く「いかに爲ナりなんや。好ヨき伴トモ 艱ナヤみて來キたりき。伴トモとなりて去サりき、我ワレ。今イマ 來キぬ」と云イひて、馬ウマを驅カり去サりて、野ノにて蓋フタしたる大皮桶オホカハヲケ 皮斗カハマスを持モち來キぬ。帖木眞テムヂンには、肥コえたる羔コヒツジを殺︀コロして、行糧カレヒに與アタへて、大皮桶オホカハヲケに盛モれる物モノ(馬乳)を調トヽノへて行糧カレヒとせしめたり。納忽 伯顏ナク バヤン 言イはく「二人フタリは、少年ワカモノなり。汝等ナンヂラ 眷カエリみ合アへ(眷顧せよ)。この後ノチ 勿ナ 棄スて合アひそ」と云イへり。
桑古兒 小河サングル ヲガハの家に帖木眞テムヂンの歸着
帖木眞テムヂン 去サりて三夜ミヨ 三日ミカ 往ユきて、桑古兒 小河サングル ヲガハにその家イヘに到イタれり。訶額侖 額客ホエルン エケ、合撒兒カツサル 等ラの弟オトヽども憂ウレへて居ヰて、見ミて歡ヨロコべり。
§94(02:36:06)白鳥庫吉訳『音訳蒙文元朝秘史』(東洋文庫,1943年)
孛兒帖 兀眞ボルテ ウヂンを帖木眞テムヂンの迎へ兩親の送り
それより帖木眞テムヂン、別勒古台ベルグタイ 二人フタリは德 薛禪デイ セチエンの[女ムスメ]孛兒帖 兀眞ボルテ ウヂン(元史孛兒台 旭眞ボルテ フヂン、追諡ツヰシ 光獻 翼聖 皇后クワウケン ヨクセイ クワウゴウ)を[帖木眞テムヂン]九歲コヽノツなる時トキ 見ミて來キたるに依ヨり、分ワカれて居ヲりしを、客魯嗹 木嗹ケルレン ムレンに沿シタガひ尋タヅね往ユけり。(客魯嗹 河は、今の克魯倫 河にして、元史には曲綠憐とも怯綠連とも怯魯連とも怯呂連とも書けり。一名は臚朐 河とも云ひ、元史 太祖︀紀 十一年に盧朐 河、丘處機の西遊記に陸局 河、張徳輝の紀行に「北語云㆓翕陸連㆒、漢︀言㆓驢駒 河㆒也」と云ひ、金幼孜の北征錄に臚朐 河と云へり。)扯克徹兒チエクチエル、赤忽兒忽チクルク(卷一の赤忽兒古)二山ニザンの閒アヒダに、德 薛禪 翁吉喇デイ セチエン オンギラは、そこに居ヲりき。德 薛禪デイ セチエンは、帖木眞テムヂンを見ミて、甚イタく大喜オホヨロコビして言イはく「泰赤兀惕タイチウトなる汝ナンヂの兄弟アニオトヽ 嫉ネタめりと知シりて甚イタく憂ウレへて絕望ゼツバウせり。やつと見ミたるぞ、汝ナンヂを」と云イひて、孛兒帖 兀眞ボルテ ウヂンを配メアハせて送オクれり。(帖木眞の孛兒帖と婚したるは、蒙古 源流に據れば、戊戌の年にして、帖木眞 十七歲の時なり。戊戌の年は我が高倉 天皇 治承 二年、宋の孝宗 淳熙 五年、金の大定 十八年、西紀 一一七八年なり。)送オクり來キつる德 薛禪デイ セチエンは、路ミチにて