十五の二十九〕とみょうへり、忍耐にんたいなきひとじつかくごとし。ゆえひとはその霊魂れいこんきよむべく、なんじせいほかにあるもののため配慮はいりょみづから抛擲ほうてきして、その概念がいねん感動かんどう貞潔ていけつ謙遜けんそんまくけよ、さらばこれによりてなんじ天性てんせいないにあるものを発見はっけんせん、なんとなればおうけい謙遜けんそんなるものあたへらるればなり。

もしなんじはその霊魂れいこんとうこうもっぱらにして、きよめ、かん儆醒けいせいまもりて、光明こうみょうなる智慧ちえんとほっせば、観玩かんがんとおざかり、人々ひとびと面会めんかいするをつべし、たとひ有益ゆうえきたくすとも、なんじどう性情せいじょうどう思想しそうにして、なんじともおうだんずるものほか風習ふうしゅうともおのれあんうくるなかれ、外的がいてきだん断絶だんぜつし、解除かいじょして、これまったはいしたるがためつねこころならずして惹起ひきおこさるる心的しんてきだん混合こんごうおそれよ。なんじとうさいむすびけよ、さらばなんじれい真実しんじつひかりん。けだしこころ外物がいぶつみださるることのむにしたがひ、神聖しんせいなるそうこうとをかいするにより、通暁つうぎょう驚愕きょうがくとにたっするをるなり。けだしすこしく勉励べんれいするならば、人間にんげん集会しゅうかいかみ対談たいだんするとかみことばとにへ、いつだんだんへんことは霊魂れいこんためつねすみやかなるべし。ゆえにいつ対談たいだん対談たいだんへんとほっせば、直覚ちょくかく機微きびなるみちなんじけいする聖書せいしょしょ聖人せいじんでんとをまなぶべし、たとひ最初さいしょちかきをくらますものためかいかんぜずといへども、これまなぶべし。

とうつてそのそくおこなふときは、見聞けんぶんしたるものをおもふにへてその通読つうどくしたるかみしょおもふことをべく、このおもいによりうきことつきおくせしところのものをわするるにいたるべし、かくのごとくして潔浄じょうけつたっせん。読経どくきょうとうつとき霊魂れいこんたすけんとしるされしも、霊魂れいこん読経どくきょうによりとうもっ照明しょうめいせられんとしるされしもいいなり。しかして読経どくきょう外的がいてき混合こんごうへてとうかく種類しゅるいかてきゅうするなり。ゆえに霊魂れいこん読経どくきょうもっ照明しょうめいせられておこたらずみだされずしてつねとうせん。

霊的れいてき対象たいしょう研究けんきゅうするは肉体にくたいあいするものはらよろこばすものとのためには適当てきとうなること、あたか貞潔ていけつことだんずるはいん適当てきとうなるがごとし。きわめて薄弱はくじゃくなるたいこうりょう[3]なる食物しょくぶついとかつこれへざらん。うきのことに占領せんりょうせられたる神聖しんせいなること研究けんきゅうちかづくあたはず。湿しめりたるまきもえかざらん、神聖しんせいなる熱愛ねつあい安佚あんいつあいするものこころもえかざるなり。いん一人いちにんじょうまもらず、おおくのことほださるる霊魂れいこん神聖しんせいなる教訓きょうくんちゅうなるものとなりてそんせず。自己じこもっ太陽たいようざるひとはただこれくのみにて、そのひかりれざるにより、ひとにそのひかり説明せつめいするあたはざるべし、霊神れいしんじょうおこないこころもっあぢはへざるものかくごとし。

