<<人に起る所の念頭により如何なる階級にあるを察知すべし。>>
人は怠慢にある間は死期を畏れ、神に接近する時は審判を迎へんを畏る、しかれども殿門に全く入るときは、彼と此との畏れは愛にて呑まるゝなり。是れ何故なるか。けだし誰か肉体の知識と其生涯に止まる時は、死を懼るれども、霊的知識と善良なる生涯に居るときは、其心は如何なる時にも、来世審判の記憶に占有せられざるなし、何となれば彼は其天性に循ひて正しく立ち、心霊上の秩序により行動し、其知識と其行為との為に占有せられて、神に接近する為に宜しく整備せらるゝによる。さりながら人に神の奥義の感が起りて、来世の望の確立するにより、彼の真理の知識に達する時は、動物の如く屠られんことを恐るゝ肉体的の人も、神の審判を恐るゝ霊智的の人も、愛にて呑まるゝなり、然して既に子となりし者は愛にて飾らるれども、畏れざる者は鞭にて諭さるゝなり。『我とわが父の家は主に事へん』〔ナワィン二十四の十五〕。
神を愛するに得達したる者は更に此世に留まらんことを最早願はざるべし、何となれば愛は畏を滅せばなり。至愛者よ、予は愚に陥りしにより、秘密を守りて黙する能はず、兄弟を益せんが為に無智となりぬ、何となれば真実なる愛は此の如きものにして、此愛は其愛する所の者の為に或事を窃に秘する能はざればなり。予が此事を書する時は、予の指は、紙に随ふの間もあらざることたゞ一回のみにあらずして、予が心に突進し、予をして感覚を黙せしめたる愉快の為に予は忍耐を守る能はざりき。さりながら常に神の事を思ひ、すべて世に属するものを禁じ、独り神と共に止まりて其認識の談を為す者は福なり、若し彼に忍耐の足るあるも、結果は見るを長くは猶豫せざらん。
神の為の喜は此世の生命の喜より強くして、此喜を得たる者は、たゞ苦難を見ざるのみならず、此生命をさへ顧みざるなり。もし実に此喜を有するならば、彼処に他の感覚は起らざるべし。愛は生命より甘くして、愛の由りて生ずる神に於るの通暁は蜜よりも美なり。愛は其愛する所の者の為に苦しき死を受くるも哀まず。愛は認識の所産にして、認識は心霊健全の所産なり、而して心霊の健全は長く続く忍耐より生じたる力なり。
問 認識とは何ぞや。
答 不死なる生命の感触なり。
問 不死なる生命とは何ぞや。
答 神に於るの感触なり、けだし愛は通暁より生じて、神に依る認識は悉くの願望の王なり、而して之を受くる心には地上何等の甘美も贅ならざるなし、けだし神の認識の如くなる甘美は一もあらざればなり。
主よ、我が心に永遠の生命を満たしめ給へ。
永遠の生命は神に於る慰藉なり而して神に於る慰藉を得たる者は此世の慰藉を贅視す。
問 神より聡慧を受けたるを人は何により確知するか。
答 人に其の隠密に於ても又感覚に於ても謙遜なる品性を教ふる聡慧其ものにより確知せん、而して謙遜の如何に受けらるゝは人に其智に於てあらはるゝなり。
問 謙遜に到達したるを人は何により確知するか。
答 世と交際し或は言論により世に媚るを以て己の為に醜なりとするにより確知すべし。而して此世の栄誉は彼の眼中に嫌はしかるべし。
問 慾とは何ぞや。
答 身体の最欠くべからざる要求を満足せしめんとして、此世の事物の為に起る所の打撃なり、此打撃は此世の存在する間は熄まざらん。さりながら神聖なる恩寵を賜はりて、更に高上なるものを味ひ、且之を感じたる人は此打撃を心に入らしめざるなり、何となれば彼には他の極めて美なる願望の之に代り主となるありて、此打撃も又之によりて生ずる所のものも彼の心に近づかずして、此等は無動作にして存するによる、是れ慾なる打撃の最早有らざる為に非ずして、其心に何等の動乱もなく、其意識は或る他の物を楽み、之を以て飽足るによるなり。
