イェルサリム大主教聖キリール教訓/第七講話

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正教のおもなる定理[編集]

<< より復活ふくかつこと。 >>

復活ふくかつのぞみはもろもろの善行ぜんこう根本こんぽんなり、なんとなればむくいをけんとののぞみはぜんなる行為こういたいするこころかたむればなり。すべての行為者こういしゃろうためしょうあるをあらかじるときは、ろう忍耐にんたいせん、しかれども報酬ほうしゅうなくしてろうするものは、からだともたましいちからおととさん。恩賞おんしょうするところ兵士へいしでてたたかはん、しかれどもろうためしょうむくいざる無思慮むしりょなるおうためたたかものにはおうためせんとの決心けっしんおここらざるべし。かくのごともろもろ霊魂れいこん復活ふくかつしんじて当然とうぜんおのれまもらん、しかれども復活ふくかつしんぜざる霊魂れいこんおのれ淪亡りんぼうせん。身体しんたい復活ふくかつつの信者しんじゃ像飾ぞうしょくまもりて、放蕩ほうとうためにこれをけがすことあらざらん、されども復活ふくかつしんぜざるもの放蕩ほうとうゆだねて、そのたいあしもちふること他人たにんものごとくせんとす。ゆえ死者ししゃ復活ふくかつおけるの信仰しんこう聖公教会せいこうきょうかいおほいなる示訓しくんなり、教導きょうどうなり、おほいにしてかつはなは緊要きんようなり、これおほくのひとあらそうところなりといへども、真理しんりはこれを保証ほしょうするなり。

エルリニ[1]またサマリヤ人もともわれごとくいはんとす、いはく『せしひとはゆがみかつ腐敗ふはいし、まったくしてうじとなりて、うじまたす。かくのごと臭壊くされ滅亡ほろびとはひとからだおよべり、さらばいかんしてそのからだ復興ふっこうせんや。海中破船かいちゅうはせんにあひしものうおみて、うおまたみづかくらはるるなり。猛獣もうじゅうたたかひしものを、くま獅子ししとはそのほねくだかつこれをつくせり。地上ちじょうなげてられたる死者ししゃからだは、からすとびとこれをくらふて、全世界ぜんせかい飛散ひさんす。さらば何処いづこよりからだひろあつめんや。からだくらひしとりあるいインデヤに、あるいペルシヤに、あるいゴトフィヤせん。そのかれて、そのはい雨又あめまたかぜためふきらさるるあらん、さらばいかんしてからだひろあつめんや』といへり。

じつ最小さいしょうにしてかつ無力むりょくひとたるなんぢためインデヤゴトフィヤよりとおかるべく、イスパニヤペルシヤよりとおからん、しかれども『掌心たなごころをもて全地ぜんちたもつ』〔イサイヤ四十の十二〕かみためにはすべてちかし。ゆえおのれよわきにより、かみひて無力むりょくとするなかれ、さらにその全能ぜんのう注意ちゅういすべし。かつ太陽たいようかみ小事しょうじたるも、光線こうせん一射いっしゃにて、全世界ぜんせかいあたため、またかみつくられたる空気くうきかいにあるものをことごとみづか包擁ほうようするなり、さらば太陽たいよう空気くうきとの造成者ぞうせいしゃたるかみあに世界せかいよりとおへだたるべけんや。果実かじつ色々いろいろ種子たね混淆こんこうして〔弱信じゃくしんなるなんぢためよわれいをあらはす〕色々いろいろ種子たねなんぢ掌中しょうちゅうにありと仮定かていせよ、なんぢ掌中しょうちゅうにあるものを見分みわけて、果実かじつ種子たねおのおのその性質せいしつしたがべつしておのおのそのるいしたがはしめんことは、ひとよ、なんぢかたきか、はたやすきか、さらばなんぢなんぢ掌中しょうちゅうにあるところのものを見分みわくることをくせんに。かみはその手中しゅちゅうにぎところのものをべつして、これを復興ふっこうせしむることあにあたはざらんや。ところのものをあきらかにせよ、これこばむは無法むほうにあらずや。