日中にっちゅう需要じゅようためあまりときは、これもっ貧者ひんしゃわかあたへよ、しかしてゆいゆうにしてとうささげよ、すなはちかみだんすることちちだんするごとくせよ、さいごとこころかみちかづくるものはあるあたはざるべく、またにんなるひんごと安静あんせいこころしょうずるものもあらざらん。質朴しつぼくため衆人しゅうじんなんじ無智むちづくるは、名声めいせいため賢明けんめいづけ才能さいのう完全かんぜんなるものづくるよりまされり。もしたれうまほどこしをうけんとしてなんじのばさばいなむなかれ、なんとなれば此時このときかれまづしくして乞人こじきひとりなることはうたがいなければなり。しかしてあたふるとき大量たいりょう慇懃いんぎんなる顔色がんしょくとをもっあたへ、ところよりもおおきゅうせよ。けだしふあり、なんじ砕片さいへん貧者ひんしゃ面前めんぜんとうぜよしからば多時たじならずしてむくいん〔傳道之書十一の一〕。富者ふうしゃ貧者ひんしゃよりべつするなかれ、適当てきとうなるおの適当てきとうなるものより弁別べんべつするなかれ、ことごとくのひとなんじためぜんなるおこないりて一様いちようなるべし。けだしこの方法ほうほうにより適当てきとうなるものをもぜん誘引ゆういんするをべし、なんとなれば霊魂れいこん有形ゆうけいじょうのものにより敬神けいしん誘引ゆういんせらるればなり。しゅぜいまたいんしょくともにして適当てきとうなるものしりぞけざりしも、この方法ほうほうもっ適当てきとうなるもの敬神けいしん誘引ゆういんせんためなり。また有形ゆうけいじょうけい霊神れいしんじょうちかづかしめんためなり。ゆえに作善さくぜん尊敬そんけいとをもっことごとくのひと平等びょうどうし、あるいイウデヤじんたり、あるい信者しんしゃたり、あるい殺人さつじんしゃたるをふなかれ、いはんやかれなんじため兄弟けいていたり、なんじ同性どうせいにしてりつつしんあやまりしにはあらざるをや。

ひとぜんすときはかれより報酬ほうしゅうつなかれ、さらばかれためにもこれためにもかみなんじしょうせん。しかしてなんじためくするときはぜんすべく、未来みらい報酬ほうしゅうためすなかれ。もし極貧ごくひん規則きそくをそのこころして、かみ恩寵おんちょうにより憂慮ゆうりょまぬかれ、極貧ごくひんもっよりたかつならば、つつしめよ、貧者ひんしゃあいしてほどこしさんためるをたしむなかれ、一者いつしゃよりりて他者たしゃあたへんがためにそのこころ擾乱じょうらんとうずるなかれ、人々ひとびと従属じゅうぞくしておのれ尊敬そんけいおとすなかれ、かれ請願せいがんしてうきことおもんばかるがためにその自由じゆうそんとをうしなふなかれ、なんとなればなんじ階段かいだん恵者けいしゃ階段かいだんよりたかければなり、なんじねが如何いかにしても従属じゅうぞくせざらんことを。けいそだつるにたり。されど黙想もくそう完全かんぜん最巓さいてん[4]なり。もしなんじ財産ざいさんあらばいちこれさんぜよ。されど何物なにものをもゆうせずんば、ゆうせんことをねがふなかれ。おのれいおり浄潔じょうけつにして、しゃ贅物ぜいぶつとをれ、なんとなればなんじほっせざるにかかはらず、こはなんじ節制せっせいにみちびくを余儀よぎなくせしむればなり。すべてのものに欠乏けつぼうするはひと節制せっせいおしへん、しかれどもわれみづからゆるしてかれこれとをゆうするときはおのれ節制せっせいするあたはざるべし。

がいたたかいしょうたるものないたたかいおそれざるゆうゆうせん、さればかれ危懼きくせしむるものはいつとしてあるなく、ぜんよりきたらんとするたたかいかれ動揺どうようせざらん、るべしたたかいとは感覚かんかくによりおよ注意ちゅういにより心中しんちゅうおこところたたかいにして、たとへばみみまたしたによりあるいあたあるいるときにおこところのものをいふ。みな心中しんちゅうにて混迷こんめいしょうぜん。ゆえにがい擾乱じょうらんいたるにさい霊魂れいこん心中しんちゅうおこところ秘密ひみつなるたたかいみづから注意ちゅういして、ないほうするものに安静あんせいもっあたはざるべし。しかれどもひとはその城門じょうもんづるとき、すなはち感覚かんかくづるときは、ないたたかふべく、城外じょうがいあくはかものおそれざらん。

これりて黙想もくそうつとめ、ことたんもっおのれわづらはさずして、すべて身体しんたい精力せいりょくとうろうけ、かみためろうして、にちかみのことに配慮はいりょするあいだきわめて緊要きんようなるものにもとぼしきをゆうせざるべしと確信かくしんするものさいわいなり、なんとなればかみため放心ほうしんよりまたろうよりもとおざかればなり。しかれどももしたれ手工しゅこうせずしては黙想もくそうつとむるあたはざるときは、手工しゅこう補助ほじょとしもちひてはたらくべし、利益りえきため慾心よくしんよりするなかれ。手工しゅこう弱者じゃくしゃためせらる、しかれどもいと完全かんぜんなるものためにはかれ擾乱じょうらんいんとならん。けだし貧者ひんしゃ怠慢たいまんしゃためしん手工しゅこうじゅうすべきをさだめたれども、緊要きんようなるおこないとしたるにはあらず。

