<< 神父の事。 >>
敬神の為に我等は一つにて足れり、神即ち独一の神あることを知る是なり、神は在る者且永遠に在る者にして[1]、常に自ら平等一様なる者なれば、他の何者も彼には父たらず、何者も彼より有力なるはなく、いかなる斯業者も彼の国を奪はざるなり、神はその本体には他の異類のものを絶えて容れざる多名にして全能なる者なり。けだし彼は善なる者、義なる者、全宰者、万軍の主と名づけらるれば、種々の異なるものは彼にあるべからず、乃ち同一に存在して、神性の無数の力をあらはし彼に餘りありて、此に乏しきあるにあらず[2]、すべてに自ら一様平等に存在して、ただ仁慈に於て大にして、睿智に於て小なるにあらず、睿智も仁慈も平等均一なるなり。ただ一部分を見て、他の部分を見るの力を奪はるるにあらず、すべては目、すべては耳、すべては智慧なり。ただ一部分を理解して、他の部分を知らざること、我等の如くなるにあらず。かくの如き見解は神を涜すものにして、神の本体に当らざるなり。神は有る所の万物を前知する者、彼は聖なる者、彼は全能なる者、仁慈に於てはあらゆる者に超え、あらゆる者より大にして、あらゆる者より睿智なり。その始めもその形象もその有様も我等は名状することあたはず。神の書にいふ『汝等いまだその声を聞かず、未だその容を見ず』〔イオアン五の三十七〕。故にモイセイはイズライリ人につげて『爾等深く自ら慎めよ、爾等未だ何の像をも見ざりしなり』〔復傳律令四の十五〕といへり。それ像をさへ全く想像する能はずんば、いかんして本体に思ひ近づくことを得んや。
彼は独り何処にもあらざるなし、……すべてを見、すべてを悟り、すべてをハリストスによりて建つるなり、けだし『万物は彼によりて造られ、彼なくして造られしものは一もあらず』〔イオアン一の三〕。彼は富んで尽きざることごとくの善の泉なり、恩恵の河なり、渇きずして照らす永遠の光なり。我等の劣弱に適応する勝ち難き力なり。我等が為には彼の名をさへ聞くこと難し。イオフ言ふ『汝神の深き事を窮むるを得んや、全能者の造りし者を全く窮むるを得んや』〔イオフ十一の七〕。それ造物の至りて微なるものをさへ理会するあたはずんば、いかんして万物を造り給ひし者を理会するを得んや、『神が己を愛する者の為に備え給ひし者は目いまだ見ず、耳いまだ聞かず、人の心いまだ念はざるものなり』〔コリンフ前二の九〕。それ神によりて備えられし者だも我等の理会の為に及ばずんば、これを備え給ひし者をいかんぞ人智を以て理会するを得んや。『アア神の智と識との富は深いかな、その法度は測りがたく、その踪跡は索めがたし』〔ローマ十一の三十三〕。それその法度と踪跡をさへ理会するあたはずんば、いかんぞ彼れ自己を理会し得んや。
然れども我等は独一の神を信ずるを要するのみならず、此の独一の神は我等が主イイスス ハリストス独生者の父たることをも敬虔の心を以てうけんことを要するなり。神は本来をいへば衆人の父にあらず、本性に依り、実際に於てただ一の独生の子、我等が主イイスス ハリストスの父なり。彼の父たることは一時これを得たるにあらずして、常に彼は独生者の父たるなり。
神の書及び真理の教へは独一の神を承認するなり、彼は己の力を以て万物を扶持し、任意に衆人を容忍し給ふ。
一物として神力の働の外にあるものはあらず。聖書に神の事をいふて『悉く汝に事ふ』〔聖詠百十八の九十一(詩編百十九の九十一)〕といへり。さりながら『悉く汝に事ふる』も、ただ彼の子とただ彼の聖神とは此の悉くの者の外にあり、さらばすべて彼に事ふる者は独一の子と聖神とによりて主宰に事へまつらんとす。
- ↑ 原文注1:いふ意は、神は己れに存在を有して永遠に存在すとなり。
- ↑ 原文注2:神は殊異多様の完全を一様平均にあらはし、彼に対して此の優るあるにあらず。