てんじてほう注目ちゅうもくしてみづかおのれかえりみるべし。なんぢ種々しゅじゅ従者じゅうしゃゆうせんに、いつく、いつしからば、なんぢはそのものおもんじて、しきものたん。またなんぢ裁判者さいばんしゃたらばただしきものしょうして、無法むほうなるものばっせん。さらばなんぢすべきのひとにさへ正義せいぎまもらるるあらば、いわん連綿れんめんとしてえざる、あらゆるものおうたるかみおいなる報酬ほうしゅうなかるべけんや。これこばむは無法むほうなり。けだしなんぢぐるところのものを査視さしせよ、殺人者さつじんしゃにしてばつまぬかれ、床上とこのうえするものおほし、さらばかみ何処いずこにありや。たとへば五十回人をころしたる兇犯きょうはんあらんに、これため断頭だんとうせらるるはつねにただ一回のみならん、さらば四十九かい殺人罪さつじんざいめにかれ何処いずこばつせられしや。それ審判しんぱん報酬ほうしゅうとはにあるなくんばなんぢかみひて公平こうへいとなさん。さりながら審判しんぱん遷延せんえんするをあやしむなかれ。すべて苦行くぎょうするものは、苦行くぎょうへしのちに、あるいめられ、あるいはづかしめらるるなり、苦行くぎょう立定者りっていしゃなお苦行くぎょうしつつあるものを決して褒章ほうしょうせず、すべての苦行者くぎょうぎょうはるをつは、のちこれして、恩賞おんしょう栄冠えいかんとをさだめんがためなり。かみかくごとし、おいての苦行くぎょうなおつづけらるるにより、そのあいだ義人ぎじんらに一分いちぶんたすけあたふ、しかれどもかれまったしょうあたふるは後来こうらいにあり云々うんぬん

られたるふたたはなく、しかるにられたるひとはなかざらんや。きてられたるものは物置ものおきおさめらる、しかるに此世このよおいられたるひと物置ものおきおさめられざらんや。まったはなして移植うつしうえられたる葡萄樹ぶどうじゅ又はそのえだは、よみがえりてむすぶ、人のためつくられたる万物ばんぶつにしてすでしからば、いわんひとたふれてまたたざらんや。いまかつらざりしぞうあらたつくると、打毀うちこわしたるものを従前もと模型かたりてふたた鋳造ちゅうぞうすると、ろうかくして、いづれかおもきや。されどわれらざるよりつくりしかみは、すでもの打毀うちこわされたるときふたた建立こんりゅうするあたはざるか。なんぢ復活ふくかつにつきてしるされしものをしんぜざること異邦人いほうじんごとくなるか。されど天然物てんねんぶつせいにつきて此事このことけみし、今日こんにちまのあたりところものりて判定はんていせよ。むぎあるい種子たねかるるとき、そのつぶちてし、腐敗ふはいして最早もはや食用しょくようへざるものとならん。しかれども腐敗ふはいしたるもの青々せいせいとしてまたき、しょうにしてちたるものなるものとなりてまたきん。されどもむぎわれためつくられたり、けだしむぎ種子たねわれ使用しようためしょうじて自己じこためにはあらざればなり。

なんぢごとく、いま冬季とうきなり、樹々きぎちて枯死こしせるもののごとし。けだし無花果樹いちじくはいづくにありや。葡萄樹ぶどうじゅふさはいづくにありや。しかれどもふゆれたるものはるいたりて緑色りょくしょくをあらはし、死物しぶつ同様どうようなりしものは時来とききたればせい挽回ばんかいせらるるなり。かみなんぢ不信ふしんり、ゆるものにおい年々復活ねんねんふくかつをとげしむるは、なんぢ無情むじょうなるもの有情ゆうじょう霊智れいちなるもの実体じったい確信かくしんするをんがためなり。かつはえ蜜蜂みつばちとは水中すいちゅう窒息ちっそくし、ときぎて蘇生そせいすることしばしばこれあり。またねずみ一種いっしゅあり、ふゆうごかずしてあるも、なついたりてあらたまたく。けだしなんぢ見解けんかいひくきにより、なんぢためにかくのごと引例いんれいをもす。そも無智むちにしていやしんぜらるる動物どうぶつにさへ超自然的ちょうしぜんてき生命せいめいあたふるものあにこれわれあたへざらんや、けだし動物どうぶつわれためつくられたるなり。