霊界の感触と来世の直覚とを充分に受けたる心は、慾の記憶に対して自覚すること恰も高価なる食物に飽ける人の之と同じからざる他の食物を供へられたるに対する如くなるべし。之に其注意を全く向けず又は之を願はざるのみならず、殊に之を軽んじ、之を嫌はん、これ其食物の穢はしく且は嫌はしき為には非ずして、人が第一上等の食に飽かしめられ、之を以て養はるゝこと、彼の父の富を豫め消費し、自己の分前を既に蕩尽して、其後豆莢を願ひ始めたる者の如くなるにはあらざるによる。それ宝を委托せられし者は睡らざるべし。
もし謹粛の法と思慮ある行為とを認識により守りて其結果は生命ならば、格闘と慾なる打撃とは全く心に近づかざらん。しかれども此打撃の心に入るを妨ぐるは格闘の結果には非ずして、自覚と認識とが大に飽き足り、之を以て霊魂を満たさるゝと、心中に起る所の神妙なる直覚を願ふとに因る。これぞ此打撃の心に近づくを妨ぐるものなる、これ予が既に言ひし如く、真理の認識の光を保護する思慮の守りと其行為とにより退去したる為には非ずして、上述の理由により智が格闘を為さゞるによるなり。けだし貧者の食物は富者の為には穢はしかるべく、病人の食物の健康者に於るも亦之と同様なるべくして、富と健康とは謹慎と配慮とによりて成るなり、人の生存する間は謹慎と、配慮と、不眠とに必要を有す、其宝を護せん為なり。さりながらもし之が為に定められたる界限を撤するならば、病者となるべく、其宝は竊み去られん。當然に働くを要する時は、たゞ結果を見る迄にはあらずして、死する迄なるべし、けだし成熟の果も白雨の為に忽ち害を被むること度々あればなり。浮世の事に立入り談話に耽る者が之により健康を守らるゝことは、未だ保証する能はざるなり。
祈祷する時は左の祈願を発すべし。『主よ、此世と交る為には実に死者とならんことを我に與へ給へ』と、而して汝はあらゆる願求を此中に籠めたるを知り、これを身に実行せんことを努むべし。けだし祈祷に伴ふに実行を以てするときは、実に汝はハリストスの自由に立たん。然れども世の為に己を殺すは、たゞ人が世にある所のものと交通談話するより遠ざかるのみにあるには非ずして、心中の談話に於ても世の幸福を願はざるにあり。
もし善良なる沈思と黙想に己を習はすときは、慾と会するや、直ちに之を耻ぢん。自から実験を以て試みたる者等は之を知る。さりながら慾は罪なるに因るも之に近づくを耻ぢん。神を愛するにより、或事を遂行せんと欲する時は、死を以て其願の界限と為すべし、かくの如くならば、各種の慾と闘ふに於て致命の階段に上るを実際に賜はるべく、終に至る迄忍耐して弱らずんば、此の限内に於て汝と相会する所のものより何等の害も受けざらん。薄弱なる理性の思想は忍耐の力を弱むれども、堅固なる智は、其思想に随ふ者に天性の有せざる力を與ふるなり。
主よ汝に於る生命の為に自己の生命を悪むことを我に與へ給へ。
此世の生涯は表中に書せる文字の中よりたゞ或る文字をを引出す者に似たるあり、誰か欲するあり、又は願ふあらば、王印を押したる清き巻軸に写取れる文書の如し、之を増補することも、又は減削することも、決して許されざるなり。故に我等は変化の中に在る間に自から己に注意すべく、自己の手を以て記せる自己の生命の文書に権を有する間に善良なる生涯を以て之が増補を為すに尽力すべし、之によりて以前の生涯の疵を消滅せん。けだし我等の此世に居る間は、神は善なる者にも悪なる者にも印を押さず、以て我等が生国に事を仕終へて、他の方面に向ひ去るの時に至らん聖エフレムの言ひし如し、曰く『我等が霊魂は艤装する大艦に似たるあり、之に向つて逆風の起るは何の時なるを知らず、又軍隊に似たるあり、戦の喇叭の吹散ずるは何の時なるを知らず、かくの如く考ふるは、我等に當然なり』といへり。其意謂へらく、再帰の望なきに非ざる場合に於て小なるものを得んが為にさへかくの如くならば、彼の畏るべき日に先だち、此の橋の前に於て此の新世界の門の前に於て、我等が豫備し且具装するは如何に肝要なるか。我等が生命の代保者なるハリストスは此の希望を確として表示するの準備を我等に賜ふべし。彼に光栄と叩拝と感謝は世々に帰す。「アミン」。