かみなんじこころふかないおい感動かんどうせしむるときはいとをえずおこなふべし。もし魔鬼まきなんじすすめてこうじゅうせしめんとするも、そのこころなにおもんばかるをもゆるすなかれ、しかしてそのときこれによりなんじしょうずるものの如何いかなるを驚嘆きょうたんせよ。もしたれにちとうしてハリストス十字じゅうじまえおのれささぐること面縛めんばくせられしものごとくならば、苦行くぎょうしゃたたかいおいてかくのごと重要じゅうようにしてかつかたきものはいつもあらざるべく、またかくのごと魔鬼まきさいおこすものもあらざるべし。その熱愛ねつあいひややかならずしてなみだとぼしからざらんをほっするか、これ練習れんしゅうせよ、ひとよ、なんじぐるもののためにちおもんばかりて何事なにごとをもねがはずんば、なんじさいわいなり。そのときひかりなんじないかがやき、なんじすみやかてらはじめて、爛漫らんまんなる花園はなぞのごとくなるべく、みづとぼしからざるいづみごとくなるべし。よ、苦行くぎょうによりひと如何いかなる幸福こうふくしょうずるかを。ひととうひざかがめ、てんげ、おもてハリストス十字じゅうじむかひ、そのことごとくのおもいひとつまとめてかみいのるに集中しゅうちゅうすること屡々しばしばこれあらん、しかしてひとなみだ感動かんどうとをもっとうするやそのあいだこれどう忽焉こつえんとしてそのこころたのしみをそそいづみ沸騰ふっとうするありて、そのたいよわり、ぢ、おもてして、その所思しょしへんす、よりてひとはその全身ぜんしん惹起ひきおこさるるかんため叩拝こうはいあたはざることあらん。ひとところのものに注意ちゅういせよ。けだし奮闘ふんとうせずんばところあらざるべく、熱心ねっしんもんたたき、そのかたわらだん儆醒けいせいしてとどまらずんばかれざるべし。

黙想もくそうまもるにへざるものほかたれこれきてがいほっするものありや。されどもしたれ黙想もくそう練習れんしゅうするあたはずんば〔けだしもんないにあることはかみ恩寵おんちょうもっひとあたへらるればなり〕みちつるなかれ、しからずんば生命いのちふたつみちおいてそのいつうしなはん。がいひとがすべてぞくするもののためせずただつみためのみならず、すべて肉身的にくしんてきこうためにもせずして、これおなじないひとよこしまなるおもいためせず、肉体にくたいぜん感動かんどうよわりて、つみかん心中しんちゅうおこらざるにいたまでは、かみしんかんひとおこらざるべく、そのたいこの生命いのちおい潔浄けつじょうけざるべく、神聖しんせいなるおもいはその霊中れいちゅうらずしてかんざるものとなるべく、しりざるものとなりてそんせん。かつひと天性てんせいまぬかべからざる要求ようきゅうほか生活せいかつためおもんばかりをその心中しんちゅうはたらかしめずして、これため配慮はいりょかみたくするにいたらざるあいだ霊的れいてき酩酊めいていひとおこらずして、使徒しとみづからなぐさめたる〔ガラティヤ二の二十あんらざるべし。されど此事このことひしは失望しつぼうせしにはあらず、もしたれ完全かんぜん最巓さいてんたっせずんばかみ恩寵おんちょうたまはらずしてかみあんむかへざらんといふにはあらず。けだしひとてきなるものをかろんじ、これよりまったとおざかりてぜんかえるならば、じつすみやかたすけかんぜん。もしすこしく尽力じんりょくもちふるならば、その霊魂れいこんためあんるべく、つみゆるしをとらふべく、恩寵おんちょうたまはりておおくの幸福こうふくをうけん。さりながらかれはなれたるもの完全かんぜんすれば、彼処かしこ福楽ふくらくおうをその霊中れいちゅう発見はっけんしてハリストスきたりし所以ゆえんかいすることさら鮮少せんしょうなり。かれ光栄こうえいちちおよ聖神せいしんともいま何時いつ世々よよす。「アミン」。

脚注

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  1. 投稿者注:いばらの冠。
  2. 投稿者注:路用の本来の意味は旅費。
  3. 投稿者注:脂ののった肉と上等な穀物。贅沢な食事のこと。
  4. 投稿者注:頂上。一番高い所。