<< 神は何故神を愛する者に誘惑を放任するか。 >>
諸聖人が神の名の為に苦を受けて、その愛を神にあらはしたるにより、神は彼等を困難に留置くも、その愛する所の者より離れざるときは、諸聖人の心は露面を以て神を見るの勇気を受け、希望を以て神に求めん。勇気ある祈祷の力は大なり。故に神の放任するは、その聖者が種々の哀みを以て試みられん為にして、之と同く彼等は神の助と神が彼等を幾ばく照管するとを実験を以て試知せん為なり、何となれば、試惑に因り尊敬を受るによる。之を放任するは、彼等は無学にして存すれど彼と此とに習ふを奪はれずして、経験によりすべての為に知識を得て、魔鬼より笑はれざらん為なり、何となればもし彼等をただ善良なるものを以て試みたらんには他の部分に於て学習することが彼等に欠乏し、戦闘に於て彼等は盲目なるべきによる。
もし神は彼等に之を識らしめずして、彼等を之に習はすと言ふならば、是れ即ち神は彼等を牛驢と同視して、何等の自由をも有せざる者と為さんを欲すと言ふを意味するなり、人は先づ悪なるものの実験を以て試みられずんば、善なるものに趣味を有せずして、善なるものに遇ふときは、認識と自由とを以て之を益用すること自己の所有の如くせざるべし。経験と練習とにより、実際に借来れる知識は如何に愉快にして、久しき経験を以て之を自己に得たる者に如何なる力を與ふるか、此事は知識の助をも、同く又天性の劣弱と神の力の助けとをも経験して之を確信したる者は之を認識するなり。けだし神は先づその力を止めて彼等を助けず、彼等をして天性の無力と試惑の困難と敵の悪謀と、彼等が何者と戦ひて天性に如何なるものを衣ると、神の力を以て如何に保護せらるると、その路を幾何進行すると、神の力は彼等を幾何高うすると、又此力が彼等に遠ざかるならば、慾と戦ふに幾何無力なるとを自覚せしむるならば、ただその時に於て彼等は之を認識せん、因りて彼等は此すべてにより謙遜を受けて、神に近づき、その助を待ちて、祈祷を専ら務むるを始むるなり。もし神意により多くの悪に陥りて之が為に経験を求得ずんば、此のすべてを何処より借り来るべきか、使徒の言ふ如し、曰く『黙示の至大なるによりて我が高ぶらざらん為に一の刺は我が肉体に與へられたり、即サタナの使なり』〔コリンフ十二の七〕。さりながら人は試惑に於て神の助を幾回か実験して、堅き信仰を求め得べく、之により恐れざるものとなるべく、その得たる練習により試惑に勇敢なることをも求め得べし。
試惑は凡の人に益あり、けだし試惑はパウェルに益あるときは『凡の口塞がり、世は皆神の前に罪あるを到す』〔ロマ三の十九〕。苦行者の試みらるるは彼等にその富を増さん為なり、衰弱者の試みらるるは彼等己を有害なるものより保護せん為なり、睡眠に耽者の試みらるるは覚醒に準備せん為なり、遠く離れし者の試みらるるは神に近づかん為なり、神に親しき者の試みらるるは勇気を以て楽まん為なり。凡て学ばざる子の父の家より富を受るは、己の助とならざらん。此により神は先づ疲らして、その後賜を施す。苦き薬を以て我等に健康を楽むを得べからしむる主宰に光栄は帰す。
学習の時に当りて憂へざらん人はあらじ、試惑の毒を飲む時苦しと意はざる人もあらず。此等なくんば堅固なる体格を受る能はざるべし。さりながら試惑を忍耐するは我等の力にあるに非ず。けだし神聖なる火を以て固めずんば、如何して土器より水の漏るるを止めんや。もし断えざる願と共に謙遜して求め、忍耐して神に順ふならば、我等が主ハリストス イイススによりすべてを受けん。「アミン」。