て、三ミたび宿ヤドりて、朝アサ 早ハヤく路ミチにて多オホき馬羣バグンの中ウチに一人ヒトリの爽快サワヤカなる子人コビト、馬ウマの乳チを擠シボり居ヲるに遇アひて、葦毛アシゲの騸馬センバどもを問トひたれば、
その子コ 言イはく「この朝アサ、日ヒ 出イづる前マヘに、葦毛アシゲの騸馬センバ 八匹ハチヒキこゝを走ハシりて去サれり。彼等カレラの路ミチを我ワレ 吿ツげて與アタへん」と云イひて、尾脫ヲヌケの栗毛馬クリゲウマを放ハナたしめて、帖木眞テムヂンを脊黑セグロの靑馬アヲウマに乘ノらしめたり。己オノレは快ハヤき淡黃色ウスキイロの馬ウマに乘ノれり。家イヘにも往ユかず、大皮桶オホカハヲケ 皮斗カハマスに野ノにて蓋フタして(明譯著︀ツケ㆓草蓋クサノフタヲ㆒了テ)置オけり。「伴トモよ。汝ナンヂこそは甚イタく艱ナヤみて來キにけれ。丈夫ヲトコの艱ナヤみは一ヒトつなるぞ。我ワレ 汝ナンヂに伴トモとならん。我ワが父チヽは、納忽 伯顏ナク バヤンと呼ばる。(納忽 長者︀。元史 博爾朮の傳の納忽 阿兒闌。阿兒闌は、納忽の姓、阿嚕剌惕の單稱。)我ワレは、その獨子ヒトリゴ。我ワレは、孛斡兒出ボオルチユ(親征錄 元史博爾朮ボルチユ、蒙古 源流博郭爾濟ボゴルヂ)と云イふなり」と云イひて、葦毛アシゲの騸馬センバどもの路ミチに依ヨり跡アトつけて、三ミたび宿ヤドりて、夕ユフベに日岡ヒヲカを拍ウち居ヲる時、一團イチダン(蒙語古哩延グリエン、本義は輪。轉じて羣、明譯 圈子)の民タミの處トコロに到イタれり。葦毛アシゲの騸馬センバ 八匹ハチヒキ、その大團タイダンの邊ホトリに草クサ食ハみつゝ立タちて居ヲるを見ミたり。帖木眞テムヂン 言イはく「伴トモよ、汝ナンヂこゝに立タて。我ワレ、葦毛アシゲの騸馬センバどもは彼等カレラなり、追オひて出イでん」と云イへり。孛斡兒出ボオルチユ 言イはく「伴トモとならんとて來キながら、我ワレこゝに何ナンぞ立タたん」と云イひて、同オナじく驅カけて入イり、葦毛アシゲの騸馬センバどもを追オひて出イでたり。(閻復の撰れる廣平王 玉昔 帖木兒の碑文に據るに、孛斡兒出は、この時 十三歲なりき。)