しかれどもこと注目ちゅうもくすべきはパウェル指示さししめすところのげんなり、いはく『このつるものはかならちざるものをぬるものかならなざるものをるべし』と〔コリンフ前十五の五十三〕。けだしたいよみがえる。さりながらかくのごとよわくしてそんするにあらず、かれはそのままに復活ふくかつし、ちざるものを変化へんかすることてつひさしく火中かちゅうにありてみづからとなるがごとくなるべし、あるいくわしくこれをいはば復活ふくかつせしむるしゅこれをしろしめすごとくなるべし。ゆえたいよみがえる、しかれどもかくのごときものにてそんするにはあらずして、永遠えいえんなるものとなるなり。かれせいたもたんがためにかくのごと食物しょくもつにも、また上昇じょうしょうせんがため梯子はしごにも必要はしごあらざるべし、なんとなればかれれいぞくするものとなるべく、われ当然とうぜんあらはすこともあたはざらんほどのものとなればなり。ふあり『そのとき義人ぎじんらはごとかがやかん』〔マトフェイ十三の四十三〕、『そら光輝こうきごとくにかがやかん』〔ダニイル十二の三〕。そもかみ人間にんげん不信ふしんあらかじめて、いとちいさきむしにさへ、なついたりて、そのたいのひかりかがやくをしむるは、ゆるものによりてつところのものをしんぜしめんがためめなり。けだし一部いちぶあたふるものは全部ぜんぶをもあたふべければなり。むしひかかがやくをしむるものいわんなるひとひかものとなさざらんや。

ゆえわれ復活ふくかつすべく、われたいみな永遠えいえんのものとならん、しかれどもみなみな一様いちようにはあらざるべし。かえりてもしたれ義人ぎじんならば、てんぞくするたいをうけん、当然とうぜん神使しんし近接きんせつするをんがためなり。しかれどももしたれ罪人ざいにんならばつみため永遠えいえんばつをうくるにさだめられたる永遠えいえんたいをうくるにより、永遠えいえんかるるなりされどもかれけつして滅尽めつじんせざらん。そもかみ彼此かれこれたいをこれにあたふること当然とうぜんなり。なんとなればわれたいなくして一事いちじすあたはざればなり。われくちにて讃美さんびし、くちにて祈祷きとうす、にてかすめ、おなじくまたにてほどこしすべくして、そのもすべて同様どうようなるべし。ゆえたいはすべてにおいわれにつとむるにより、未来みらいおいてもかれわれ関係かんけいともにせん。

ゆえ身体しんたいまもらん、これ悪用あくようすること、われため関係かんけいなき他人たにんものごとくせざらん。かえつて身体しんたいまもること自己じこ所有物しょゆうぶつごとくせん、なんとなればすべて『ところことしたがひ』〔コリンフ後五の十〕しゅ計算けいさんをなさんをようすればなり。『たれわれざらん』といふなかれ、ところこと證者しょうしゃあらじとおもふなかれ。ときひとらざることもしばしばこれあらん、しかりといへどもあやまりなき證者しょうしゃすなはちしゅは『てんいましてただしく』〔聖詠八十八の三十八〕ところのものをん。しかれどもつみなる汚穢おかいたいのこらん。たいふかきずひしのちは、たとへしたりとも、なおあとのこすがごとく、つみれいたいとをきずつけて、その傷痕きずあと彼此かれこれのこらん、ただみづ浴盤よくばんをうくるものおいては消失しょうしつせん。かくのごとさきにうけたるれいたいとのきずを、かみ洗礼せんれいによりいやして、将来しょうらいをすべてことごと預防よぼうせん、われたいなる長下衣ながしたぎきよまもて、しょうなるもの、淫蕩いんとうなるもの、情慾じょうよくなるもの、あるいのいかなるつみおこないもつても天上てんじょうすくいほろぼさず、かみ永遠えいえんくにがんがためなり、このくにかみ恩寵おんちょうによりてわれ衆人しゅうじんめぐたまはん。

脚注 [編集]

  1. 投稿者注:ギリシャ人のこと。