Page:成吉思汗実録.pdf/397

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と、斡歌台 拙只 札噶台の子孫だち、支那の蒙古領の文武 長官、珀兒沙の牧長 阿兒昆、突︀兒其思壇 河閒 地方の牧長 馬思速惕、嚕姆の薛勒主克 種の速勒壇 囉古訥丁、嚕西亞の大公 牙囉思喇甫、古兒只の王位の競爭者︀にて二人共に名は荅毗惕、阿列玻の速勒壇の弟、巴固荅惕の合里發の使、亦思馬額勒 宗派なる阿剌木惕の君の使、抹速勒發兒思 客兒曼 撏帕惕の使ども、昔里沙の王 海︀團の弟、この人人は、皆 立派なる獻上物をもちて來ぬ。「この大人だちの中に、人に知られざる出家 二人は、その衣服の卑しきとその使命の大なるとにて著︀しかりき。」この二人は、敎主と里翁の僧︀會との命にて、蒙古人を正敎に導かんが爲に至れるにて、その一人なる都︀ 普喇諾 喀兒闢諾は、卽位の盛禮を記載せり。二千の白き天幕は、貴人の爲に設けられ、その貴人は夥しき故に、頭を曲げて行き過ぐる機會あるのみなりき(會談する機會を得ざりき)。平民の大眾は、その人だちの外の方に天幕を張りき。皇族 大帥の會合する大なる天幕は、二千人を容るゝ程にて、その周圍は、やゝ離れて繪もて蔽はれたる欄︀干をまはしき。その天幕に、入口 二つあり。一は、合罕の爲にて、それより入らんとする大膽者︀のあるべき筈なければ、そこには守兵もなく、他の入口は、弓と劍とを持てる兵士 守衞しけり。每朝 會眾は、會の事務を議し、午後は馬乳酒を飲みて日を送りき。毎日 會員は、種種なる色の衣服、第一の日は白き、第二は赤き、第三は紫の、第四は紅の衣服を着ぬ。ある貴人だちの乘れる馬の轡は、銀貨 二十 巴里施 以上の價ありき。選擧の前より、庫由克は、大なる尊敬をもて取扱はれき(迭 邁剌の引ける喀兒闢諾 九、二四三)。外に往けば、讃美の歌を歌はれ、頭に紅の毛附きたる權力の仗を己の方に傾けられき。選擧の日 來つる時に、攝政と會員とは、昔喇 斡兒都︀より二三 禮古 離れたる金の天幕に赴きて、合罕の選擇の事を討議しけり。金の天幕は、金の釘にて金の板を柱に捲き附けたるが故に、しか名づけられ、紅の毛氈を敷き、帷幔をもて蔽はれき。斡歌台は、初にその第三子 庫出(世系表の闊出、太宗紀の曲出)を相續人に名ざしたれども、庫出は、一二三六年(太宗 八年)支那にて死したる故に、又 庫出の子 失喇門(世系表の昔列門、定宗 憲宗 兩紀の失烈門)を名ざしたりき。然れども禿喇奇納は、その長子なる庫由克を立てんことを願ひ、失喇門はまだ年少きことを言ひて、庫由克を選擧せんことを會眾に勸めき。庫由克は、通例の習慣に隨ひ、一時はうはべの辭退して、竟には皇位をその子孫に保たんことを諸︀王 羣臣の誓へる上にて、斡歌台のなせるが如く承諾しけり。昔蒙 迭 散寬壇と阿兒幾尼亞の海︀團とに據れば、朝廷の大人だちは、庫由克とその妻とを方形なる黑き毛氈の臺に載せて、それを高く擡げて、庫由克を合罕と呼び上げけり。これは、明に甚 古き廣く廣がれる習慣なりき(原注。阿提剌の、また洪噶哩の諸︀王の、選擧の談を引きくらべよ。)會眾は、九たび拜伏して敬禮を行ひ、會場の外に居たる大眾は、同時に顙を地に垂れき。その時 庫由克は、從者︀を伴れて天幕より出でて、日を三たび禮拜しけり。禮式 畢りて、祝︀宴に移り、その閒なりたての合罕は、高御座に坐り、右に諸︀王(諸︀王 駙馬)左に諸︀女王(公主 王妃)を列ね、飲食は夜半まで續き、音樂 軍歌は室內に響︀ぎ渡りき。宴會は、七日の閒 引續き、然る後に總花はまき散らされ、人人その位に隨ひて賜物を受けき。庫由克は、その父の大氣なるにも勝らんことを願ひ、商品を七萬 巴里施の價ほど買ひ、その拂ひには征服したる國に當てたる命令手形を渡しきと云へり。それらの品は、惜しげもなく羣眾に分配せられ、兒ども奴どもすら賜物を受け取りけり。二度目の分配までなし